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ブログ停止のお知らせ

最近PC不調と私事雑用増加につき、ブロク活動に時間が取りにくくなりました。
またヤフーブログは以前より使い勝手の悪いところもありましたので、このブログは停止することに致しました。
いつも訪問して下さり、記事を読んでいただき、まことに感謝しております。
お気に入り登録してくださった方や、友だち登録してくださった方々には、申し訳なく、もっと続けたい気持ちもありますが、
パソコンの扱いも、さほど得意な方ではなく、記事作成にも時間がかかり、また独自のテーマも最近は少なくなっておりますので、このへんで停止させていただくことに致しました。
長らくこのブログに親しんでいただき、本当にありがとうございました。

なお、以前より他社のブログを開設しており、今後はそちらで記事を書くことに致しました。よろしければ、ご訪問ください。

小さな自然、その他いろいろ



 
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                           南京虐殺の絵
 
 
イメージ 2220日、名古屋市の河村たかし市長は姉妹都市であるチャイナの南京市の共産党幹部に対して南京事件はなかったと言いました。
これを聞いた正しい歴史を知る日本国民は「よく言った!」と思ったことでしょう。
しかし、それもつかの間、藤村官房長官は記者会見で「南京での日本軍の非戦闘員の殺害、略奪行為などがあったことは否定できない」と言ったのです。しかもその根拠として村山談話の政府認識を踏襲したのですからいつもの通りであります。
 
イメージ 3「村山談話、河野談話なんかは破棄する。近隣諸国条項も破棄する。真実の歴史こそ日本政府の見解とする。それがお国のために散った先人たちへの今を生きる日本国の当然の責務である」
と言い切る政治家はいない。そういう意味でも日本の政治家というのは情けない限りであります。心ある国民はこういうところをみているのだ。
そういう意味でも河村市長の南京市の共産党幹部に面と向かって言ったことは評価できるものであります。
 
たとえ政府見解がそうであっても、もはや南京虐殺などあったという日本人の方が少ないはずです。
いまだに信じているとしたら左翼団体、日教組のような偏った人たちくらいでありましょう。
いや、彼らも“ない”ことはわかっていて嫌がらせや日本をおとしめるためにやっているのでありましょう。
 
南京虐殺など冷静になってみてみればあり得ない話ばかりであります。
南京虐殺があったという証言の多くが東京裁判にあります。
マイナー・ベイツ南京大学教授は強姦している日本兵の現場を見たと言い、その中には大学教授の夫人もいたという。その日本兵は5回にわたって強姦したそうで、それを見ていた教授は5回目でやっとその兵を女から引き離したというのであります。しかしいくら男女の相思相愛であっても、立て続けに5回は並ではない。しかも5回までしっかり観察していたこの教授も並ではない。
この教授は一人の婦人が代わる代わる17人の日本兵に強姦されたとも証言し、9歳の子供や76歳の老婆まで犯されたそうであります。20歳そこそこの日本兵が支那の枯れ果てた婆さんを襲うとはこれまた並ではない。誰が聞いても嘘が過ぎるのであります。
 
ジョン・マギーというアメリカ人の宣教師は東京裁判の検察訊問で、女を脅迫していた日本兵がマギーの姿を見て銃剣を捨てて逃げたと証言しました。
これなどは帝国軍人からすると一笑に付すような話であります。
支那兵であれば逃げるのに邪魔になれば銃を平気で捨てて行くのですが、日本兵にとって銃は天皇陛下からの貴重な預かり物であるので捨てて逃げることは絶対にあり得ないことであります。
 
東京裁判には南京での膨大な証言が記録されていますが立証は何一つされていないのです。
写真を撮ったと証言してもその写真一枚すら提出されないのです。
揚子江に流れ着いた遺体は明らかに軍服でありました。これは支那の公刊戦誌に多数の溺死者が出たと報告されており、溺死では虐殺の根拠にならないのです。
南京の街路には軍服が一面に脱ぎ捨てられて、支那逃亡兵が武器を持って庶民の中に紛れ込んだのは明白でありました(便衣兵)。そういう状況で日本兵が女を追いかけてズボンを脱いだというが、そんな日本兵がいるわけがない。万一いたとしたら便衣兵にすぐに射殺されていたでありましょう。
 
日本軍は南京占領後におこなったのは日本と支那の戦没者の慰霊祭でありました。
「敵にはあれどわが武士道」と言って支那の無名戦士の墓を作って慰霊したのです。
その後、南京市の復興工事を進めたので支那の避難民たちは安心して南京市内に帰ってきました。
日本兵は感謝されても悪く言われる筋合いはないのです。
 
村山よ、河野よ、藤村よ、日本政府よ、謝罪するなら我が英霊たちに謝罪せよ。
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

皇室が2000年続いた理由

サイタニのブログからの転載です。皇室が男系を維持しながらも、2672年、今上陛下で125代続いてきたことは、日本民族が、皇統を維持して歴史を継続しようという意志を持っていたからにほかなりません。そこに民族の意志がなければ、続くはずはなかったと思います。日本民族が、天孫降臨の神話から由来する万世一系の天皇を中心として戴いて、その国柄を守っていくことを美しいと感じ、誇りとしてきたからこそ、民族全体でこの国柄を守り抜いてきたのだと思います。


竹田恒泰著 「皇族の真実」より


皇室が2000年続いた理由
 
 
 
 
それにしてもよくこれほど長い間、一つの王朝が続いてきたものである。もちろん何度か王朝が交代したのではないかという学説も主張されているが、最も新しい時代の王朝交代説は古代飛鳥時代の第二十六代継体天皇で、仮にこのときに王朝交代があったとしても、それ以降は学説的にも王朝交代は主張がないため、日本の皇室は最短でも1500年間は続いていることになる。

 
まして、継体天皇の王朝交代説には強い批判があり、学会では継体天皇は応神天皇の五世孫であると認める方向にあることは既に記した。万世一系の起点を明らかにすることがこの本の主旨ではないので、この議論にはこれ以上立ち入らないことにするが、日本の皇室は最短で1500年、最長で2665年、大まかには約2000年程度、続いていると考えてよい。そして、これは世界の歴史に類を見ない長さである。世界史上、400年以上続いた王朝はほとんどない。まして1000年以上存在した王朝は日本の皇室を除いて皆無である。

 
しかも驚くべきことに、天皇家は極めて困難とされる男系継承によって2000年続いてきた。世界史上数々の王朝が成立しては消えていったが、その多くは王統を女系にまで広げておきながらも日本の皇室より長い歴史を刻んだものはない。

 
現代では、皇統を男性に限ることは皇統の維持を困難にすると考える人もいるが、天皇家が存続してきたのは、むしろ皇統を男系に限ってきたからではないだろうか。それにより不要な争いが回避されてきたとみることができる。もし 天皇家が女系継承を認めたなら、皇室は間もなくいくつかの系統に分かれることになる。

 
つまり、女性天皇の配偶者が仮に鈴木さんだった場合、「鈴木王朝」が成立したと観念することができ、皇統に属する女系の家と、皇統に属さない男系の家が並立することになる。時代が下ることでその系統はさらに分かれ、そうなった場合、何百年か経過した後に、かつての水戸学のような学問が再興され、「皇統に属する女系と皇統に属さない男系ではどちらが天皇家としてふさわしいか」といった議論が起こらないとも限らない。

 
つまり天皇家は男系を守ることによって、長い間唯一絶対の存在であったことになる。万世一系であるがゆえ、天皇家に苗字はない。名前を付けてほかの朝廷なり豪族と区別をする必要がなかったのだ。このことは皇室の凄みを何よりも明確に表わしているのではないだろうか。

 
それを可能にしたのは女系の天皇を認めてこなかったからにほかならない。通常世界の王家には苗字がある。苗字を付けなければ、どの時代のどこの王家か区別がつかないのだ。ヨーロッパ各国にしても中国にしても、彼らの歴史は王朝交代の歴史であった。例えば中国の王朝といっても無数にあるため、明朝とか清朝などと呼称により区別する他なく、ヨーロッパでも、ハプスブルク家やブルボン家などと、王家には必ず名前があったのだ。

 
ではなぜ皇室はこれほどまでの長い間存続してきたのだろうか。その答えは高松宮宣仁親王が生前によく語っていたことが最も的確であると思われる。これについて寛仁親王殿下がお話しになった記事があるので次に引用する。
 


 
 
 
「私〈寛仁親王殿下〉は伯父様〈高松宮殿下〉をずっとお手本にしてきたところがあって、こういう言い方は申し訳ないんだけれど伯父様を水先案内人と心得てやってきました。

中でも伯父様が生前よくおっしゃっていたのは、皇族というのはいにしえの昔から国民に守られてきたんだ、ということです。

京都の御所を見てもそのことがよく分かる。あそこはどこからでも侵入できるし、外国の城のような大きな濠もなければ、高い塀もない。ところが長い年月、泥棒が入るでもなくずっとあのままの佇まいで在りつづけているわけです。伯父様は、そのことを見ても皇室がいかに国民によって守り育てられてきたかが分かるとおっしゃっていました。私もその通りだと思います。」
(寛仁親王殿下「皇室と日本人」『文嚢春秋』93年7月号)

 
また、皇居や御所が過剰に警備されていることに対して、高松宮は喜久子妃殿下に次のように語っていた。

 
「皇族というのは国民に護ってもらっているんだから、過剰な警備なんかいらない。堀をめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならないような皇室なら、何百年も前に滅んでいるよ」(『文嚢春秋』98年8月号)

 
多くの王は軍事力によって守られていた。高い城壁に深い堀を巡らし、軍事要塞に住むことによって安全が保たれていた。軍事力によって守られる者は軍事力によって倒される運命にあったわけだ。しかし、軍事力を持たずに、国民によって守られてきた日本の皇室は軍事力によって抹殺されることはなかったということになろう。

 
そして皇室が国民に守られてきたのは、天皇と国民の間が強い信頼関係で結ばれていたからにほかならず、それを可能にしたのは、例外はあるも歴史的に 天皇は政治に関与せず、主な御役割は民の幸せを願うことであったことによる。

 
天皇に「私」はなく民全体の幸せのためにあり続けてきたのだ。そのことは、天皇の御日常が質素であり続けたことからも察することができよう。世界中の王宮が賛沢の極みであることと、1000年以上 天皇の居所として使用された京都御所が質素の極みであることを比較すれば容易に理解することがでる。

 
皇室が長年存在してきたことはその他にもたくさんの要素があると思うが、日本の歴史を通して皇族方の担ってこられた御役割もその重要な要素の一つであることは、本書を読んでいただいて理解していただけたことと思う。

 
とにもかくにも、これほど長い歴史を持つ皇室が、現在もしっかりと存在していることは、私は日本人として大変誇りにしており、途中で廃絶させることなく大切に継承させてきた先人たちに、最大の敬意を表わさずにはいられない。

 
そして 天皇とは男系によって継承されるものであり、男系によって継承されてきた 天皇こそが「万世一系の天皇」である。なぜ先人たちが男系継承にこだわってきたかについては既に述べたのでここでは繰り返さない。

 
しかし、もし男系でない天皇が誕生したとしたら、それは「万世一系の天皇」とは似て非なるものであり、その時点で「万世一系の天皇家」は断絶したことになる。したがって、皇統は絶対に男系によって継承されなくてはならないと断言して結語としたい。







※「皇族たちの真実」はここで終わらせて頂ます。最後までおつきあい頂きありがとうございました。今日感じましたのは、私20何年前に奈良にある歴代の 天皇御陵を御参り(みささぎ巡拝)させて頂いた事がありました。

それは、天皇陛下、御皇室の大切さを、有難さを知りたくて御参りさせて頂きました。(本を読んでも解らなかったからです。)あれから、皇居の奉仕
活動に偶々何回か参加させて頂き間近に 今上陛下」、美智子妃殿下を拝見させて頂き感動した事を覚えています。
マッカーサーが 昭和天皇にあって私は紳士を見たと感動して玄関まで送った
と言われていますが、やはり普通の方ではないのではと思います。
 
 また 、皇族の子孫竹田の宮様の講演も偶々聞かせて頂きこれも奈良の 天皇御陵を御参りさせた縁ではないだろうかとこの頃感じている次第です。
 
 時間が取れたらもう一度すべての天皇御陵(みささぎ巡拝)を御参りさせて頂こうと思っています。よろしかったら皆様方も行かれませんか。
素晴らしいですよ。(御陵に御朱印?がありまして、全ての御陵を廻られて御朱印を掛け軸にされておられる方もいます。(サイタニ)
 
 
 
   
 
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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
福地先生の論文も次回で最終回です。真の日本国へと歩を進めるためにも戦後のマッカーサーの呪縛や吉田茂の欺瞞を打ち破ることこそその”カギ”であります。
 
「敗戦国体制」の本質の露呈=平成不調の真因
 
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高知大学名誉教授 福地惇
 
筆者がこれまで展開してきた議論は「日本国憲法」のよさを無視する時代錯誤的な「天皇制軍国主義」擁護者だと反発する人々も少なかろう。
戦後の大宰相が言う通りに「象徴天皇制」と「民主主義」が国民を活き活きとさせ、「非軍備の平和主義」で軍事経費を最小限に抑制できたが故に、世界を瞠目(どうもく)させた戦後復興、高度成長、経済大国化があったと確信する人々が多数派だと思う。
だが、世間の常識は、「敗北主義意識」も上に咲いた徒花だと筆者は思うのである。
 
イメージ 3戦後の奇跡的経済復興の原因は、第一に対外的局面においては国際政治・軍事情勢が「敗戦国体制」日本にとって僥倖だったことにある。
朝鮮戦争の勃発と「朝鮮特需」以降、1991(平成3)年の米ソ冷戦体制の終焉までおよそ40年間にわたる東アジアの政治・軍事情勢は、巨大な軍事力を誇る宗主国アメリカが、「再軍備」を渋って「一国平和主義」に閉じこもる日本を擁護してきた歴史がある。日本を下手に刺激して共産陣営へ追いやることは米国の世界戦略上、最悪の選択肢であった。そのお陰で、米国の政治的軍事的庇護(「核の傘」なる用語が頻繁に使われたことを想起)のもと、恰(あたか)も「敗戦国体制」と「一国平和主義」が正しかったかのような錯覚に日本人をして陥れてきた。
 
第二に国内的局面では「教育勅語」の精神を柱にした教育で成長した愛国心を持つ多くの国民が、国土の壊滅状態から祖国を一刻も早く復興させたいと一心不乱に努力した結果である。
イメージ 4しかしその後は、戦前の教育で成人した世代は漸次老齢化して現役を離れ、戦後「敗北主義」教育の世代へと逐次交代を重ね、国際環境の大変動で脆弱な国家・国民、つまり「敗戦国体制」と「敗北主義」の本質が厳しい国際政治の実現の前に晒されて弱点が露呈したのである。ここで、近隣諸国の我が国への不当な内政干渉が頻発し始めたのは、まさにこの世代交代初期(昭和50年代)であったことを確認しておきたい。
吉田茂以降の歴代保守政権・政府与党および左翼系諸野党は、国際環境がもたらした僥倖と国民の高い能力、真面目な努力から始まった経済の高度成長に気をよくして、肝心の正当な国民国家への復帰努力を蔑にしてきた。惰性的に「敗戦国体制」を護持し、「敗北主義イデオロギー」を国民に注入し続けたことで、世代交代が進むにつれて「負の遺産」は積み重なり、国政の紊乱(びんらん)や外交の脆弱さ、軍事の奇形さ、ひいては教育の混乱、治安の悪化等々をもたらし、我が日本を滅亡の淵に立たせようとしている。
 
イメージ 6イメージ 2小泉首相は平成不況を国家的危機ととらえ、「聖域なき構造改革」というスローガンのもと「日本を再生」すると喧伝した。しかし、戦後日本を規定し続けてきた「解放の恩人」マッカーサーの置き土産=「敗戦国体制」と「敗北主義イデオロギー」を剔抉(てっけつ:あばくこと)し、克服せずして、徒に個別的で対処療法的な諸改革を積み重ねて見ても、結局は徒労に終わるのみであろう。
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

インドネシアの夜明け

国際派日本人養成講座からの転載です。

■1.二人のインドネシア人■

 大東亜戦争というものは、本来なら私たちインドネシア人が、独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。大東亜戦争はそういう戦いだったんです。
       
1950年8月に成立したインドネシア共和国の首相モハマッド・ナチールはこう語る。

もう一人、日本軍の設立した青年道場で軍事訓練を受け、義勇軍設立と幹部教育に尽力し、独立戦争中は情報面の責任者として活躍したズルキフリ・ルビスの言葉を聞こう。
   
 オランダに再植民地化をあきらめさせる中心となったのは義勇軍出身者でした。日本がインドネシアにもたらしたもの中で、最も素晴らしかったことは訓練ですが、それがインドネシアの独立にとって最も重要な要素となったのです。...もし義勇軍がなかったならば、インドネシアの独立は南米のスリナム共和国のように長期間かかっていたかもしれません。スリナム共和国は、オランダから独立するのにインドネシアの独立からさらに30年もかかりましたから。
   
インドネシアが独立の夜明けを迎えるのに、日本軍は大きな役割を果たした。それがどのようなものだったのか、この二人の証言を聞いてみよう。

■2.日本軍にびっくり■

ルビスは大東亜戦争開戦時はジャワ島中部のジョグジャカルタの高校生だった。当時のほとんどの家庭は子供を学校に通わせる余裕はなかったが、裕福な旧家に生まれたルビスは限られた例外の一人だった。
   
 1942年3月、突然、日本軍がジャワ島に攻めてきました。町が急にあわただしくなってきました。
       
 それまでオランダ植民地政庁はインドネシア人にとって絶対的な力を持っておりましたから、たとえ日本軍が攻めてきたとしても微動だにしないものだと思われていました。しかし、ジョグジャカルタがあわただしくなって数日もしないうちにオランダ植民地政庁は日本軍に降伏してしまいました。ジョグジャカルタでは戦闘もなく、あまりにも簡単にオランダが降伏したので、私たちはびっくりしてしまいました。
       
インドネシア総督のチャルダは逮捕され、町にいたオランダ人たちもどこかに逃亡した。
   
 それまでインドネシアを支配していたオランダ人がいなくなり、インドネシア人ははじめて自由というものを感じました。大人も子供も訳もなくオランダが敗れたことを喜び、興奮し、やがて日本軍が町や村へ来ると大歓迎しました。インドネシアでこれほど歓迎された外国人は、これまでなかったでしょう。
       
 ところが、ジョグジャカルタにやってきた日本軍を見ると、どの日本人も私たちと同じように小柄で、同じ色の肌をしているので、さらにびっくりしました。

■3.画期的な教育政策■

日本軍がやってきた時、ナチールは33才、イスラム協会の会長として社会改革運動に従事していた。日本軍はオランダ植民地政庁を倒してくれたが、単に支配者が交替しただけかもしれない、と疑っていた。
   
しかし、日本軍はナチールの予想もしなかった事を次々と始めた。第一に幽閉されていた独立運動の指導者スカルノ、ハッタを解放し、インドネシア側代表の位置につけた。第二にイスラム教に対する制約を撤廃し、マシュミ(インドネシア回教連合会)を作って、イスラム教の指導者達が初めて直接話ができるようにした。
   
 日本軍のやったことで三番目に注目すべきことは、インドネシアの教育に力を入れたことでしょう。
       
 これもオランダの政策とまったく違っていました。オランダの植民地政庁は長い間愚民政策を採ってきました。インドネシア人を教育すると、目覚めてオランダに反抗するかもしれませんし、また、農業に従事するだけなら教育は必要ありません。・・・学校に通うことのできるインドネシア人は全体の数%くらいではなかったでしょうか。・・・
       
 ところが日本軍は、やって来ると、さっそく教育に力を入れ始めました。戦争でいったん休校になった学校を再開し、すぐに3年間の初等国民学校と、その上にさらに3年間勉強できる国民学校作りました。・・・日本軍がきてわずか1年あまりで、それまでの倍近くの子供が学校に通うようになりました。

日本軍は行政機構への現地人登用を進め、ナチールはバンドン市の教育部長に任命された。そして権限を与えられ、仕事を任せられた。これもオランダ時代にはなかった画期的なことだった。
   
教育に関する日本軍からの命令は、オランダ語の禁止と、日本語、唱歌、教練を含めることだけだったので、ナチールはインドネシア人としての自覚を持たせるようなカリキュラムを組んだ。本格的にインドネシアの歴史を教えるようにしたが、これもはじめてのことだった。また日本軍からインドネシア語の外に地方語の教育も勧められていたので、バンドンで広く使われていたスンダ語の授業を取り上げた。

■4.熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない■

半年ほどもすると、バンドン市の属するプリアンガン州の内政部長として姉歯準平が赴任してきた。戦前に長くスラバヤやジャカルタの総領事を務めて、インドネシアとは関係の深い外交官だった。
   
姉歯はよくナチールや市の有力者数人を集めては日本軍の軍政に関する意見を聞き、また自身の考えを語った。
   
日本がインドネシアにやって来た目的は、インドネシアの独立を支援することで、日本人がここにいるのはあとわずかだろう。まずこれをしっかり頭に入れてほしい。
       
 次に、将来、インドネシアが独立したなら、インドネシア人の中で首相が選ばれるだろうが、私は皆さんの中から首相が出ることを期待している。
       
そう述べた上で、朝7時から午後2時までの定時間を務めればすぐに帰ってしまうナチールらを注意した。姉歯は6時頃まで仕事をし、さらに書類を家に持って帰って仕事を続けていたのである。
   
インドネシア人は独立、独立と叫んでいるようだが、熱心に仕事をする以外に独立を実現する道はない。独立してもきちんと行政ができるように今から準備すべきで、そうでなければ、独立国としてやっていけないだろう。他の人はどうあれ、まずみなさんが率先しなければならない。

ナチールは恥ずかしい思いをすると共に、姉歯の考え方に共鳴した。
   
■5.「青年道場」■

ジョグジャカルタに日本軍がやってきて数ヶ月した時、日本の青年訓練所でインドネシアの青年に軍事訓練を施すから希望者は集まれ、というビラが貼り出された。日本軍がオランダ植民地政庁を倒すのを見て、独立のためには自らの軍隊を持たねばならない、と考えていたルビスは、絶好の機会だと思って、すぐ応募した。
   
数百名の希望者の中から選抜で90名が選ばれ、ルビスも無事合格した。そこで3ヶ月の軍事訓練を受けた後、昭和18(1943)年1月、ルビスと3名はより本格的な訓練を受ける為に、ジャカルタ近郊のタンゲランに新しく設置された「青年道場」に派遣された。
   
青年道場には、インドネシア各地の青年訓練所から選りすぐった二十歳前後の青年47名が第一期生として入学し、現場の責任者の柳川宗成中尉の訓示を受けた。
   
 訓示の内容は、アジアを解放するために日本軍はインドネシアに来たが、独立は自分の力で成し遂げるものである。しかしインドネシアは教育や軍事などあらゆる面で遅れているので、いますぐ独立はできないだろう、日本軍は知っていることをすべて教えるので、一日も早く学んで立派に独立してほしい、というものでした。
       
 訓示の中で、悠長に構えている暇はないと度々強調されましたので、私たちの間には、緊張感が漲り、一刻の猶予もないのだ、とにかく早くいろいろなことを習得しなければならないという思いがいっぱいになりました。

■6.日本軍の率先垂範教育■

青年道場では、朝5時から夜10時まで、軍事訓練、精神訓話、体育訓練、実地訓練などが行われた。精神訓話では、「正直であれ」、「勇気を持て」、「常に前進せよ」の3点を厳しく叩き込まれた。またインドネシアの歴史を初めて学んだ。
   
実地訓練は、教官が自ら率先してやってみせる、という教え方がとられ、自営農場での農作業では、柳川中尉自らふんどし姿で肥おけをかついだ。中上流の家庭出身者が多い訓練生たちは農作業の経験もなく、臭くていやがったが、やりながら自分のものにしていった。こうして教官と生徒の間の一体感も生まれていった。
   
ある時、午前中の野外訓練が終わった時、厳しさが欠けているというので、一人の小団長候補生が銃を持って立っているように命令された。午前中だけでもくたくたになり、その上の炎天下で直立不動というのは、大変な罰だった。その時、中隊長の土屋競中尉が、何も言わず、小団長候補生の隣で同じように直立不動で立ち始めた。二人は一時間ほど、午後の訓練の合図まで立ち続けた。
   
私たちはそれをずっと見ていましたが、すばらしいことだと思いました。これまでインドネシアでこのような教育をする人はいませんでした。・・・インドネシアの若者全員に知れ渡り、全員感動しました。
       
 土屋中隊長は、まだ20代半ばで、私たちとそれほど年齢は離れていませんが、常に私たちのことを考えていたと思います。訓練期間中、苦しくて倒れそうになると、いまはインドネシアが独立したときの要人を育成しているのだとか、インドネシア国軍が創設されたとき中心になる軍人を育成しているのだ、といって私たちを励ましてくれました。
       
 同じ中隊にいたスハルトも土屋中隊長からは深い感銘を受け、大統領に就任してはじめて日本に行ったとき、土屋中隊長にだけはぜひ会いたいといって探してもらい、20数年ぶりに会っています。
       
ルビスは日本軍から受けた教育を次のように総括している。
   
そこでの教育はインドネシア人の民族精神を改革した画期的なものといえるのではないでしょうか。まず愛国心を育てたことであり、次に死を恐れぬ精神を植え付けたことです。さらにいえば、向上心を涵養したことなどもあげられると思います。

■7.「ムルデカ17805」■

ナチールは独立後の首相となり、またルビスの青年道場での同期生スハルトは第2代大統領となった。独立は自らの力で勝ち取るものであり、そのための人材育成こそが急務であるという日本軍の方針は、見事に奏効したと言える。
   
この二人の証言に共通しているのは、姉歯準平氏、柳川宗成中尉、土屋競中尉らとの心の通った人間関係である。インドネシアの独立を願うこれらの日本人のまごころは、ナチールやルビスに伝わったのである。
   
日本軍の降伏した2日後、1945年8月17日に後の正副大統領スカルノとハッタは急遽インドネシア独立を宣言する。しかしオランダは再植民地化しようと軍隊を送り込み、インドネシアは4年5ヶ月もの独立戦争を戦わねばならなかった。
   
この中心となったのが、ルビスら、日本軍によって鍛えられた義勇軍だった。日本軍は彼らに大量の武器を渡し、また1〜2千名の日本兵が、独立軍に身を投じて一緒に戦い、そのうち400名ほどの人々が戦死した。ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地にもインドネシア独立の戦士たちとともに11名の日本人が手厚く葬られている。

インドネシア独立に命を捧げた日本人将兵らは、現在上映中の映画「ムルデカ17805」に描かれている。ムルデカとは「独立」、17805とは独立宣言の日付で、皇紀2605(西暦1945)年8月17日の事である。日本軍の独立支援への感謝として年号を日本の皇紀で表したのである。
   
我々の父祖の世代が、どのような思いでインドネシア独立に身命を投じていったのか、この映画を通じて偲ぶことができる。



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