歴史

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
歴史学者の村井節(みさお)氏は、人類文明が東西の二つの文明に分かれて、800年ごとに高調期、低調期の波を交代させながら、繰り返していることを史実によって立証した人です。先日ある冊子を読んで、初めて知りましたが、この村山氏の論を中心に近代のことが書いてあった文章を要約して紹介しつつ書いてみました。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/44/857334d3219c6307ed8b43eceaa7f548.png村山節代表作『文明の研究―歴史の法則と未来予測』は絶版

東の文明とはアジア地域の文明で、メソポタミア文明地域以東、日本までの諸文明であり、西の文明とは、エジプト、エーゲ海域以西のもので、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパ、北米に至る文明であるそうです。

すなわち紀元前3600年〜2800年の原始エジプト文明(西)、紀元前2800年〜2000年の古代メソポタミア文明(東)、紀元前2000年〜1200年のエジプト及びエーゲ海文明(西)、紀元前1200年〜400年の古代アジア文明(東)、紀元前400年〜紀元400年のギリシャ文明・ローマ帝国文明(西)、400年〜1200年アジア極東文明(東)、1200年〜2000年のヨーロッパ文明(西)という東西の交代がありました。その転換に要する期間はそれぞれ百年でその転換期には大きな事件や民族の大移動や戦争動乱があり、混乱の時代です。

東西文明の相違は、西が自然との対決、自然を支配する物質文明であり、物事を分割し分析して支配する科学を得意とする文明であり、対決と競争、利潤優先、物質優先の価値観です。東は、自然との共生、親和の精神文明であり、融合、調和、道義、の優先、物事の統一的全体的把握を得意とする価値観の文明です。

そしてこの文明法則に従えば、2000年を転換期として、ヨーロッパ文明から、新アジア文明に移行することになるはずです。

1200年から2000年において、ヨーロッパではルネサンスがはじまり、羅針盤の発明から、大航海時代が始まります。コロンブスのアメリカ大陸の発見、バスコ・ダ・ガマのインド航路発見という地理的発見をきっかけにした中世の暗黒時代からの脱却であり、、それはまた、西洋の植民地主義の始まりでもあります。
アジアはどんどんヨーロッパの植民地になっていきます。スペインのフィリピン征服1570年、列国による東インド会社設立(イギリス1600年、オランダ1602年、フランス1604年)、英によるシンガポール領有1819年、インド併合1858年、ビルマ併合1886年、仏印の成立が1886年です。

アフリカは、ベルリン列国会議(1885年)でバターを切り分けるように分割され、1914年における大陸の独立国はエチオピア、リビアの二国のみとなりました。

アジア、アフリカが欧米列強に呑み込まれようとし、植民地化の矛先が中国や朝鮮に向けられていた時期に、日本は日清、日露の二大戦争を戦って独立を保持し、中国、朝鮮の植民地化を防ぎました。特に日露戦争は、民族国家独立への夢をアジアやアフリカに与えました。

インド独立の戦士で元首相のネールは、自伝で、「日本の勝利は私の熱狂を沸き立たせ、インドをヨーロッパへの隷属から、アジアをヨーロッパへの隷属から救い出すことに思いを馳せた」と回想しています。英国の文豪H・G・ウェルズの言うように、「アジアは、絶望的にヨーロッパに立ち遅れて、どうしても取り返しがつかないという考え方を、日本は完全にふっとばし、帝政ロシアとの戦争でアジア史に一大エポックを創り、ヨーロッパの尊大と思い上がりに終止符を打った」(『世界文化史概観』)のでした。

ネールだけではありません。トルコ独立の父、ケマル・パシャ、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノ、マレーシアのマハティールなど優れた指導者たちも、独立の夢を等しく抱いたのです。この夢を実現させるために立ち上がらせる衝撃を与え、民族国家を建国させたのが、大東亜戦争でした。

イギリスの東南アジアの拠点シンガポールが日本軍によって陥落した報に接したド・ゴールは、「アジアの白人帝国、西洋植民地体制が終焉した」と日記に書き記しました。数百年にわたる西の東に対する植民地支配は、日本軍の一撃によって崩壊したのです。同じアジア人である日本人によって白人が駆逐されたことは、アジアの人々にとって驚きであると共に、自らに大いなる自信と希望をもたらすものでした。

大東亜戦争が終わった直後、東南アジアへは、イギリス、アメリカ、フランス、そしてオランダと、植民地の宗主国が舞い戻ってきましたが、かつて支配に従順だった有色民族は、独自の兵力を持ち、もはや宗主国の支配には甘んじませんでした。一斉に民族独立の戦いに立ち上がり、1946年にインドネシア、フィリピンが独立、1947年にインド連邦、パキスタンと独立が続きました。明治維新以来の日本のアジア非植民地化の精神は、戦後これらアジア諸民族に継承され、やがてその民族主義はアフリカへも広がって行きました。

タイの元首相ククリット・プラモートは、「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供たちはすくすく育っている。今日、東南アジアの諸国民が米国と対等に話ができるのは誰のおかげか。それは、身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである」と語っています。

そしてイギリスの歴史家アーノルド・トインビーは、「第二次大戦によって、日本人は、日本人のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想である大東亜共栄圏に含まれていた国々である」と記しています。

日本は、第一次大戦のパリ講和会議で国際連盟規約第二十一条に人種差別撤廃を提案したが受け入れられませんでした。しかし、大東亜戦争、第二次大戦後、1948年の国連総会で「世界人権宣言」が採択され、日本が永年努力してきた人種差別撤廃が実現したのです。

2000年から始まる新アジア文明の時代に、日本の役割は何であるか、多くの世界の国々が日本に期待しているのではないでしょうか。日本人の中にも、左右を問わず、世界を指導する原理は日本の中から生まれると述べる人も出てきています。日本は極東にありますが、それはまた西の端に近いとも言えます。東と西の文明を結び合わせることのできる和の原理を有する国でもあります。
日本人は、まず自分たち日本の精神文化を、自らの中にあるものを、掘り起こすことが必要です。その日本独自の精神文化によって世界に貢献する事ができるのだと思います。
 
イメージ 1
米百俵の群像


「米百俵の精神」とは、平成13年5月7日、小泉元首相の所信表明演説で有名になった言葉である。それは次のような一節です。

明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて明日を良くしようという「米百俵の精神」こそ、今日の我々に必要ではないでしょうか。

小泉元首相の実際の業績は別にして、この「米百俵の精神」は多くの国民の心に響きました。
小泉元首相の所信表明演説から今年で十一年、国家観なき政党の甘言に載せられ、子ども手当などのバラマキ政策を、国家予算の半分近くを国債、すなわち子孫への借金のつけ回しで賄おうとする現在の我が国は、「痛みを明日に回して今日を良くしよう」という姿勢に陥っています。
「米百俵の精神」こそ、日本人が日本人たる精神ではないでしょうか?

「米百俵」の事績を残したのは、明治初年、戊申(ぼしん)戦争で旧幕府側として新政府軍と戦って敗れた河井 継之助が率いた長岡藩で、大参事として敗戦後の再建を任された小林虎三郎翁でした。
長岡藩は禄高を7万4千石(実録は10万石)から2万4千石へと大幅に減封させられ、士族の中には食事も粥(かゆ)ばかりで、それにも事欠く武家もあったのです。
刀を売る者や、辻斬り強盗に走る者、娘を売る者など、敗戦国の惨状を極めました。
小林虎三郎翁は、幕末に江戸遊学をし、佐久間象山に学び、吉田松陰とともに、「象門の二虎」といわれたほどの逸材でした。象山は「天下国家の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである」と言いました。象山にそう言わしめるほど、教育者として優れた人物が、小林虎三郎翁でした。

明治3年春、長岡藩の支藩である三根山藩から、本藩の窮状をみかねて百俵あまりの米を送ってきた。小林虎三郎翁は、計画していた国漢学校の創設にこの米を充てたのでした。困窮していた藩士たちはこの米が分配されるものと期待していたはずで、それを押し切っての決断でした。小林虎三郎翁の必死の訴えを聞いた藩士たちも、一時の空腹を満たすことよりも、明日の人づくりを選びました。そして、学校教育に必要な書籍・器具の購入にあてるため、米百俵は売却され、その代金が青少年教育に充てられました。6月には、国漢学校の新校舎が完成し、ついで洋学校・医学校も建てられました。敗戦国の長岡で、全国に先駆けた画期的な教育が行われるようになりました。国漢学校には、二つの特徴がありました。第一は、士族ばかりでなく、町人や農民の子弟も入学が許され、そのため、最初からかなり多くの志願者が出ました。これは平民教育にも力を入れていくべきだ、という虎三郎翁の考え方でした。

第二に従来の藩校では漢学のみを教えていたのに、ここでは国学・国史も教えられました。これが国漢学校の名前の由来で、国史と言っても、それまでは漢文による大日本史や日本外史しかなかったので、虎三郎翁は自ら『小学国史』全12巻を編集し、さらに世界地理や国際事情、哲学、物理学、博物学なども教育科目に取り入れた。今後の日本が必要とする教養と知識を持った国民を育てようという考えでした。

国漢学校では、虎三郎翁の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、人材を育てる教育が行われました。その成果が実り、後年、長岡からは国家を担う多くの人物が輩出しました。国漢学校創設時の生徒だった渡辺廉吉はオーストリアに渡って法律、政治学を学び、伊藤博文のもとで帝国憲法の制定に参画、日本で最初の医学博士・小金井良精はドイツで解剖学と組織学を学び、帰国後は東京帝国大学医学部教授として、日本人として初めて解剖学の講義を行った。

そのほか、改進党で活躍し、福井県知事となった波多野伝三郎、検察官として活躍し、後に法務大臣となった小原直(なおし)、東京帝国大学総長となった小野塚喜平次、洋画家の小山正太郎、明治期の日本最大の出版社である博文館を創業した大橋佐平、連合艦隊司令長官・山本五十六など、各分野で実に多くの人物が育っている。
明治新政府軍との戦いに敗れ、3度の粥にもことかく状態に追い込まれた長岡藩から、かくも多くの人材が育って、近代日本の発展に貢献したことは、虎三郎翁の「食えないから、学校を立てる」という考えが正しかったことを証明しているのです。

この事績は、昭和十八年に山本有三氏が戯曲『米百俵』を発表して、世に広く知られることになりました。
山本有三氏は、その時のやりとりを次のように描いています。


三左衞門 聞くところによれば、このたびご分家、三根山藩のご家中から、当藩の藩一同に見まいとして送ってきた米を、おまえ様はわれわれに配分せぬ意向とあるが、それは果たして、まことのことでござるか。

専八郎  しかも、その米の売り払い代金をもって、学校を立てるご所存とうけたまわった。たしかにさような事、従五位様(藩主、牧野忠毅のこと)に申し上げるつもりか。しかとした返答をお聞きしたい。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

これに対して、虎三郎は意外な返答をする。

__________
貴公たちは、食えないといって騒いでおるではないか。みんなが食えないというから、おれは学校を立てようと思うのだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「食えないから学校を立てる、とは理が通らない」と三左衞門が反論すると、虎三郎は百俵の米なぞ藩の8500人に配ってしまえば、1日か2日で食いつぶしてしまう、として、こう諭した。

__________
なあに、はじめからこなかったものと思えば、なんでもないではないか。----もとより、食うことは大事なことだ。食わなければ、人間、生きてはいけない。けれども、自分の食う事ばかり考えていたのでは、長岡はいつになっても立ちなおらない。貴公らが本当に食えるようにはならないのだ。

だからおれば、この百俵の米をもとにして、学校を立てたいのだ。学校を立てて、子どもをしたてあげてゆきたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかり知れないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日暮らしでは、長岡は立ち上がれない。あたらしい日本は生まれないぞ。




小林虎三郎翁は、ドイツの学校制度を論じた『徳国学校論略』の序文で、自らの教育思想を明らかにしている。

ここでは、まずドイツ(プロシヤ)の学制に注目した理由として、ドイツが東にオーストリア、南にフランスを破り、強国のイギリスやロシアもドイツを恐れているとし、その力の根源は、ドイツがさかんに学校をおこし、教育を重視したからだとしています。

ドイツと対照的に弱いのが、アジアの老大国たる中国で、人口では4億と世界の三分の一を占めるのに、アヘン戦争に敗れて、欧米列強に領土を侵蝕されており、中国も欧米も、民族こそ違え、人間としては同じである。それが、国家の強弱において天と地ほどの差ができてしまったのは人民に対する教育・啓蒙の差である、と虎三郎翁は説かれました。

虎三郎翁の教育とは、科学技術だけではなく、学校創設の10年ほど前に著した『興学私議』(学問を興すことに関する私の議論)では、「学問には『道』と『芸』が必要である」と述べている。人としての生き方を考える『道』と、科学技術や実務を学ぶ『芸』とが両輪となって、国民一人ひとりが、強く正しい生を送り、そのような国民が、強く正しい国家を作るのであると・・・

小林虎三郎は、明治10年8月24日に亡くなります。虎三郎翁の遺志を引き継ぐ形で、長岡には女子教育・社会教育が勃興しました。人間の教育では幼児教育がもっとも大切であり、そのためには母親となる女性の教育の向上をはかり、社会全体が学ぶという理念を忘れてはならないというものでした。
小林虎三郎翁が説き、実践したのは、教育によって人材を育て、そのことによって国を興すことでした。教育は「国家百年の大計」といわれますが、まさにその事業に半生を捧げたのが、虎三郎翁でした。
幕末に欧米列強が押し寄せてくる危機の中で、わが国は急速な近代化を成し遂げて独立を守ることができました。それは江戸時代に寺子屋や藩校を通じて、世界でも群を抜く教育水準を達成していたからです。さらに近代化政策の筆頭として明治5年8月に「学制」を公布し、施行わずか2年間で、全国津々浦々に2万4千校以上の小学校を作り上げたました。虎三郎翁の「米百俵の精神」は、当時の日本全体が共有していたものでもありました。

大東亜戦争敗戦後も、わが国は奇跡的な復興と高度成長を実現、これもわが国のすぐれた戦前の教育制度に原動力があったからです。

現世の日本は、経済の停滞、高齢化と人口減少、政治の漂流など、教育現場の荒廃、第3の国難とも言うべき時期にあるが、これらの危機は外から来たものではなく、政治にしろ経済にしろ、十分な人材が育っていない事からきた内発的なものでなのです。日教組の左翼偏向教育と文科省のゆとり教育によって、学校はあれども「人づくり」はおろそかにされてきた、というのが、危機の真因であると筆者は思うのです。

「食えないから学校をつくれ」という虎三郎翁の言を裏返せば、現在の日本の状況は「人を作らないから、食えなくなった」と言えます。今こそ「米百俵の精神」を思い起こすべき時です。
政治や経済をどう改革しようと、そしてそれが改善につながったとしてもたかだか生活が豊かになるくらいで、魂を失った日本の再生は不可能です。いまできることは、時間はかかるが立派な教育を子供たちにほどこし、立派な日本人をつくり、彼らに再生を託すことだけである。
教育とは、政治や経済の諸事情から超越すべきものです。人々がボロをまとい、ひもじい思いをしようと、子供たちだけには素晴らしい教育を与える、というのが現世に生きる我々の勤めです。
「痛みを明日に回して今日を良くしよう」ではありません。

それが先人の恩に報い、子孫の幸福を図る道でもあるのです。






転載元転載元: 美しい国

伊勢神宮の由来2

新田均皇學館大學教授の論文の続きです。


伊勢神宮ご鎮座の由来
 
ここから話は初代神武天皇から第十代崇神天皇に移ります。この間ずっと三種の神器は天皇陛下のおそばにありました。第十代の崇神天皇の時に、『日本書紀』にはこう記録されています。

崇神天皇陵

「神の勢いを畏(おそ)りて、共に住みたまふに安からず」。神の威力を恐れられて自分のおそばに八咫鏡を置いてお祭りしていることを恐れ多いと思われた、というのです。

この崇神天皇の時代には『日本書紀』によりますと、流行病、今でいう感染症がはやったり、それにより反乱が起きる、人民が離散するなど治安の乱れがあって、これをご心配になった崇神天皇はもっと丁寧に天照大御神をお祭りする必要があるのではないか、と考えられ、ご自分の皇女であられる豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に八咫鏡をお渡しになって、皇居を出て大和の笠縫邑(かさぬいのむら)というところで専門に豊鍬入姫命によって鏡を祭るようにされました。

それでは皇居の中で一切お祭りがなくなってしまったかというとそうではありません。『古語拾遺』という書物を見ますと、この時に別の鏡が作られて、宮中ではその鏡をお祭りし続けられました。それが今の宮中三殿の中心になっている賢所の起源になります。八咫鏡本体は外に出られたのですが、それは、より一層お祭りを厳重にするためだったということです。

天皇のお名前には後になってその天皇のご業績を考えて奉られたお名前が多いのです。神武天皇は神のような武力を行使された。崇神天皇は神を崇められた天皇ということで付けられました。ですから崇神天皇のご業績といえば、それまで宮中でお祭りされていた八咫鏡を、もっと丁寧にお祭りするために外に出された、ということです。

その次は第十一代の垂仁天皇です。仁を垂れた天皇、愛情深い天皇と言えます。この御世の時に今度は豊鍬入姫命ではなく、ご自分の皇女の倭姫命に、もっと鏡をお祭りするのに相応しい場所を探させます。

お父上のご命令により倭姫命は、天照大御神を祭るに相応しい場所を求めて、今でいう奈良県そして琵琶湖の東岸滋賀県、そして岐阜まで行かれて、、今度は三重県に降りてこられて、ようやく五十鈴川のほとりに来たときに、天照大御神が、ここで祀られたいとおっしゃられたので、神宮が立てられることになったといわれています。西暦にすると大体三世紀末、三〇〇年少し前のことではないかと古代史家は推定しています。

ここで天照大御神を祀る皇大神宮がまずできます。それから十代下って第二十一代の天皇、雄略天皇の夢枕に天照大御神が御出現になって、一人で祀られているのはさびしいとおっしゃって、自分に食事をささげて下さる神様を招いてほしいと言われます。そして丹波の地域から天照大御神に食事をささげる神様として豊受大御神が招かれました。それが西暦五世紀後半、四七八年くらいではないかといわれています。

ここまでが御鎮座の由来ですが、日本神話の一つの特徴は、キリスト教の神話に比べてよくいわれることですが、国土も国民も神々から生まれたとなっていることです。キリスト教の神話は、人間は神によって作られたことになっています。これはある意味決定的な違いです。作ったものと作られたものの間には大きな溝がありますが、生んだものと生まれたものとの間にはそれほど大きな違いはありません。親から子供が生まれますが、子供はやがて親になります。神々と人間との関係は日本人においては親子のような関係で、そこには絶対的な違いはありません。ですから立派な人が神様として祀られることもあるのです。

もう一つは、国土も、その国土を治めるべく使命を与えられた君主つまり天皇も、その君主に治められるべき国民も、すべて神々の子孫ということになりますので、神々の子孫という点では、国土も君主も国民も違いはないのです。違いは、天上界の中心である天照大御神の子孫であるか、その他の神々の子孫であるか、、あるいはこの地上で生まれた神々の子孫であるか、の違いに過ぎません。ここが日本神話の大きな特徴であるといわれています。
 
 
 
イメージ 2
              秩父宮殿下による「八紘一宇」の文字 (宮崎市 平和台公園)
 
 
ユダヤ人の長老であるモルデカイ・モーゼが書いた『日本人に謝りたい』より抜粋して、厚かましくも「日本人よ、覚醒せよ!」と題して数回書いてきました。
今回は神武天皇の御即位の日であります211日の「紀元節」を前にして、「八紘一宇(はっこういちう)」の項を掲載させて頂きます。
 
その前に、この「八紘一宇」という言葉をご存知でしょうか。
昭和329月、衆議院文教委員会で松永文部大臣は「戦前は八紘一宇といって、日本さえよければよい、よその国はどうなってもよい、よその国はつぶれた方がよいというくらいな考え方から出発していた」と発言しました。
また、昭和581月の衆議院本会議で中曽根総理は「戦争前は八紘一宇ということで、日本は日本独自の地位を占めようという独善性を持ち、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と発言しました。
これぞ戦後日本を覆い尽くす間違った考えなのです。この八紘一宇という言葉と大東亜戦争という言葉は昭和201215日のGHQの「神道指令」により日本人が使うことを禁止されました。以来この言葉は左翼によって「戦前の天皇軍国主義が侵略戦争によって世界統一の為に利用したもの」に変わってしまい、戦前の悪の異物のようにされてしまいました。 しかし、事実は全く違うのです。
この「八紘一宇」とは日本書紀にある神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)に即位されたときに、「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと」と言われたのに由来したものであり、八紘とは四方八方のことで、一宇とは一つの家のことです。 天の下にあって人類はみな一つの家にいる家族の如くという意味で、日本の精神を象徴する和の精神であります。 では以下、モーゼ氏の著書より掲載致します。・・・
 
イメージ 1戦前の日本には、八紘一宇という大精神があった。これは神道のこれまた類い稀な偉大な思想に基づくものである。西洋の宗教の如き排他性をもたない、傑出した思想であるといえよう。この点を証拠づけるものは、西洋列強の東洋侵略と日本の満州国建設のコントラストであろう。
西洋列強の東洋諸国支配は搾取、収奪、奴隷化に他ならなかった。
英国がインド支配のため最初に打った手は、既存の教育関係を絶滅し、諸民族を相争わせ、言語の複雑化を計ることであった。オランダのインドネシア支配も同様であった。そこには何ら建設的なものはなく、ただ自己のための搾取があるのみであった。
しかるに、日本の満州国建設大事業はこれとは対照的であった。五族協和を唱い諸民族平等の関係を育て、その投資は建設的なものであった。当時欧米でも識者は、人口3000万の満州国は十年後には人口1億を有する大近代工業国家として極東の一角にその勇姿を現わすであろうと、称賛と期待をもって見守っていたものであった。他のアジア諸国で、欧米列強によって近代的工業国家に育てあげられた国が一国でもあっただろうか。満州の近代化の成果は、現代に至るも中国の工業の心臓部である点をみても分かることである。これを可能にしたのは、八紘一宇の大思想のしからしむるものである。
・・・ 
 
最後に、モルデカイ・モーゼ著『日本人に謝りたい』についてのブログ記事を書かれた、今は亡き敬天愛人大兄の記事を抜粋して、この記事の終わりと致します。
・・・。
30年前に出版されているこの書籍が、果たして当時どれだけの人の眼に触れることができたのかも知る由はありません。
ただ、確実に言えるのは保守派にとっても強力な武器となりうるこういう貴重な資料を自在に駆使して、マスコミや左派勢力に敢然と挑むパワーや戦略が保守派には欠如していたということは、今の日本の現状を考えるに否定できない事実でもあろうと思います。
「人間獣化計画」の19項目に見事に骨の髄まで汚染された戦後世代の日本人には無力だったのではないかとも思います。
斯く言う私もその日本人の一人でありました。しかし、ネットを通じて多くの若い世代にたくさんのことを教えていただきながら、自虐史観という洗脳を解くことができたことを思うと、何かのきっかけ(起爆剤)さえ掴めればまだまだ日本人も捨てたものではないとも考えます。
保守派が反日勢力や特亜などの外国勢力に押されがちなのは、偏に「日本歴史の真の構築を放棄して来た日本人自身の問題」に帰結しているのだと、最近まで自虐史観に染まってのうのうと生きて来た我が身も含めて反省させられた書物でありました。
 
・・・・・・・
 
*人気ブログランキング(歴史部門)に参加しています。
      ここをポチッとご協力お願い申し上げます。
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

イメージ 2
 
歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
・・・・・ 
マッカーサーとは何者か
        〜「詭動の達人」は詭弁家でもあった
イメージ 1
高知大学名誉教授 福地惇
 
イメージ 3マッカーサーは、米国陸軍士官学校を彼の前後に適う者とてなき最高得点での首席で卒業し、元帥まで上り詰めた出世頭、紛うかたなき優秀な職業軍人であった。『孫子』の「計篇」はこう言う。
「兵とは詭道なり。故に能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれを近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し、卑にしてこれを驕らせ、佚にしてこれを労し、親にしてこれを離つ。其の無備を攻め、その不意に出ず。此れ兵家の勢にして先には伝うべからざるなり」
 
「詭道」とは、敵の意表を突く行動、つまり謀略・詐術・惑乱戦術を駆使して優勢を占め、敵を打ち負かす道理のことである。兵学の用語だが、もちろん政治にも完全に適用できるのである。
マッカーサーはさすがに軍人、「詭道の達人」であったと私は感銘する。だが、日本的な武士の情けを知る武士ではない。ましてや人徳豊かな大政治家とは言い難い。完全武装解除されて抵抗力を剥奪された敗戦国に対して、一介の武弁に過ぎないのに善人・大政治家ぶってワンサイド・ゲームであること明瞭な第二の戦争=占領国管理統治を楽しんだ、としか私には思えない。
彼は敗戦国の小間使い的政治家を巧みに使嗾した。時には聖人・英雄風を吹かせて恩を着せ、宥(なだ)め賺(すか)し、時には威圧をかけて脅迫して己の目的をのませ、見事に敗戦国を自分好みに改造した。
そればかりか、敗北国民に敗北者根性を尊崇させる目的を持つ思想戦争を「詭道」を以て強力・巧妙に遂行した。天皇陛下の下、恩忍自重して神妙にして従順だった日本政府はじめ国民は見事に「詭道の人」の餌食となったと言ってよい。時の政府がGHQに対応する唯一の国家機関であった以上、占領期間中の我が国の政府首脳部の政治責任は、敗戦責任に劣らず重かったというべきだろう。
 
イメージ 5かかる「詭道」の最高司令官に対抗できる大政治家はいなかった。たとえいたとしても「詭道の人」はその団結を許さなかった。分断して上手に統治した。砲弾以外の“武器”はいくらでもある。公職追放、言論統制、思想改造、教育改造、労働運動の扇動、共産主義者のスパイ的活用等々。
丸腰の敗戦国政府を操縦し、「戦争に懲り懲りの」日本国民を誑(たぶら)かすのは赤子の手をひねるようなものであったろう。日本人は「十二歳の少年」である。その集大成ともいえるのが、国家の基本法である憲法を日本人製と詭弁して下賜したことである。
吉田茂は「負けっぷりをよくする」などと腑抜けた戯言を吐いたが、潔さというものは日本の古武士には通じても米国の軍人には日本人の脆弱性としか映らない。1951(昭和26)年4月、トルーマンに解任されて離日する際、マッカーサーは「日本国民は、勝者に媚びる国民である」という侮蔑の言葉を吐いている。
 
イメージ 4私はこの「詭道の達人」は、己の日本占領政策が国際法に違反することを自覚していたと推測せざるを得ない。『回想記』は、まさに彼が日本人をいかに欺き、愚弄したかを、いみじくも自ら暴露している真に貴重な記録である。マッカーサーは、事実を曲げた甚だ矛盾した発言を平気でなし、自分の功績を誇大に喧伝するアリバイ証明的言辞を多発している。
以下にいくつか引いてみよう。
「日本政府が降伏条項を受諾した後、その実行に当たるのは私の仕事になった」と、ポツダム宣言と降伏文書の条項を執行するのが任務だと自覚している。だが頭隠して尻隠さずで、「私たちはポツダム宣言の諸原則によって、日本国民を奴隷状態から解放することを約束している。私の目的は、武装兵力を解体し、その他の戦争能力を消滅させるのみ必要な手段を取ると同時に、この約束を実行することである」と強弁するが、ポツダム宣言は「吾らは日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ず。(中略)日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし」と謳っているのであって、マッカーサーはこの条項を逆さ読みして占領政治に都合よく活用したのである。
さらに、「改革は日本人自身によってはじめられねばならない。東京在任中、この考えは常に私と幕僚たちの指針となった」と記してもいるが、「占領の課題」なる章には、「私は日本国民に対して事実上無制限の権力を持っていた。歴史上、如何なる植民地総督も、征服者も、総司令官も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことはなかった。私の権力は至上のものであった」と言い放ち、「占領目的」なる章の冒頭に、「私は五年以上もの期間、日本改革の仕事に取り組むことになった。私の考えていた改革案は、結局全部実現した」と誇負している。
しかも改革推進の法的根拠は、米国統合参謀本部が彼に訓令した「最高司令官の権限に関する通達」だという。国務省や統合参謀本部の通達は、本国政府が現地司令官に示した政策方針でありその心得である。それは、我が国の与り知るところではない。マッカーサーは内達を法的根拠として『無条件降伏』した敗戦国を自らの思うように改造して何が悪いのかと言っているのである。しかし、連合国と我が国が取り交わした約束は、ポツダム宣言と降伏文書以外にないのであって、ポツダム宣言は「有条件」の国際協定である。
 
イメージ 6
 
・・・・・・・ 
*人気ブログランキング(歴史部門)に参加しています。
      ここをポチッとご協力お願い申し上げます。
 

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」


.
kakinoki
kakinoki
女性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事