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明けましておめでとうございます。

本年は、壬辰という干支で、いろいろな人が言っているのを聞くと、とにかくなにか新しいことが始まるような、いのちが芽吹いて膨らんでいく年ということです。さらに株価も壬辰の年には、高くなるというデータもあるようです。長寿商品が発明されたり、世の中が整っていくような年であるとのことで、いろいろな天災に見舞われた日本が再生する年となればよいと心から願います。

辰年といえば、龍ですが、龍というのは、古来支那では天子をさす言葉として、日本でも漢字文化を受け入れてからは、やはり同じように、使われている気がします。例えば皇帝や天皇のお顔を龍顔といったりします。

戦後、日本では、占領軍の押しつけた日本国憲法を施行してから、天皇は象徴という何の権限もない、人権さえもない気がするほどの単なるシンボル(符丁)に過ぎないお飾りの地位に押し込められてしまい、マスコミも敬語すら使わないところもあり、民主党政権に至っては、天皇は内閣の命ずるままに動かすことができると考えているフシさえあります。

今年の壬辰という年に、いかにも昇龍というイメージの年に、私は天皇陛下のまさに誠心誠意な御人格が広く国民にも世界にも広まって、その御存在にふさわしい地位、すなわち元首の地位にお戻り頂く道筋が付けられればよいと願います。

すなわち、日本国憲法の無効宣言、そして大日本帝国憲法が法理論上実際に有効に生きているのが本当ならば、それが正しくきちんと復活して、それから時代に合わせて改正するなりすればよいと思うのですが、その道筋がつくこと、そういう認識が国民全体に理解される年となるように心から祈念いたします。

古き日本の再生、古いといっても、これは根っこの大本を意味する古い、です。時代の移り変わりによって新しいとか古いとかいう場合の古いではありません。
日本らしさ、日本が日本であるための根源的な部分を、国民が省みて、明治以来の欧米崇拝と戦後の自虐史観と、そうした垢を落として、日本とは何か、日本人とは何者かを静かに内省する時が来ているのではないかと思います。

世界のいろんな国々は、みな個性を持ってそこにあるのだと思います。その個性こそがその国の世界への貢献を生み出すのです。日本も本来の個性を取り戻してこそ、世界への真の貢献ができるのであろうと思います。


さて、今年最初の記事は、 さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

身を浄めて神々に祈られることの大切さを、天皇のお仕事の第一に置かれてきたのが、歴代の伝統です。戦時の空襲の頻発する中で、極寒の冬に、昭和天皇が神事のお務めをされる様子が書かれています。
神事に臨まれる天皇のお姿、そのまさに日本の天皇の”まこと"というものがあらわれた気高いお姿に、日本の天皇とはこうしたものであるという真実が表れている気がしました。
世界史上に、皇帝や王と呼ばれる存在はありましたが、身を削るように常に国民のことを思い、国家の安寧を祈り、さらには世界平和を祈念される存在は、天皇をおいて皆無ではないでしょうか。



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天皇陛下は元日の日が昇る前に、四方拝と呼ばれる祭祀を野外で行われます。 
年頭にあたって神々に日本の安寧と世界の平和を祈られる祭儀です。 
 
昭和20年、戦争最後の年、この年の四方拝は空襲を恐れて宮中三殿ではなく、吹上御苑の御文庫(おぶんこ:大本営防空壕)の前庭に置いて催されました。
陛下は御文庫の風呂場で潔斎(けっさい:神事の前に沐浴し、身を清めること)を済まされました。そして四方拝を行われるために午前5時に御文庫を出られましたが、その10分後に空襲警報が発せられ、一旦中へ戻られ、皇后陛下とともに地下二階にある防空室へ降りられました。
陛下は防空室で壁時計をご覧になり、「今に夜が明けてしまう」と繰り返し言われて心配されていました。陛下にとって祭祀は重大時でありました。何としても祭祀を行わなければならなかったのです。
 
B29が江戸川に投弾し、火災が起こって夜空を赤く染めました。
陛下は空襲警報が解除されると、540分に軍装のまま、御文庫から出御(しゅつぎょ)されました。
気温は零下1度まで落ちていました。
この時の四方拝は灯火管制のため左右から侍従が脂燭(しそく:たいまつ)を掲げて陛下のお足下を照らすことも、庭を照らす炎もありません。黒い覆いをかけた懐中電灯が唯一の光でした。
 
天皇陛下は屏風の中に入られると、皇大神宮の方角を向かれ、立礼をされ、次に座礼をされ、もう一度立たれてお辞儀をされ、また座って平伏をなされました。これは両段再拝というものです。
陛下は北西の方角に対しても両段再拝され、皇大神宮、豊受大神宮、四方の天地地祇(てんちちぎ)、天皇陵などを拝まれました。陛下が四方拝を無事に終わられるまで、敵機が来襲することなく、中断されずに行われました。
 
天皇陛下が野外で四方拝を行っていらっしゃる時、他の皇族方は何をなさっているのか。
高松宮宣仁親王殿下はこう言われたと言います。
「お 上が寒い野外で、薄い装束をお着けになって、お祭りをなさっているのに、まさか寝床にいるわけにはいかないでしょう。宮内庁から電話で、お上がお祭りを終 えたという連絡があるまで、妃殿下と居間に入って、窓や戸を外気がそのまま入るように明け放って、ひたすら身を慎んで待っています。他の皇族方も皆、その ようにされているはずです」
  
天皇陛下が日の出前の野外の暗く寒い中で、世界の幸せを祈って祭礼される。
皇族方は居間の窓や戸を開け放ち、終えられるのを身を慎んで待たれる。
元首が元日の夜明け前に野外で平和を祈る祭儀を行い、そのあいだ、一族がひたすら身を慎んでいる国は、世界の中でも日本の他にはないことでありましょう。
 
 
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                          (四方拝御図)
 
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さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

自国にいのちを捧げた人を、どの国でも最高の栄誉をもって讃え、追悼します。これは最高の同胞愛であり、この犠牲の上に、国が成り立っている事を知っているからです。

それ故に、他国に対しても、そうした追悼施設に敬意を払うことは、最高の儀礼と考えられています。それはまた、それらの国々が「国にはいつか、悲惨を覚悟で戦わねばならぬ場合のあることも知っている」ということなのです。

この老いた韓国人の著者が、「僕は洋の東西、時の古今を問わず、自国のためと信じて戦場に狩りだされ、命を賭した全ての国のすべての若者に、最大の敬意と同情を捧げる。」と言ったように、世界の殆どの人がこうした気持ちをもっているのです。

今回、靖国神社に火をつけた犯人は、この気持を持たない人間でしょう。この気持ちがわからないで、自国の英雄気取りとはおかしな事です。まさに記事にある通り、馬鹿者でしょう。

ところが、この犯人を笑えないのが、日本の国民です。靖国と聞いても、軍国主義としか思わない人間、それどころか、英霊を貶め、騙されて犬死したのだと言ったり、この人々が侵略戦争を行ったせいで日本に生まれて恥ずかしいなどと思う若者もいるといいます。これはまさに日教組教育の成果でしょう。

「国にはいつか、悲惨を覚悟で戦わねばならぬ場合のあることも知っている」という気持ちを失った国民は、同胞を見殺しにし、時にはチベットなどの悲惨な現状も見て見ぬふりをするということになってしまうでしょう。「平和主義」と名前だけは博愛精神のようですが、決して博愛ではいられないのが、平和主義です。自分が傷つくことをいやがって、どうして人を助けられるでしょうか。平和主義とは、自分だけが平和で、人は死んでもいいということにほかなりません。さらには、自分だけが助かれば、国家が滅びてもいいということにほかなりません。

国家が続いていくのは、国民の努力の賜物です。今私達が平穏に生きられるのは、そのように努力し、いのちを捧げた人びとがいるからだということを、知るべきです。国家と同胞の誇りのために、いのちを投げ出して戦うということは、究極の奉仕精神、愛の行為であり、それ故に、とくに特攻隊のように、死ぬとわかって行く人を、この著者は、言葉を持たないと言っているのです。かつては日本人であり、現在は韓国人である著者の、そこには特攻隊への共感と尊敬があり、それは素直に人間としての心の奥底からの真情が吐露されているのです。

この真情が湧かない人は、日教組教育を受けた日本人、反日教育を受けた韓国人、こうした歪な洗脳によって心が素直さを失って、見るべきものが見えなくなったかわいそうな人というしかありません。

 
 
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昨日は靖国神社の放火に対する記事を書きました。
巷では、その犯人は在日韓国人であり、ツイッタ―にこのように書き込んでいました。
「・・靖国神社なんて、世界中から忌み嫌われてる神社、放火したって、誰も悲しまないだろ!?逆に、世界中がみんな喜ぶよ。俺は英雄」
 
 ”俺は英雄”。
靖国神社に放火して英雄であるわけがありません。
韓国では反日行動をとればとるほど英雄気分になると言いますが、こういうのを愚かな馬鹿者というのです。
 
真の英雄とは、お国のために、たとえ負け戦であるとわかってはいても、赤誠の命を投げ出して、お国のために尽くすことであり、この誰にも簡単に出来ない尊い自己犠牲の精神こそ誠の英雄たるものであります。その我が国の英雄たちが死して会おうと言いあったのがこの靖国神社です。
もし放火の犯人が在日韓国人であり、本当に英雄になりたければ、自分の同胞たちを飢餓や弾圧、拷問、さらには獄死させ、非人道的に苦しめている独裁者・金一族の北朝鮮に対して命を捧げて戦うのが真の英雄たる道であります。
靖国に火を放って、すぐに逃げ出して隠れているような小者が英雄であるわけがないのです。
 
日本統治時代を生きた韓国人が書いた著書『日本統治時代を肯定的に理解する』という本があります。
その中には今の反日韓国人が主張することと全く違うことが書かれています。
「日本統治時代に生まれ、数え年二十歳で終戦を迎えた者として、この世を去る前に率直な心情を書き残したい気持ちで」書いたものであると「序」の部分に書いてあります。
台湾も、朝鮮も日本の統治を知る世代は日本の”ありがたさ”を肌身で感じて理解されています。
そして、日本の統治時代を知らない世代の韓国人が、ありもしないことで日本を攻め立てるのはやがては韓国自身が困ることになるはずである、と指摘しているのです。
この著書の中に、「阿川弘之氏『特攻隊のまぼろし』を読む」と題した部分があります。
今回の事件とかさねてみると見えてくるものがあります。
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まず、「特攻隊のまぼろし」を一部引用させてもらおう。
初老に近い中年男たちが、七、八人、ビールを飲みながら国際問題を論じている。
大学教授、新聞記者、綜合雑誌の編集長、会社顧問の自衛隊OB、大物議員の元秘書、職種経歴はさまざまなれど、ある意味でみんなそういう問題の専門家、世代としては、日教組最も華やかなりし頃、初等教育を受けた世代に属し、直接の戦争体験はもっていない。(中略)
「みんな」の中に一人だけ、第二次大戦に従軍した爺い、つまり私(阿川)が混じっていて、新しい国際関係論なんかよくわからないから、黙って聞いていたら、話が台湾のことに及んだので、ちょっと口を出した。(中略) そのへんから、台湾の将来について議論が白熱化してくる。李登輝さんはじめ台湾の人たちが、半世紀かけて築き上げたあの蓬莱(ほうらい)の島を、北京(中国共産党)の方で、これ以上もう待っていられない、「武力解放」すると言い出したら、我々(日本人)はどうするのか。台湾人は正直な話、「一つの中国」なんて望んでいやしない。(中略)
日本の統治時代に入って以後、台湾では日本流の近代化が行われ、日本流の生活様式が取り入れられた。押し付けだったにもかかわらず、彼らは今尚それを高く評価してくれているし、さらに大きく発展させている。その、大陸に先んじて近代化し、大陸よりはるかに自由で豊かになった台湾人の生活を、武力で奪い取る動きが起こった時、アメリカはすぐ海軍を出動させるだろうが、日本政府は例によって、曖昧なこと以外も言えず、何の実際的援助も出来やしない。そんな政府のむ方策に準じて、我々も知らん顔していいのか。
「小生、はばかりながら、国際的にはこれでも退役ジェネラルなんだ。台湾空軍のF16を一機貰い受けて来る。A君、お前テストパイロットだったんだから操縦桿握れ。B君、君は台湾問題に情熱を傾けた国会議員の元秘書だろ、俺の席の横にもぐり込め。三人で中華人民共和国海軍のミサイル艦に突入、特攻戦死して、せめてもの日本男児の心意気を世界に示そうじゃないか」(中略)
私は、どんな面から考えても、先の大戦末期の特攻戦法を容認出来ない。この放談も、もし本気なら受け入れかねるお話なのに、聞いているうちに涙が出て来た。(中略)
日本の対米戦争に則して言えば、戦争の悲惨を一番痛切に味わったのは、ガダルカナルその他の島で餓死自決した陸海軍将兵と、特攻隊に編入されて出撃し、還ってこなかった若者たち、及びその遺族だろう。
ただし、彼ら無念の魂魄がこの世にとどまっているとして、
「戦争は悲惨だから、いたる所に涙の種をまき散らすから、祖国よ、どんなことがあっても二度と武器をとるな。日本を除いて、世界には平和愛好国ばかり、誰に何をされても見て見ぬふりをしてろ」と訴えるかどうかは疑問である。
この五十四年間、彼ら、特に特攻隊員の「死せる魂」は、祖国の経済的な復興ぶり、世相人心の移り変わり、少年少女のお作法、一部の人の護憲平和運動を、多分、小首をかしげる思いで眺めて来た。
「若い命がいかに大切なものか、それを捨てさせられるのが、自分にとっても家庭にとってもどんなにつらい悲しいことか、我々、身にしみて知っている。あんたたちの観念論とちがうんだ。しかし、国にはいつか、悲惨を覚悟で戦わねばならぬ場合のあることも知っている。いつまで羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹いているのかね。生き残りの皆さん」と言いたいのを、黙してずっと語らずにきた。
それが、今日は驚いたろう。戦後生まれの日本の子供、いや中年男三人、隣邦を救うため、特攻を口にしはじめた。これはこれはと、彼らの頬に、戦死後初めての静かな笑みが浮かんだのではあるまいか。
そう空想したら、涙が出て出て止まらなくなったのであった・・・」
 
朝鮮動乱が起こった1950625日当時、僕(著者)はソウル大法大四年に在学中だった。
628日にソウルが共産党軍に陥落してから家族とともに楊平に疎開し、10月、ソウルの修復と同時に復帰、すぐ陸軍通訳将校に志願入隊。
短期訓練の後、12月に任官して547月まで満39カ月、軍に服務した。
この朝鮮戦争で、韓国軍415千人と、米軍33629人、その他連合軍約36百人が戦死した。
これらの犠牲の上に韓国は共産侵略を免れ、曲がりなりにも今日の自由と繁栄を築きあげたのだ
今、韓国や国外に住む韓国人とその子孫は、すべて自身が有能なるがゆえにこれだけの水準に達したと思うであろうが、もしこれらの犠牲なくば、今は全て金正日のバッジを胸につけ、彼の独裁の下に恐怖と飢餓におののくか、あるいは既に飢え死にしたであろう
 
僕は19537月の休戦協定以来、今に至るまで、韓国国民最大の課題は韓国の民主化、次が北朝鮮国民を共産独裁の苦痛から救い出すことであると信ずる。
北にある我が数千万の同胞は、いわば左翼独裁集団に拉致され、人質として首根っこを押さえられている状態なのに、金大中政権は太陽政策なる名分を振りかざして彼らに大量の食料と肥料を与えている。
人民は依然として飢えて死ぬのに、政権は益々太っていくのは実に見るに堪えない。これは北朝鮮の人民にとって日本統治35年の圧迫をはるかに上回る精神的苦痛であり、物質的悲劇である。
 
韓国は、北朝鮮が国境線に並べたミサイルに怖じけづいたのか「戦争は悲惨なもの。どんなことがあっても避けねばならぬ」と、いきなり平和の天使と化した。政治家も一般国民も正義感に欠け、卑怯なのだ。同胞愛のかけらも見当たらない
拉致犯に首根っこを押さえられている同胞を救うには、軍に相当の犠牲があろうとも戦わねばならぬ。しかるに韓国軍のやっていることは何か。極端な不正腐敗に兵務非理、現役勤務将校兵らの間に原因不明の事故死が続出するありさまは何たることか。
「国はいつか、悲惨な覚悟で戦わねばならぬ場合がある」という話に、僕は全面的に同意する。
そして今の韓国こそ、まさにそういう場合であると信ずる
 
かつて朝鮮の若者たちも特攻隊に参加した。当時、朝鮮は日本に合併されて35年経った時点であるから、彼らの一部は日本人と同じ気持ちで、祖国に奉公する一念で、滅私奉公を遂げたのであろう。またその中には日本の国民たるを意識して、こうして日本のため一身を犠牲にすることは、朝鮮人の社会的地位を高めるためになるとして、身を挺した者があったかもしれない。
僕は洋の東西、時の古今を問わず、自国のためと信じて戦場に狩りだされ、命を賭した全ての国のすべての若者に、最大の敬意と同情を捧げる。その中でもこの特攻隊の、死ぬと知りつつ敵に突っ込んだ犠牲精神に対し、僕は言うべき言葉を持たない。・・・
  
ここには多くの言葉を要しないでしょう。
そして、今の日本人にも思い当たる部分はあるはずです。
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日本の天皇陛下は祭祀王であると言われます。

これは、日本民族が天の神々、地の神々をお祀りして、自分達の命の由来の奥に、また万物全てのものの奥に神が存すると考えて、感謝の祈りを捧げるという考え方の民族であったからです。

その民族の中心として天皇陛下がおられ、その天皇陛下は、国民の長として、常に神々に祈られ、また、重要な祭祀の最高のお役目を司られます。天皇陛下が祈られることは、神々への感謝と、国家国民の安寧と、世界の平和です。この祈りが二千年間、ずっと絶えることなく、続いてきたのです。

日本において、天皇陛下が国家の最高の御位であり、国の中心であることは、たとえ天皇が権力を失った時でさえも、続いて来ました。それは、天皇という無私の中心を戴くということが、日本民族のものの考え方にあったからだと思います。

天地の万物に宿る神々を敬う考え方が、民族のものの考え方であったように、ものには必ず中心があるという考え方もまた民族のものの考え方であったと思います。古事記には、天地のはじめの時になりませる神は天之御中主神であると書いてあります。このすべての中心におられた神が、八百万の神々に展開した形で、神々がお生まれになったと考えていいと思います。

この万物の根源、万物の命の根源に天之御中主神がおられるように、民族の中心に変わらぬ天皇陛下という存在があるとしたのが、日本民族の考えた理想であったと思います。

天皇陛下をたどると、神武天皇へ、更にたどると天照大御神に、更にたどると天之御中主神に行き着きます。この日本人の考え方が天皇という御存在を生み出したと考えてもよいと思います。

西洋や支那では、革命によって、王朝が変わったり、武力で征服したりして王朝が生れます。それは、外から見れば外的な要因ですが、西洋人や支那人が、自然は征服すべきもの、と考え、万物は支配するものと考える物の考え方から来ているのであり、したがって、王は人民を支配すると考えることを受け入れるような考えが、心のどこかにあるからではないかと思います。

このような外国の王と、日本の天皇陛下は、全く違う存在です。天皇陛下は、日本民族がそういう存在を心の奥で理想として願ったから生まれてきた御存在だと見るべきです。だから民族の歴史と共にずっと続いてきたのだと思います。

神話は民族のものの考え方をあらわすもの、理念をあらわすものだと思っていいと思います。そうした神話の時代から続く天皇という御存在を、なぜ、日本人はもっと誇りをもって、はっきりと元首として、単なる象徴ではなく、明治の御代の大日本帝国憲法のように、民族の中心にいただかないのでしょうか。現行の占領憲法は、本来法的に無効なのですから、実は有効に生きている大日本帝国憲法を早く復活させるべきです。占領下の洗脳を早く脱して、民族の本来のものの考え方に戻らないと、日本の未来はありません。


 
 
 
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皆様も、毎年初詣で神社にお参りすると思いますが、そこでどのようなことをお祈りするでしょう。 
「成績がよくなりますように・・」 
「欲しいものが手に入りますように・・」など、いろいろあるはずです。 
皇居の中にも神社があって、そこで天皇陛下もお祈りされているのです。 
しかし、そのお祈りは、 
「全ての国民が安心して暮らせますように」 
「国民が健康でありますように」
「世界が平和でありますように」など、
自分のためのお祈りではなく、国民や世界中の人々の幸せを願う祈りなのです。
 
天皇陛下はいつも、天の神様、地の神様を祈られ、
生きとし生けるものを全て安らかにあるようにとお祭りをされ続けておられます。
そのご様子はテレビなどではほとんど伝えられることはありませんが、
それでも陛下は毎日国民の幸せを祈っているのです。
 
ある日、天皇陛下がお話されていた時のことです。
突然、地震が起こり、宮殿が大きく揺れました。
すると、陛下は真っ先に隣の部屋のテレビのスイッチを入れられ、地震情報をご覧になられ、
「これぐらいなら大きな被害はない」とおっしゃったというのです。
そういう状況であれば、普通の人ならば、自分の家の心配や家族の心配をするのではないでしょうか。
しかし、陛下は違うのです。自分の心配ではなく、国民に大きな被害がないか、と真っ先に心配されるのです。だからこそ、即座に行動されることが、お出来になられるのです。
 
天皇皇后両陛下は夏にご静養になられます。
しかし、日本ではよく夏に台風が来て大きな被害が出ます。
天皇皇后両陛下は特に死者や行方不明者がたくさん出た年などは、
これまで何度もご静養をお取りやめになっております。
それは被災者の方々の悲しみや苦労を考えられてのことでした。
 
また、平成23311日の東日本大震災では、震災の直後である316日に、
「・・国民一人一人が、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見護り続けることを心より願っています」
と、『天皇陛下のお言葉』を全国民に対して発されました。
 
常に国民の幸福をお祈りされている陛下にとって、
国民の不幸や困難は心配でたまらない出来事なのです。
そして、陛下はどんなに困難な状況であっても希望を失わず、
国民一人一人が協力し知恵を出し合って、
無事に困難を乗り越えられるように祈り続けておられるのです。
私たちはこのことを心に刻みつつ、天長節(天皇誕生日)を心よりお祝い致しましょう。
 
ご歴代の天皇が、変わることなく国家国民の幸せを祈ってこられたように、
この伝統は今も受け継がれていることのありがたさを感じながら・・・。
 
 
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神宮大麻(じんぐうたいま)



神宮のお神札を「神宮大麻(じんぐうたいま)」といいます。
本来「おおぬさ」と読み、「ぬさ」とは、神さまへの捧げ物、お祓いの際に用いられる木綿(ゆう)、麻などのことです。現在でも神社で使われるお祓(はら)い用の神具を「大麻(おおぬさ)」といいます。そこから、厳重なお祓いをへて授けられるお神札を「大麻(たいま)」と呼ぶようになったといわれています。

今から900年以上前、平安末期には多くの人々が神宮に参拝するようになりました。神宮と全国の崇敬者を執り持つ「御師(おし、おんし)」とよばれる人々が登場しました。御師とは、神宮と全国の崇敬者との間を取り持った神職で、全国から多くの崇敬者の真心を受け入れ、参宮の案内や自邸の神楽殿での御神楽や御祈祷をうけもちました。さらに、全国津々浦々におもむき御祈祷を行い、神宮の御神徳を各地に広めていったのです。各地に講を組織して、今日の旅行会社や旅館のような役割も果たしました。
その際、崇敬者のために御師がお祓いし、祈祷を込めて頒布した「御祓大麻(おはらいおおぬさ)」が現在の神宮大麻の起源といわれています。
江戸時代後期の安永年間には、全国の約九割もの世帯が大麻を受けていたとの記録もあります。こうした仕組みは明治四年までつづきましたが、神宮の制度改革により御師が廃されると、翌年から神宮が直接大麻を奉製し、頒布するようになりました。
これは、明治天皇陛下の「朝夕に皇大御神
(すめおおみかみ)を慎み敬い拝むための大御璽(おおみしるし)として神宮大麻を国民全戸に漏れおつることなく奉斎せしめよ」との大御心によるものでした。国民があまねく大御神さまの広大無辺の大御光(おおみひかり)をいただくための大麻頒布制度の改革でした。
その後、数度の変遷を経て、神宮大麻は神宮神部署(かんべしょ)から各府県の神職会を通じて頒布されるようになりました。

昭和二十一年に神宮を本宗(ほんそう)と仰ぐ「神社本庁」が設立され、これにともない、神社本庁は「神宮司庁(じんぐうしちょう)」から「神宮大麻・暦」の頒布を全面委託され、全国約八万の神社の神職・総代等によって、頒布されるようになりました。
筆者らが神宮を参拝させていただいた時に、神楽殿で授与される大麻もありますが、これは角祓や剣祓と呼ばれるもので、氏神さまを通じて届けられる神宮大麻と、意味あいが異なります。参拝のしるしとして、神宮大麻とともに神棚へおまつりされるといいでしょう。
神宮大麻が奉製されている頒布部は、内宮にほど近い旧参宮街道の高台にあり、緑の木々に包まれた同所では、白衣姿の奉製員が各種大麻やお守り札を、一体一体こころを込めて奉製されています。神宮大麻は、神宮が直接お神札の奉製にたずさわっている、日本でも稀有な例といえます。

日本人は、春夏秋冬の節目のはっきりした自然と、農業を中心とした暮らしを営んできました。そこでは個人の幸せよりも、共同体の幸せを尊んできました。その精神の拠りどころとして、地域の氏神さまがあり、神宮がありました。
 日本には晴れやかな節目として節句がありますが、なかでも一年のはじまりであるお正月は最も大切な行事です。門松を飾り、おせち料理をつくってお迎えし、元旦には屠蘇と雑煮をいただき、新しい年の息吹をわが身に受けるのです。このとき、神棚のお神札を取り替えて、清々しい気持ちで新年を迎えましょう。

 太陽の光のように明るく広大な神さまのご加護をいただくために、家庭に神宮大麻をまつりしましょう。 神宮大麻は、年末に地元の神社を通じて頒布されます。皆さんのご家庭の年末の大掃除に際しては、神棚をきれいにして新しい「神宮大麻」をおまつりし、新年を迎える準備をするのが昔からの慣わしです。
神宮大麻」の頒布は、明治四年以来いく度かの変遷をかさね、終戦にともない、昭和二十一年から神社本庁に委託されました。戦後の混乱期、疲弊した日本の建て直しのため「神宮大麻」を通じて皇祖神(こうそしん)であり日本人の大御祖神(おおみおやがみ)・総氏神さまである天照大御神さまを拝し、天皇陛下を中心とした私たちの祖国「日本」を再建すべく、いち早く神社界の先達が「神宮大麻」領布の「御委嘱」を願い出られたのです。


お神札(ふだ)のまつり方
南または東向きにおまつりしましょう
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神宮暦


「神宮暦」には、「神宮大暦(大暦)」と「神宮暦(小暦)」があります。お神札を全国各地に配布していた伊勢の御師(おし)が土産として持参したのが「神宮暦」のもととなる「伊勢ごよみ」でした。
人々が一年の正確な周期を知る上で、古くからたいへん重宝されました。この「伊勢ごよみ」は科学的な暦であり、その後、明治以降になると、神宮より発行することとなり、今日もその伝統と文化的価値は連綿として引き継がれています。
昔は、農林漁業にたずさわる人口が圧倒的に多く、耕作や種まきの時期を知るために、年間の季節の推移を正確に知ることは、日々の生活の上でも非常に重要なことでした。
また、明治十六年には、わが国唯一の正式な暦として、名称も「本暦(ほんれき)」と改められました。
この「本暦」に改良を加えたものが、今日の「神宮暦」です。数多い暦の基本型として農林漁業にたずさわる方々をはじめ、多くの方々に愛用されています。

内容は、「日次(ひなみ)・七曜・六曜・国民の祝日・祭日・節気・雑節・干支・月齢・旧暦・月出月入・満潮干潮・農作業の目安が記載されています。
また、大暦には代表的な地方都市のデータが記され、観測所・測候所が減少の一途をたどる現在では、貴重な気象基本資料としても活用されています。 


忌中の神棚

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喪に服しているときは、神棚に半紙を貼って毎日のおまつりは控えます。
同居人が亡くなり、喪に服しているときは、故人のおまつりに専念するため、神棚に半紙を貼って毎日のおまつりは控えます。忌明けとなったら、翌日に「清祓の儀」を行い、半紙を除いて普段通りのおまつりを再開しましょう。



祖先のまつりと服忌(ぶっき)

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身内が亡くなると、御霊を鎮め、神の領域へと導く神葬祭を営んだ後、御霊をおまつりしながら一定期間喪に服すことになります。これを服忌(忌服とも)といい、亡くなった者との関係によってその日数が異なります。
 現代では、一親等の肉親が亡くなった場合でも、仕事を休めるのは一週間から十日程度。目安として、死のケガレによる忌は十日祭まで、気持ちの上での服喪は五十日祭までと考えてもよいでしょう。
ちなみに、墓参・弔問の当日は、神社参拝などは遠慮します。よく帰省中に早朝に墓参して、ついでに氏神さまに詣でる人がいますが、順番を逆にしたほうがよいでしょう。


3回に渡り神宮についてご紹介させていただきましたが、日本の国名は神宮に由来します。神道は日本人にとって、神宮を崇敬し、皇室と共に歩んだ祖先と子孫を結ぶ大切なものであり、神宮、氏神さま、八百万の神々に畏れを抱き、神々、ご先祖さまに恥じない生き方をと、身を律してきました。


今一度、清らかな、日本人に戻ってみませんか?

日本は素晴らしい国です、素晴らしい民族です。







転載元転載元: 美しい国

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新たに造り替えられ、白く輝く内宮の御正殿(平成五年の第六十一回式年遷宮で)



来る平成二十五年には第六十二回目の御遷宮が行われます。
神宮式年遷宮 は二十年ごとの日本民族の再生を意味します。
神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)とは、悠久(ゆうきゅう)二千年の時を超えて、今もなお清々(すがすが)しい神気漂う伊勢の神宮最大のお祭りです。
 式年遷宮の制度は、今から約千三百年前に第四十代天武(てんむ)天皇の御発意により、次の第四十一代持統(じとう)天皇の御代四年に皇大神宮の第一回目の御遷宮が行われました。以来、長い歴史の間には(室町・戦国時代)に一時の中断はありましたが、二十年に一度繰り返され今日に至っています

遷宮とは、上記の画像のように、新しいお宮を造って大御神(おおみかみ)にお遷(うつ)りを願うことです。
式年とは定められた年を意味し、神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、二十年に一度同じ形の御社殿を交互に新しく造り替えます。また神さまの御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)も新しく調製されます。


明治天皇陛下の御代のことです。当時の芳川内務大臣と田中宮内大臣の二人が、神宮の式年遷宮に必要な御用材の不足を理由に、土台に礎石を置き、コンクリートで固めれば二百年は保つことが出来ると、明治天皇に上奏(じょうそう)しました。
しかし、明治天皇陛下は、この上奏をお聴きとどけになられないで、質素な御造営に祖宗建国の姿を継承すべしと、お諭(さと)しになられ、二十年ごとに斎行される式年遷宮の大切さをお説きあそばされたのです。
明治天皇陛下は次のような御製(ぎょせい)をお詠みあそばされた。

 いにしへの姿のままにあらためぬ
神のやしろぞたふとかりける

 この式年遷宮の制度こそは、天武天皇が崇高なご精神でお定めになって以来、万代不易の制度として伝えてゆかねばなりません。
式年遷宮の制度が確立された時代の歴史的な背景は、仏教や儒教など外来の文化を積極的に受け入れた遣唐使などによる文明開化の花盛りの時代でした。。こうした中で、日本固有の文化を堅持し、日本本来の精神を自覚する、最も確かな方法が、この式年遷宮の制度でした。
二十年に一度、御社殿を新しく造り替える式年遷宮は、皇租の天照大御神が常に瑞々(みずみず)しくあってほしいと願う表象でありますが、同時に私たち日本民族の「いのちの甦り」の祈りが込められているのです。

神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)は「皇家(こうけ)第一の重事(じゅうじ)」といわれ、戦前は国費で行われていたほど、日本の国にとって極めて重要なお祭りです。
神宮の建物は、掘立柱(ほったてばしら)に萱葺(かやぶ)き屋根という素朴で清純な建物です。神道は清らかさを重んじますが、大御神(おおみかみ)さまに常に清浄な所にお鎮(しず)まりいただくために遷宮は行われます。
常に瑞々(みずみず)しく、尊厳を保つことによって、神さまの御神徳(ごしんとく)も昂(たかま)ります。その御神威(ごしんい)をいただいてこそ、私たちの生命力が強められるという、日本民族の信仰心の表れなのです。
日本の「木の文化」に対し、西洋は「石の文化」といわれます。古今東西の建造物を見ていただければお解りいただけるでしょう。
エジプトのピラミッドやギリシャの神殿などのように、ヨーロッパや中近東では、石を用いて建築物や工芸品を作りました。建てたときは永久不滅のものだったのでしょうが、しかし、その多くが今では廃墟になっています。しかも、建物が壊れて廃墟になっただけではなく、それを作った技術は勿論のこと、さらには、信仰や精神も消滅しているのです。
しかし、我民族は、物も心も有限であるという考え方を基底にもっており、有限であるがゆえに、たえず新しいものに更新し続け、確実に後世に伝えていくという努力と作業を繰り返してきました。つまり、命の継承といえます。結果として、物が常に瑞々しい形を保ち続けるとともに、技術も継承され、物も心も永く久しく伝えてきたのです。 式年遷宮の考えは日本民族の叡智(えいち)として世界から賞賛されています。

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明治以降は神宮式年遷宮にあわせて架け替えられていた宇治橋、昭和24年に架け替えられ、以降は神宮式年遷宮の4年前に架け替えられるようになりました。別名御裳濯橋(みもすそばし)ともいいます。



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平成21年11月3日、宇治橋渡始式、渡女は三世代健在の一族の女主人が務められました。これは長命を寿(ほとと)ぎ、三世代であることが和合を意味する呪い(まじない)である。参列員は全国の三代夫婦61組である。写真の先頭あたりを歩かれる緋袴の方が齢81歳の渡女(わたりめ)です。伊勢在住で、三世代健在でお孫さんまで参列できる崇敬心篤い人が選ばれました。



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宇治橋渡始式での神宮御祭主、池田厚子さま。旧名、順宮 厚子内親王(よりのみや あつこないしんのう)殿下、畏くも今上陛下の姉にあたられます。




「式年(しきねん)」とは前にも述べましたが、「定められた年」という意味です。二十年に一度というのは、人生の一区切りと考えられ、一世代を意味します。
技術や思想を伝承するためにも合理的な年数とされ、御社殿の建築に携わる宮大工をはじめ、御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)をつくる職人たちが技法を学び、技術を高め、その技術を若い弟子に伝えるためには年月が必要とします。
二十代で弟子入りして、技術を習得し、四十代で熟練工として活躍し、そして六十代で指導者になるという営みを繰り返してきました。平均寿命の短かった昔にも同じことが言えるでしょう。
式年遷宮が行われた第四十一代持統天皇の御代(みよ、約千三百年前)には、世界最古の木造建築として今なお現存する法隆寺は、すでに建造されていました。
当時の技術を持ってすれば、半永久的な御社殿を造ることが出来たはずです。しかし神宮では、二十年に一度、御社殿を造り替え続けていく式年遷宮の制度を守り伝えることで、日本の文化を絶やすことなく次の世代に伝え、「悠久」を目指しつづけてきたのです。ここに
日本民族の先人の叡智(えいち)が窺わます。

先に述べましたが、式年遷宮(しきねんせんぐう)は国を挙げての最大のお祭りです。しかし、戦後は神道指令により、政府と神宮の関係が断たれましたので、国民の真心込めた浄財によって御奉賛申し上げる事になりました。今回の第六十二回式年遷宮には約五百五十億円の費用がかかり、そのうちの三分の一程度を募財しています。
 神宮大宮司を総裁とする「神宮式年造営庁」が神宮司庁内におかれ有識者からなる大宮司の諮問機関「遷宮委員会」が設置され、さらに「(財)伊勢神宮式年遷宮奉賛会」が結成され、各都道府県においてもの地区本部が組織化されます。この記事をご覧の皆様の地元の神社の神職・総代が、奉賛をご依頼の際には、ご協力をお願い致します。


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式年遷宮において新しくなる建物は、皇大神宮、豊受大神宮の御正殿と、東宝殿・西宝殿・御饌殿(みけでん)・外幣殿(げへいでん)・四丈殿・宿衛屋などの殿舎に、これらを取り囲む四重の御垣と御門、そして十四の別宮。
遷宮に必要な御用材の檜は約一万平方メートル、一万本あまり、なかには直径一メートル余り、樹齢四百年以上の巨木も用いられます。屋根に葺く萱(かや)は二万三千束、神宮の萱山で十年がかりで集められます。昔は神宮備林が木曽の山にあったそうですが、今は国有林となり、次第に良い材料調達するのも困難になっていとのことです。そこで、神宮では大正時代の末から二百年計画で神宮宮域林において檜を育成しています。宮大工や、屋根を葺く職人の養成など、技術的な伝承についても考えなければならない時代にもなっています。

上記でも述べましたが、
式年遷宮には約八百種、千六百点の御装束・神宝を古式により新しく作りお供えいたします。これは平安時代に定められ、その時代の最高の刀工、金工、漆工、織工などの美術工芸家に調製を依頼します。太刀の原料の玉鋼(たまはがね)も入手困難ですし、砂鉄をたたらで操作する和鉄精錬の技法も継承者が少なく、草木などを用いる染色家も少なくなり、技術の保全が実に困難になっており、やはり伝承技能の維持・継承が大きな課題となっています。
当代の至高の材料・技術をもって大御神さまにお供えするということは、伝統文化・技術の継承であり多くの国民の誠の結晶であり、先人の叡智、魂をも継承することです。

「式年遷宮」は、建て替えのご用材を山から伐り出す安全を祈る山口祭というお祭りを皮切りに、平成二十五年十月の「遷御(せんぎょ)」の儀が行われるまでの八年間にわたって数多くの祭典や行事が行われます。
遷御の儀は、今の御社殿から新しく立て替えられた御社殿へ大御神さまにお遷りいただくお祭りで、夜すべての灯りが消された浄闇(じょうあん)の中、百名を越える束帯や衣冠に身を包んだ奉仕者が付き従い、荘厳な古代絵巻が繰り広げられます。


「式年遷宮(しきねんせんぐう)」には、たくさんの祭典や行事がありますが、一般国民が参加できる行事は二つあります。「御木曳(おきひき)行事」と「御白石持(おしらいしもち)行事」です。この二つの行事は、数ある遷宮の行事の中でも、唯一私たち国民が関わることができる行事です。



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「御木曳(おきひき)」 旧神領にあたる伊勢市・二見町・御薗村の住民が2ヶ月間にわたり御用材を両宮に曳き入れる盛大な行事。旧神領地の町内総出の晴れの舞台で、数日前に揃いの法被姿で二見浦に「浜参宮」をして心身を清めて行事に臨む。内宮の領民は木橇に御用材を積載して五十鈴川で「川曳き」を行い、外宮の領民は巨大な御木曳車で「陸曳き」を行う。全国の「一日神領民」も多数参加し、期間中の伊勢の街は勇壮な掛け声と木遣音頭で包まれる。前回は翌年の第二次御木曳行事とあわせ20万人が参加した。





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「御白石持(おしらいしもち)」  完成した正殿が建つ御敷地に敷く白石を奉献する行事。御木曳行事と同様に、旧神領の住民が揃いの法被姿で「浜参宮」の後、内宮は川曳き、外宮は陸曳きで御白石を運び、御敷地に奉献する。「御木曳行事」と同様、地元の旧神領民に加え、全国の「一日神領民」も参加する。前回(平成5年)は21万人が参加しました。



本ブログにも転載させていただきました、さくらの花びら大兄の「大切な日」には、日本人として忘れてはならない祝祭日についての本義が述べられていました。
そして、神宮の
「式年遷宮(しきねんせんぐう)」を始めとする祭祀も氏神さまの祭りもその本義を日本人としては忘れてはならないでしょう。
太古の昔より、連綿と紡(つむ)いできた伝統と、魂なのですから・・・






(1/2) 伊勢の遷宮 ―第61回神宮式年遷宮―







(2/2) 伊勢の遷宮 ―第61回神宮式年遷宮―









転載元転載元: 美しい国


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