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                     (ニコライ皇太子とロシア軍艦)
   
明治時代、ロシアといえば、当時世界最大最強の軍国と言われていました。
北欧からウラルを超え北アジアを侵略し、これを東西に貫く鉄道で結ぶ大事業に取り掛かっていました。
このシベリア鉄道起工式にロシア皇帝アレキサンダー三世の御名代として、皇太子のニコライ二世が出席の途中に日本に立ち寄りました。
軍艦7隻を従え、鹿児島、長崎を経て関西をめぐり、さらに東京から青森に向かいウラジオストックに渡る予定でした。
当時の日本は人口3500万人、陸軍6個師、海軍はほとんどないに等しい状態でした。
ロシアの軍艦7隻だけでも日本にとっては大脅威でした。
ニコライ皇太子は各地で遠慮のない遊興を重ね、日本側は国賓として最高の礼を尽くしました。
 
このニコライ皇太子一行については様々な憶測が流れました。
シベリア鉄道の最終点ウラジオストックという名は東洋征服という意味であり、この時期清国に対抗して朝鮮半島内にロシア勢力が浸食し始めていました。このようなときに軍艦7隻も従え、ニコライ皇太子が鹿児島から青森まで視察するというのですから日本国民には“国難近し”という感じがありました。
 
明治24511日、
ニコライ皇太子とギリシャ親王殿下の一行は京都の常盤旅館を出発、
人力車を連ねて大津市を訪ね琵琶湖の風景を楽しんだ後、京都へ帰途に着きました。
この行列は実に人力車40数台、ニコライ皇太子の随員として有栖川宮威仁親王、川上操六、滋賀県知事をはじめ、その行列の長さは200メートルにも及びました。
この長い行列が日章旗と提灯に飾られた中を通過中、警戒中の津田三蔵巡査がニコライ皇太子に挙手の礼をして見送ってから、突然帯剣を抜いて二度斬りつけたのです。
ニコライ皇太子が後頭部を押さえて車から飛び降りると、津田巡査はなおも追って斬ろうとしました。これを見たギリシャ親王殿下が竹のステッキで防ぎ、二人の車夫が津田巡査を引き倒して刀剣を奪い取りました。傷は後頭部に二か所で重傷ではないが深い傷でした。
 
日本側は驚愕した。
ニコライ皇太子は滋賀県庁に運ばれ、急きょ、京都、大阪から呼び寄せられた日本の一流医師の診療を拒絶して、京都の宿舎に引揚げ、神戸に停泊していたロシア軍艦から駆け付けた医師によってようやく傷口を縫ったのでした。
この事件を奏上すると、陛下は非常に驚愕されました。
陛下は直ちに北白川宮親王を召され、御名代として京都に行くように命じ、
直ちに御前会議を開くと、事件の重大性が益々明らかになり、西郷従道内務大臣、青木周蔵外務大臣を続いて現地に派遣することを決定しました。
その夜、陛下は寝室に入られようともせず、ついに深夜に至って、陛下自ら京都に行幸され、国民3500万人に代ってロシア皇太子にお詫びしたいと仰せ出されたのです。
 
午前5時、宮城から新橋駅までの沿道にはすでに憂い顔の国民の群れが行幸を待っていました。
国民3500万人に代って、と言われた陛下のお言葉をそのままに国民は等しく日本国の運命と自分たちの命を陛下にお預けするほかなすすべはないと感じていました。
午前6時、陛下の横顔は深く憂いておられました。
国民は目頭をぬぐい、顔を両手で埋めて拝む女たちの姿が多くみられました。
陛下は列車内で軽く仮眠されただけで、不眠と心労の中、京都駅に御着になり、そのまま御所に御入りになり、直ちにロシア公使、京都府知事等を召されてニコライ皇太子の容態を聞かれました。
時刻はすでに深夜でありましたが、常盤旅館に宿泊治療中のニコライ皇太子をお見舞いしたい旨を申し入れましたが、先方の侍医の意見で取りやめになりました。
日本側から差し向けた橋本軍医総監、スクリッパー博士、高木、池田の両侍医も、先方から辞退され戻ってきました。
日本側の憂いは一層濃くなっていきました。
 
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                           (常盤旅館)
 
陛下はその夜、西郷内相、青木外相、土方宮相等を召されて善後策を協議され、寝所に入られたのは午前3時でありました。それからわずか1時間余りの午前440分には、起床なされていました。
陛下も重臣も、一様に不眠と緊張の疲れから目を赤くしておりました。
午前11時、陛下は馬車だけで常盤旅館に行き、ニコライ皇太子を御訪問なされました。
この時、陛下はこう仰せられました。
「殿下の御来遊に際して私は国家の大賓としてお迎え申し、御通過地の官民も出来る限りの御行為を示したいと思っておりますことは、鹿児島、長崎両県で親しくご覧になったことと思います。私は殿下の御入京を、しきりにお待ち申しておりましたのに、はからずも一昨日、大津において難に遭われましたことを深く悲しみます。ことに、遠く離れておられる御両親のお心配は、いかばかりであろうかと、お察し申しております。暴行者は早速係官に命じて国法によって処罰することはもちろんですが、その罪は憎みてもなお余りあるものです。私は殿下が自重加養されて1日も早く御快復になることをお祈りします。今、殿下の御容子を拝して少しく安心致しました。御快復後は、東京その他の都において、私の国の風物を広く御遊覧下さいます様希望いたします」
この丁重な御言葉に対してニコライ皇太子は病床から次のように答えられました。
「思いがけない難に遭い、陛下の御来臨を仰ぎ、恐縮に堪えません。この難のために、貴国に対する感情を害することはありません。けれども、私の身体は、只今、本国の両親に伺い中でありますから、その指示を待つほかありません」
 
陛下はこのお見舞いを済ませて御所に帰られてから、有栖川親王と榎本武揚枢密顧問を速やかにロシア王室に差し向けて、当方の不注意を詫び、皇太子のその後の容態を伝えるように命令されました。
すると間もなく、ニコライ皇太子が常盤旅館を引き払って、神戸港外に停泊中のロシア軍艦に引き上げるとの急報に接したのです。
陛下は「先ほど、お見舞い申した時にはさようなお話は全くなかったに・・」
陛下は驚かれ、再び御所を出られ、常盤旅館で皇太子の出発するまで約1時間お待ちになり、
その後汽車で神戸まで御同乗になられました。
三宮駅に着くと陛下自ら先導に立たれてニコライ皇太子を弁天浜御用邸にご案内になりました。すでに夕霧があたりに立ちこめた桟橋に、ニコライ皇太子の頭部の白い包帯と、陛下の黒いお姿が心持うつむいて痛々しい限りでありました。
その時、桟橋の上に立ち止まったニコライ皇太子が、ポケットから煙草ケースを取り出すと、陛下はマッチをポケットから出され、火を点じて皇太子の煙草に近づけたのです。
陛下の心遣いのほどを察し、侍立していたお伴の人たちは皆瞼を熱くしたといいます。
 
ロシア王室は皇太子の安全をはかるため、19日にウラジオストックに帰るように指示しました。
このロシア王室の意向は日本側には通知されなかったため、陛下はじめ、皇太子一行の行動に協議を重ねるばかりでした。
軍艦は19日出港とのことでしたので、日本側は
「御用邸に皇太子一行を招待して送別の宴を開きたい」と申し入れましたが、
「治療上の理由」で謝絶されました。
その代わりに、ロシア側から
19日に陛下に来艦してほしい」という旨の申出を受けたのです。
この招待の指名は明治天皇、北白川宮、有栖川宮の他侍従長以下数名と政府関係者は青木外相一人でした。
この招待を受けるかどうか閣議で大きな問題となりました。
19日はロシア軍艦の出向の日であり、黒煙を上げている軍艦はそのまま陛下と皇族を人質としてロシアに連れ去るかもしれない」
「人質とまではしなくても艦内でどんな辱めを受け、どんな難題を持ちかけられ、強迫されるか知れない」
各大臣の憂いは皆同じでありました。
「如何なる国難が来ようとも、我々国民は陛下をロシア軍艦に送ってはならぬ」
という意見の一致で、陛下に御辞退なさるように奏上しました。
すると陛下はこう言いました。
「お断りする理由はない。悦んで御招待に応ずる。私の一身を以て日本国の危急を救い得るならば満足である」
一同、声をのんで沈痛な顔を伏せたままでした。陛下はかえって一同にこう仰りました。
「お前たちが心配するように、ロシアへ連れて行かれたら、その時はお前たちが迎えに来ればよろしい、お断りするのは無礼である」
こうして19日の午前9時、我が国の運命をかけた行幸でありましたが、陛下は御所を御進発されました。
沿道には不安顔の国民で埋め尽くされていました。
 
陛下の御一行をボートでロシア軍艦にお送りした後、
神戸埠頭には西郷内相はじめ、高官たちがそのまま立ち並んで陛下の御帰りをお待ちしていました。
数千人もの一般国民の拝観者も、沖合に黒煙を上げている7隻の軍艦を見つめたまま2時間が経ちました。
午後2時、艦上の交歓は終わって、陛下は無事埠頭に帰りついた時、西郷内相は感極まって声を出して泣きだしました。
これをきっかけに埠頭に万歳の声が起こり、拝観していた国民からもどよめきが上がりました。
こうして7隻のロシア軍艦は西に向かって進発し、陛下は沿道の万歳の声の歓呼に包まれ、
午後515分に京都御所へお帰りになられたのです。
以上、世にいう「大津事件」の明治大帝と国民の苦悩でした。
 
この翌日の520日、
京都府庁の門前に白布を敷き、細紐で膝を縛った女性が剃刀で割腹自殺したのです。
膝の上には10通の遺書が並べられていました。
その中の「露国官吏様」という宛名にはつたない筆で、
「露国皇太子、すこしにても不憫に思し召しされ、是より、御入京遊ばされ候はば、
小女国人の身に取り忝なく奉存候。敬白 
明治二十四年五月十八日 千葉県長狭群前原鴨川町 畠山文次郎姉 勇子」
 
これこそ、当時の国民の気持ちをそのまま表したものでありました。
畠山勇子(はたけやま ゆうこ)。
彼女は陛下が身を以って日本国を救う覚悟で京都に行かれたと聞き、
魚問屋の主人に暇を取りたいと申し出て、衣類を質入れして旅金をつくり、
床屋で研がせた剃刀を懐中にして陛下の後を追って京都に行ったのです。
ところが、すでにロシア皇太子は神戸から軍艦に乗られたことを知りました。
遅れてしまったが、今からでも死を以てお願いしたら…と考えて、自殺したもので、
駆け付けた門衛と巡査に抱き起こされたまま息絶えたのです。
彼女は遺書の通り千葉県鴨川町の農家の娘で、最初は東京の万里小路家に女中奉公し、
次いで正金銀行頭取の原六郎宅に移り、事件当時は築地魚河岸の白鳥武兵衛宅に女中奉公をしていました。
当時27歳、日頃から政治を好んで語る気丈な性格の女性だったといいます。
明治時代にはこのような気性の婦人がたくさんいたのです。
 
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                           (畠山勇子)
 
 
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                           (明治大帝)
 
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

取り戻すこと

   さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。教育勅語以前の明治の時代が、かなり欧米礼讃的な空気で、それまでの伝統文化をを捨ててしまい、なにか浮ついた感じで風紀がひどく乱れたという話は聞いていましたが、そのひどさは今まで想像していた以上だったようです。やはり革命的な部分もしっかりとある以上、社会的混乱は免れず、そこには思った以上大きい損失があったんですね。

そして同じような革命的変革は、敗戦後の日本にもやってきました。これは明治以上の大きな変化だったかも知れません。何故なら、明治は日本が自発的に変革したものですが、敗戦による変革は、アメリカの占領軍によってもたらされたいわば外からの強制、さらには戦勝国の視点によるプロパガンダを伴った洗脳によるものだからです。

戦後から66年間の間に、失われたものがあることは確かなことです。しかしそれすらも日本人ははっきりとは意識できないでいるのではないでしょうか。この66年間という長さ、その間に本来の自分をすら忘れてしまうほど、時間は経過しました。それでも今の社会がなにか間違っている、と思わずにはおれないのではないでしょうか。そして歴史をまじめに研究していった人々は気づき始めました。教えられた歴史と違う真実があることを。

私たち日本人は今、自分たちは何であるか、を見つめ直す時期に来ていると思います。


転載開始


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                          (教育勅語奉読)
 
日本の歴史というと、「戦前は悪かった」という一方で、「いいことばかりあった」ように思うのも大きな間違いでしょう。実際は全て美談のようなことはありません。当然よくない時も過ごしてきたのです。 
しかし、日本を誇りに思えるのはその「よくない時」から立ち直ることができるということです。 
今回も前回に続き中西輝政氏の著書から引用し、数回引用した最後としたいと思います。 
・・・・・・・ 
 
人は平時が続くと、変化に対する反応が遅くなります。 
とりわけ、本来、変化を好まない傾向がある日本人は、状況は変化しているのに平時のものの見方、考え方を変えられず、気付いた時には取り返しがつかないほど社会が荒廃していた、という事態に陥りがちです。 
 
明 治維新は、日本人だからできた「無血革命」だと言われますが、実際は相当な犠牲を払っています。戊辰戦争では何万という人命が失われましたし、三百年続い た徳川の世が全否定されたことで、社会では大きな悲劇もたくさん生まれ、物理的、精神的な文化的遺産もゴミのように捨て去られました。 
明治維新は起こるべくして起こった社会変革ではありましたが、黒船来航以降の変化、諸藩の動きや考え方の変化に幕府がもっと早く、柔軟に対応していたら、犠牲は最小限に抑えられ、もっとスムーズな社会変革が可能だったのではないかと思えてなりません。 
 
結果的に、急激に社会が変わることになり、その中で日本本来の良さも失われてしまいました。
ほ んの一例ですが、アメリカのボストン美術館には日本の優れた仏教芸術が数多く展示されています。維新期の「廃仏毀釈運動」で日本人が仏教を排斥したため に、膨大な仏教芸術が海外に流出したのです。それまで大切に育ててきた文化まで無造作に捨て去ってしまったのですから、やはり明治維新は行き過ぎた社会変 革だったと言わざるを得ません。
 
教育にしても同様のことが言えます。明治天皇は非常に優れたバランス感覚の持ち主で、西洋の技術を取り入れることを指示する一方、日本人本来の精神性はくれぐれも失わないように、とつねづね言っていました。
と ころが為政者たちは「文明開化」をスローガンにして、日本の良さを顧みず、何でも西洋化しようとしました。明治天皇はたびたび「詔書」を出し、日本人には 日本人にふさわしい教育をすべしと繰り返し自ら主張されましたが、当時の文部省は素知らぬ顔です。そんな江戸時代の封建性の名残のような教育など日本の近 代化の邪魔になるだけだ、というのが彼らの考え方でした。
 
し かし、その一方で、人々のモラルは低下し、明治初期の日本では社会の風紀が大きく乱れました。例えば小学生の子供が休み時間にたばこを吸っている。お巡り さんが大道で平気で博打をする。勤め人が昼間から酒を持って歩いている。男女の性道徳も前の時代に比べ著しく乱れ始めました。明治十年から二十年ごろ、日 本の社会はそこまで荒廃していたのです。
そ のころ来日した外国人は日本への失望感をあらわにしています。『インド人も怠惰だったけれど、日本人はそれに輪をかけてひどい』と書き残しているイギリス 人もいます。当時のイギリスは産業革命の最中で、国民全体が大変勤勉だった頃ですから、なおさら日本人の堕落ぶりがひどく映ったのでしょう。
 
こ んな状態が続き、明治二十年ごろになると、さすがに国政を担う人々も方向性を誤っていることに気付き始めました。急速に西洋化が進む一方で社会のあまりの 荒廃に危機感を募らせた人々、特に上からは明治天皇から一部の政治家や、当時「国粋派」と呼ばれて特に危険視されていた学者たちが立ち上がりました。そう した努力の一環として打ち出されたのが「教育勅語」(明治二十三年)でした。
しかし、こうした「上からの動き」と併せて、実は地方から、そして庶民の間からも自発的な教育やモラルの改善運動が起こってきました。そして日本人全体が社会の近代化の大切さを踏まえつつも、自分たちがかつて持っていた文化に対する誇りを取り戻し始めました。
ここから日本は立ち直りますが、幕末から明治までに失われたものの大きさを考えると、変化への対応の遅さがつくづく悔やまれます。
 
好むと好まざるとに関わらず時代は変化していきます。そうした変化には合わせてゆかねばなりません。
その上で「変化にはコストがかかる」という視点から、そのバランス・シートを考えてみる必要があります。
この時、日本人にとって特に大切なのは決して情緒的に反応せず、あくまで冷静かつ合理的な姿勢に徹することです。「それ行けドンドン」や「石橋を叩いても渡らない」というのは、いずれも堕落、精神の劣化です。
・・・・・
 
やはり教育というのは大きいと思います。戦後、日本の教育は荒廃し続けていると言います。
特にモラルや道徳、日本のよき精神を教えないことが、日本社会に大きな影響を与えていることは明らかです。
日本人に「個人主義」や「自由」、「権利」などというものはあわないものだと思っています。
日 本人の優れた面はもちろん個人の力というのもあるでしょうが、大きく発揮されるのはやはり集団行動にあると思います。その根幹は日本人の規律の正しさ、自 分より他人をいたわり、互いに思いやり、そしてともに行動する時に大きな力となる。そこには自分勝手な自由や権利の主張などあり得ないのです。
西洋人と日本人は違います。グローバルという言葉に釣られて何でも国際基準にする必要などないではありませんか。なぜなら、それ以上に日本人と日本という国は優れた、素晴らしいものを本来は持っているからです。
 
 
・・・・・・・・・
 
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こんなニュースがありました。世界から、日本の被災地への支援がたくさん届いています。そして、それらの中には、このフランス、ルイ・ヴィトンのような恩返しの心からのものもあります。情けは人の為ならずといいますが、こういう話を聞くと、真心というのはめぐりめぐって自分に戻ってくるものなのですね。

「ルイ・ヴィトン」が日本の「牡蠣」を救う深いワケ



震災で壊滅的な被害を受けた宮城県。その海沿いは牡蠣の一大産地です。
しかし、その震災の影響で、今年の収穫高は例年の1割程度に落ち込むという被害を受けました。

国内産の牡蠣が手に入らない!

11月に入り寒さが一段と増してきました。
そろそろ旬の食材を使った鍋が恋しくなる季節ですね。

この季節の鍋と言えば、旬でもある牡蠣鍋が人気ですが、今年3月に起きた震災によって、牡蠣の一大養殖地である宮城県に大きな被害が出ています。


大津波によってたくさんの船が流れ、牡蠣の養殖場所である牡蠣床なども壊滅的な状況。牡蠣の収穫は例年の1割程度の見通しとなっています。

牡蠣の取引価格の高騰が予想されており、今年は国内の牡蠣が手に入らなくなるかもしれません。

このような壊滅的な被害で、復興の道筋が見通せない牡蠣生産業者。そんな絶望的な状況において、意外なところから資金援助の申し出がありました。


なんとそれは、フランスの超有名ブランドであるルイ・ヴィトン! ブランド物のバックや靴など、牡蠣とはまったく関係のない差出人に、牡蠣生産業者の畠山重篤さんははじめは戸惑ったそうですが、実はこれには深い理由がありました。

ルイ・ヴィトンの恩返し

今から40年前の昭和46年。
フランス名産である、ブルターニュ地方の牡蠣がウイルス性の病気で壊滅状態となりました。
当時、フランス国内の生産量のうち97.5%を占めるアンギュラータ牡蠣が寄生虫類に犯され、5000軒を超える牡蠣生産業者に9000万ドル(約70億円)の損害を与えました。

日本同様、いえ、それ以上にフランスでは牡蠣が愛されています。特に生牡蠣は大人気です。


事態を重く見た牡蠣生産業者は、日本の代表的な牡蠣の品種であるマガキの輸入を検討し始めました。その一つが宮城県の北上川河口で生産された種牡蠣です。


こうして宮城県からフランスへ、3300トン(約7億5千万円相当)の種牡蠣が輸出されました。そして、今日ではフランスでは、在来種に変わってマガキが生産量が90%を占めるようになっています。フランスの老舗メーカーであるルイ・ヴィトンは40年前に受けたこの恩を返したというわけです。


ルイ・ヴィトンの5代目当主、パトリック・ルイ・ヴィトンさんも、大の生牡蠣ファンだっため当時のことは鮮明に覚えているそうです。

日本とフランス、ルイ・ヴィトンとの強い絆は現在にまで脈々と受け継がれており、そのような理由もルイ・ヴィトンが牡蠣生産業者の再起を手伝うきっかけとなったようです。

畠山さんは、養殖場も「復興しているであろう再来年には美味しい牡蠣を食べさせる」とパトリックさんと固い約束を交わしました。もちろん、ルイ・ヴィトンは快諾しました。「そのときは愛用のナイフを持っていきますよ!」と述べて。

日本大好きのフランスから熱い支援

このような温かい支援は、実はルイ・ヴィトンだけではなく、フランス全土から集まっています。
フランス国立基金からも三陸牡蠣復興支援として、約20万ユーロ(2200万円)の支援を受けました。

女性向けのファッションや美容についてのフランスの情報サイト「madmoizelle.com」でも、日本に在住していたフランス人の女性が、震災の時に帰国し、日本の現状を伝え、どのような支援をできるか訴えました。


日本とフランスの文化交流は深く、日本の文化をテーマにした博覧会「ジャパンエキスポ」には20万人以上の人々が訪れています。フランスでは漫画、アニメ、ゲーム、映画、ファッションといった日本の文化コンテンツが大人気で、こうした交流はますます盛んになっています。


震災で失ったものは非常に大きいですが、こうした海外からの多くの支援に日本が助けられていることに再度気付かせてもらえました。震災の援助を申し入れた国は世界で163ヵ国以上にものぼります。


この冬からは、ルイ・ヴィトン製(!?)の牡蠣を感謝しつつ堪能しましょう。





歴史の記憶

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。さくらの花びらさんの引用された中西氏の視点は、たしかに的を射ているのかも知れません。東日本大震災での、日本人の冷静で秩序ある行動に、東南アジア、南アジアの人々は日本人はやっぱり変わってなかったという喜びをあらわした人がけっこういたようです。彼らは、いつか日本がもう一度毅然とした日本を取り戻すのを期待しているのでしょう。

阪神大震災の時も、やはり世界はその冷静さにびっくりしていました。そうした日本人の気質、それらをアメリカ占領軍は非常に恐れ、いつか日本が再び力を盛り返して復讐される事のないように、日本人の気質を改造することに力を注ぎました。その結果、かなり日本人の団結力や、愛国心を薄めたと思っていたのですが、それは平時のことでした。

今回の震災で、どれだけ多くの方が殉職されたでしょうか。自分一人が逃げれば、助かるとわかっていても、逃げずに職務を遂行された方が多かったのです。しかもギリギリまで我慢して、いよいよというときには逃げるというのでもすごいのに、その最後のギリギリでも逃げなかった人が多いのです。中には非番の警察官がわざわざ職務に出かけて亡くなっているのです。

大東亜戦争での特攻隊員も、このような人々と同じで、自分が力をつくすことで、自分の国の未来が変わると思えば、やらずにはおれなかったのでしょう。それくらい国を愛していたということだと思います。それを騙されたからとかいう人は、あまりに馬鹿にしすぎています。騙されなければ、人は命を捨てることはないというのでしょうか、そんなことはありません。また命を捨てるには国などのためには馬鹿らしいとでも言うのでしょうか。

私は昔、「天平の甍」という井上靖の書いた遣唐使を描いた小説の映画を見たことがあります。その時代、日本に仏教を持ち帰って、仏教によって人々の心を救おうと志す僧たちが、長い年月の苦労に耐えて何とか鑑真和尚を連れ帰ろうとする話ですが、その僧たちとは別に、お経を持ち帰ることで仏教を広めようと、経典を自分が大量に写経して、それに命をかけていた僧がいました。ところがその僧の乗った船は沈みそうになって、船員たちに少しでも荷物を軽くするために、その僧が長い年月をかけて写経した大量の経典を海に投げ込まれてしまいます。僧は何とか止めようとしても甲斐なく、絶望した僧は海に身を投げてしまいました。映画のなかで、この場面が一番印象に残りました。

この遣唐使の時代、日本人が少しでも自分の国を良くしようと、船旅の遭難率の多さにもかかわらず、海外の文化や教えを求めていく勇気と、その一生懸命な一筋の志にひどく感動したものです。古代の交通の不便な時代に、何かを伝え持ち帰ろうとすることの難しさ、その努力の上に、歴史が気づかれていったのだと、強烈な印象をあたえた映画でした。

この遣唐使たちも、皆自分の人生をかけて、国のために尽くした人々です。こうした先人の血のにじむような苦労の上に築かれた部分が確かにあるということを考えたら、その国をどうして愛さずにいられるでしょうか。

転載開始
 
 
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国賓として来日中のブータンのジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王(31)は17日昼、衆院本会議場で演説を行った。
国王はブータンの民族衣装で壇上に立ち、東日本大震災について 
「大混乱と悲嘆をもたらしたであろう事態に、日本国民は最悪の状況下でさえ、静かな尊厳、自信、規律、心の強さをもって対処された」と述べた。
また「日本は歴史を通じてあらゆる逆境から繰り返し立ち直った」と日本をたたえた。(産経新聞) 
 
我々はこの心強いお言葉をしっかり受け止め、これ踏まえて中西輝政氏の著書より以下引用いたします。 
・・・・・ 
 
戦後六十余年、中国や北朝鮮、ロシアといった「危ない国々」を隣人に持つにもかかわらず、日本が一度も攻め入られなかったのは、なぜでしょうか。
こういう議論になると、必ず「憲法九条のおかげだ」「いや、日米安保のおかげだ」という二元論になるのですが、実は全く別のところに、おそらくはもっと大きな理由があります。
 
戦後六十余年、日本が平和であり続けたのは、ひと言で言えば、「神風特攻隊」のおかげです。
原爆で本土に潰滅的な被害を受けた日本は戦争に負けました。通常、敗戦国は戦勝国に弱者とみなされ、見くびられ、後世にわたってつけ入られることになるのですが、日本の場合は、戦後も長い間、事情は違いました。
スターリン、毛沢東、金日成。日本を取り囲む国の独裁者たちは、おしなべて戦中世代です。
彼らにとっては、日本が原爆でひどい被害を受けたことよりも、無敵のアメリカ空母めがけて、神風特攻隊が決死の攻撃を繰り返したことの方が、鮮烈に記憶に残っています。「日本恐るべし」ということが、体感として染みついているのです。
戦後の日本は、実際にはGHQにほぼ骨抜きにされ、国家として大きく弱体化しました。しかし、彼らは、あまりにも特攻隊の記憶が強すぎて、日本の弱体化をそのままの姿として受け止められなかったのでしょう。いまはおとなしくしているが、日本はいずれ恐ろしい敵になるかもしれない、と思っていたのです。
 
たしかに日本国内では「憲法九条」を掲げて「もう戦争はしない」と宣言し、「外国が攻めてきたら白旗を揚げろ」と公言する政治家までいる。しかしその一方で、靖国神社では毎年大々的な祭りが行われ、天皇陛下や首相をはじめ、参拝する日本の指導者や政治家も少なくない。
中国、北朝鮮、ロシアからすれば、だから、まだまだ恐ろしさを秘めた国と思い、日本には慎重に対応し続けたのです。
「今は静かにしているが、こちらの出方次第では何をするかわからない。寝た子を起こすようなまねはやめよう」
こうして彼らは、警戒意識をもって戦後日本を遠巻きに眺め続けたのです。これこそが、戦後六十年余りも、日本がどの国からも攻め込まれなかった一番の要因と見るべきでしょう。
現に、毛沢東や金日成、スターリンやブレジネフも、第二次世界大戦当時の日本軍を詳しく研究しています。
 
いまの北朝鮮の軍隊は、行進の仕方、号令のかけ方など、表面はロシアの軍隊をモデルとしているように見えますが、大本は日本の軍隊です。金日成は、配下の者に「かつての日本軍のような教育をせよ」と言って、自国の軍隊を再教育させたと言います。
毛沢東も日本軍の戦意や組織を高く評価していましたが、うまくそれを利用しました。戦中は、日本軍の影を感じるやいなや、一目散に逃げまわって、蒋介石の国民政府の方へ日本軍をぶつけるように仕向けました。そうして、対立する蒋介石の力を殺ごうとしたのです。
また、戦後、毛沢東は党主席直轄に「情報調査分析局」というインテリジェンスの組織をつくり、徹底的に日本軍を研究しました。単なる研究から「いかにして日本軍のような強い軍隊をつくるか」にまで論考を進め、今日の中国軍を育てようとしました。
毛沢東が、古くはチェ・ゲバラ、最近ではアルカイダなどが熱心に読むようなゲリラ戦の古典的著作を仕上げたのも、日本軍に勝つには「これしかない」と思っていたからでした。
さらにソ連は、日本が原爆攻撃を受けてから日ソ不可侵条約を破り、満州や日本に攻め込みました。この裏切り行為が、日本が徹底的につぶされた後に行われたということ自体、スターリンがどれほど日本軍に恐れをなしていたかの表れといえるでしょう。
 
ことほどさように、これらの独裁者たちはみな、日本をひどく恐れていたのです。
アメリカが、戦後日本をせっせと経済大国に育てたのも、日本がもう一度、強い軍隊を持つことを何より恐れたからです。
ところが、各国の政治リーダーたちの世代交代が完了してしまえば、「日本恐るべし」の記憶がもたらしてくれた効力も消えることでしょう。今日、各国が日本を完全に舐め出したのは、このことも大きく関わっているのです。
しかし、「何千という飛行機がアメリカの空母めがけて突っ込んだ」という歴史的記憶が、実に六十年余りも影響したことは注目に値します。つまり、「歴史の記憶」というのは、実はその後の現実に対し、長く予想を超えた大きな影響を及ぼすことがある、ということです。
歴史はただの過去のことではないのです。
・・・
 
特攻隊というと、悲劇というでしょう。
しかし、上記の文章を呼んでいるだけでも英霊たちが戦後も日本を護っているということは、疑いのないことかもしれません。
 
「二度と子供たちを戦場に送らない」というのは日教組であり、護憲派の左翼であり、そして彼らの言い分に乗せられた人たちです。
戦争は決してすべきではありません。
しかし、一旦緩急あれば、祖国を捨てて逃げるような日本人では先人たちに申し訳がないでしょう。
 
201059日、ロシアの「対独戦勝記念日」にアメリカ軍やイギリス軍までパレードに加わり、
その上でメドベージェフ大統領は記者会見でこのように発言しました。
「第二次世界大戦でカタがついているのに、いまだに領土返還を求めるような敗戦国がいる。
戦争で出た結果は戦争でしか変わらない」。
この発言は産経新聞が少し触れた程度で、日本のマスコミ各社は一切報じず(下の動画の通りです)、そのために日本国民の多くはこの事実を知らないはずです。
この発言は「敗戦国の日本が領土を返してほしければ戦争するしかないぞ。いまの日本なんか戦争などできないし、その勇気もないだろう。今の日本などヘタレだ」と言われているように受け取れます。
これほど日本人を馬鹿にした発言はないでしょう。
 
では、日本はどうするべきか。
そのために今何をすべきか。
その答えはおのずから出てくるはずです
 
 
・・・・・・・・・・
 
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戦前の教育の一端を知る資料として、山口県郷土読本の中から項目の十七番目の乃木無人を転載いたします。この教科書は旧制中学校の教科書で、多分副読本なのかとも思いますが、詳しいことはわかりません。
凡例に
1.     本書は、主として本県青年子女に我が郷土を知らしめ、且つ郷土を愛護する念を養い、防長(周防、長門)精神を啓培し、進んで将来への発展にまで寄与せんとする意志の陶冶をなさんがために編纂したものである。
2.     本書編纂に就いては中等学校下級学年及び青年学校高等小学校生徒の課外読物として、又修身・国語・国史・地理等の参考書として格好のものたらしめようとつとめた。
3.     本県は歴史的地理的その他各方面に豊富な材料を有するので、その題材の選択には一段の考慮を払い、特に本県の特色を物語、青年子女をして感奮興起せしむるに足るもの三十二篇を採択した。

以下略 
             
山口県教育会


と書かれていますので、これが全国の県で同じようなものがあったのか、山口県独自のものであるのかは判断しかねますが、修身に加えて、郷土愛と郷土への誇りを高める努力もされていたのだということがわかります。
 
十七 乃木無人

                 父 希次、母 壽子、無人、弟 真人、妹 いね子


 遥々と遠い江戸から一月近くも辛い旅を続けて、夢にのみ描いていた故郷の長府に着いたのは、安政五年、無人が十歳の時のことであった。
 憧れの故郷、懐かしの故郷。山も海も美しく、人の情も醇かったが、一家の貧しさは、江戸にいた時よりも一層ひどくなっていた。父希次は名高い清廉の士で、百五十国の小禄であった上に、突然帰藩を命ぜられ、更に減俸までされたので、故郷へ帰ったといっても、まず住む家さえも無い有様であった。
 小串屋という暗い旅宿の一室で親子五人は疲れた旅後の十幾日かを過ごした後、中町裏の河村氏方へ移って、半年あまりの寂しい月日を送った。さらにそれから田中の菅野氏方へ越していったのだが、ここで無人が十三の年まで、一家は血の出るような貧苦の中に暮らした。まだ幼い無人は、どんな破れ家でも、せめて借家で無い自分の家があったらと、時には悲しく思うこともあったけれども、しかし父が日頃の訓のように、
「家屋敷は無くとも、武士の魂は持っているのだ。」
と、いつも心に繰り返しながら、家計の助けに塩煎餅や砧巻を作る母の仕事を、骨身惜しまず手伝った。
 未明から夜更けまで、母は子を、子は母を、互いに労り励ましながら、孜々(しし=熱心に)として働いた。町へ行った母の帰りが遅い時など泣く妹のいね子を背負って、土間の隅で夕食の支度をすることも度々あった。その孝心深い従順な無人の姿に、隣家の人々が感嘆と同情の涙に咽んだこともあったという。
 後年の崇高な人格は、こうした困窮の中に、自ら養われていったのである。
 無人は又その忙しい苦しい中で、臺柄(だいがら)にかかりながら、ほの明るい黎明の光で論語や太平記に読み耽ることがしばしばあった。そして常に楠公父子のことを考えたり、江戸を発つ時、泉岳寺にお別れの参詣をして来た四十七士のことを思ったりした。
 父もまた早朝登城の前には必ず無人を膝下に呼びよせて、厳かに教えた。
「食う米は無くとも、着る物は無くとも、武士にとって恥ではない『悪衣悪食を恥じ居安きを求むるは、則ち志士に非ず』と素行先生も教えておられる。命よりも大事なもの、知っているはずじゃ、いうて見い。」
 「はい、『忠義』で御座ります。士は大君の御為、主君の御為、いつ如何なる時でも身命を投げ捨てる覚悟が、大切なので御座ります。」
 それは毎朝必ず繰返される言葉であった。しかもその度燃えるような感激が、親から子へ、子から親へと伝わった。こうして貧しくこそあれ、父は君を尊び、母は夫に順い、兄妹互いに睦び合った一家の心の世界には、いつも高潔な光が澄み渡っていた。
 十四歳の頃になって、漸く江木氏の邸を買いとることが出来た。長府の町に、軍神乃木大将の少年時代を物語っている尊い記念の旧邸址がそれである。勿論買うといっても余分の金があるわけではなく、やはり母と無人とが人知れぬ苦労の結果であった。由緒深い忌宮の傍、一歩出れば海上遥かに満珠干珠の島を望む所に、初めて自分の家を持った少年無人の心は、どんなにか嬉しかったろう。


イメージ 1

 文久三年十五歳の夏になって、無人は当時藩内にあった集童場の前身桜柳亭に入学した。あたかも我が二州は危急存亡の秋で、下関が外国船の砲火を浴びた頃である。従って集童場では、総督熊野則之・教授福田正則の志士達によって、厳格熱烈な教育が行なわれた。生徒達の心にも忠君の念が火のように燃えた。従順な無人の胸にも愛国の血が高鳴った。一死君恩に報ぜんと、少年武士たちは堅く手を握り合って文武の道に励んだ。
 無人は成績が優れていたので、いつも総代として朝夕集童場の規則「遺命状」を朗読した。
「当場御開きの節より、我等両人に都督教授の任仰付けられ、御国内後家来中末々に至る迄就業仕り候儀は、まず楠公の神霊を表し候て、尊王攘夷の本意を受け継ぎ、忠孝の大義を守り、武士道の心得肝要の事」
 これが第一条である。無人の声は高く澄んで響いた。
 それから一年余りたったある日、
「御父上様、勉強のために私を萩へやって下さいませ。」
と願い出た。
 かねてから、松陰先生の師であり、また乃木家とも親戚である玉木文之進先生の高風を慕って、どうかその教えを受けたいと思っていたのである。武士たるものが、学問のみで身を立てようとしてはならぬと、容易に許されそうもなかったが、幾度かの熱心な願はやがて父を動かした。
 「錦を着て帰れ。何処にても武士の名を汚すな。」
 「必ず立派な士になってまいります。」
 そうして、玉木先生の許を尋ねて、松陰先生の遺風薫る憧憬の萩へ旅立った。
 慶応元年無人が十七の秋であった。

                     乃木希典
  皇師百萬征強虜  野戦攻城屍作山  
  愧我何顔看父老  凱歌今日幾人還
 
皇師(こうし)百萬(ひゃくまん) (きょう)

野戦(やせん)(こうじょう)屍(しかばね)山を作(な)す

()(われ)何(なん)の(かんばせ)ありてか父(ろう)()ん、

凱歌(がいか)今日(こんにち )幾人(いくにん)か還( か)える




転載元転載元: 日本の感性をよみがえらせよう


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