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ぬくぬく様と極楽蜻蛉様のネタを噛み砕いてみるか、ということで、、、(w
二元外交 戦前と鳩山の例
統帥権 統帥権干犯問題 ・・・ そういえば、鳩山一郎が火をつけていたなぁw
この事件以降、日本の政党政治は弱体化。また、軍部が政府決定や方針を無視して暴走を始め、非難に対してはこの権利を行使され政府はそれを止める手段を失うことになる。 ※放っておくと、今度は軍部じゃなくて、発言力がある大都市や地方がそれをやるわけで。
まあ、外から見て都市は都市で国は国だけど。二元化すると面倒でしょうね。
日露戦争 と言われているだからなんともだが・・・ 対談 中国を考える 司馬遼太郎 陳舜臣 より
3 日本人は「いやな情報は捨てる体質」 幣原 喜重郎
家族
家制度
ヨーロッパの家族
教育
日本における教育発展の歴史
西洋教育史
啓蒙思想
社会契約
バーク → 平泉澄(あらまw)
バーク哲学が、事実上まったく流入しなかったのはドイツとロシアである。ドイツではルソー直系のヘーゲルを通じてドイツ歴史学派やマルクス主義が隆盛し、マルクス主義からフランクフルト学派の社会学などが発展した。なお、このドイツ主流派の流れと対立する思想のイマヌエル・カントは『判断力批判』においてバークの美学・崇高論を参照している。カントの思想は一部ニーチェに引き継がれたが、結局のところドイツでは現代にいたるまでこのカント的あるいはバーク的といえる思想は現実社会で具現化しなかった。 天皇機関説
日米Wikipedia比較ということで・・・
学費
なるほどなー。
Tuition payments
Student_loan
表 OECD加盟国の大学・高校の授業料無料化と給付制奨学金の有無
親の教育費負担
皇国史観
再掲:もう一度読んでみよう
歴史神学者平泉澄(二・完)
植村 和秀(うえむら かずひで、1966年 - )は、日本の政治学者。京都産業大学法学部教授。専門は、ドイツ政治思想史、ナショナリズム研究。
はじめに 第一章 歴史神学をもたらすもの 第一節 日本国家の精神的機軸 第二節 ナショナリズムの変質とその日本的変奏(以上、第三七巻第四号) 第二章 国史学の神学的代位(以下、本号) 第一節 理性と信仰 第二節 教義―皇国日本の理念的構成 第三節 教会と伝道―崎門の復活 おわりに 国体の本義
ナショナリズム
ファシズム(超国家主義)
民族
青空文庫
おお、古いのが多い
人格を認知せざる国民
、、、ふむw
ひとまずこんなアプローチで。
まあ、これは資料収集の項なのでコメは無し、とw
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読書
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明治神宮にて昨今の人倫・教育問題を考える
先日上記の記事にて、忠孝についてブレストしました。
ある一つの納得を得ましたが、それでもやはり忠孝に対して嫌悪感がない自分。
自分が何の人で、何を欲している・いたかが判るから。恥ずかしいから「それ」は書きませんが。
まあ、ただのドMだからというのもありますw
さて、宮崎市定著の「史記を語る」を復習していたら、面白い記述がありました。
早速ショウペンハウアー先生が戒める、他人の思考を借りる行為をしてみます。
岩波文庫 宮崎市定著 史記を語る Ⅳ 列伝 より
>孔子の「論語」を封建的な上下の間における滅私奉公の意味での忠孝を教える書と呼んだのは、むしろ
>徳川時代の封建制度下における日本人が、自己の封建思想で理解した結果に外ならなかった。 これは山崎闇斎を始祖とした崎門派のことですね。またこの人にたどり着いてしまいました。
※以下参照
朱子学を取捨選択して滅私奉公を重視した、これが当時の日本に合ってたということかと考えます。
そういえば一昔前、日本人は西洋人からワーカーホリックなどと言われていました。
これは日本人が民族性の中に持ってる癖なのかもしれませんね。※その良し悪しはここでは問いません。
ちなみにワーカーホリック=仕事中毒のWikipediaは中々傑作なのでご覧下さい。
結局、忠孝が滅私奉公になっている日本人の認識が、私が富永仲基の文を読んでからの違和感の元で、
明治神宮にて昨今の人倫・教育問題を考える
上記の記事で書いた以下の富永仲基の考え
中央公論社 日本の名著18 富永仲基 石田梅岩 「翁の文より」
それならば、その誠の道、つまり今の日本の世で実践されるべき道とは一体何を言うのであろうか。 >ただ物事に対しては、その当然になすべきことをつとめ
というのは、宮崎市定が理解する
>孔子の「論語」で言う忠は、必ずしもその対象を君主に限定しない。
と
>それは常識的な孝行であって、身命を犠牲にしてまでとは言わない。
なのであって、
中央公論社 日本の名著18 富永仲基 石田梅岩 「翁の文より」
富永仲基は、このごくあたりまえの人のなすべきところが、孔子が言うあたりまえの「忠孝」と「信」
という本質なのである、ということをきちんと捉えていると思いました。
ここまできて、ぬくぬく様=兵頭某氏のいう「非契約的思想の排除」は、欧米の個人主義のことを
言っているのかなと感じ、仕事中毒のWikipediaにあった以下の記述を読み解きました。
>「人はまず家庭にあり、その対価を得るために仕事がある」という個人主義の価値観
なるほど、まず夫婦から構成される家庭は、そのはじめは契約的であり、子は結果的な産物であって
契約的ではない。子は親の面倒を見るという事は、西洋的=契約的ではないなと感じました。
以下の記事は、一人のブロガーの意見ですが、なるほどと感じた次第です。
親孝行のない西洋
これは、中国人と日本人と西洋人の「幸」「仕合わせ」の価値観(ぬくぬく様は言霊というかもしれないw)
の差なのかもしれません。これについては後ほど。
確かに西洋・欧米の思想を知らないと、日本・中国・アジアの世界観、概念を客観視できませんね。
岩波文庫 宮崎市定著 史記を語る Ⅳ 列伝 より
従来の古代に対する理解の不足は、封建とし言えば、封建以外の生き様がなかったかの如く そんなわけで、学者ではありませんが、あまりに無知なので最近少し勉強中です。
東京の事務所の近くが古書屋さんのため、嬉しい悲鳴中w
以上でした。
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コメント(9)
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内藤湖南の先哲の学問より「山崎闇斎の学問と其の発展」、平泉澄の「闇斎先生と日本精神」を
読んでの雑考、最後は内藤湖南に戻ります。 以前、宮崎市定の「史記を語る」という本を読みまして、以下の記述を見て共感したことがありました。 岩波文庫 宮崎市定 史記を語る より 司馬遷は一種の弁証法を用い、歴史は対立と統合によって新局面が成立すると考えて、黄帝以来、漢の高祖に至るまでを記述してきたが、(後略) それを用いるとどのように本質が読めるのだろうかと思い、史記以後の歴史や、現実の権力闘争等に あてがえて考えてみたことがあります。 この宮崎市定の師が内藤湖南になるのですが、内藤湖南の先哲の学問を読んでいると、 やはり対立を見出すのが上手い。というより、この人は対立者が出ること、それを見るのが 好きなのではないかな、とも考えている次第です。思い切り主観ですがw さて、主題の山崎闇斎の学派(以後、崎門派と呼ぶ。)は「判を押したように一様」であるため、 その謳い文句の通りであるならば、学派内から対立者が出ようはずもないのですが、やはり学問で ある以上、それに携わるのが人間である以上、必ず対立者が出るようです。 崎門派の中からは、特に大きな対立者として吉見幸和という人が出ました。 この人を、内藤湖南は大変敬服しています。
>ところで、どうして闇斎先生派から、そういう人がでたかということには、大変私は疑問を持っていた >のであります。 この内藤湖南の疑問は、以下のように結んでいます。
この思想の発展の本質の捉え方は、内藤湖南が若い頃から信奉していた、 江戸時代の哲学者「富永仲基」の加上の原理そのものです。 その原理については、以下の2つのページを見れば内容は大体理解出来ます。 あとは、実際に見たり、原文に触れるとなお理解が深まると思います。 http://www.wombat.zaq.ne.jp/auamm705/mizuta.htm http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1735_21416.html ■加上の原理概要図 Aという者がaという論を生み出す。(始祖) Bという者がa論を批判、改良してb論を作る以後発展的に繰り返す そこで、山崎闇斎を中心に、崎門派の発展を図示すると、以下のようになると 私は捉えました。 中華という山があって、はるか昔に朱子が居る。中国と日本の山は繋がっており、 水が流れ繋がっている。 または、中華大陸の水が雲になって雨となり日本峰に降り落ち水源になるイメージ。 日本に流れ来た朱子学は、中国の水に日本の水と土が溶け込み、その水で日本風の儒教に育ち、 江戸初期にあった神道と融合し、山崎闇斎によって集大成される。以後崎門派の本流として、
後世に流れていく。
本流の中では、正統派が先代の論を発展させ、川幅を広げる。 一方、本流の中に対立者が生まれ、始祖・教祖の論を批判し対立する。 本流の論が簡単に沈む論であればその批判で終了する。 堅固な論、学派であれば、分流は異論として残り、その論者は別な流れの教祖として川幅を広げていく。 こんなイメージかと考えます。 これは、恐らく他の世界の宗教でもそうでしょうし、政治や例えば製造業だとしても 人の考え・主張、利害があれば必ず存在する、普遍的な捉え方なのではないかと考えます。 例えば、対立者を見る。 対立者のルーツを見、どのような発言をしてきたかを見聞きし、どのような思想を持っているかを見、 根本を探っていく。そして、余計なものを取り払うと、わりと簡単な本質にたどり着く。 なるほど、と最近何処かで応用してみたりもしました。 内藤湖南はこの原理を応用し、中国の古典を追いかけるときに、加上の論を辿っていくことで、 文献や論の検証をしていったと考えています。「山崎闇斎の学問と其の発展」の文章の中には 一言も富永の話は出ませんが、その考え方を用いて山崎闇斎を見ていることには大変感動しました。 また、内藤湖南の著書に「日本文化とはなんぞや?」という著作がありました。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/2939_21535.html 平泉澄、内藤湖南の闇斎論を読んだ後にこの書を読むと、 「日本中心主義である平泉の歴史観の批判をしている」ということに気づきます。 そのため、山崎闇斎に関する著作も、批判者だからこそ平泉澄では絶対に語れない論 を語っているのだな、ということも同時に気づきました。
対立者がいるから、批判が生まれる。 対立者がなければ、批判が生まれず、内にくすぶるのみ、またはそのまま真っ直ぐ突き進む。 対立者の乱立は悲惨な状況ですが、正常な発達には、一定の対立が必要なのかもしれません。 ここで、最初に出した宮崎市定の言葉、 司馬遷は一種の弁証法を用い、歴史は対立と統合によって新局面が成立する に結ばれるのだな、と考えたのでした。 彼も内藤湖南流を受け継いでいる、ということですね。
以上、山崎闇斎について、最近の勉強結果のアウトプットを終わります。 興味ない方は大変失礼^^; |
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前回の続き、内藤湖南の先哲の学問より「山崎闇斎の学問と其の発展」、
平泉澄の「山崎闇斎と日本精神」を読んでの雑考となりますが、今回は平泉澄が
中心になります。
今回、この山崎闇斎を巡る読書と思考のスパイラルに向かった要因の一つが
以下の、宮崎市定氏が残したエピソードにあります。
岩波書店 宮崎市定 独歩吟 「アジア歴史研究入門」 序 より
昭和17年、文部省教学局という所で、「大東亜史」の編集を企画した。大東亜史とは、 >大東亜史の内容は、世界で最も古い歴史を持つ 日本の文化が、朝鮮、支那から
>アジア各地へ伝わって行く歴史『でなければならず』
この『でなければならず』という思考回路は何なのだろうか、ということでした。
「まず結論ありき」から学究を開始し、それに合わせて事実をかき集め
論を作り、結果事実を損なうという、歴史家内藤湖南の以下の懸念の通りに
なってしまうだろうこの心理は、一体何から生まれているのか。大変興味がありました。
「異部名字難必会」の項
それを歴史家などは、傳説時代の事でも、どれか一つを事實として、その他は誤り又は僞にしたい。それがため反つて事實を失ふことになる これは、歴史だけに止まらず、科学技術やら政治の場でも起きうる、学究方法なのではないかと考えます。
ここで、結論ありきをGoogle検索してみると、原発問題の賛成派・反対派のブログと共に、歴史教科書問題がひっかかりました。
韓民族中心史観。
なるほど、昨今読んだ平泉澄の著作「闇斎と日本精神」の著作の中にも同様の考え方がありました。
曰く「日本中心主義」という考え方です。
これらから「でなければならず」の歴史観は、「X中心史観」という「客観ではなく主観」なのではないか、
という考えを持ちました。
これを紐解くには、平泉澄を知らねばならないと思い、以下の論文を参照しました。
この論文は平泉澄という人間、彼が与えた影響、当時の日本がどのような
状況で、何故彼が求められたのかが深く記述されており、非常に良い論文となりますので、
是非ご一読下さい。
本エントリーのタイトル「でなければならず」があくまで主眼のため、前後を抜いて
あえて以下の文章のみを抜粋します。平泉澄の歴史観の核心部分です。
>特殊絶対的な歴史的世界への信仰なのである。
「でなければならず」を私が理解に苦しんだのは「信仰であるため」ですね。
私の不得意とするところです。
当時は、思想が甚だ混乱し、マルクス主義者の台頭もあり、平泉澄という人間が求められた。
というのは理解しました。しかしこの点については私は反対の意見を有しています。
信仰という理由で自国中心主義となり、他の世界を無かったことにするならば、
現実に存在する他国と他の世界(のことがら、現実)はどのように扱うのでしょうか?
これが、あの時代日本が一気に膨張する原動力となり、しかし結局は
勝ち得なかった理由なのではないでしょうか?
これは恐らく、昨今のグローバル化の考え方、原発問題にもに結びつくはずです。
司馬遼太郎が、日本人は普遍性を身に付けるべき、といったのはこういうことなのかな、
とも思い出しました。
また「でなければならず」は「神道の癖は隠す」という弱点につながります。
しかしもちろん、反発もあった。大井少佐は平泉の講義に正面から異議を唱え、 呆気に取られたような顔をするのは、天動説が主流の教会に地動説を展開するようなものだからです。
崎門派が共通して持つ上記のようなタブーが、私感ですが2点あります。
1 神道で敬を最も重視しているにもかかわらず、日本中心主義であるため、
朱子に対する敬が無く、神道の基になった朱子学、漢字等の中華文化への敬が無い。
2 吉田神道、伊勢神道、垂加神道など、教祖、始祖たる山崎闇斎が原典としたものが
偽作であったり、古くからあったものでなかったり、理論の誤りを指摘
されたものごとを異端扱い(吉見幸和)する
これについては次あたりにまとめます。
さて、上記のPDFファイルには、現代にも通ずる、興味深い文章が多々ありました。
昨今良くあらわれる維新の会について、かれらは維新の原理どおりに動いているか、
支持者の方は一つ原文を読みつつ考えて頂ければ幸いです。
原理通りに動いていなければ、ただの第二民主党になることでしょう。
この標準的な教義の中には、平泉によれば、日本人の倫理性を守り、創造性を高め、 極楽蜻蛉様が良く言われることのエッセンスも記述がありますね。
但し、この文章自体にはトラップが2つあると思います。「絶対安心と因縁」です。
■最後に
日本人を見直してみるとき、山崎闇斎は避けて通れない人物であることが、
平泉澄と当時の歴史を通じて良く判りました。
なぜ平泉の歴史神学は、短期間の間に多くの信奉者を生み出しえたのか。そしてなぜ信奉者たちの 現在、日本人はまた見失いつつある。 次に向かうのは、主観の信仰である埼門派なのか、
それとも普遍性、客観性を重視する合理主義なのか。いや、そもそも今の思想は何なのか。
新自由主義?
を考えてみると良いかもしれません。
信ずるのも、行動するのも自分ゆえ。
またまた長文でしたが、以上です。
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内藤湖南の先哲の学問より「山崎闇斎の学問と其の発展」を読んで、
日本人の精神性、文化性の一面について雑考します。 山崎闇斎の来歴については、名前のリンクのWikipedia通りです。
幼い頃から10年程度仏教に身を置き、その後朱子学に傾倒し、 従来の神道と儒学を統合して、垂加神道を開いた。 崎門派、という学派を生み、国学、幕末の尊皇攘夷に影響を与えた。 また、内藤湖南は「山崎闇斎の思想は、日本の文化に大きな関係を持っている」という。
どのように関係があるのか、支那学派の内藤湖南から見た闇斎と国粋主義の平泉澄から見た 闇斎を比べて見ました。 2人に共通しているのは次の3点。
1. 朱子学を信奉し、鋭敏明晰な頭脳をもって、当時の哲学・科学で、
朱子学の取捨選択、価値判断を行った。神道を朱子学を用いて解釈し、融合させた。 2. 山崎闇斎の学派の学問は「どこも判を押したように一様」である。
朱子学の基本が「忠」孝にあり、彼の教えが徹底していたためと考える。 3. 朱子学の中から「敬:ツツシミ」を見出し、神道において最重要視した。
3が、日本人の精神・文化の根底に流れるものになったと感じました。
これについては、歴史家の内藤湖南の記述が非常に判りやすいので抜粋します。 筑摩書房 先哲の学問 内藤湖南著 山崎闇斎の学問と其の発展より
闇斎先生が、儒教の方で敬ということを尊びます。これが大事なことである。 例をもって考察します。 2011年3月11日、東日本大震災が発生した際、他国から日本の国民性について驚かれた点がありました。 多くの日本人が、災害時に大パニックにならず、秩序を持って行動していたこと。 これがツツシム・・・当然の学(まなぶ・まねぶ) の精神だったのではないかと感じました。 何故多くの日本人がツツシムことが出来たのか。 山崎闇斎が作ったものは、その後一学派として発展し、神道、国学、国家神道に組み込まれていきます。 また彼の門徒からは天文学者の渋川春海が出て、日本の暦を作りました。 暦は、農業や人の行動、行事の規範になります。その行事も神式、仏式であり、それぞれ しきたり、マナーがあり、それらが親から子へ、社会で伝承されて今に至っているわけです。 宗教の自由が法で保障された現在日本でも。上記カレンダーのxxの日などは、ニュースや 食事にも現れます。 山崎闇斎とその学派が創り上げた、神道の哲学の遺産がツツシムとして、日本人、日本社会に 染み付いていて、あの様な危急の時に顕れたのかと考えた次第です。 ※私という人間が、行動や発言にツツシミが無く、「会津人じゃないね」と言われる 理由は、こういうのに今更気づくからですね。 しかし、ツツシムにはデメリットもあります。 一つは、東日本大震災時の「自粛ムード」です。 日本人の死生観も有りますが、あれはまさにツツシムのデメリットだったのではないかと 考えました。 もう一つは、先にあげた山崎闇斎を語った2人の共通点の2、 2. 山崎闇斎の学派の学問は「どこも判を押したように一様」である。 朱子学の基本が「忠」孝にあり、彼の教えが徹底していたためと考える。 です。 師匠の思想・考、言、文献に逆らわない。 異論・発言をツツシム。結果「どこも判を押したように一様」となる。 これは日本の癖というものでしょう。 例えば、異論、意見が有ったとしても反論はしない。これは自分の意思、意見を、 メリットもデメリットも、リスクも「隠す」ことに他ならない。 これが悪く働くと、原子力なんとか委員会等に見られるような秘密会議になる。 どこも判を押したように一様な、利害関係が一致した学派。 原子力ムラ。村社会。 私が昨今歴史やら宗教の調べ物をしている理由は、 日本における現在の事柄を、昔から変わらないだろう(読んだ、という経験則的主観) 歴史の普遍的な要素を感じ、それを通して見てみたい(客観)と思ったからです。 これが出来なければ歴史を学ぶことの価値は無いのかなと。 (中国の歴史は通じて好きですが、儒教はかの国の各人物の生き様でもって 経験則でわかっているのみで、教義自体詳しいわけではない。 仏教・神道は知識も信も無いという有様。) 今回このように、日本の精神を探るのに日本の神道の源流を辿り、理論を体系化した人を 知ったおかげで、「そんなの当たり前じゃないか」と言われるかもしれないが「だからこそ、普遍的なこと」 に気づけたのが非常に有意義でした。 さて、ここで疑問が生じます。 この「ツツシミ・ツツシム」は、改善した方が良いのだろうか?このままで良いのだろうか? と。 私の意見では、ツツシムは強みであり弱みである。 弱みが出ると良くない案件においては、あえて弱みを封じる対策を採ることで、 弱点が克服できるのではないかと、考えています。 しかし、仕事や個人相手ならまだしも、例え正しい発言でも、社会・組織相手だと、最悪 地位職責を失うリスクが生じる。
これが日本の悪癖。正しかろうと、発言が許されない。発言・糾弾することがリスク。 これに対するには、信念か派閥が必要になる。故に日本は派閥社会なのかな、とも思いました。 日本人は、ツツシムの存在とその強み・弱みを知っていかなければならないと考えます。 これはリスクマネジメントにも繋がるとも思うのです。 日本人は、リスクマネジメントが下手であるという事の源流、 それは、日本人の信仰由来の「癖」であった、ということを「私の意見」として、本エントリーを終えます。 |


