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国際派日本人養成講座からの記事です。

日本国憲法がわずかに日本の国柄をあらわしている部分があるとすれば、第一条の天皇は日本国民統合の象徴という部分でしょう。この記事にもある通り、これはアメリカ製の憲法の中で唯一的を突いた言葉ではあります。しかし、だからといって、象徴という地位に押し込める必要はありません。歴史上常に天皇は国民統合の象徴であられましたが、現在の憲法下よりも、明治憲法下における方が一層、象徴であられる度合いは強かったと言えます。


今の憲法は、天皇を象徴という地位に押し込めたことで、むしろ象徴としての働きを封じたとさえ言えるかも知れません。

それでも、天皇陛下は、常に誠を尽くされ、精一杯の仁慈を国民に、世界に及ぼされました。
 
 現代の日本人で国際社会から最も尊敬を受けているのは今上陛下であろう。陛下は国際派日本人の最高のモデルである。

    ■1.スペイン駐日大使より:パイプオルガンの修復■


平成二年、今上陛下の御即位に際して、世界各国の駐日大使が祝辞を寄せたが、その中で、スペインのアントニオ・オヤサバル大使のメッセージは、儀礼的な挨拶もなく、いきなり次のようなエピソードで始まっている。いかにもこれだけは言っておきたいという感じだ。以下はその全文である。[1,p45]

1985年、さる高名な伝統的パイプオルガンの製作・修復技術者の妻である白川町(註・岐阜県加茂郡)の辻紀子さんが、現在の天皇・皇后両陛下、当時は皇太子殿下ご夫妻に、スぺインのサラマンカの大聖堂のメインオルガンの修復をお願い申し上げました。そのオルガンはこれ以上放置すればもはや修理不可能なほど老朽化していました。両陛下は即座にこれに応えられて、前スペイン大使林屋氏に在スぺイン日系企業の間で基金を募り、また修復作業の許可をスぺインの当局から得るように依頼されました。

辻夫妻の二年にわたる懸命な修復作業の結果、パイプオルガンは全盛期の姿に復元され、それを記念して、去る3月25日、岐阜県知事梶原拓氏やサラマンカのすべての地域や教会の著名人列席のもと、林佑子氏とモンストスクラット・トレンジさんらによる荘重なコンサートが開かれました。それはこのスペインの美しい中世風の街を背景として、スぺイン―日本間の友好を象徴する荘厳な行事でした。

人も国家も自分の身のまわりのことにしか関心を持たない昨今の風潮のなかで、両陛下が遥か異国の芸術作品の救済に乗り出されたことは、まことに稀有な行ないであると思われます。両陛下はこうした文化財を、国境を超えた人類共通の遺産であると考えられていらっしゃるのでしょう。


    ■2.インド駐日大使より:インド人の福祉事業家■

また、インドのA.G.アスラニ駐日大使は祝辞の中で、次のようなエピソードを紹介されている。

昨年、78歳になる引退したインド人の魚類学者が私の所に手紙を寄こしました。私にはまったく面識がありませんでしたが、彼はアメリカから帰国する途中、東京で数日を過ごす予定だが、その際に天皇陛下に拝謁を賜るだろうとのことでした。彼は小児マヒのために車椅子や松葉杖を手離せない生活をしていました。この比較的無名の老人が果たして本当に拝謁を賜ることができるのかどうか私には確信が持てませんでした。

彼が拝謁を終えて私の所に来た時は、まさにうれしい驚きでした。彼の学問的業績と福祉事業に陛下は興味を示されたというのです。 この老人は現在インドで小児マヒの人々のための養護院を経営していますが、この時に陛下の特別のおはからいで、何人かの日本の身体障害者の訓練をする機会を得られたそうです。



    ■3.善意のうずを生み出す仁慈■

読者諸兄は、この二つのエピソードが共通した構造を持っていることに気がつかれたであろうか。

      1)オルガン修復や、福祉事業を志す人々を見つけられる。
      2)その善意に力添えするよう関係者に依頼される。
      3)依頼された側は、善意で協力をする。

こうして一つの善意が、陛下のご助力で、他の人の善意を引き起こす。まさに善意の「うずまき」が生じているのである。

善意を発揮して、世のため人の為になるするのが、人間の最高の自己実現であるとすれば、その善意を引き出す陛下の行いは、最高の仁慈であると言える。

    ■4.日本のチャオ・ファー・チャイ(皇太子)が持ってきてくれた「仁魚」■

今上陛下は皇太子時代、昭和39年に訪問されたタイで、山奥の苗(ビョウ)族のタンパク質不足の問題をタイ国王からお聞きになり、魚類学者としてのご研究から、飼育の容易なティラピアという魚50尾を国王に贈られた。

この魚はタイ国内でさかんに養殖され、国民の栄養状態改善に貢献するばかりでなく、1973年にはバングラデシュへの食料支援として50万尾も贈られたという。

陛下の仁慈は、タイの人々を助けたばかりでなく、さらにタイ国民がバングラデシュ国民を助けるという善意を生み出したと言える。

ある日本人は、魚市場でタイ人から、「この魚は、日本のチャオ・ファー・チャイ(皇太子)が持ってきてくれたんだ」と聞かされたそうである。

この魚の漢字名は「仁魚」という。華僑系市民がこの話に感動して、陛下のお名前(明仁)をとって命名した由である。[2]


    ■5.皇室の伝統的精神■

「仁」は、今上陛下だけではない。昭和天皇(裕仁)、大正天皇嘉仁)、明治天皇(睦仁)と続く。仁慈の御心(これを古くは「大御心」と呼んだ)で国民の安寧を祈られるのは、皇室の伝統的な精神であった。

だからこそ、中世以降、権力も武力も持たない皇室が、多くの国民の努力によって支えられてきたのである。(この点については、本誌でおいおい紹介していこう)

冒頭のスペインとインドのエピソードを見ると、グローバル化の時代にふさわしく、皇室の仁慈は今や国境を越えて、世界の人々にも及んでいる。

このような皇室を現行憲法は、その第一条に「国民統合の象徴」として掲げている。憲法の原文を書いた米国占領軍スタッフは気がつかなかったであろうが、そこには我が国の歴史伝統が生み出した気高い理想が潜んでいるのではないか。それを明らかにするのは、これからの国際派日本人の課題である。


    [参考]
    1. 「『平成の』の理想を世界に HEISE, or Peace and Accord,
         for the World、 駐日各国大使のメッセージ」、
      天皇陛下御即位奉祝委員会編、平成2年
    2. 「皇太子殿下の仁魚」、祖国と青年、平成4年1月号

欺瞞の日本

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。福地惇先生の論文の続きです。

戦後の占領政策の日本弱体化政策は、ほんとに過酷なものでした。東京裁判ではほとんど無実といっていいような人が、いい加減な証言などで、処刑されています。中には立派な人もいて、ほんとに惜しい人も無くなったといいます。外地での死刑も、聞いた話では、中国人はあったこともないのに、適当に日本人を指さして証言して罪人に仕立てて処刑したとか、ほとんど裁判といえるものではないような状態で、多くの無実の人が処刑されました。


日本復興を支えるべき人が、このようにして殺され、更に、残った人も占領軍によって、公職追放され、多くの国を支えていた人々が職を失いました。これは公務員だけでなく、民間の会社や団体でも、公に関する業務をやっているところは全て行われたそうです。これは多くの優秀な人々から職を取り上げて、生活にも困窮する人も出る程でした。


この公職追放は、日本の国力を削ぎ、さらに、その空いた席に、反日的思想を持つ共産主義者や、占領軍に媚びて売国的に日本を貶めるようになった人々が埋めて行くというとんでもない政策でした。

これにより、教育界、出版会、マスコミ、公務員、国の重要な機関がほとんど、左翼勢力に牛耳られることになり、その支配が更に戦後教育で育った後輩の左翼にと受け継がれ、今に至っており、公職追放が解かれた後もなかなか、取り返せずにいます。



 
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                          ( 守るべきは憲法9条ではなく我が祖国日本です)
 
 
歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
・・・・
 
欺瞞の美辞麗句「平和と民主主義」と欺瞞の貶め言葉「邪悪な侵略戦争」
 
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                                                                               高知大学名誉教授 福地惇
 
 
あの戦争の大敗北で我が国は亡国の淵に立たされたのである。ところが、巧妙な敵国の占領支配は、狂暴な大陸侵略戦争をした日本軍国主義者が悪であり、軍国主義者を育てた日本の古い歴史が悪である。
日本国民は権力者らに騙されて無謀な戦争に駆り出された犠牲者である。それゆえに、新日本国民は「恒久の平和を念願し、・・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し、われわれの安全と生存を保持しよう」(占領憲法前文)と旧敵国に誓わされた。
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」とは、欺瞞的で壮大な虚構のお笑い草だが、そう信じなければ国際社会に復帰できないかのように脅されたのである。つまり、占領憲法(軍事占領下に憲法制定はできない)によって、我が国は「亡国の淵」に立たされたまま、平和と民主主義にすがることで「新日本」として再生させて戴くが如き欺瞞的幻想に晦まされた形となった。
 
だが、「平和と民主主義」なる言葉は、連合国(戦勝国)が敗戦国日本を永久に下位国家に位置付ける手段としての「美辞麗句」の類なのだ。民族やその歴史と国民国家を軽視するこの「美辞麗句」を法源とした「占領憲法」を押し戴かされることで、真の独立回復への可能性は厳しく閉ざされたわけである。
欺瞞の上に成り立つ「憲法」を肯定するには、戦前の祖国の歴史を自己卑下し、軍国主義者が邪悪な戦争を推進したからこうなったのだと自虐する以外にない。
日本の歴史は古く長く、そして誇るべき美点も多く、あの戦争も敵国が言うような邪悪な侵略戦争ではなく、むしろ根っこから邪悪なのは敵国側だと信じ続けなければ話は別になるはずだった。しかし、占領時代は固より、所謂「独立回復」以後の長い期間、そのような主張をしようものなら、軍国主義者だとか戦争を美化する愚か者、「平和と民主主義」の新日本への道を妨害する者と非難され、異端者のレッテルを貼られ、社会の枢要な位置から排除されたのである。占領支配者は、そのような仕掛けを構築し、彼らに媚びへつらった日本人に事後を託したのだ。
 
ところで、英米の対日戦争の目的は、東アジアの勇者日本、古い歴史とまとまりある民族文化を保持する独立主権国家を壊滅し策略に嵌(は)めて戦争を誘発して、大打撃を与えた。而して、二度と再び彼らの「脅威」にならぬように巧妙な保護監察の条約で縛り、つまりは永久に彼らの支配の下に置く策略を展開した。それが占領支配で推進されたことであった。戦時国際法を完全に無視してまでも、徹底的に過酷・悪逆な軍事攻撃で日本に大打撃を与えたのは、恐怖で敵を畏怖させる、正にその為であったのであって、世界征服の野望を秘めた大陸侵略の軍国主義者を懲罰するというのは、表向きの事実を曲解した屁理屈に過ぎなかったことを我々の先達たちは悟るべきであった。
 
何時も綺麗事で自らの正体を幻惑する名人が米英連合国だったのである。本当は極度に邪悪な敵の正体を知る者はパージの運命に晒(さら)された。だから逆に敵を畏怖し本心で利敵行為をする日本人は、新しい平和と民主主義の時代を知る者として優遇された。つまり、占領権力が厳命した思想を肯定し、平和条約以降もその姿勢を取り続けた者たちが社会の枢要な位置を占拠し、そのような敵国に媚びへつらった戦後指導者に教育されて疑念を持たずに育った世代がそれに続いたのである。だから、対米英蘭支ソ戦争の大敗北から早くも60有余年が経過しても、社会的権力配置関係は基本的には米国に占領されていた時代の延長線上で、今日只今の平成時代の不本意な政治・外交・軍事・経済の状況へと立ち至っているのである。
敵の正体を知らず、己自身をも知らない戦後日本人、「戦う毎に必ず危うし」と、正に孫子の兵法に言うとおりである。(日本戦略研究フォーラム季報掲載より)
・・・・・・
 
正しい歴史を知る福地先生は、東大卒業にあたり、名門大学は紹介して頂けなかったと言います。なぜなら、当時は安保闘争真っ盛りで、左翼が幅を利かせて、“左翼でなければ人にあらず”の如く、左翼的自虐史観しか名門大学への紹介はされなかったと言います。そのため、福地先生は「お前のような右翼は島流しだ」と言われながら高知大学に送られたそうです。
 
「平和と民主主義」という欺瞞。
日本は戦後、戦争もなく平和に過ごし、経済発展も、豊かさも経験してきました。それは日本人がまじめで勤勉ということもありましょうが、やはり奇跡に近い状況であったと思います。
それが出来たのは決して「平和憲法」のお陰ではなく、日米同盟の役割があったことはあったでしょうが、この状況が今後も続くという保証もなければ、その可能性もないのです。
であるのに、日本は米国の防衛を頼りにしながら、チャイナには経済や製造の役割を依存し、日本国内は近隣国の工作員やスパイを抱え込み、肝心の日本人はお国のことも領土のことも憲法も関心が薄く、今がよければ、自分さえ楽しければと、目先の安楽に身を置き、自分勝手で自己中心的な振る舞いが様々なトラブルや殺人をも招き、この国は一体この先どうなっていくのか、政治家すらその将来像を描くことが出来ずに、劣化日本に歯止めがかからないのであります。
 
日本の近隣国には人間の命を何とも思わない国があり、そういう国というのは年々軍事力を増強し、その力を背景に自分に都合のよい主張を他国に押し付けているのです。これらの国と日本はいつかは衝突することは無きにしも非ずで、ある可能性は年々高まりつつあるのは気のせいでありましょうや。
その万一のための態勢は全くの想定外で、「平和と民主主義」でスパイだらけの劣化した日本では、戦う前に勝負がついているのではないか、と危惧しております。
日本の周辺は敵だらけ、日本国内も敵だらけである、と気づくこともできない欺瞞の平和に、いつ日本人は気付くのか。世界の中で日本だけ例外はあり得ないのです。
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žºܸµ 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」



日露戦争から学ぶもの


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歴 史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を、福地先生から送付して頂き読ませて頂きまし た。これはぜひ多くの日本人の方に読んで頂きたいと思い、福地惇先生にブログ掲載許可のご確認をさせて頂きましたら快諾して頂きましたので、数回に分けて ご紹介したいと思います。 
今回は「日露戦争から学ぶもの」です。 明 治の先達が明治天皇のもとで、国運をかけて戦い抜いた日露戦争。しかし、その舞台裏にあることはあまり知られておりません。特にこのことはマスコミが一切 避けており、その部分に触れるとボツにされてしまうと言います。近代の戦争というものは目に見えない“モノ”で動かされていることを多くの日本人も知るべ きです。・・・・・・・ 
  
日露戦争から学ぶもの 
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                                      高知大学名誉教授 福地惇
 
 1.  帝国主義の時代における我が国の位置
 
世界史の中で「近代」と呼ばれる時代は、欧米白人キリスト教の諸強国(列強)が圧倒的な軍事的・政治的・経済的な力量と活動力を以て、有色人種世界の征服を目指した時代である。
列 強による無慈悲で思い上った覇権の下に非欧米世界のほとんどが置かれていた時代だった。「文明世界」と言えば白人キリスト教諸国のことであって、他のあら ゆる有色人種の宗教や文化や社会は「半文明」とか「未開・野蛮」と見下げられた。この異様な時代を「帝国主義時代」と言うが、現代も明らかにその延長線上 にある。この帝国主義の時代に我が日本は如何なる国際的位置にあったか。
明 治維新以降の国家・社会の体制大変革は、侵略意欲猛烈な白人帝国主義列強の脅威への対応策であった。先達は、白人列強の植民地支配の餌食にならずに独立主 権国家としての名誉ある地位を占めるためには如何したら良いか、それを重大課題とした。国策としての国家・社会・宗教・思潮の改造が、所謂「近代化=欧米 化」だが、長く一貫した歴史を持つ我が国なるが故に、それを「復古と維新」と言って、必死に推進したのである。
 
2.   開国から5大強国
 
開国から日清・日露両戦争の勝利を経て欧州大戦までの凡そ有余年で欧米列強と対等の位置(所謂5大強国の一員)に立つまで成長した。それは有色人種の国家としては初めての偉業であり日本民族の栄光であったが、後で思えば手放しで喜べる話ではなかった。
強国建設の努力と急速な成長を白人キリスト教列国側は大きな脅威と受け取った。日本が「文明化」したと喜んだのではなく、脅威と嫌悪を覚えたのである。その指導者層に「黄禍論(イエロー・ペリル)」が台頭したのは、正にその証左であった。
逆 の事態も現れた。白人列強の属国や植民地に貶められて呻吟(しんぎん)を余儀なくされていた多くの有色人種に深い感銘と大きな勇気を与えたという現象であ る。つまり、それなるが故に、白人列強は日本帝国が更に国力・国威を増進して、有色人種「解放」の指導者に成長する可能性を問題視した。そこで、独善性と 利己心に満ちた白人列強の指導部は日本帝国を自家薬籠中の弱小国家に引き戻そうとの大戦略を立てたのだ。国際連盟や国際会議を以て「国際化」や「軍縮」と いう形で、謂わば「日本封じ込め戦略」を推進した。貪欲で狡猾な彼らは、東アジアを「分割して統治」する戦術で、共産ロシアや混乱続きのシナの有力軍閥に 対して、「天皇制解体」や「反日・侮日・抗日」の日本攻撃作戦を展開させ、黒船の来襲時代に劣らぬ重大な脅威・外圧が我が国を襲ったのである。
 
3.   日露戦争とは
 
日露戦争とは、20世紀の初頭に満州方面を全面占領していたロシア軍を北満州まで押し戻して、日本と朝鮮半島との安全を確保した戦争であると(左翼以外の)一般には理解されている。だが、これでは表層的な理解の域を超えない。実は、日露戦争は日本とロシアの戦争という2国間の利害・対立問題を遥かに超えた、巨大にして不気味な背景があったのである。
米国大統領セオドア・ルーズベルトが日露講和を斡旋した動機には、満州・シナ大陸への利権拡大の思惑があった。これは、目につく一例で、今の日本の歴史常識は欧米勢力の日露戦争への関与という重大な背景を見落としているのだ。
20世 紀に突入した時点で列強を巧みに金融で操る「国際金融財閥」は、愈々(いよいよ)彼ら年来の目標である世界支配運動を本格化した。先ず、せん滅の対象とし て狙った餌食は安定した「王制国家」、帝政ロシア、帝政ドイツ、帝政オーストリアそして皇室制度の下で急速に国威を増進する日本帝国だった。この、謂わば 「闇の世界権力」は、ロシア帝国に対しては満州・朝鮮半島方面へ積極的進攻を誘導しながらも、他方ではロシア帝国解体への国内撹乱工作を展開した。つま り、共産革命勢力=帝政打倒勢力には膨大な運動資金を竊(ひそか)に提供してロシア帝国の破壊工作を進めさせた。一方で、ロシア帝国の南下に脅える小国日 本に対しては、日英同盟を成立させ、戦費を融資して、ロシアとの大戦争を誘ったのである。
当 時の日本政府は戦争資金の欠乏から財政家高橋是清(当時日銀副総裁、後の蔵相、首相)を欧米主要国に派遣して外債募集の任務に当たらせた。だが、巨大な陸 軍帝国ロシアに対して東洋の小新興国家が勝利できようと予想する欧米の軍事専門家は皆無だった。従って、高橋の外債募集は困難を極めたが、そこに偶然を 装って戦費融資の話に乗ってきたのが、クーン・レーブ商会のヤコブ・ヘンリー・シフなる国際金融財閥の有力者だった。シフの巨額な対日融資が誘い水にな り、外債募集は満額を超えたのである。ロシア帝国のユダヤ人虐待を見かねて対露戦争に立ち上がる日本を支援したと、シフは語ったと、高橋は自伝でシフの民 族愛と義侠心を称賛している(『高橋是清自伝』)。だが、国際金融財閥の思惑は、そんな情緒的問題を超えて遥かに壮大だった。クーン・レーブ商会は、欧州 の金融大財閥ロスチャイルド家の米国における代理人の位置にいた者で、当時、ドイツやロシア方面の共産過激革命勢力に密かに資金を提供して革命運動を支援 していた。帝政ロシア解体大作戦に東洋の新興国日本を一枚噛ませて、金融面で日本をより一層自在に操縦しようとの思惑である。つまり、世界支配を目指す、 彼らの一石二鳥を狙った戦略だったということだ。戦後、律儀な日本は融資者に巨額の元本と利息を支払い続けたのだ。要するに、我が国にとっての日露戦争は 独立と安全のための必死の自衛戦争だった訳だが、世界史大に視野を広げてみると、世界単一政府を目指す「国際金融財閥」による有力民族国家の操縦と支配、 そして最終的には民族国家の解体という壮大な謀略の一環に組み込まれていた戦争だったと言うべきだと、筆者は見ているのである。
 
4.   日露戦争勝利後の日本の苦難の予兆
 
ところで、対露戦争の勝利は日本が急速かつ確実に立派な国家建設を進めていることを実証したわけだ。そこで、日本を利用して支配しようとする勢力は、改めて新興国日本帝国の前進に危惧を抱き、本格的に日本国家の成長と自律的活動を抑圧する方向に舵を取り始めたのである。
金 融コントロールを筆頭に、米国政府による対日強硬政策の展開は、満州利権への介入、オレンジ計画の策定開始、ホワイト・フリートの日本寄港、そして太平洋 艦隊の編成として早速に実行に移された。他方、ロシア帝国は、敗戦の打撃で政治と社会は混乱し、共産革命への趨勢が増大して、敗戦から12年後のロシア・ボルシェビキ革命へと経過していく。また、シナ大陸では大清帝国が敢え無く解体して共和制国家を目指す民族革命が追求されるが、これが東アジア世界の複雑さと不安定さを増大するのである。
従っ て、この「戦争と革命」の時代に本質に着目せずして、現代日本史を云々することはできない。国際政治・軍事・経済・社会全体の構造変動の一環に東アジアが あり、日本があるのだから、「国際金融財閥」や米英列強の諸動向を注視しながら、祖国の歴史を考察せずしては、「近代日本の栄光と苦難」の真実は把握でき ないのである。(日本戦略研究フォーラム季報掲載より)
・・・・・
 
歴史を語る上で避けることが出来ないものを福地先生が触れられております。多くの出版社が拒否するために歴史の深層が知られにくいわけです。
さ て、小論文にあるヤコブ・ヘンリー・シフ。シフの個人代理人のジョージ・ケナンは日露戦争の陰の主役であったと私は見ています。ジョージ・ケナンは日本へ の融資の功労者として日本政府から従軍記章、そして皇室から瑞宝章を授与されました。ジョージ・ケナンは日本だけではなくシフの代理人としてロシアの共産 主義革命にも資金と武器を持ち込みました。
こうしてみると日露戦争とはロスチャイルドがロシアを経済支配下に置くために日本を誘導して起こしたのだと言えます。その日本は戦争に勝ちましたがロシアから賠償金を獲得できず、シフに金利を払い続けました。このため、「日露戦争で最も利益を得たのはシフ」と言われたのです。
  
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日露戦争から、ずっと世界の帝国を滅ぼし、世界を支配する「闇の世界金融財閥」について、その陰謀を語る人はけっこういて、私も何度か聞いたことがあります。けっこう説得力はあるのですが、決して表の歴史講義で話されることはないので、今ひとつ本当かどうか図りかねる、と言うよりも、誰かに話そうにも話しにくいところでした。この福地先生の論文は、一つ一つ具体的な事象を指摘しつつ話されているので、非常に理解しやすく、今まで聞いたものの中で一番説得力があります。


そして現在において、日本のメディア、政治家など、日本解体勢力を操り、裏でそれを知っているかどうかに関係なく支配し動かしているのは、この勢力なのではという気がします。多くの国の内部に入り込み、ネットワークを作り、国々を対立させ、或いは手を握らせ、目的に向かって陰謀をめぐらせている存在、これに近い存在はなんとなくある気もしていましたが、ここまで大きな力を持っているのだろうかと思っていましたが、この記事を読むと、確かに、可能性は否定できない気がします。


もしかしたら、そういう闇の勢力と、それに意識的無意識的にせよ対抗している人々のいよいよ最終戦のようなものが、現代の状況なのかも知れません。2012年という年が、そうしたものを暴露していく年、思わぬ逆転が起こる年、いろんなモノの正体が見えてくる年、本当の善悪が正しく判断される年となるような気もしてきます。壬辰と言うのはそういう年であるらしいですから。

 
 

 

 かつて日本は美しかったからの転載です。

今も昔も日本を支えているのは技術の力です。日本が生存をかけて世界の大国ロシアと戦った日露戦争も、その影には、片腕を失いながらも開発に努力した下瀬雅允という海軍技師の「下瀬火薬」や海軍少尉の伊集院五郎の開発した「伊集院信管」という技術の成果が、その勝利を支えていたのです。

そしてこの技術開発の力は、さくらの花びらさんの記事にあった、日 本人の質が高かっただけではなく、真面目で、信義に厚く、忍耐強く、負けじ魂があり、我欲を抑え、倹約し、公を重んじ、 ルールを守り、約束を守り、和を尊び、恩を忘れない、家族を尊び、友を大切にし、力を合わせて心を一つにし、思いやりの心を持ち、忠君愛国で、皇室を尊ぶ など、社会の質もすぐれていたから」であったのではないでしょうか。

 

弱小日本を救った科学の力〜下瀬火薬

  

今も日本を支える科学の力。


明治37年(1904年)〜明治38年(1905年)の日露戦争において、日本海海戦で連合艦隊に勝利をもたらした大きな要因のひとつとして下瀬火薬があげられます。結構有名な話でしょう。
発明者の下瀬雅允は広島藩の出身で海軍の技師です。兵器製造所に勤務しました。その時の製造科の長が原田宗助という人で、東郷平八郎らとともに英国に留学した人でした。ニューカッスルのアームストロング会社で造兵技術実習しました。

原田は下瀬に対し
「わが日本は弱国である。弱国にしてなおこの帝国主義の世界に生きうる道は兵器の発明あるのみ。君は砲弾の炸薬を専門とせよ。改良よりも世界の炸薬の観念を一変させるような発明をせよ」と訓示します。
下瀬は火薬の研究中に爆発事故で手を負傷し、不自由となりましたが、研究を続け、明治26年(1883年)下瀬火薬を完成させます。日清戦争のときはまだ 使われませんでしたが、海軍少尉の伊集院五郎が鋭敏な「伊集院信管」を開発したことにより、日露戦争で威力を発揮します。

下瀬火薬は金 属に触れると激しく反応して大量の熱を発するピクリン酸を主原料としています。炸裂威力が圧倒的で、炸裂した砲弾のかけらはすさまじい勢いで飛散し、三千 度もの高熱ガスを発生させます。ひとたび命中すれば爆風と熱によって、艦上の人間の動きを封殺してしまいます。ロシアの艦隊は下瀬火薬の砲弾に悩まされ、 隊列を乱し、魚雷や艦砲射撃によって撃沈されました。

司馬遼太郎著「坂の上の雲」によると日本海海戦に先立つ黄海海戦で、ロシア水兵は口々に
「日本の砲弾はすごい」といい、「あれは砲弾ではない。空飛ぶ魚雷だ」と言うものもいたそうです。下瀬火薬の砲弾を受けた艦船は沈まなくても完全な廃艦になってしまいました。諸外国の新聞はこの火薬について報道します。「日本はこの火薬を最大の国家秘密にしているからよくわからないが、とにかく火薬における革命的なものである。」(1904年7 月31日ニューヨーク・タイムズ)

明治38年(1905年)5月27日、延々と航海して日本海にたどり着いたバルチック艦隊はこの下瀬火薬の洗礼を浴びます。

「坂の上の雲」よりバルチック艦隊旗艦スワロフの様子

「最 初の鞄(下瀬火薬の砲弾のこと)は、スワロフを飛び越えて海中に落ちた。こういう場合、ロシアの砲弾なら長大な水煙をあげるだけだが、日本の砲弾はその鋭 敏な伊集院信管によって海面にたたきつけられると同時に海面で大爆発するのである。このため艦隊には命中しなくても弾体は無数の破片になって艦上を襲っ た」・・・「ついで第四弾が、艦尾左舷の6インチ砲塔に命中し、相次いで大火災がおこった・・・前部煙突のあたりに巨大な火柱が立っており、艦尾も燃え始 めた」
「戦艦アリョール上の艦上で、日本の戦艦がぶっ放してくる砲弾をみていたノビコフ・プリボイは『まるで飛んでくる水雷のようだ』と言い、ま た巡洋艦オレーグの艦上にいたS・ポソコフという士官は、『これは砲弾というより機雷である。炸裂すると不消散質の煙をぱっと撒き、海中に落ちてさえ破片 がとんでわれわれに被害をあたえた』」


日本海海戦は下瀬火薬の強力な火力が大いに貢献し、ロシアの艦船は早い段階で猛火に包まれて戦闘力を失いました。戦闘力を奪えば艦が沈んでいなくてもあと は追いかけて艦砲射撃、魚雷攻撃すればいいだけです。海戦は連合艦隊のワンサイドゲームとなり、世界のマスコミがバルチック艦隊有利と予想したことと反対 の結果となり、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させることになりました。弱小日本を科学の力が救い、弱小国でも科学の力で勝てること を世界に証明した瞬間でもあったわけです。



参考文献
PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡部昇一
PHP研究所「歴史街道」2011.12『世界を震撼させた下瀬火薬と伊集院信管』
文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
WAC「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一(著)
参考サイト
WikiPedia「下瀬雅允」「下瀬火薬」「日露戦争」
常勝ニッポン 日本海海戦 http://takedanet.com/2007/04/post_3177.html
添付画像
降伏旗を掲げるニコライ一世 
国立公文書館より http://www.jacar.go.jp/nichiro/russian_ship_nikolai_1_01.htm

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私たちの国 日本



 
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下に終戦後の日本と昭和天皇の貴重なカラーの動画があります。
本日、1月7日です。・・・
 
日本はかつて白人が覇権を握る世界で明治維新を成し遂げ、西洋を学んで近代化し、日清、日露戦争に勝ち、第一次欧州戦争でついに一等国となっていきました。これはアジアの中でも日本だけが行えたことでした。 
こ のような偉業を成し遂げたのは、日本人の質が高かっただけではなく、真面目で、信義に厚く、忍耐強く、負けじ魂があり、我欲を抑え、倹約し、公を重んじ、 ルールを守り、約束を守り、和を尊び、恩を忘れない、家族を尊び、友を大切にし、力を合わせて心を一つにし、思いやりの心を持ち、忠君愛国で、皇室を尊ぶ など、社会の質もすぐれていたからでありました。 
特に天皇陛下こそ日本の国柄をあらわし、偉業を成し遂げた源泉でもあります。 
支那の歴代皇帝や朝鮮の国王は、人民の窮状をよそに、民衆から欲しいままに収奪して贅沢にふけることが多かったのです。しかし日本の天皇陛下は節度を守ってきたのです。 
明治天皇は『五ヶ条の御誓文』で「上下心を一にして・・」とし、
『軍人勅諭』で「朕と一心になりて・・」とし、
『教育勅語』では「朕、なんじ臣民とともに、けんけんふくようして、皆その徳をいつにせんことをこい願う」と呼びかけています。
これが支那の皇帝や朝鮮の国王ならば民衆と心や徳を一つにして、ともに心を合わせて国を守ろうと述べること自体考えられないことであり、民衆もそんなことは信じられなかったのです。
 
昭和天皇は日露戦争の3年前の明治34年 に、明治天皇にとって初の皇孫であり、皇位を継承すべき皇太孫として生まれました。これが裕仁親王であります。御称号として迪宮(みちのみや)と命名され ました。裕と迪という字には「広く大きな心で国を治め、人類の幸せのために尽くすように」という意味がこめられています。
 
その昭和天皇はいつも天気予報を聞かれていました。
終戦後の昭和20830日にも天気予報を聞かれ、報告を受けると陛下は「では、稲は大丈夫だね」と、窓の外を見られながらおっしゃりました。
 
昭和63年、長雨が続く中、昭和天皇は病床から、白いレースのカーテン越しに小雨が降っているのをご覧になりながら、「長雨にたたられた今年の稲の実りはどうなっているか」と言われました。
天皇陛下は常に日本国民の安寧と繁栄を祈り、農作物の出来具合をお心配なされてきました。
そして同じ年の919日、昭和天皇は吐血され、そのまま回復されることなく、翌年17日に崩御されました。
 
昭和天皇は吹上御苑の小さな水田でゴム長靴をお履きになり稲を育てられました。
そして、今上陛下も同じ水田で田植えをなされ、刈入をなされているのです。
 
  
 
 
 
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日 本における天皇という御存在が、建国以来2000年も続いたのは、決して偶然ではないと思います。日本人の民族的な心の深層に横たわる宇宙観、自然観と一 致していたから、というか、そうした民族的感性の中から生まれてきたからだと思います。だからいまも日本の文化の集約が皇室であり、民間には失われた文化 も皇室の中でのみ生きているものも多くあります。

記 事にあるように、歴代の天皇の逸話には、民を思いやる天皇の姿が無数に残っています。醍醐天皇は寒い夜に、着ているものを脱いで薄着になって、民の苦労を 自分も一緒に感じようとなさいました。

近年では、明治天皇も、日露戦争で戦う兵士思われて、常時軍服を召され、冬には暖房を入れず、夏にも長袖の軍服を召 されました。

昭和天皇も、皇居が爆撃を受けて、お文庫という少し粗末な湿気の多い仮住まいに、戦後ずっと住まわれ、国民が窮乏している時に、新居などとん でもないと、国民が豊かになった後までも、新居の建築を断れられて、健康に悪いところなのに、湿気で天上が落ちそうになるまで、そこにおられました。

最近 では、天皇皇后両陛下が節電を心がけられ、寒い時には一枚羽織れば大丈夫と、国民以上に厳格に守られていました。

日本人はこうした天皇への心からの親愛と忠誠の心をもって、自分達も国のためにと頑張る心を起こしたのです。それはちょうど家庭において、尊敬する父親を見て、自分もがんばろうとする子供と同じで、家族が互いに助けあうような、そんな国家だったのです。


東京上野東照宮に、家康直筆の和歌があるそうです。その和歌は以下のものです。

 身のために何かいのらん朝な夕なたみやすかれといのるばかりぞ

(私は自分のために祈ることは何もない。朝な夕な民安かれといのるばかりであるぞ)

これは、一首二文と言って、一つの和歌で二つのことを言っていてよくないのですが、さらに自分は無私の心で民のために祈っているのであるぞ、という自慢であり、無私とは程遠い心が露呈されています。

これに言葉はよく似た歌ですが、桜町天皇の御年二十歳の折の御製があります。
 身の上はなにか思はむ朝な朝な国やすかれといのるこころに(1740年4月15日)

(自分一身上のことについては何も思うまい、毎朝毎朝国安かれといのるこころによって)

朝 ごとに国安かれと祈るのは天皇のお志であり、そのお心を持ち続けて、天皇御自身の上については心配すまい、という決意でもあり誓いでもあります。
倒置法で 二句切れになっていますが、一首一文でよどみがありません。このお歌には、人は誰でも自分のことばかり思うものであるという自覚があり、懺悔求道の真実が あり、それ故にこそ、わが身の上を忘れて国のために尽くそうとする決意なのです。

歴代天皇は和歌を敷島の道として、親しまれ、常に和歌を読んで、おのれの心を顧みられ、ときには決意を表わされ、ときには心を慰められました。

そこには常に求道者としての天皇がおられました。



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