「竹島の日」記念行事、竹島・北方領土返還要求運動大会の参加者を募集します。 平成24年2月22日(水)に、第7回「竹島の日」記念行事、竹島・北方領土返還要求運動大会を開催します。募集の内容については、こちら(参加者募集案内)をご覧ください。(H24.1.20更新)
1.開催日時等
(1)日 時 平成24年2月22日(水) 午後1時30分から4時10分まで
(2)場 所 松江市殿町158 島根県民会館中ホール
(3)主 催 島根県、島根県議会、竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議
(4)募集人数 80人
2.内容
(1)記念式典 (13:30〜14:30)
(2)「竹島問題を語る」 (14:40〜16:10)
テーマ 「竹島問題、過去から現在、そして未来へ」
登壇者 下條正男氏(拓殖大学国際学部教授、島根県竹島問題研究会座長)、ジャーナリストなど(調整中)
竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議啓発活動(1)県民大会などの啓発事業を実施しています。
(2)啓発資料「竹島 かえれ島と海」の作成
(3)研修会・パネル展の開催 最近の主な動き
■第7回「竹島の日」記念 竹島資料室「特別展示」の開催平成24年2月22日、第7回目の「竹島の日」を迎えます。その日を記念して、竹島資料室「特別展示」を開催します。
是非、ご覧いただきますようご案内します。
テーマ : 「李承晩ラインと竹島」 戦後、韓国に拿捕された日本漁船は326隻、抑留された日本人は3,904人にも上ります。その大半は李承晩ライン宣言以後のことであり、被拿捕漁船乗組員やその家族、漁業関係者に大きな苦痛を与えました。また、この問題は日韓会談(国交正常化交渉)をはじめとする日韓関係にも大きな影響をもたらしました。そして、漁業問題を深刻化させ、また竹島問題を表面化させた李承晩ラインに焦点をあてた企画です。
期間 : 平成24年1月18日(水) − 2月29日(水)
これまで2月1日から28日の間、開催していましたが、今回は1月18日が竹島問題の発端となった李承晩ライン宣言から60周年を迎えることから、開始時期を前倒ししています。
(開室時間) 午前9時 − 午後5時 (休室日) 土・日曜日、祝日
李承晩ライン(りしょうばんライン、이승만 라인/李承晩 라인)は、1952年(昭和27年)1月18日、大韓民国(韓国)大統領・李承晩の不法な海洋主権宣言に基づき、韓国政府が一方的に設定した軍事境界線。韓国では「平和線(평화선)」と宣言され誤った認識を韓国人に与ええている。
概要
海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で行うことを禁止したものである。これに違反したとされた漁船は韓国側による臨検・拿捕・接収の対象となり、乗組員が銃撃され殺害される事件が起こった(第一大邦丸事件など)。
日米両国は「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議した。日韓漁業協定の成立(1965年)によりラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。抑留者は6畳ほどの部屋に30人も押し込まれるなどの劣悪な抑留生活を強いられ、抑留期間も数年間におよんだ。
李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を放免し、在留特別許可を与えた。一方、韓国政府は日本人抑留者の返還には同意したが、日本政府が摘発した韓国人密入国者の強制送還は拒絶し、日本国内に解放するよう要求した。
背景 韓国は第二次世界大戦の講和条約であるサンフランシスコ平和条約に戦勝国として参加することを希望していたが、連合国が大韓民国臨時政府を承認した事実がなく、イギリスやアメリカによって拒否された。また、対馬、波浪島、竹島を自国領土であると主張していたが、対馬が日本領であり、波浪島は実在しなかった。
韓国は日本が平和条約で放棄した領土に波浪島・竹島を追加すること及びマッカーサー・ラインの継続を要望したが、アメリカは1951年8月10日に「ラスク書簡」にて、韓国の要求を拒否した。「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約は調印され、翌1952年4月28日に条約が発効される手筈となっていた。
この時代に背景のもと、李承晩は1952年1月18日に、突如として李承晩ラインの宣言を行い、多くの日本人漁民を拿捕し殺傷した。
韓国の主張とアメリカの抗議 韓国は1952年1月27日に李承晩宣言韓国政府声明を発表し李承晩ラインを国際法において確立されたものとした。その主要な主張は以下のとおりである。
しかし、李承晩ラインがトルーマン宣言と性格が異なることはアメリカによる南米諸国の宣言への抗議でも明らかであり、ラスク書簡によりマッカーサーラインの継続はアメリカから拒否されている。韓国政府は60海里に及ぶ漁業独占権を接続水域として整理しているが、当時のアメリカ、イギリスが主張する接続水域は12海里(22km)であり、フランスは20kmであった。また、接続水域とは、関税や検疫のために限定された管轄権を行使できる水域を示しており、漁業独占のための水域ではなかった。
1954年に作成された米国機密文書・ヴァン・フリート特命報告書によれば、アメリカ政府は竹島問題をサンフランシスコ平和条約により日本領として残したこと、李承晩ラインの一方的な宣言が違法であることを韓国政府に伝達している。 竹島問題パンフレット・冊子 プリントアウトしてご活用下さい。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima06/index.data/takeshima_img75.jpg概要版パンフレット[Web版:2008年9月改訂]
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima06/index.data/takeshima_img73.jpg竹島問題啓発冊子[PDF版:2006年2月22日発行]
Web版はこちら↓
外務省作成竹島啓発パンフレット「竹島 竹島問題を理解するための10のポイント)
画像をクリックすると、パンフレットの内容(PDF版)がご覧いただけます。(外務省ホームページにリンクします。) 外務省ホームページの「竹島」ページはこちら
事実と異なる内容があれば、
訂正しますので、
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歴史
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明治大帝 御尊影 これは原本の控えです。文頭の「一」が五箇条にもかかわらず6個もあり、6個目は訂正の筆が入っています。 近代日本は、明治維新より始まりました。 明治維新において、政治の御一新に当たって、明治大帝が大方針を打ち出しあそばされたのが、五箇条の御誓文です。御誓文は、その言葉のとおり、天皇が天神地祇(てんしんちぎ)に誓いを立てあそばされ、それを国民に発表されたものです。 一、広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一、上下(しょうか)心を一にして、盛んに経綸を行ふべし。
一、官武一途(いっと)庶民に至るまで、各々其の志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめむことを要す。
一、旧来の陋習を破り、天地の公道に基くべし。
一、 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」 大意は、次の通りです。
一、広く人材を集めて会議体を設け、重要政務はすべて衆議公論によって決定せよ。
一、身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国策を遂行せよ。
一、朝臣武家の区別なく、さらには庶民のすべてにわたって、各自の志を達成できるようにはからい、人々を失意の状態に追いやらぬことが肝要である。
一、これまでのような、かたくなな習慣を打破して、普遍性のある道理に基いて進め。
一、知識を世界に求めて、天皇の大業を大いに振興せよ
戦前世代の方々は殆ど暗誦(あんしょう)されていました。
日本人として見逃してはならないのは、これに続く明治大帝の叡慮(えいりょ(天皇陛下の思い))です。
「我国未曾有の変革を為(なさ)んとし、朕躬(み)を以て衆に先じ、天地神明に誓ひ、大(おおい)に斯(この)国是を定め、万民保全の道を立(たて)んとす。衆亦此(この)旨趣(ししゅ)に基き協心努力せよ」
すなわち、「わが国に前例のない変革を行おうとするにあたり、私は自ら国民の先頭に立って、天地の神々に誓い、重大な決意をもって国政の基本条項を定め、国民生活を安定させる大道を確立しようと思う。国民もまたこの趣旨に基いて心を合わせて努力せよ」
ここには、明治大帝が自ら先頭に立って国民とともに新しい国づくりをしていこうという決意が、打ち出されています。こうした決意のもとに、明治大帝は神に向かって五つの誓いを立てあそばされ、それを国民に明らかにしたのです。率先垂範、有言実行の精神が、溢れています。
これは単なる官僚による作文ではありません。明治大帝が自らの叡慮を国民に伝えようとしたものでした。そのことを裏付けるものが、五箇条の御誓文が発表された、明治元年(1868)3月14日に出された御宸翰(ごしんかん)です。宸翰とは天皇直筆の文書のことを言います。
明治大帝は直筆で次のような意味のことを記されています。
「今回の御一新にあたり、国民の中で一人でもその所を得ない者がいれば、それはすべて私の責任である。今日からは自らが身を挺し、心志を苦しめ,困難の真っ先に立ち、歴代の天皇の事績を踏まえて治績に勤める。そうしてこそ、はじめて天職を奉じて億兆の君である地位にそむかないものとなる。自分はそのように行う」と記されています。
すべての国民が「所を得る」ような状態をめざし、全責任を担う。明治大帝の決意は、崇高であり、偉大です。
また、御宸翰の文章の先の方には、次のように記されています。
「朕いたづらに九重のうちに安居し…百年の憂ひを忘るるときは、つひに各国の陵侮(あなどり)を受け、上は烈聖を恥しめ奉り、下は億兆を苦しめんことを恐る」と。
すなわち、「天皇である自分が宮殿で安逸に過ごし、…国家百年の憂いを忘れるならば、わが国は外国の侮りを受け、歴代天皇の事績を汚し、国民を困苦に陥らせることになってしまう」。
明治大帝は、こうした事態に至らぬよう、国家の元首として、最高指導者として、自らを律し、国家の独立と発展、国民生活の安寧を実現するために尽力あそばされました。
五箇条の御誓文と、同日に出された御宸翰には、明治大帝の真摯誠実な精神が現れています。ここに、私たちは「公」の体現者としての天皇陛下の姿を見ることができます。
そして、肇國以来、国民を「おおみたから」と呼んで、大切にしてきたわが国の皇室の伝統が、ここに生きています。
明治大帝は、和歌を好まれ、優れた歌を多く残されました。
生涯に詠んだ御製(ぎょせい)の数は9万3千余首。
いくつかをご紹介させていただきます。
あしはらの 国とまさむと 思ふにも 青人草ぞ たからなりける
(大意:日本の国を富ませたいと思うにつけても、第一に貴い宝はわが国民である)
この歌は、臣民を「おおみたから」つまり宝と呼んで、大事に思う皇室の伝統です。
照につけ くもるにつけて おもふかな わが民草の うえはいかにと (大意:照れにつけ、曇るにつけて思うのは、わが国民の生活はどうであろうかということである)
臣民一人ひとりの身の上をわがことのように思う、思いやりと慈しみの心が表されています。それが「仁」であり、仁慈とも仁愛です。
夏の夜も ねざめがちにぞ あかしける世のためおもふ こと多くして
(大意:短い夏の夜も、国のため世のため思ひめぐらすことが多く、
安らかに寝通すことが出来ず、夜を明かしてしまうよ)
明治大帝は常に臣民のことを思い、国家社会のことが頭を離れませんでした。
世の中の 人のつかさと なる人の 身の行ひよ ただしからなむ 大意:世の中の人の上に立つ人は、身の行いが殊に正しく
ありたいものだ)
明治大帝は臣民に期待を寄せあそばされるる一方、指導的立場にある者に対しては、厳しく自覚を求められました。
国のため あだなす仇は くだくとも いつくしむべき 事なわすれそ (大意:我が国のために敵は打ち砕くとも、敵に対しても慈愛をたれる
ことを忘れてはならないぞ)
乃木大将が水師営の会見で敵将に見せた礼節は明治大帝の大御心でもあるのです。
明治大帝の偉業の一つに、「教育勅語」によって、教育の目標と道徳の基本を示したことが挙げられます。明治大帝はまた、和歌の内に人の道を詠み、臣民に人としてのあり方を諭(さと)されました。
荒廃してしまった平成日本、「心の教育」が求められるなか、その御製(ぎょせい)は今日に歌い継がれる価値あるものです。
あさみどり すみわたりたる 大空の ひろきをおのが 心ともがな
(大意:浅緑色に澄みわたった大空のように、広々とした心を自分の心
としたいものだ)
(大意:目に見えぬ神に向って恥じないのは、人の誠の心であるよ)
久かたの 空に晴れたる 富士の根の 高きを人の こころともがな
(大意:晴れた大空にそびえる富士山の高根のように、気高い心を自分の心としたいものだ)
人は親に育てられ、やがて自らの人生を歩みます。
誰にとっても両親は、人生について教えてくれた最高の恩人です。明治大帝は親について次のように詠まれています。
たらちねの みおやのをしへ 新玉の年ふるままに 身にぞしみける
(大意:年々、新しい年を重ねるにしたがって、身に染みわたるのは、
自分を育ててくれた親の有り難い教えである)
そして臣民一人、一人の努力も詠まれています。
つもりては 払ふがかたく なりぬべしちりばかりなる こととおもへど (大意:心の汚れというものは、僅かなる塵ほどのことと思っても、
そのままにしておくと積もり積もって、払うことができなくなって
しまう。だから、自分の心を常に清めなければならない)
思ふこと おもふがままに なれりとも身をつつしまん ことを忘るな (大意:なんでも自分の思うようになるようになったとしても、人はわが身を慎むことを忘れてはならないぞ)
詠まれた御製は、明治大帝自らも実践あそばされました。
明治大帝の御心は、大正天皇陛下、昭和天皇陛下、今上天皇陛下へと継承されています。
その下に、国民が教育に、自己啓発に努めたのが、近代日本の初め、明治という時代でした。その伝統は、昭和・平成と進むにつれ、見失しなわれてきています。「心の教育」が求められる今日、明治天皇の御製に込められた教訓、明治の教えに学び、取戻すべきです。
明治日本が輝いていたのは、英明なる明治大帝の下(もと)神への誓い、民への思いを臣民が明治大帝の大御心の下に結集し、実践したことによります。
これがお国柄なのです。
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神武天皇畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみささぎ)
古来より、わが国の美称として、「豊葦原瑞穂国」と言ってきましたが、正式には、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」(とよあしはらの ちあきのながいほあきの みずほのくに)と言い、千年も五百年も悠久に続く、 稲穂の実る美(うま)し国という意味でもあります。
建国以来、我国は皇尊(すめらみこと・天皇陛下)による慈愛と和の国でした。
紀元前660年2月11日(皇紀元年)初代神武天皇が畝傍山の東南、現在の橿原神宮に都を開かれるにあたり、詔を発せられた。この「即位建都の詔」に、以来連綿として継承される日本国の理念と天皇の御心を伺う事ができます。
即位建都の詔
「夫(それ)大人(ひじり)の制(のり)を立て、義(ことわり)必ず時に従う。苟(いや)しくも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば何んぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)わん。且た当(まさ)に山林を披(ひ)き払い宮室(おおみさ)を経営(おさめつく)りて恭みて宝位(たかみくら)にのぞみ、以って元元(おおみたから)を慎むべし。」 「大人(ひじり)の制(のり)を立て」とは、正に天照大神から連綿とつづく「神の子」の自覚と、謙遜の徳を表わし、「苟(いや)しくも民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば」とは、国民の利益になることが大前提とお考えであり、「民の為の政治」の原則を謳う詔です。
天皇政治下の民主政治であり、神武天皇の御心は歴代の天皇に受け継がれ、
第16代 仁徳天皇
「高き屋にのぼりて見れば煙り立つ 天のかまどは賑わいにけり」 まず、国民がちゃんと食べるものがあるかどうか、ご飯の用意をするかまどの煙にも御心を使われ、そのかまどから立ち昇る煙を見られ読詠まれた御製です。 第56代 清和天皇 「災いは偶然に起きるものではない。みな朕の不徳の致すところからである」 肥後の国熊本地方で起きた洪水に際して、天災さえもご自身の不徳から国民を苦しめたのだと、心より反省なさっている大御心です。 第59代 宇多天皇 「天をうらまず、人をとがめず、神を責めず、朕が不徳の致すところである。」 「国を富ますはただひとつ、体を臣民にあわせるのみである。」 やはり、当時に起きた洪水や疫病の蔓延にお心を痛められての玉音です。 自分の考えを国民に押し付けるのではなく、あくまでも国民の立場になって心を合わせなければならないと話されている記録があります。 第122代 明治天皇 「罪あらば吾をとがめよ天津神 民はわが身の生みし子なれば」 大逆を侵そうとして捕らえられた、社会主義者たちのことを詠まれた、明治天皇の御製。 自分を害しようとするものでさえ、自分の子であると庇う心をお持ちなのが、天皇陛下という存在なのだと、臣民は知るべきです。
聖徳太子は7世紀に、十七条憲法を制定しました。これは、日本で初めての成文憲法であり、また世界最古の憲法とも言われます。
太子の憲法には、神話に伝えられ、大和朝廷に形作られた日本のお国柄と、それに基く日本の「公と私」のあり方が、よく表されています。 十七条憲法は、天皇陛下の統治を中心としつつ豪族が政治権力に参加する政治制度を説いています。その理念が「和」です。憲法は、第一条の「和を以て貴しとなし……」という言葉で始まり、以下の条文では私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を行うことを説いています。
憲法第15条に「私に背きて公に向かふは、是れ臣の道なり」(第15条)とあります。これはシナの「公と私」をよく表す『韓非子』の「ム(わたくし)に背くを公と為す」によく似ていまが、意味は、正反対です。
シナが支配と搾取の国であるのに対し、わが国は「君民一体」の国柄だからです。
第12条には、「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以って主とす」とあります。すなわち、国の中心は一つである、中心は二つもない。天皇陛下が国民統合の中心であるということです。
太子は、さまざまな氏族が土地と人民を私有していたのを改め、国土も人民もすべて天皇に帰属するという理念を打ち出したのです。そして、国民は、天皇陛下を主と仰ぎ、一方、天皇は「民」を「おおみたから」つまり大御宝としています。
第3条には「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」とあります。太子は、豪族・官僚たちが天皇陛下の言葉に従うように、記してあり、上記の十五条に、「私を背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣が道なり」とあります。すなわち、私利私欲を超えて、公共のために奉仕することが、官僚の道であると説いて再確認されておられます。
現在の為政者、官僚に欠けている精神の最もおおきな課題です。
先帝陛下、香淳皇后陛下 先帝陛下におかれましては、昭和52年8月の記者会見で、昭和21年1月1日・「年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)」について叡慮を賜っています。 ●「日本の民主主義は戦後の輸入品ではない」(昭和52年8月の記者会見) 畏くも先帝陛下は終戦から國民を励まされると同時に、遠い未来を見据えておられあそばされておられたのです。
日本人が誇りを失わないようにと・・・
昭和20年8月15日 宮城前(皇居) 一億総国民が涙した、『大東亜戦争終結ノ詔書』、玉音放送。 先帝陛下におかれましては、詔書の最後を次のように結ばれています。 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ(訳) 余はここに、国家国体を護り維持しえて、忠実にして善良なる汝ら臣民の真実とまごころを信頼し、常に汝ら臣民とともにある。もし、事態にさからって激情のおもむくまま事件を頻発させ、あるいは同胞同志で排斥しあい、互いに情勢を悪化させ、そのために天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、余のもっとも戒めるところである。 そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。汝ら臣民、以上のことを余が意志として体せよ。』
この詔勅にこめられた陛下の日本国民への期待と激励と痛恨の想いを、いったいどれだけの臣民が、戦後、おぼえているでありましょうか。
親のこころ子知らずと申しますが、まさに、戦後日本の臣民は親不孝者であります。
「挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつ)くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運におくれざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ』とあるが、この大御心は戦後、今日まで臣民は無視されてきたことがわかります。
確かに『総力を将来の建設に傾け』『世界の進運におくれざらんことを期す』という所だけは経済大國となった今日をみれば必死になってやってきた。
ところが、だれも『神州の不滅』など忘れ、『道義』も軽んじられ続けた。『志操』も捨て、『國体の精華』という言葉すら、殆どの国民が知らず、精神性を捨て去ってきました。
物質的な建設と、世界の流行に遅れるまいとする姿だけ肥大し、我欲にまみれ、精神にかわることを、捨ててしまいました。
『神州日本の不滅』『道義』『志操』『國体』という意識を、とりもどさないと、この先、國は亡国するかもしれません。
まっとうな民族意識と国家意識を、復活させることは可能なはずです。それが『国体の精華を発揚』するということです。
民族意識こそ、國家にとって民族にとって、最大最強の武器です。だから、戦後、連合国は、まず最初に日本の「民族意識」を失くさせようとしたのです。 神道指令、教育勅語廃止、で君臣の固い紐帯を、占領憲法によって軍隊を奪い、お国柄を無力化し、一旦緩急[いったんかんきゅう]あれば義勇公に奉ずる世界に類をみない精神力を発揮する「やまと魂」を封じ込めたのです。 彼らがもっとも恐れたのは、我国の軍事力は勿論、それを支えつづけた日本人の民族意識・臥薪嘗胆に代表される精神力だったことが、お解りいただけるでしょう。
日本人の精神力を骨なしにし、アメリカに魂を売らせることが、最大の武装解除を意味しました。
今度は中国、韓国、北朝鮮にも魂を奪われつつあります。
だからこそ、失いつつある日本の魂を取り戻さなければならない。
それこそ先帝陛下の大御心に報いることではないでしょうか?
私はこの記事を書きながら先帝陛下ががどんな想いで起草あそばされ、読まれたか、想像するだけで目頭が熱くなり、涙がとまりませんでした。
今一度、日本國臣民は、終戦の詔(みことのり)、「年頭、国運振興の詔書(新日本建設に関する詔書)」を深く胸に刻み、噛みしめて欲しいと願うのであります。
私たちは日本人です。 日本人は日本人の原点に回帰すべきです。 「誇り高き日本」へ・・・・・陛下の大御心の下(もと)へ・・・
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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
マッカーサーの日本史認識
高知大学名誉教授 福地惇
勝ち誇って乗り込んで来た占領軍の最高司令官マッカーサー元帥の人となりの一端から述べたい。
彼の日本歴史や文化を見る眼差しは、欧米人の誤解に満ちた通俗的な理解の中でもかなりレベルの低い部類に属すると言わざるを得ない。
マッカーサーは最高司令官を罷免された後に回想記を世に問うたが、それは日本版と米国版とでは内容に相当の懸隔があるいわく付きのものである。戦後間もなく『マッカーサー回想記』(津島一夫訳)と題して朝日新聞社が刊行したが、中公ビブリオ文庫として復刻された。
余談だが、チャーチルの定評高い『第二次大戦回顧録』のひそみに倣ったのであろうか、大仰に『マッカーサー大戦回顧録』(上下二巻)と表題が改められていた。原題名は“Reminiscences”だから、直訳すれば「回想記」である。
マッカーサーはこう書きとめている。
「私たちは九十二年前の同胞ペリー提督に似た姿で東京に立っている。ペリー提督の目的は、日本に英知と進歩の時代をもたらし、世界の友情と貿易と通商に向かって孤立のベールを引き上げることであった。しかし、恐ろしいことに、それによって西欧の科学から得た知識は、弾圧と人間奴隷化の道具に利用され、迷信と武力に訴えることによって言論の自由、行動の自由、さらには思想の自由までが否定された」。現今の事態になぞらえれば、マッカーサーは明治政府の指導者を、まるでサダム・フセインの如く見ていたようである。
「(日本の)実態は西欧諸国がすでに四世紀も前に脱ぎ捨てた封建社会に近いものであった。(中略)神人融合の政治形態は西欧社会では三千年の進歩の間にすっかり信用されなくなったものだが、日本ではそれが存在していた。(中略)神人一体の天皇は絶対君主であって、(中略)アメリカ人の目から見れば、日本は近代国家というよりは古代スパルタに近い存在であった」
「国民の中のほんの一部にしか過ぎない封建的な指導者たちが支配の座に座り、他の何千万という国民は進んだ意識を持つ者のわずかな例外を除いて伝統と伝説と神話と統制の完全な奴隷となった」
あえて注釈を加える必要もないと私には思えるが、恐らくマッカーサーにとっては、日本の歴史に対する正確な知識はどうでもよいことだったのだろう。何となれば、米国の日本占領目的は、日本が発展性豊かな独立主権国家として再起することを極力抑えつけることにあったからだ。もちろん、最高司令官の占領統治目的もそこにあり、目的追求に役立つ道具(宗教・歴史観・政治観でも南京大虐殺や真珠湾奇襲攻撃や捕虜虐待でも経済政策でも何でも)ならば、それをトコトン活用するまでのことだったと言えよう。
歴史の事実は全くといってよいほど軽視し、日本の支配者は本来的に侵略主義の天皇制軍国主義者であったとか、大東亜戦争は世界の平和を撹乱する邪悪な侵略戦争だったとか、日本を悪者に仕上げて貶める説明であればそれでよかったのである。それゆえというべきか、マッカーサーの日本の歴史に対する認識は、日本共産主義者集団=講座派(戦前、『日本資本主義発達史講座』を岩波書店から刊行してこの名が付いた)の日本歴史説明とそっくりなのである。
戦後、日本人の精神を「敗北主義イデオロギー」に染め上げるためにマッカーサーが駆使した主力部隊(講座派)は、1920〜30年代に国際共産主義運動の司令塔(コミンテルン)が指令してきた革命運動方針(二七テーゼや三二テーゼなど)を鵜呑みしてきたコミンテルン日本支部要員(日本共産党)である。
コミンテルン・テーゼを要約すれば、天皇制は半封建的絶対主義で人民を奴隷的に搾取・抑圧するブルジョア革命以前の時代遅れの支配体制であるから、人民大衆は起ちあがって時代遅れの天皇制を打倒せよ、自らを解放せよ、というものだった。まさに日本共産党の檄文である。それを金科玉条と崇め奉った日本のマルクス主義者たちは、祖国の麗しき歴史伝統を侮蔑し、否定して天皇制打倒を鼓吹した。
大敗北を喫して精神的にも物質的にも打ちのめされ、厭戦気分に浸りきった日本国民の愛国心をここぞとばかりに壊滅させる作戦として、祖国を呪う共産主義者を格好の工作要員として、“活用”したマッカーサーは、軍人であると同時に、まさに“詭道の達人”であったと言わねばなるまい。
占領政治は陰で共産主義者を利したと私は見ている。占領軍の支援(資金援助等も含め)なしに、講座派があれほどの勢力を保って学界、言論界に跳梁跋扈し得たかどうか興味は尽きない。アメリカ自由主義の旗手を自認するマッカーサーは、日本の共産主義者を占領政治に駆使することで、<思想改造戦争>に目覚ましい戦果を挙げたのである。我々はこれを、重大な負の遺産として受け止めねばならない。
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福地先生のこの論文のご指摘は戦後日本の立て直しのために知っておくべき事実であります。
特に太字で示したマッカーサーの歴史観は、戦後の日本に大きな影響を与えるものだと思えます。
階級闘争史観とは簡単に言えば、日本の戦争は“支配階級”であった「天皇制軍国主義者」が起こしたものであり、“被支配階級”である大多数の「日本国民」には責任がない、という善悪二元論です。
この時教わったのは、徳川封建制度の圧政であり、日本の大陸侵略と国内暗黒反動組織を最初につくり上げた西郷隆盛と山県有朋という悪人に対する憎しみを教わり、大正・昭和の日本の封建主義の圧政であったのです。
日本の歴史を全く知らないGHQの面々に対しノーマンは「日本には封建制度が重
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さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
アメリカ占領軍により、「大東亜戦争」という言葉が禁止され、「太平洋戦争」という呼称で呼ぶように命じられて、そのアメリカの歴史観のみを正しいとして、戦後は日本人はその歴史観で生きてきました。それがどんなに異常であるかさえ気づかないほど、しっかり教育されてきたということです。 アメリカはアメリカ大陸に移住した時から、西進の歴史が始まります。セオドア・ルーズベルト、フランクリン・ルーズベルト、両大統領の信奉する戦略家のマハンは、次のように言っています。以下、国際派日本人養成講座より引用です。
「大海軍の建造がまずアメリカにとって重要だ、二番目には世界各地に植民地を獲得する必要がある。三番 目には、そのために海軍が世界各地に軍事基地を設けなければならない。それを踏まえてアメリカは世界貿易に雄飛すべきであり、その対象はとりわけて中国市 場に目を向けなければならない。」
1897年、日清戦争のわずか二年後に、アメリカは日本を仮想敵として、対日戦略プログラム「オレンジ計画」を策定した。この計画は、以後、定期的に改訂を重ね、50年後に実行に移された。1911年には、次のように書かれている。
1911年は大正元年、この時にすでに満洲に関する日米の確執を予言し、中国市場を独占するために、日本を封じ込めて暴発させ、「息の根をとめる」までのシナリオが正確に描かれている。真珠湾攻撃のちょうど30年前である。
日本が降伏した日に、ニューヨーク・タイムスは「太平洋の覇権を我が手に」と題して、次のような記事を載せた。
「我々は初めてペルリ以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ」 これがアメリカの戦争の本来の動機です。これを日本の侵略を制止するための正義の戦いという風に捏造して、この捏造史観を東京裁判を始めとするウォーギルトインフォメーションプログラムによって、日本人に植えつけたのです。
歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
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なぜ「大東亜戦争」と呼称すべきなのか
高知大学名誉教授 福地惇
連合国軍総司令部は昭和20年12月15日、日本政府に対し、国家神道の禁止と政教分離の徹底を支持する覚書を出すが(神道指令)、その中で「大東亜戦争」という言葉の使用を禁じた。
「大東亜戦争」の呼称は昭和16年12月12日の閣議で、「今次対英米戦を支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と決定したことによる。いわば日本にとって戦争の大義を示した言葉である。
米国がそれを否定し、「太平洋戦争」と呼称することを命じたのは、あの戦争が文明と人道に対し野蛮な挑戦をした日本を懲らしめ、平和と民主主義を願う文明・正義の戦争だったというアメリカにとって都合のよい認識を日本国民に刷りこもうと意図したからである。
そ もそも戦争とは当時国双方が互いに妥協不能の政治的、軍事的、経済的な対立に立ち至った時に発生する。だから当然、双方に言い分も理屈も正義もある。 ど ちらも根本には国威、国益を擁護・拡大したいという国家の本能が盤踞するが、一方が邪悪で不義、他方は善で正義だということはあり得ない。
大東亜戦争の真実は、我が国側からすれば、国家の大義と国益を死守するための「防衛戦争」であった。「開戦の詔書」はそれを表明している。だからこそ私は「大東亜戦争」と呼ぶ。
日本は連合国を向こうに回して勇猛果敢に戦った。 ルーズベルトは日本の「無条件降伏」を望んだが、日本圧服を目前にした1945年4月 に病没。後任大統領トルーマンは、本土決戦で予想される双方の甚大な人的・物的被害や大戦後の国際政治を勘考する現実主義の国務長官代理グルーや陸軍長官 スチムソン、英国首相チャーチルら堅実な政治家との合意の上で、日本に国家存続の最低条件を突き付けて降伏させる形での終戦をめざした。「ポツダム宣言」 がそれである。
我 が国政府はポツダム宣言が「國體」が護持されると確認した上で降伏し、同宣言の条件による連合国軍の軍事占領管理に国家の命運を委ねた。占領支配に直面し た我が国にとって必要だったのは、ポツダム宣言の誓約を超えた占領政策には巧妙に抵抗し、面従腹背しながら政策の内実を空洞化するなど「講和後を見据えた 我慢強い被占領側の政治」であったろう。それが出来なかったことは、それまで対外戦争の大敗北を経験したことのなかった我が国の弱点だった。
この弱点ゆえに、占領政治推進のためにねつ造された太平洋戦争史観を鵜呑みしてしまい、「無条件降伏」したのだからという諦念のもとに専制権力たる占領軍政府に迎合した日本政府は、国家体制変造に抵抗できなかったばかりか、「敗北主義」の蔓延を阻止しなかった。
小泉首相の解放感謝(2003年 に訪米した小泉首相はブッシュ大統領との会談で、日本の占領統治について日本を解放してくれて有難うと感謝した)の談話は何を意味しているか。 民族の弱 点に付け込んで醸成された「敗戦国体制」と、それを支える「敗北主義」的な意識、この占領政治の呪縛が半世紀以上経ってもなお日本を重く拘束し続ける魔物 であることに、我々は改めて思い起こさねばなるまい。
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戦前、日本では「太平洋戦争」「日中戦争」などという言葉はなく、「大東亜戦争」「支那事変」でありました。 確かに一時占領中はそういう呼び方を強制されていたのでやむを得ませんが、それを戦後六十数余年、今でも正しいと思い込んで使い続けているところに日本人の魂が抜かれた姿があるのです。
東京裁判、そして日本国憲法の「自由」「平等」という矛盾を「民主主義」という虚構ですっかり騙されている日本人は、その狡猾な意図さえも考えることを拒絶してしまって、現在の安楽に浸ってしまっているのです。
戦後から現在も売られている歴史の本の多くは「太平洋戦争」という言葉で書かれています。
これはアメリカ側の立場に立って書かれた本だということを知らない日本人が多いのです。連合国が”正義”で日本は”悪”、これこそ日本にとっては自虐史観であります。
そして学校でも、新聞も、テレビも、当然のように「太平洋戦争」という言葉を使っています。
これらすべてがアメリカの立場からの植え付けられた歴史観なのです。アメリカの立場の歴史観が正しいと思いこんでいる日本人の姿は世界的にみても異常でありましょう。
そのことを教えない教育の在り方も占領中のまま何も変わっていないということであります。
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