陸幕光画部別室

1000コメはぬくぬく様でありました。ありがとうございました。

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資料収集

ぬくぬく様と極楽蜻蛉様のネタを噛み砕いてみるか、ということで、、、(w
 
二元外交 戦前と鳩山の例
 
統帥権 統帥権干犯問題 ・・・ そういえば、鳩山一郎が火をつけていたなぁw
 
この事件以降、日本の政党政治は弱体化。また、軍部が政府決定や方針を無視して暴走を始め、非難に対してはこの権利を行使され政府はそれを止める手段を失うことになる。

政友会がこの問題を持ち出したのはその年に行われた第17回衆議院議員総選挙で大敗したことに加えて、田中義一前総裁(元陸軍大臣・総理大臣)の総裁時代以来、在郷軍人会が政友会の有力支持団体化したことに伴う「政友会の親軍化」現象の一環とも言われている。

その後、総理となった犬養毅が軍縮をしようとしたところ、五・一五事件で決起将校に殺害され政党政治が終結を迎え、戦時中には軍の圧力により逼塞状態にあった鳩山一郎が、戦後に総理就任を目前でGHQからこの時の事を追及されて、軍部の台頭に協力した軍国主義者として公職追放となるなど皮肉な歴史を辿る事となった。
 
 ※放っておくと、今度は軍部じゃなくて、発言力がある大都市や地方がそれをやるわけで。
  まあ、外から見て都市は都市で国は国だけど。二元化すると面倒でしょうね。
 
 
日露戦争
 
中略
 
だが、この事実が当時の幹部以外の軍部関係者には認識されず、大山・山縣は参謀総長として出席したと解されたらしく、以後の御前会議で統帥部が出席する根拠とされ、また事実と全く反するにもかかわらず「政府の決定によって統帥部の決定がひっくり返された前例はない」とする“神話”が生み出されたと言われている。

しかも、日露戦争が軍部の説く「統帥権の独立」の定義に抵触する「政略主導の両略一致」に基づいた戦争遂行が行われた事実を認識しなかった軍部は昭和期の戦争における両略一致を、「統帥権の独立」原則に反しない軍略主導で実現させようと試みるようになるのである。

と言われているだからなんともだが・・・
 
対談 中国を考える 司馬遼太郎 陳舜臣 より
3 日本人は「いやな情報は捨てる体質」

「要するに、日本人はスパイや諜報者に向かない。もっと基本的なことをいえば、現実は何だ
という認識能力が、こんな単一民族の国では育たない」

「レッテル張りと場のムードで、情報と認識をそこで断ち切る。そして、もの言う人は出世出来なくなる。
そのため、言えなくなる」

〜ノモンハンの話が出る〜

「そんだけひどい目にあって、やっとわかるようなところがあるでしょう。情報というのは、見なくてもわかる
能力だから、情報を受けるには、たいへんな研ぎすました認識能力が必要になる。情報なんて
いくらでもくるから、結局、受け手の問題ですよね。日本人は受け手の能力に欠けた民族なんだろうな。
嫌な情報はすてる。

大金を使って、国運をかけて、呉佩孚のような骨董の値段もつかないような古物を買ったというのも、
そういうことじゃないでしょうか。民族の癖というのは直らないから、
いまも似たようなことを繰り返しているはずです」
 
幣原 喜重郎
 
家族
 
家制度
 
ヨーロッパの家族
 
教育
日本における教育発展の歴史
 
西洋教育史
 
啓蒙思想
 
社会契約
 
バーク → 平泉澄(あらまw)
 
バーク哲学が、事実上まったく流入しなかったのはドイツとロシアである。ドイツではルソー直系のヘーゲルを通じてドイツ歴史学派やマルクス主義が隆盛し、マルクス主義からフランクフルト学派の社会学などが発展した。なお、このドイツ主流派の流れと対立する思想のイマヌエル・カントは『判断力批判』においてバークの美学・崇高論を参照している。カントの思想は一部ニーチェに引き継がれたが、結局のところドイツでは現代にいたるまでこのカント的あるいはバーク的といえる思想は現実社会で具現化しなかった。
 
中略
 
井上毅は、この金子のバーク抄訳を読みバークに感動し、金子を伊藤博文の秘書官に任用して、明治憲法の起草に参画させた。こうして、バークは明治憲法に影響している。

しかし、明治憲法の運用は、上からの近代化を強力に推し進めるためドイツ法を範にされることになった。その後東京大学法学部がドイツ憲法学に主軸をおきイギリス憲法学を排除したことによって、コークやウィリアム・ブラックストンとともにバークも東大のカリキュラムから排除された。その上、日本ではドイツ観念論やマルクス主義がもてはやされた事からバークの存在は省みられなかった。
 
天皇機関説
 
日米Wikipedia比較ということで・・・
学費
 
なるほどなー。
 
Tuition payments
 
Student_loan
 
イメージ 1
 
表 OECD加盟国の大学・高校の授業料無料化と給付制奨学金の有無
 
 
親の教育費負担
 
皇国史観
 
再掲:もう一度読んでみよう
歴史神学者平泉澄(二・完)
植村 和秀(うえむら かずひで、1966年 - )は、日本の政治学者。京都産業大学法学部教授。専門は、ドイツ政治思想史、ナショナリズム研究。

はじめに
第一章 歴史神学をもたらすもの
 第一節 日本国家の精神的機軸
 第二節 ナショナリズムの変質とその日本的変奏(以上、第三七巻第四号)
第二章 国史学の神学的代位(以下、本号)
 第一節 理性と信仰 
 第二節 教義―皇国日本の理念的構成
 第三節 教会と伝道―崎門の復活 
おわりに
http://ksurep.kyoto-su.ac.jp/dspace/bitstream/10965/514/1/SLR_38_1_42.pdf
 
国体の本義
 
ナショナリズム
 
ファシズム(超国家主義)
 
民族
 
青空文庫
おお、古いのが多い
人格を認知せざる国民
 
 例えば自分に背かぬという精神、正しいと思えばその通りをやるという真面目に於て、日本人の到底及ばぬものが、米人にある。もっともこの弊害もあって、道徳がとかく個人主義に流れるということもあるが……しかし私は、同じく国家のために尽さぬにしても、不真面目でありながら口先ばかりで、天下国家を云々うんぬんしているものよりは、退りぞいて一人を守る人の方が国のためになりはせぬかと考える。忠君愛国を無暗に振り廻わして、天下を闊歩している不真面目な人よりは、寧むしろ退いて一身を守っている人の方が、いざという時に天下国家のためになりはせぬか。
 
中略
 
 日本人間の、右のようは悪風な、形式的教育、私は忠君愛国を悪いとはいわないが、忠君愛国一天張の形式教育によりて、大分助長されているものと思う。忠君愛国一天張で、お前嘘をいうなというような、人道教育のないということは、この悪風の原因の一でなかろうか。(大正元年十一月廿六日夜、道友会に於ての講話筆記にて、文責記者に在り)
 
〔一九一三年一月一日『道』五七号〕
 
 
、、、ふむw
 
ひとまずこんなアプローチで。
まあ、これは資料収集の項なのでコメは無し、とw
明治神宮にて昨今の人倫・教育問題を考える
 
先日上記の記事にて、忠孝についてブレストしました。
ある一つの納得を得ましたが、それでもやはり忠孝に対して嫌悪感がない自分。
自分が何の人で、何を欲している・いたかが判るから。恥ずかしいから「それ」は書きませんが。
 
まあ、ただのドMだからというのもありますw
 
さて、宮崎市定著の「史記を語る」を復習していたら、面白い記述がありました。
早速ショウペンハウアー先生が戒める、他人の思考を借りる行為をしてみます。
 
岩波文庫 宮崎市定著 史記を語る Ⅳ 列伝 より
誤解された古代史

前略
だから、唯物史観の根源地のヨーロッパ(ソビエトとは言わぬ)では、一応は唯物史観を認めつつも、
古代資本主義、古代封建制度という名の研究で起こった由である。事実世界各地の古代史を、
奴隷の主人に対する階級闘争ばかりで叙述しようとしたなら、我々が重要だと思う古代人の
生態は、百分の一も残らず、ほとんど総てが生存の権利を剥奪されてしまうだろう。

※↑事実より理論を優先させる者の多いことを憂慮して。
  例)古代=奴隷制度、という理論として理解すること  【mp の独り言 】

同時に日本における伝統的な中国古典の読み方にも大きな欠陥があった。中国古代に古代的
封建制度が存在したことは事実である。しかし総ての事象を封建の網目で掬いあげようとしても
無理である。

例えば孔子の原始儒教において、それが専ら忠孝の封建道徳を教えたように理解するならば、それは
むしろ古典を読む側の偏向である。孔子の「論語」で言う忠は、必ずしもその対象を君主に限定しない。

 ※忠実・・・史実に忠実 ルール、教えに忠実 忠誠 忠という漢字から考えるとわかるかもしれない
   【mp の独り言 】

孝を重要な道徳として教えるのは事実だが、それは常識的な孝行であって、身命を犠牲にしてまでとは
言わない。
むしろ孔子が重んじたのは「信」である。信とは平等な市民と市民との間の基本的な相互依存の 原則である。

孔子の「論語」を封建的な上下の間における滅私奉公の意味での忠孝を教える書と呼んだのは、むしろ
徳川時代の封建制度下における日本人が、自己の封建思想で理解した結果に外ならなかった。
 
後略
 
>孔子の「論語」を封建的な上下の間における滅私奉公の意味での忠孝を教える書と呼んだのは、むしろ
>徳川時代の封建制度下における日本人が、自己の封建思想で理解した結果に外ならなかった。
 
これは山崎闇斎を始祖とした崎門派のことですね。またこの人にたどり着いてしまいました。
 
※以下参照
 
朱子学を取捨選択して滅私奉公を重視した、これが当時の日本に合ってたということかと考えます。
そういえば一昔前、日本人は西洋人からワーカーホリックなどと言われていました。
これは日本人が民族性の中に持ってる癖なのかもしれませんね。※その良し悪しはここでは問いません。
 
ちなみにワーカーホリック=仕事中毒のWikipediaは中々傑作なのでご覧下さい。
 
日本の場合

仕事中毒とは、仕事に打ち込むあまり、家庭や自身の健康などを犠牲とするような状態を指す。その結果として、過労死や熟年離婚といった事態を招くこともある。[1]

中略

日本ではかつて、特に男性においては「滅私奉公」等の言葉に代表されるように、己の身を顧みず職業に邁進することこそが良いとする規範が存在し、己よりも職を優先することが、社会的に求められた。この中では、有給休暇を取ることすら罪悪のようにみなされた。
 
 
欧米の場合
 
欧米では、古くから「人はまず家庭にあり、その対価を得るために仕事がある」という個人主義の価値観、および日曜日を安息日とする宗教的な背景もあって、日本人のような仕事に埋没する姿勢を「ワーカーホリック(仕事依存、"work"(仕事)と"alcoholic"(アルコール依存症の)との合成語)」と表現して忌避した。また、日本に比べ失業率の高かった欧米では、仕事中毒者が失業者の仕事を奪ってしまうということからも、過度の過密長時間労働は社会的に問題があるとみなされた。
 
 
結局、忠孝が滅私奉公になっている日本人の認識が、私が富永仲基の文を読んでからの違和感の元で、
 
明治神宮にて昨今の人倫・教育問題を考える

 
上記の記事で書いた以下の富永仲基の考え
 
中央公論社 日本の名著18 富永仲基 石田梅岩 「翁の文より」
それならば、その誠の道、つまり今の日本の世で実践されるべき道とは一体何を言うのであろうか。
それは、ただ物事に対しては、その当然になすべきことをつとめ、今現在やっている仕事に生活の
根拠を置き、心を素直にし、品行を良くし、言葉遣いを柔らかくし、立ち居振る舞いを慎み、親の
あるものは、よく親に孝養することである。
 
>ただ物事に対しては、その当然になすべきことをつとめ
 
というのは、宮崎市定が理解する
 
>孔子の「論語」で言う忠は、必ずしもその対象を君主に限定しない。
 
 
>それは常識的な孝行であって、身命を犠牲にしてまでとは言わない。
 
なのであって、
 
中央公論社 日本の名著18 富永仲基 石田梅岩 「翁の文より」
ところで、この誠の道というものは、そのもとはインドから来たものでもない。中国から伝来してきた
ものでもない。また神代のむかしにはじまって、今の世に習い伝えられたものでもない。
天から下ったものでもなければ、地から湧き出たものでもない。
 
ただ、今生きている人のうえに照らして、このようにすれば人も喜び、また自分もこころよくて、
はじめから終わりまでさしつかえるところもなく、全てがよく治まるというところから生まれたものである。
また、このようにしなければ、人もこれを憎み、自分もこころよくなく、ものごとに支障が増えて
順調にゆかないことばかりが多くなるので、どうしてもこのようにしなければならないという、
ごくあたりまえの人のなすべきところから出て来たのが、この誠の道である。

だからこれは、人がとくに頭をひねって、かりに作り出したというものではない。だから
今の世に生まれ出て、それが人間として生まれたものならば、たとえ三教を学んだ人
だといっても、この誠の道を捨てて、一日として人間らしく生きることはできないはずである。
 
富永仲基は、このごくあたりまえの人のなすべきところが、孔子が言うあたりまえの「忠孝」と「信」
という本質なのである、ということをきちんと捉えていると思いました。
 
ここまできて、ぬくぬく様=兵頭某氏のいう「非契約的思想の排除」は、欧米の個人主義のことを
言っているのかなと感じ、仕事中毒のWikipediaにあった以下の記述を読み解きました。
 
>「人はまず家庭にあり、その対価を得るために仕事がある」という個人主義の価値観
 
なるほど、まず夫婦から構成される家庭は、そのはじめは契約的であり、子は結果的な産物であって
契約的ではない。子は親の面倒を見るという事は、西洋的=契約的ではないなと感じました。
以下の記事は、一人のブロガーの意見ですが、なるほどと感じた次第です。
 
親孝行のない西洋
 
これは、中国人と日本人と西洋人の「幸」「仕合わせ」の価値観(ぬくぬく様は言霊というかもしれないw)
の差なのかもしれません。これについては後ほど。
 
確かに西洋・欧米の思想を知らないと、日本・中国・アジアの世界観、概念を客観視できませんね。
 
岩波文庫 宮崎市定著 史記を語る Ⅳ 列伝 より
従来の古代に対する理解の不足は、封建とし言えば、封建以外の生き様がなかったかの如く
考える視野の固定化にあった。そして封建はむしろ上流階級の生態であって、封建君主の下に
地盤となって存在するのは、ギリシア、ローマの古代に見られるような都市であったことを完全に
見落としていた。この見落としは、日本の学者の多くが、意外にも西洋文化に対して無理解である
ことに基づく
 
そんなわけで、学者ではありませんが、あまりに無知なので最近少し勉強中です。
 
東京の事務所の近くが古書屋さんのため、嬉しい悲鳴中w
 
以上でした。
内藤湖南の先哲の学問より「山崎闇斎の学問と其の発展」、平泉澄の「闇斎先生と日本精神」を
読んでの雑考、最後は内藤湖南に戻ります。
 
以前、宮崎市定の「史記を語る」という本を読みまして、以下の記述を見て共感したことがありました。
 
岩波文庫 宮崎市定 史記を語る より
司馬遷は一種の弁証法を用い、歴史は対立と統合によって新局面が成立すると考えて、黄帝以来、漢の高祖に至るまでを記述してきたが、(後略)

 
それを用いるとどのように本質が読めるのだろうかと思い、史記以後の歴史や、現実の権力闘争等に
あてがえて考えてみたことがあります。
 
この宮崎市定の師が内藤湖南になるのですが、内藤湖南の先哲の学問を読んでいると、
やはり対立を見出すのが上手い。というより、この人は対立者が出ること、それを見るのが
好きなのではないかな、とも考えている次第です。思い切り主観ですがw
 
さて、主題の山崎闇斎の学派(以後、崎門派と呼ぶ。)は「判を押したように一様」であるため、
その謳い文句の通りであるならば、学派内から対立者が出ようはずもないのですが、やはり学問で
ある以上、それに携わるのが人間である以上、必ず対立者が出るようです。
 
崎門派の中からは、特に大きな対立者として吉見幸和という人が出ました。
この人を、内藤湖南は大変敬服しています。
 
前略
平田篤胤は「俗神道大意」という本を書きまして、これは恐らく、明治以前では、
神道の沿革を知る上に於いて、非常に便利な本でありましたので、私はその本を
大変好んで読みました。そうしますというと、その吉見の著述を引用しております。
その内容の大部分は、吉見の著述から出ていることが分かりました。
この吉見という人に大変私は敬服しました。

とにかくこの吉見の三つの本(「語部書説弁」「増益弁卜抄」「宋廟社稷答問」)だけ、今日自分で
持っている、又それを通読して見ましたのであります。
ところが、この人はある一方から見ますというと、闇斎先生の神道の流れを汲んでいる
のですけれども、闇斎先生の説を、大部分ひっくり返している。そうして新しい説を出しているので
ありますが、闇斎先生の末派からは、闇斎先生派の謀反人の如く云われております。

ところで、どうして闇斎先生派から、そういう人がでたかということには、大変私は疑問を持っていた
のであります。
後略

 
>ところで、どうして闇斎先生派から、そういう人がでたかということには、大変私は疑問を持っていた
>のであります。
 
 この内藤湖南の疑問は、以下のように結んでいます。
 
とにかく、内宮外宮の区別を、そういう風に考えたのは偉いことで、闇斎先生の考え付かなかった
ことを考えたものだと思う。当時は闇斎先生の説に反対すると、謀反人だという人があるそうでしたが、
しかしその根本は、そういうことを発見する原理は、闇斎先生の原理に拠っている。

それはつまり、この吉見幸和という人も、それを神道の原則としておったのであります。これを
以って見ましても、これらのことを、闇斎先生のような偉い人が考えて行かれて、その門派の
人に色々偉い人があるが、段々先生の考えた原則から色々に応用して、学問となり道徳となって
発展すべき、その種をみな先生がもっておられたということが分かります。

この思想の発展の本質の捉え方は、内藤湖南が若い頃から信奉していた、
江戸時代の哲学者「富永仲基」の加上の原理そのものです。
その原理については、以下の2つのページを見れば内容は大体理解出来ます。
あとは、実際に見たり、原文に触れるとなお理解が深まると思います。
 
http://www.wombat.zaq.ne.jp/auamm705/mizuta.htm
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1735_21416.html
 
 
■加上の原理概要図
Aという者がaという論を生み出す。(始祖)
Bという者がa論を批判、改良してb論を作る以後発展的に繰り返す
 
イメージ 1

そこで、山崎闇斎を中心に、崎門派の発展を図示すると、以下のようになると
私は捉えました。
 
中華という山があって、はるか昔に朱子が居る。中国と日本の山は繋がっており、
水が流れ繋がっている。
または、中華大陸の水が雲になって雨となり日本峰に降り落ち水源になるイメージ。
  
イメージ 2

日本に流れ来た朱子学は、中国の水に日本の水と土が溶け込み、その水で日本風の儒教に育ち、
江戸初期にあった神道と融合し、山崎闇斎によって集大成される。以後崎門派の本流として、
後世に流れていく。
 
本流の中では、正統派が先代の論を発展させ、川幅を広げる。
一方、本流の中に対立者が生まれ、始祖・教祖の論を批判し対立する。
 
本流の論が簡単に沈む論であればその批判で終了する。
堅固な論、学派であれば、分流は異論として残り、その論者は別な流れの教祖として川幅を広げていく。
 
こんなイメージかと考えます。
 
これは、恐らく他の世界の宗教でもそうでしょうし、政治や例えば製造業だとしても
人の考え・主張、利害があれば必ず存在する、普遍的な捉え方なのではないかと考えます。
 
例えば、対立者を見る。
対立者のルーツを見、どのような発言をしてきたかを見聞きし、どのような思想を持っているかを見、
根本を探っていく。そして、余計なものを取り払うと、わりと簡単な本質にたどり着く。
 
なるほど、と最近何処かで応用してみたりもしました。
 
内藤湖南はこの原理を応用し、中国の古典を追いかけるときに、加上の論を辿っていくことで、
文献や論の検証をしていったと考えています。「山崎闇斎の学問と其の発展」の文章の中には
一言も富永の話は出ませんが、その考え方を用いて山崎闇斎を見ていることには大変感動しました。
 
また、内藤湖南の著書に「日本文化とはなんぞや?」という著作がありました。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/2939_21535.html
 
平泉澄、内藤湖南の闇斎論を読んだ後にこの書を読むと、
「日本中心主義である平泉の歴史観の批判をしている」ということに気づきます。
そのため、山崎闇斎に関する著作も、批判者だからこそ平泉澄では絶対に語れない論
を語っているのだな、ということも同時に気づきました。

対立者がいるから、批判が生まれる。
対立者がなければ、批判が生まれず、内にくすぶるのみ、またはそのまま真っ直ぐ突き進む。
 
対立者の乱立は悲惨な状況ですが、正常な発達には、一定の対立が必要なのかもしれません。
ここで、最初に出した宮崎市定の言葉、
司馬遷は一種の弁証法を用い、歴史は対立と統合によって新局面が成立する

に結ばれるのだな、と考えたのでした。
彼も内藤湖南流を受け継いでいる、ということですね。
 

以上、山崎闇斎について、最近の勉強結果のアウトプットを終わります。
 
興味ない方は大変失礼^^;
 
前回の続き、内藤湖南の先哲の学問より「山崎闇斎の学問と其の発展」、
平泉澄の「山崎闇斎と日本精神」を読んでの雑考となりますが、今回は平泉澄が
中心になります。
 
今回、この山崎闇斎を巡る読書と思考のスパイラルに向かった要因の一つが
以下の、宮崎市定氏が残したエピソードにあります。
 
岩波書店 宮崎市定 独歩吟 「アジア歴史研究入門」 序 より
昭和17年、文部省教学局という所で、「大東亜史」の編集を企画した。大東亜史とは、
当時のいわゆる大東亜共栄圏の歴史で、それが完成の暁には、広くアジアの各国語に翻訳して、
共栄圏諸国民に読ませようという、甚だ遠大な目的を有するものであった。
中略
さて、四人が文部省へ集って話を聞くと、大東亜史の内容は、世界で最も古い歴史を持つ
日本の文化が、朝鮮、支那からアジア各地へ伝わって行く歴史でなければならず
、その光被
する範囲は、ビルマ以東ということであった。
 
>大東亜史の内容は、世界で最も古い歴史を持つ 日本の文化が、朝鮮、支那から
>アジア各地へ伝わって行く歴史『でなければならず』
 
この『でなければならず』という思考回路は何なのだろうか、ということでした。
「まず結論ありき」から学究を開始し、それに合わせて事実をかき集め
論を作り、結果事実を損なうという、歴史家内藤湖南の以下の懸念の通りに
なってしまうだろうこの心理は、一体何から生まれているのか。大変興味がありました。
 
 
「異部名字難必会」の項
それを歴史家などは、傳説時代の事でも、どれか一つを事實として、その他は誤り又は僞にしたい。それがため反つて事實を失ふことになる
 
 
これは、歴史だけに止まらず、科学技術やら政治の場でも起きうる、学究方法なのではないかと考えます。
ここで、結論ありきをGoogle検索してみると、原発問題の賛成派・反対派のブログと共に、歴史教科書問題がひっかかりました。
 
政府間プロジェクト
 
日韓の国家間のプロジェクトとして、日韓歴史共同研究事業がある。しかし、韓国の研究者による、歴史検証よりもまず結論ありきの自国の歴史認識の主張があるなど、双方の研究者の研究姿勢のズレから、現時点での成果は少ない。

大韓民国の国定の歴史教科書は韓民族中心史観が強く、一部では非科学的な歴史の記述も見られる誤述修正のための見直しには韓国世論の反発も予想され、日本の研究者の新しい見解や事実が受け入れられるのに時間がかかるといわれる。また伊藤博文を殺害した安重根は大韓民国では祖国の独立運動の英雄とされるが、日本国では教科書によっては抗日運動家、あるいは単なる過激な暗殺者などと記述されるなど、双方の超え難い立場や視点の壁も存在する。こういった様々な障壁から、共同研究の結果を出すことがなかなかできない状態であり、その結果を双方の歴史教育に反映させることは今のところ困難である。
 
韓民族中心史観。
 
なるほど、昨今読んだ平泉澄の著作「闇斎と日本精神」の著作の中にも同様の考え方がありました。
曰く「日本中心主義」という考え方です。
 
これらから「でなければならず」の歴史観は、「X中心史観」という「客観ではなく主観」なのではないか、
という考えを持ちました。
 
これを紐解くには、平泉澄を知らねばならないと思い、以下の論文を参照しました。
この論文は平泉澄という人間、彼が与えた影響、当時の日本がどのような
状況で、何故彼が求められたのかが深く記述されており、非常に良い論文となりますので、
是非ご一読下さい。
 
本エントリーのタイトル「でなければならず」があくまで主眼のため、前後を抜いて
あえて以下の文章のみを抜粋します。平泉澄の歴史観の核心部分です。
 
「更に思ふ。我等は紛れもなき日本人として、櫻咲く日本の国土の上に、幾千年の歴史の中より、
生まれ出で、生ひ立ち来った。我等のあるは、日本あるによる。日本の歴史は、その幾千年養ひ
来った力を以て今や我等を打出した。我等の人格は、日本の歴史の中に初めて可能である。
同時に、日本の歴史は、我等日本の歴史より生れ出で、日本の歴史を相嗣せる日本人
によって初めて成立する。
 
……求むれば則ち之を得、舎つれば則ち之を失ふ。
信ずれば影向し、疑へば消散する。日本の歴史を求め、信じ、復活せしむるものは
即ち我等日本人でなければならな(畏)い」。


 われわれはここで、平泉歴史神学の信仰の核心に触れている。それはすなわち、
特殊絶対的な歴史的世界への信仰なのである。平泉によれば、人間は特殊絶対的な
歴史的世界の中に在り、その世界を成り立たせている理念においてのみ、真に生き得る
存在である。そして日本は、そのような特殊絶対的な歴史的世界の一つを最も
正しく形成してきたとされ、その世界の成立根拠である特殊絶対的な皇国理念の顕現に
おいて、日本人は真に生きえ、人類に貢献しうるとされるのである。
 つまり、平泉の日本への信仰とは、日本という特殊絶対的な歴史的世界の実在への
信仰なのであり、その世界を成立させている理念、日本を日本たらしめている皇国理念への
信仰なのであった。これが、平泉の全生涯の原点であり、扇の要に他ならない。そして、
平泉の平泉たる所以は、この信仰の旗の下に、自己完結した世界を国史学によって論理的
に構築する所にあった。すなわち、国史学は神学に代位し、信仰の合理的な体系が
整然と整えられていくのである。
 
>特殊絶対的な歴史的世界への信仰なのである。
 
「でなければならず」を私が理解に苦しんだのは「信仰であるため」ですね。
私の不得意とするところです。
 
平泉澄において、世界史は存在しない。地球上には複数の特殊絶対的な歴史的世界が並立し、
人間はそれぞれの中に在るのみである。そして人間は、異なる歴史的世界を真に理解し得ず、
ただ自己の歴史的世界のみを真に理解しうる存在である。これらの歴史的世界は、その特殊
絶対性を貫徹すれば興隆し、喪失すれば滅亡する。
 
当時は、思想が甚だ混乱し、マルクス主義者の台頭もあり、平泉澄という人間が求められた。
というのは理解しました。しかしこの点については私は反対の意見を有しています。
 
信仰という理由で自国中心主義となり、他の世界を無かったことにするならば、
現実に存在する他国と他の世界(のことがら、現実)はどのように扱うのでしょうか?
これが、あの時代日本が一気に膨張する原動力となり、しかし結局は
勝ち得なかった理由なのではないでしょうか?
これは恐らく、昨今のグローバル化の考え方、原発問題にもに結びつくはずです。
 
司馬遼太郎が、日本人は普遍性を身に付けるべき、といったのはこういうことなのかな、
とも思い出しました。
また「でなければならず」は「神道の癖は隠す」という弱点につながります。
 
しかしもちろん、反発もあった。大井少佐は平泉の講義に正面から異議を唱え、
「学者として講義をなさるのに、歴史上の人物を最初から忠臣逆臣と分けてかかり、
呼称にまで差別をつけておられますが、何故そんなことをする必要があるのですか」と
述べ、「平泉教官は呆気に取られたような顔で、返事をしなかった」と阿川は伝えている 。
 
呆気に取られたような顔をするのは、天動説が主流の教会に地動説を展開するようなものだからです。
崎門派が共通して持つ上記のようなタブーが、私感ですが2点あります。
 
1 神道で敬を最も重視しているにもかかわらず、日本中心主義であるため、
朱子に対する敬が無く、神道の基になった朱子学、漢字等の中華文化への敬が無い。
 
2 吉田神道、伊勢神道、垂加神道など、教祖、始祖たる山崎闇斎が原典としたものが
偽作であったり、古くからあったものでなかったり、理論の誤りを指摘
されたものごとを異端扱い(吉見幸和)する
 
これについては次あたりにまとめます。
 
さて、上記のPDFファイルには、現代にも通ずる、興味深い文章が多々ありました。
昨今良くあらわれる維新の会について、かれらは維新の原理どおりに動いているか、
支持者の方は一つ原文を読みつつ考えて頂ければ幸いです。
原理通りに動いていなければ、ただの第二民主党になることでしょう。
 
この標準的な教義の中には、平泉によれば、日本人の倫理性を守り、創造性を高め、
主体性を起動し、政治性を駆動させる可能性が一式含まれていた。すなわちこの教義には、
革命を断乎として否定させ、革新の争いを創造的な政治改革の競争に転じさせ、日本人が
主体的かつ政治的たらざるをえなくなる構成が施されていたのである。それは平泉によれば、
日本的近代の作為の論理を起動させ、日本における政治の論理を駆動させるはずのもの、
すなわち、「維新の原理」なのである。
 
極楽蜻蛉様が良く言われることのエッセンスも記述がありますね。

「人はまごころによって動く。神仏も人のまごころで動く。えらそうなことをいって、看板だけは
立派でも、財閥から金を取ってやるような運動は、泡沫のようなものである、誠と誠が結び合わねば
天下をうごかす運動にはならない。
天皇陛下が民草のことをつねにいつくしみ、つねに思っていられる。その大御心を心として、
人の誠を尽すことである。われわれの運動は、横につらねて旗を振ることではなくて、根を張ることだ。
これをやらないで、旗を振って、華かに新聞やテレビで騒がれるようなことを狙う運動は、結局うたかたの
ごときものである。あの人の言うことなら信頼できる、絶対安心だ、そういう人と人とが結び合うことだ。
その結びは因縁である。天の配剤といってもいい、必ず結ばれるものである。それが国を興す
運動につながったときに、本当の運動となる」。
 人と人との結び付きによって、平泉は、自己の歴史神学の教会を形成しようとし、そして実際、
かなり大きな力を持ち得たようである。昭和六年の夏に帰国した後、まさに「天の配剤」の如き
多くの人々の助けによって、平泉は順風に乗ることになった。
 
但し、この文章自体にはトラップが2つあると思います。「絶対安心と因縁」です。
 
■最後に
日本人を見直してみるとき、山崎闇斎は避けて通れない人物であることが、
平泉澄と当時の歴史を通じて良く判りました。
 
 なぜ平泉の歴史神学は、短期間の間に多くの信奉者を生み出しえたのか。そしてなぜ信奉者たちの
中核は、戦後も団結を保持しえたのか。平泉の影響力は、決して終戦とともに終結したわけではない。
われわれはこの同学集団に目を転じ、平泉歴史神学への共鳴の精神的基盤を考察しよう。
それはわれわれの見る所、近世日本の儒学の伝統上に、とりわけ崎門の伏流の上にある。
われわれは、平泉歴史神学を、崎門の近代版と見るのである

現在、日本人はまた見失いつつある。
次に向かうのは、主観の信仰である埼門派なのか、
それとも普遍性、客観性を重視する合理主義なのか。いや、そもそも今の思想は何なのか。
新自由主義?
 
を考えてみると良いかもしれません。
信ずるのも、行動するのも自分ゆえ。
 
またまた長文でしたが、以上です。
内藤湖南の先哲の学問より「山崎闇斎の学問と其の発展」を読んで、
日本人の精神性、文化性の一面について雑考します。
 
山崎闇斎の来歴については、名前のリンクのWikipedia通りです。
幼い頃から10年程度仏教に身を置き、その後朱子学に傾倒し、
従来の神道と儒学を統合して、垂加神道を開いた。
崎門派、という学派を生み、国学、幕末の尊皇攘夷に影響を与えた。
 
また、内藤湖南は「山崎闇斎の思想は、日本の文化に大きな関係を持っている」という。

どのように関係があるのか、支那学派の内藤湖南から見た闇斎と国粋主義の平泉澄から見た
闇斎を比べて見ました。
 
2人に共通しているのは次の3点。
 
1. 朱子学を信奉し、鋭敏明晰な頭脳をもって、当時の哲学・科学で、
朱子学の取捨選択、価値判断を行った。神道を朱子学を用いて解釈し、融合させた。
 
2. 山崎闇斎の学派の学問は「どこも判を押したように一様」である。
朱子学の基本が「忠」孝にあり、彼の教えが徹底していたためと考える。
 
3. 朱子学の中から「敬:ツツシミ」を見出し、神道において最重要視した。
 
3が、日本人の精神・文化の根底に流れるものになったと感じました。
これについては、歴史家の内藤湖南の記述が非常に判りやすいので抜粋します。
 
筑摩書房 先哲の学問 内藤湖南著 山崎闇斎の学問と其の発展より
闇斎先生が、儒教の方で敬ということを尊びます。これが大事なことである。
ツツシミ、ツツシムということが大事である。
これが闇斎先生の五行説に引き附けられまして、それがついに神道の原則となり、
それが一方では儒教の原則であるから一方では神道の原則であるというのが闇斎
先生の考であります。
それに対して、浅見絅斎の門人に若林強斎という人があります、その人の学説は
私は詳しくは知らないが、私はただ谷川士清の「日本書紀通証」によって若林先生の
説を読んだのである。
その僅かの言葉に大変感心しました。それは

ツツシミ
土地之味は自然の道

ツツシム
土地之務は当然の学

こう申しました。 それだけのことは若林は言ったのであります。これがうまく
発展すると、 日本における哲学思想の根本を為し得るものを持っていると
私は思います。
それが闇斎先生の孫弟子まで、そういう考が発展していったのであります。
 
例をもって考察します。
2011年3月11日、東日本大震災が発生した際、他国から日本の国民性について驚かれた点がありました。
 
多くの日本人が、災害時に大パニックにならず、秩序を持って行動していたこと。
 
これがツツシム・・・当然の学(まなぶ・まねぶ)
 
の精神だったのではないかと感じました。
 
何故多くの日本人がツツシムことが出来たのか。
山崎闇斎が作ったものは、その後一学派として発展し、神道、国学、国家神道に組み込まれていきます。
また彼の門徒からは天文学者の渋川春海が出て、日本の暦を作りました。
 
 
イメージ 1
 

暦は、農業や人の行動、行事の規範になります。その行事も神式、仏式であり、それぞれ
しきたり、マナーがあり、それらが親から子へ、社会で伝承されて今に至っているわけです。
宗教の自由が法で保障された現在日本でも。上記カレンダーのxxの日などは、ニュースや
食事にも現れます。
山崎闇斎とその学派が創り上げた、神道の哲学の遺産がツツシムとして、日本人、日本社会に
染み付いていて、あの様な危急の時に顕れたのかと考えた次第です。
 
※私という人間が、行動や発言にツツシミが無く、「会津人じゃないね」と言われる
 理由は、こういうのに今更気づくからですね。
 
しかし、ツツシムにはデメリットもあります。
 
一つは、東日本大震災時の「自粛ムード」です。
日本人の死生観も有りますが、あれはまさにツツシムのデメリットだったのではないかと
考えました。
 
もう一つは、先にあげた山崎闇斎を語った2人の共通点の2、
 
2. 山崎闇斎の学派の学問は「どこも判を押したように一様」である。
朱子学の基本が「忠」孝にあり、彼の教えが徹底していたためと考える。
 
です。
 
師匠の思想・考、言、文献に逆らわない。
異論・発言をツツシム。結果「どこも判を押したように一様」となる。
 
これは日本の癖というものでしょう。
 
例えば、異論、意見が有ったとしても反論はしない。これは自分の意思、意見を、
メリットもデメリットも、リスクも「隠す」ことに他ならない。
 
これが悪く働くと、原子力なんとか委員会等に見られるような秘密会議になる。
どこも判を押したように一様な、利害関係が一致した学派。
原子力ムラ。村社会。 
 
私が昨今歴史やら宗教の調べ物をしている理由は、
日本における現在の事柄を、昔から変わらないだろう(読んだ、という経験則的主観)
歴史の普遍的な要素を感じ、それを通して見てみたい(客観)と思ったからです。
これが出来なければ歴史を学ぶことの価値は無いのかなと。
 
(中国の歴史は通じて好きですが、儒教はかの国の各人物の生き様でもって
経験則でわかっているのみで、教義自体詳しいわけではない。
仏教・神道は知識も信も無いという有様。)
 
今回このように、日本の精神を探るのに日本の神道の源流を辿り、理論を体系化した人を
知ったおかげで、「そんなの当たり前じゃないか」と言われるかもしれないが「だからこそ、普遍的なこと」
に気づけたのが非常に有意義でした。
 
さて、ここで疑問が生じます。
 
この「ツツシミ・ツツシム」は、改善した方が良いのだろうか?このままで良いのだろうか?
 
と。
 
私の意見では、ツツシムは強みであり弱みである。
弱みが出ると良くない案件においては、あえて弱みを封じる対策を採ることで、
弱点が克服できるのではないかと、考えています。
 
しかし、仕事や個人相手ならまだしも、例え正しい発言でも、社会・組織相手だと、最悪
地位職責を失うリスクが生じる。
これが日本の悪癖。正しかろうと、発言が許されない。発言・糾弾することがリスク。
これに対するには、信念か派閥が必要になる。故に日本は派閥社会なのかな、とも思いました。
 
日本人は、ツツシムの存在とその強み・弱みを知っていかなければならないと考えます。
これはリスクマネジメントにも繋がるとも思うのです。
 
日本人は、リスクマネジメントが下手であるという事の源流、
それは、日本人の信仰由来の「癖」であった、ということを「私の意見」として、本エントリーを終えます。

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