哲学

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ ]

 サイタニのブログからの転載です。サイタニさんが書かれていた連載 「私の日本憲法論」を、まとめて転載しました。とても面白く、納得する内容なので、紹介します。

転載開始

    連載 「私の日本憲法論」
      日本国憲法の背景となる哲学 

人間は何処に在るか
 
皆さんのような政治問題、時事問題等について専門家でいらっしゃる方々の
前で憲法の話などする柄ではないのでありますが、この間○○先生の時事
問題の三部作が出来上がった祝賀の集りに是非とも話してくれと言われまして、
日本国の憲法の背景にある哲学はどういうものであるか何処に誤りがあるか
と云うようなことを話しましたら大変喜ばれまして、今まで憲法の問題を取り
上げて来た人と別の立場から論じている点があるので是非とも○○で話して
もらいたいと云う要請がありました。
 
 
一応辞退したのでありますけれども、当番団体の誰かが話すことになって
いるので是非話してほしいと云うので、敢えてこの席を汚した次第であります。
 
禅宗の『無門関』という本があります。これには四十八則の公案が載って
いるのであります。ご存知の通り公案というのは悟りに導くところの問題の
提起であります。
 
この四十八則の公案の中で最も重大な公案が私は二つあると思うのであります。
その一つは第六則の世尊拈華(せそんねんげ)という公案であります。それから
もう一つは第八則の奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)という公案であります。
 
 
この奚仲造車の公案には「奚仲造車を造ること一百福、両頭を拈却
(ねんきゃく)し、軸を去却して、甚麼辺(なにへん)の事をか明む」
云うことが書かれているのであります。

奚仲というのは支那古代の人でありまして、初めて車を発明した人であると
言われているのであります。その奚仲が初めて一百台の車を拵(あつらえ)た。
ところがどうしたのかその車の「両頭を拈却し」 即ち両方の頭を拈(ね)じりちぎり、
 
「軸を去却して」即ち心棒を引き抜いて取り外して、部分品をバラバラに
分解して、そして何か紛失したと見えて捜し廻っているのであります。
それで或る人が「奚仲さん、あなたは何を捜しているのですか」と問うたら、
奚仲が答えて言うのに、

「今迄ここに車があったのに何処かへ行ってしまった。
車は何処へ行ったのだろうと思って捜しているのです」と。
これが公案であります。
 
果たして車は何処に在るかと云う問題であります。皆さんはその「車」が
何処に在ると考えになるでしょうか。部分品を幾ら捜し廻っても「車」は無い
のであります。これは公案でありますから単に車の問題ではないのであって、
 
 
人間の悟りの問題であります。「車が何処にあるか」と云う問題は
言い換えると「人間は何処にあるか」という問題にもなるのであります。



人間は何処にあるか
 
果して車は何処に在るかと云う問題であります。皆さんはその「車」が何処に
在るとお考えになるでしょうか。部分品を幾ら捜し廻っても「車」は無い
のであります。
 
 
これは公案っありますから単に車の問題ではないのであって、人間の悟りの
問題であります。「車が何処にあるか」と云う問題は言い換えると「人間は
何処にあるか」という問題にもなるのであります。
 
人間をバラバラにして部分となし、腕を此処へ放り出してその腕に対して
「お前サイタニか」と問うても、その腕は返事をしないのであります。腕という
部分品にはサイタニはいないのであります。それでは両脚はどうであろうかと、
 
 
又両脚を切って其処へ放り出してその両脚に対して「お前サイタニか」と
問うても返事はしないのであります。又胴体を切って其処へ放り出して尋ねて
見ても同じ事であります。「いやサイタニは頭で考え目で見て口で喋る、
 
 
だからサイタニはあの首から上にいるんであろう」という訳で、この首を切って
其処へ差し出して「お前サイタニか」と問うても、もう其処にはサイタニはいない
のであります。
 
 
部分を幾ら捜し廻っても人間はいないと云うことなのであります。果して
人間は何処にあるかと云う問題が奚仲造車(けいちゅうぞうしゃ)の公案に
含まれている問題であります。
 
 
禅宗の寺へ行って弟子にしてもらおうと思って、和尚に面会して「どうぞ弟子に
して下さい」とお願い申したら、その寺の老和尚が「お前何処から来た」と言う。
「はい、私は横浜の何処其処の者であります。其処から参りました」と云う
ような返事でもしたら、「もうお前帰れ!」と云う訳で弟子にしてもらえないと
云うことであります。
 
禅宗で「お前何処から来たか」と言うのはそのような横浜とか東京とか云う
所から来たか来ないかと云うことを問うているのではないのであります。
「お前の生命とか云うものは何処から来たか」と云う意味なのであります。
 
 
それでこの"奚仲造車"の公案は、「車は何処から来たか」という意味なので
あります。それでこの"奚仲造車、の公案は、「車は何処から来たか、
人間は何処から来たか」「車は何処に在か、人間は何処に在か」と云う問題の
提起ですね。
 
 
単刀直入に「車は何処に在か」と云う問題に対する解答を致しますと
それは車を発明して製造した奚仲の心の中にあるのであります
その心の中にある車は部分ではないのでありまして、車全体なのであります。
心の世界に先ず全体が造られて、その心の世界に在る全体の設計又は
構造と云うものが具体化して来るのであります
 
 
 
理念の人間  
 
この心の中につくられた原型を哲学的に言いますと「理念」というので
あります。即ち「理念の車」が先ず霊的世界に造られて、それが
天降って来て現象世界に部分品が出来て、その部分品が「理念の車」
の設計通りに集められて「現実の車」が造られると云うことになる
のであります。
 
 
ところでこの「現実の車」(肉眼に見える車)は実際に肉眼に見え手で
触れることが出来るから、非常に具体的であって確乎とした存在で
あるように見えているけれども、実は、「理念の車」の模倣品に過ぎ
ないのであります。「理念の車」のイミテーションであります
ですからこれは「理念の車の影」言ってもよいのであります。
 
吾々の感覚に触れて確乎として在るかの如く見えているところ
現象的存在はみなこれらは「理念」の投映せる影であって本当に
在るのではないのです。「理念」のイミテーションであると
考えられるのであります。
 
本当の車は、心の世界に造られたところの霊的存在、或いは理念的で
ありましてその理念と云うのは、真理と言っても宜しいが、永遠不滅の
存在であります。
 
 
「現象の車」は、奚仲が車を発明して以来、何十億台の車が造られて
壊されて又新たに造られたかも知れないけれども、「理念の車」は
壊れることなく永遠不滅なのであります。
 
「理念の車」と云うのは、真中に心棒があって周囲が円くて回転する
もの即ち車の根本設計であります。理念は永遠不滅でありますから、
そのイミテーションであるところ「現象の車」は壊れても、壊れても、
不滅の「理念の車」の真似をして、或いは自動車となりトラックの車
となり電車の車となり汽車の車となり、或いは機械を運転する車
となって無数に影を映して来るのであります。
 
 
同様にして、人間についても、「理念の人間」なるものが永遠の存在
あって、吾々が肉眼で見ている処のこの肉体的存在と云うものは、
その影である即ち理念のイミテーションなのです
 
 
影でありイミテーションであり模倣品でありますから、確乎とした存在
ではないのであります。ですからこの肉体は、どんなに健康な人でも
皆終いには老衰し病み且つ死ぬ影であるから消えてしまう
のであります
 
しかし吾々人間の本体、これを我々は「実相」と言っておりますが、
人間の「実相」と云うものは永遠不滅の存在でありこれのみが
本当の実在であるのであります。

つづく
 

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ ]


.
kakinoki
kakinoki
女性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事