2011年3月11日の東日本大震災以後、原発事故を経た福島県民の自分の関心は、
「何故あの事故が起きたのか」という事でした。そのため、この件に関する本質を
見てみたいと思い、色々調査していました。
そんな中、何気なく教育テレビを見ていると、上記本質を探る一つのアプローチが紹介されていました。
出典 NHK教育 白熱教室JAPANより
-
第3回「「安全」と言ってくれ、「安心」するから」 10月16日(日) Eテレ 午後6時
原発事故を受けての経産省幹部の新聞発言を例に挙げ、「安心」と「安全」の意味を明らかにした上で、その根幹にある「リスクをとる」ことへの意識の違いを考えます。さらに、アングロサクソン社会で重用視される社会価値規範と、それを支える行動規範はどういうものなのか、日本とどう違うのかを探ります。
過去記事
なぜ日本人は、リスクを知りつつそれを封印したのか。これを日本から調べるのではなく、
日本外のものさし、アングロサクソン社会のものさしを用いて、比較検討し明らかにしていく
という内容でした。
結論は、思想・宗教・民族性にあるとのこと。
見ていて「このアプローチは面白い」と思い真似したら、ここまで
知識が少ない分、調べ物の量が増えてしまいました><
そういうわけで、色々本を読み、重妄想を膨らませつつ様々な本の感想を書いてきたのですが、
通観してみると、それぞれの社会に適合しているものとそうでないものがあるなと感じました。
そんな中「今は向いていなくても今後取り入れないとまずいもの」もありました。
リスク管理等がそれだと考えます。
以後本エントリーでは「この社会にこれを入れると反発しか生まないもの、
ダイアローグ(対話)」について考えていきます。
並んでいまして、100円だったので購入してしまいました。
Amazonのブックレビューを見ると、司馬さんが過大に評価されています。
この本、中でも書かれていますが「実証を伴わない話ではありますが」という
フレーズが何回か出てきており、歴史好きが本能的に求める事実・真実の取り扱いより、
経験・知見による主観が多い本かなと思います。
日本人の顔については「
某所」のようにそれほど記述がありませんw
この本で読む価値があるのは、ノーベル物理学賞受賞者 江崎玲於奈氏と司馬氏
の対談であると考えます。お題は「世界の中の日本人」。
「管理社会の創造性」「論理のいらない社会」「空海以後」と続き
「対話と文化の発展」の回が非常に面白いです。
江崎氏の問い:
それに関連していつも考えていることですが、日本ではダイアローグ(対話)が乏しいですね。
ダイアローグというより、喧嘩になってしまう。ダイアローグのなかでテーゼとアンチテーゼが
アウフフーベンし、そこに創造性を必要とすると思うのですけれども。
日本という社会にはそれがないから、論理も創造性もあまり生まれてこないのでしょう。
だから、先程おっしゃった学問がポツポツと点でしか発展しないということは、このダイアローグの
欠如に由来するのではないですか。アメリカの学者たちは新しい知識を活字になったものから
得るよりも、むしろ耳から得ようとします。
流れ動くものをもっと生の形でとらえようというわけですね。ダイアローグというのは、もちろん
物理なら物理学者の相互のダイアローグを含みますが、また物理学者と司馬さんなんかとの
ダイアローグや、科学者と会社の重役というようなものもあります。そういうダイアローグを
日本人は楽しまないんじゃないですかね。
私、日本のレセプションで感じましたけれども、同じような人が同じように集まっても、話にも
なんにもならないんですよ。こういうことはどうお思いになりますか?
この点について、司馬氏はあとがきで次のようにまとめて回答しています。
確かに欧米では日常、酒の出るパーティーでも相手に対してテーゼを出し、ときに自説をもって
屈服させようとする。西洋の成立というのはそのような習慣及び言語生活と無縁でないらしい。
「(日本では)ダイアローグ(対話)というより、けんかになってしまう」
ともいわれた。
日本の対話は、ふつう相手との間に相似部分を見つけ、自他その部分を重ね合わせることによって
一場のふんいきを楽しむもののようである。
このことは、よくいわれるように、水田稲作社会がつくった日本人の性格に根ざしている。
村の共同作業がおわってあぜ道で焼酎を飲みあうとき、一人がことさらにテーゼを出し、
他が反論せずとも、かたわらの稲のほうは議論とかかわりなく伸びていくのである。
そういう生産社会でできた文化は、異と異とつきあわせるよりも、同じ部分を求めあって調和してゆく
ほうを選ぶ。
そういう性格論と不離なことながら、口語言語が文章言語にくらべて熟成が遅れたということもある。
明治、大正期には対談という活字表現の形式がなかったとはいえ、たとえあっても、たがいが持っている
言語の型や質が違っていて、うまくゆかなかったにちがいない。
端的に言うと村社会ですね。
最近試してみたことですので、よくわかります。
さて、この村社会で実際に西洋風の対話を行うなどして、場のふんいきを乱す・壊す人が現れると、
日本人はどうするかというのは、以前紹介した「対談 中国を考える」にあるような行動をとります。
「中国を考える」を読んで考える
3 日本人は「いやな情報は捨てる体質」は、
昨今の日本社会・・・特に2011年3月11日以降の日本を見ると、骨身に染みて判ることでしょう。
「要するに、日本人はスパイや諜報者に向かない。もっと基本的なことをいえば、現実は何だ
という認識能力が、こんな単一民族の国では育たない」
「レッテル張りと場のムードで、情報と認識をそこで断ち切る。そして、もの言う人は出世出来なくなる。
そのため、言えなくなる」
〜ノモンハンの話が出る〜
「そんだけひどい目にあって、やっとわかるようなところがあるでしょう。情報というのは、見なくてもわかる
能力だから、情報を受けるには、たいへんな研ぎすました認識能力が必要になる。情報なんて
いくらでもくるから、結局、受け手の問題ですよね。日本人は受け手の能力に欠けた民族なんだろうな。
嫌な情報はすてる。
大金を使って、国運をかけて、呉佩孚のような骨董の値段もつかないような古物を買ったというのも、
そういうことじゃないでしょうか。民族の癖というのは直らないから、
いまも似たようなことを繰り返しているはずです」
>「レッテル張りと場のムードで、情報と認識をそこで断ち切る。
>そして、もの言う人は出世出来なくなる。 そのため、言えなくなる」
このような行動に出ます。
例をだそうかと思いましたが、ここまで読みすすめられた方は大体判ると思うので割愛します。
原発関連の議論でもそうですが、論理以上のものが、対話の時に重要となる。
これは悪癖ではないでしょうか?
これが日本を敗戦に導いた根源ではないのですか?
さて、村社会について。
昨今の日本では、農業従事者は少なくなり、場の雰囲気を重視する日本の農村社会の家庭と、
西洋的思想の家庭と、そういうものが一切ない家庭など、核家族化も起因で多様化しています。
社会も整備され、先進国となり、伸びしろが少ないとなるくらいまで発展を遂げ、生活は豊かになりました。
そんな中、小中学校時代に家庭の労苦を知る子供の方が少なくなっているのではないかと思います。
労苦を知る子供と、そうでない子供の世界観、価値観の差はいかほどか?理解出来るのだろうか?
例の子供の目線・思考回路まで脳を後退させますと、
遊ぼうよ ・・・ 家のことが ・・・ つきあいわりー
金どうした ・・・ 前まで仲良しだった ・・・ 悪い友達は居ない
しね ・・・ 家のことが ・・・ 耐える
そんなに家のことかYO ・・・ 家に押し掛ける ・・・ 自分が家のトラブルメーカーに
大事なものは? ・・・ 家
家に迷惑をかけるものは? ・・・自分
→ 自己矛盾化 → 家のために、家を無くすのではなく自己を消す
こんな感じ。
まだ他殺か自殺か真相は判りませんが。
いじめっ子がやっていたのは、「こうしたら、こう反応するか、楽しむ」という
好奇心に取り憑かれていたのではないでしょうか。
※私もよく落ち入りますが><
子供は無知で、意思も決意も無いとか薄いとか考えるのはやめた方が良いですね。
子供には子供なりの好奇心と世界観と想像力と悪知恵と行動力がある。
話を戻します。今後より一層稲作農村社会の人間は減っていくでしょう。
日本は極端にかつ急速に、西洋近代思想に二百年程遅れて西洋化し、それから百数十年。
こういう時代に、場の雰囲気と調和を重視し、対話や個人・個性を軽視するという、少数派ではないが
中間派、今後少数派になっていくだろう村社会を維持する事に、発展的方面で意味はあるのか?
という疑念が残りました。
これが有る限り「蓋をして後に問題が大きくなる事案」が改善しないと考えるためです。
良さ・・・というより、そこに属す=帰属する心地良さはありますし、わりと場のムードでエイ!ということは
私もやります。日本人が作った、長らく口伝・書伝・社会で残してきた癖は、中々抜けないということです。
今の苛め問題を裏側でコントロールしている人がいて、それに目的があるとしたら、
その日本の解体をする前に、必ず「保守的」「保守とは何か」を考えなくてはいけないと、
以下の本+以前読んでいた本で感じています。
次は保守についての考えを少しまとめてみたいなと思います。
「またも司馬遼太郎か!」という突っ込みは、別に有りで結構ですw
以上、長々とモノローグでした。