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南会津紀行ラストです。
Yahooの呟きにて、ついもらした愚痴。
「福米沢はあるのに、福豆沢が無い。」
何故、福「豆」沢で探してしまったかは、以下のサイトを見ていたから。
会津キリシタン研究所の前は、ここを見ていたのでした。
カーナビを見ても、コンビニに寄って立ち読みした(←)福島県地図にも、
福米沢しか見当たらない。
南会津郡役所の2Fの写真コーナーに行くと、子安(マリア)観音がある常楽院の
住所が福米沢になっているのをみて、なるほど、豆が誤りなのかと認識しました。
日本郵政の住所を見てみると
福豆沢という地名はなく、福米沢でした。
うーん、昔は豆で今は米?
等と考えながら現地・・・常楽院へ。
立派な庭園と、本堂ですね。
これを見るだけでも、周囲の信仰を集めているのが判ります。
お寺の駐車場の整備状況を見ると、私のような観光客も訪れることが多いのか、
結構車が停まれるスペースが用意されていました。
まず目についたのが、廃仏毀釈の痕跡。
この子安地蔵は最近の作だと思います。(※台座の石の造り、風化具合から)
何かこう、狙ってるんでしょうかw
さて、目的の子安観音。
説明書きが二種類ありました。
一つは町の教育委員会の説明。もう一つは、昭和四十年ころではないかと
私は想像しますが、十数年前を思わせる説明書きです。
福米沢マリア観音
なるほど←頭上の十字。
説明書きを見る限り、昭和四十年代にここに移設され、そこから認知度が上がったのでしょうか。
隠れキリシタンの遺物の論争を見ていると「このシンボルはこういう意図で作ったものです」
という文字・ソースが無いため、見た人がどう考えているかで論が2つに分かれてしまいます。
言に人有り、言に世有りですね。
そして一度言が出てしまうと「そうでないことを証明しないと」両論併記になってしまう。
隠れキリシタンの遺物であると考える人達は、明治維新後、この地域にいち早く
教会が出来たこと、会津田島、南会津近辺に確かに隠れ・転び切支丹が多かった
こと、遺物が多かった事を挙げます。
そうでない人は、そうでない証明が出来ないこと、十字は十字架でなく、別なものである、
という主張が大方でしょうか。それもそれで判る主張です。
十字がさらに風化するか、この遺物やそれを記す文言が消失し、人が興味・記憶を失えば
この論争は消えます。それは善い事か悪い事か。
論争を無くすことを目的に文化財を壊す、隠す行為を許すなら、無くすことを
目的とする者が信仰しているものも、遠からず同じ目に遭うことでしょうね。
ただ、論争を起こすために文化財や文字、論を捏造する、興す輩も世にはおりまして。
私が桑取火でやった匿名党的思考実験は、その悪い事をしてみたわけです。
善い子の皆様は、あまりこういった思考実験・真似をしないようにw
結局の所、町の教育委員会が言うように
「文化財は大切にしましょう」
という事に尽きますね。物的にも心的にも大切に扱いましょう、という事です。
■最後に
この寺に、とっても気になった物がありました。
これです。
・奥に子安(マリア)観音
・同じ方角を向けてオーソドックスタイプの織部灯篭(俗説:切支丹灯篭)
※私が色んな所で探しているのはこれの、もっと古いタイプのものです
灯篭の傘と竿の汚れ具合を見ると、最近設置したのではないかなと
「想像」します。20年くらい経てば、ある種の人はこのセットを喜ぶように
なるでしょうね。
このお寺、色々判ってやってるかも><
等と、またまた穿った思いを抱いたのでした。
↑ お寺の関係者さん。違っていたらごめんなさいw
今回もまた、とっても自己満足な南会津巡りでした。
こんな旅は一人でやるに限りますねw
次は、会津田島祇園祭りにでも出没してみようかなと思いますが、本当に関東での仕事次第w
7月22日(日)から月・火の平日ですし。
日曜日に祭りに行った後、東京にとんぼ帰りしなければな・・・・
あっっ
いける!
(w
mpは「おいでよ 南会津」を応援しております!
以上w |
喜多方・会津紀行
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下郷町を離れて、さらに南西へ向かうと、南会津町・・・旧会津田島町があります。
ここは、会津を知る人から「会津若松市とは違う文化圏」とよく言われます。
南会津・奥会津の山間地から人が集まり、そこそこの商業・文化施設が
揃うからということです。そのため、会津若松市に向かうことなくここで生活が完結します。
また、会津若松市に行くよりは、栃木方面、白川市に向う方が近く、
そちらの影響も大きいという理由もあります。
そんな南会津町(旧会津田島町)には、明治時代に作られた郡役場が残っているということで、
巡りがてら行ってきました。
私的興味ポイントは次の通りでした。
・明治時代の建造物として、ほぼそのまま残っている(議場が無いのが残念)
・南会津町の歴史を江戸時代から見ることが出来る
・南山 御蔵入騒動の紙芝居があって、非常にわかりやすい
・会津三方道路建設における南会津への影響
・柳田國男とロバートソン・スコットが訪れており、会津田島の祇園祭等を認めている(権威付けている)
という感じです。特に興味深いのは南山御蔵入騒動と会津三方道路についてですかね。
以下の旧南会津郡役場のホームページに、現地の説明文そのままが記述されているので
ご覧下さい。
※こんなに詳説したら、ここに足を運ばなくなるのでは?>南会津町さん
南山御蔵入騒動は、当時の百姓の訴えの方法と、政府側のやや恐怖政治的搦め手攻めの
顛末が興味深かったです。百姓側のバックボーンを潰して、騒いだ百姓は処刑したが、
訴えは認めざるを得なかったため、政府側が妥協をした。
これが江戸流?日本流?なのかな、と感じました。
※誰かが言っていた、日本的に物事を進めるには祟り神が必要とかいうアレ
もう一点、以前から宿題にしていた会津三方道路について、記述がありました。
明治15年(1882)山形県令三島通傭が福島県令兼務になるとすぐ、戊辰戦争で極度に疲弊した会津を復興させるためには、馬車が通れる道路が必要と考え、会津若松を起点に新潟、米沢、宇都宮の三方向に向かう「会津三方道路」(越後、羽州、野州街道)を計画しました。 三島通傭という人物は、確かに住民反乱を誘発するような、強引・弾圧一辺倒の、問題の鬼県令でしたが、
政治家としては見事な先見を持っていたと考えています。
私の尊敬する、史記 滑稽列伝の西門豹のやり方に、本質的に近いと考えています。
史記 滑稽列伝の西門豹のWikipediaより これは、明治の時代にも、現今の政治にも繋がる話です。
政治の本質なんて昔から変わってないのですから。ただ、政治家を選ぶ、落とす手法が違うだけ。
会津三方道路については、喜多方・米沢街道の道路の位置について謎がまだ解けないですね。
何故、もとの街道からずらした位置に建設したのか。もしかすると、南会津での事例に似ているのかな?
→「削り取った土砂を、xxxの湿地帯を埋め立てるために」
もう少し調べるとします。
という感じで、施設は小さいながらも、大変勉強になりました。
※テラスより2F室内を撮影。ステンドグラスも明治時代のものそのまま。
※テラスから外を撮影。右手には現在の、南会津郡役場的なもの、福島県庁の南会津合同庁舎。
最後に、会津田島祇園祭りについて。
今から約800年以上の昔、鎌倉時代の 文治年間(ぶんじねんかん)に、この地方を治めることになった長沼五郎宗政(ごろうむねまさ)が、旧地で信仰の厚かった 牛頭天王(ごずてんのう)・須佐之男(すさのお)命(みこと) を奉 斎(さい)し、 天王社(てんのうしゃ)として祭ったことが始まりで、その後、今から400年前の慶長8年に、領主長沼盛実が京都八坂神社に準じた祭礼格礼を取り入れ、「祭の決まり」を定めて、現在の祇園祭に至ったとされています。 この神様の多さと独特の神事と民俗、隠れキリシタン等が柳田國男の民俗学の気を引いたのですかね。
柳田國男という人にこの祇園祭りは認められていました。これで祭りに権威が与えられたのでしょう。
これが柳田という人の、権威という魔力なのかもしれないと最近思っている次第。
・気になる南会津方面の民俗学ネタ
・ロバートソン・スコットと柳田國男
今年は八雲会創立90周年であり、1915(大正4)年に「第一次八雲会」が創立されたことを、前回述べました。また第1回八雲総会(9月)の際には、柳田国男やロバートソン・スコット氏らによる講演があったことも書きました。船木裕著『柳田国男外伝』(日本エディタースクール出版部)には、柳田が生涯でもっとも深く関わった外国人の一人である英国人ジャーナリストで農政学者のロバートソン・スコット(1866-1962)への言及があり、松江での演説にも少し触れています。小泉凡「柳田・スコットの松江訪問と第一次八雲会」(『へるん』第30号)も、その辺のことに関する興味深い発表です。 ・・・ふと柳田國男と会津田島祇園祭りについて調べていたら以下の論文が見つかりました。
柳川宗教学の批判的継承
非常に興味深い。
・安保闘争の祭り性。これは、江戸時代の南山御蔵入騒動、そして反原発デモの
本質に繋がっていかないか。
・宗教学のゲリラ性(最近の自分を分析するとまさに)。
・宗教を学問する者の、主観と客観の矛盾。
・柳田國男という人の個性(笑)。
勉強になります。
ただ、この論文の注意点を読んで会津田島祇園祭りに行ったらきっと、
祭りを楽しめないだろうな><
7月の予定を見て、体力と時間があれば・・・無謀にも行ってみようと思います。
どうせ行くなら頭空っぽの参加者側かなぁ。
なんたって、、、
応援してますから!w
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うえんで食堂に到着。
いやあ、良い天気。
このお店は、むしろ焼き鳥で有名らしいです。
近くに牛乳屋食堂という有名なラーメン屋があり、そこのラーメン客を結果的に
引き寄せたんじゃないかな。
今では、牛乳屋食堂よりラーメンが美味しいと言われています。
大量の客を捌いたりしていると、そうなるんでしょうか。
喜多方でも、坂内食堂より、その隣のラーメン屋の方が空いていて美味い、
というのと同じでしょうかw
まあ味は好みですから。どちらもお試し下さい。
ええ、温泉に宿泊滞在などしてw
さて、肝心のラーメン。
手打ち中華そばを注文。
チャーシューやわらかくて美味しい。めんは・・・
太っ!
手打ち麺ならではの不揃い感。噛むのが好きな炭水化物原理主義者にはお勧め。
バランスを取りたいなら普通の麺にしましょう。
スープは懐かしい味系。多分鳥出汁?
まあ、焼き鳥屋ですしw
私は牛乳屋食堂の味よりは美味しい感を得ました。
この店の欠点は
「やきとりの煙でけむい><」
煙の臭いが付くのが嫌な人は気をつけましょうw
さて、芦ノ牧温泉駅の近辺は、この有名なラーメン屋と
ぬこの駅長さんでもっていますwww
残念、不在でした><
まあ、行っても猫(寝子)だけに殆ど寝てるんですがw
観光客のせいで満足に寝れなくなったから、この駅を離れてしまったのかな。
最近足を運んでも会えないんですよね。
こんな感じで、ここはグルメと猫で終わりますw
つづく
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昨日6月30日は、
朝から例の叔父に呼ばれてPC設定 orz
ああ、なんという様式美。
叔父はプロバイダーのToppaを使っているのですが、Outlook2010に
POPメールの設定をして、よーし完璧と思って帰ったのが何ヶ月前だったか。
ところが先週「とある人からのメールが届かなくて困ってるんだわー」と連絡があって、
昨日行って状況をみてみました。
GoogleMailかよっw!!!
いやあ、時代も変わったものですね><
ISPは自前でメールサーバを持つのものという固定観念がありました。
随分思い切ったことをしてますね、ここ。
いやいや、ソレのせいですから!w
OCNのメールがOCNというだけで迷惑メール行きw
これは、フィルタを追加しても、新規で来るメールが迷惑メール行ったら、
やはりブラウザを開いて調整せねばならんではないかと考え、
叔父の端末では今後ブラウザでメールを見るように手順書を書いて
おきました。
GoogleMailの欠点は、ブラウザのサイズ、ブラウザの遷移位置によって、ボタンの
アイコンが変わったり、メニューがドロップダウンリストに入ったりして、マニュアルの
パターン分けが大変になることです。
どうせ予告無しに仕様も変えるでしょうしw
利点は、どんな環境でも見れる、Googleならなんとなーく安心、という所でしょうか。
さて、丁度お昼付近で作業が完了。
天気も良いし、住処である会津の真ん中付近から南方向に下りてきたことだしと、
今まで北方面だった視点を南に向け、南会津紀行でもしてみようと思い、
ラーメン屋+焼き鳥屋として有名な「うえんで食堂」に向かいました。
mpは「おいでよ 南会津」を応援しております! |

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飯盛山にそれはあるだろうか。
そう思って行ってみたら、考えていた以上の直球があった。
多くの日本人があの戦争という第二次世界大戦。
会津人が言うあの戦争という戊辰戦争の中の会津戦争。
会津戦争という歴史を知りつつ、有しつつも第二次世界大戦を迎えようとしていた人々が
白虎隊に見たものは+の教訓か、−の教訓か。
「彼ら」は+だと取ったのだろう。
国家は「使える」として、民衆は「死地に行ける理由の一つ」として。
私感ではあるが。
しかし「そのイデオロギー」と「日本の大義名分」による戦争により多数の死者を出している米軍からみれば、
これは−の教訓と捉え、削ったのだろう。
しかし、そこに復元した意義、評価を添えていないのが実に日本人らしい。
直言を避けて寓意化、灰色化する。この文化は日本人の欠点だと感じる。
これでは、歴史が教訓・意義を添えて残らず、同じことを繰り返すことだろう。
「それでも彼らは何かのために死んでいった、否定する材料もあるが、肯定もしよう。」
何故肯定してあげねばならないか?の問いには、宗教的なものを使わないと解釈出来ないだろう。
負けを知りつつ戦って血を流す、そうか、これは「道」か。
日本の政治が二流三流な理由はこれらにあるのかもしれない。
さて、以下の石碑も興味深い。
イタリアは日本と同様火山国で、ヴェズビオ火山によりポンペイが埋没したという悲劇を有している。
会津地方も磐梯山により、様々な災害を受けているため、そういう繋がりからポンペイの柱が贈られた
のだろう。
ファシスタ党章。
ムッソリーニから贈られたものだろうか。
ファシズムに利用されたという歴史の証。
多くは語るまい。
以前ある記事で、日本の敗戦の理由は「宋学・水戸学」にあると評した歴史家が居たことを書いた。 疑問がある。彼らは仮に中国を制覇した後、先を考えていたのだろうか。
自分ならば、この遺跡は壊せない。
宋の歴史の成り立ち、滅亡を考えれば特に。
彼らは歴史を日本中心主義にRewriteしようとしていたのだろうか。
それについては、京都支那学派である宮崎市定氏のアジア史概説の一文を読むとその傾向が見て取れる。
アジア史概説
1942年に文部省教学局で「大東亜史概説」編纂が企画され、東京帝大の池内宏、京都帝大の羽田亨が編纂責任者、編纂嘱託として鈴木俊、山本達郎、安部健夫と宮崎が委嘱された。文部省の意向では、ビルマ以東の大東亜共栄圏において、世界で最も古い歴史を持つ日本を中心に、皇国の文化が朝鮮・中国からアジア各地へ光被していく歴史を書くということだった。それに対し嘱託の4名は、叙述の範囲をアジア全体とし、日本ではなく西アジアを扇の要の位置とし、最古の文明が西アジアに発祥して東に延びて、最後の終着点である日本で最高度の文化を結晶させた、という方針を答申し、文部省はこれを認めた。 日本は何を反省すべきか、もう一度見直したほうがいいかも知れない。
というのを飯盛山にあった2つの遺物から感じた、4月のある寒い日だった。
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