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クリシュナムルティの世界

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かつて下火だった富国強兵論が浮上しつつあります。

そういう論を調べていくと、必ず「朝鮮の脅威にどう立ち向かうのか」とか「朝鮮が攻めてきて、あなたの家族を殺してもそれでも平気か」ということが現れます。一種の恫喝ですね。

これが為政者たちが民衆をコントロールするために行ってきた方策なんですね。恐怖心をうまく利用して、自分が望むように人を動かす。

当然人々が幸せになるかどうかなんて考えていませんよ。自分がより強い権力を持ち、より多くの人をコントロールしている実感こそ彼らが望んでいるものなんですから。

クリシュナムルティが非常に厳しいのは、こうして引き起こされる戦争の原因は、あなた自身が戦争を引き起こすような社会をトータルに否定しないからであると、はっきり指摘していることなんです。

戦争の原因は我々自身の中にある。為政者がどういう手段で戦争を引き起こそうとしても、一人ひとりが反対するなら戦争は起こりようがないんです。これは感情や予測とは違う、はっきりした事実ですね。

最近、スピリチュアルな世界に注目が集まっています。クリシュナムルティの名前を見る機会も増えたように思います。

彼に対する意見は、賛否がはっきり分かれているようです。

そして、「賛」の方はトーンが低めで、「否」の方は声高に批難しているようです。

今回は、最近目にしたクリシュナムルティ批判をとりあげてみましょう。

批判:彼の弟子たちが、手順や儀式を持たない瞑想を行っていないのはなぜだろうか。

この前の話を読んでもらうとわかりますが、彼は、自分を「導師」「聖者」などとはみなしていない。なにせ、宗教団体のトップだったのに、解散宣言をして、そこを飛び出したくらいですから。著書の中でもはっきり書いている。

だから、彼の「弟子」がいるわけはないのです。彼が生きていれば、誰かが彼の「弟子」と名乗ればはっきり否定したでしょう。

また、彼が、瞑想に手順も、儀式も必要がない、いや、むしろそんなものがあるのは瞑想ではないと言っているのは確かです。けれども、だれかが、クリシュナムルティのいう本当の瞑想をおこなったとして、それが起こったか、起こらなかったか、どうしてわかるのでしょうか。

誰かが「私は瞑想した」と書けばよいのでしょうか。それも所詮は本当かどうかわからない。

論理的に考えるとすぐわかることですね。

もしかすると、その批判を書いた人自身が、「自分は導師のような立場である」と考えているかもしれません。そうならば、なんとかしてクリシュナムルティを批判しようという気持ちはわかります。

「あなたを導く人は必要か」という前回の内容からもわかりますが、そういった人にとって、かれは誠に煙たい存在だからです。

私はクリシュナムルティを読むときに、頭から信じない、最初から否定もしない。なるべくニュートラルな気持ちで向かっています。みなさんはどうでしょうか。

前回のお話にはつづきがあって、例の導師が再び弟子達を連れてやってきます。

導師「昔の人たちは自分たちの経験、瞑想における至福、超意識、聖なる実在について語っておる。ひとつ尋ねたいが、先人たちの語ったことも、尊い規範も、全て脇へどけてしまわなければならんのかな?」

クリシュナムルティは次のように述べています。

瞑想における権威など、まさに瞑想そのものを否定している。あらゆる知識、概念、模範は、瞑想においてはなんの役にも立たない。瞑想する者、経験する者、思考する者、この当の者を完全に排除することが、瞑想の本質そのものだ。

我々は精神的な高みを望むと、何かにすがりたい、誰かに導いて欲しいと考えがちです。しかし、それはなんの意味もないということになります。

瞑想にたいするクリシュナムルティの考え(http://blogs.yahoo.co.jp/mquqm/22616042.html

先生、教師、導師、牧師、なんとよんでもよいのですが、クリシュナムルティは人がしあわせになるためにこれらは必要がないと考えていたようです。車を操ったりする実務的な技術、それの修得は認めていましたが、日本人がいう人生の「道」、つまりそれを習えば大いなる存在になれるかもしれないものははっきり否定していました。だから「道」を教えてくれる立場の人「導師」についてもはっきり否定しているのです。

彼の所をひとりの「導師」がたずねて来るエピソードがあります。

その導師は、彼に対して

「最も偉大な、究極の経験がわしに与えられた、どんな求道者もそれを拒めないはずだ」

と言うのですが、それに対してクリシュナムルティは次のように返します。

「もし実在とか真実が経験されるべきものだとすればそれはあなた自身の投影にすぎない。経験するものは真実ではなく、あなたの心がつくりだしたものだ。」

そしてさらに次のように考察しています。

歴史的にも、宗教的にも真実へ至る道はなにもない。それは弁証法を通して経験されたり発見されたりするものでもない。それは移ろいやすいあれこれの意見や信仰のなかにみいだされるものではない。心がつくりだした物事すべてから自由になったとき、それに出会うだろう。

自分が神秘体験をしたときのこと(http://blogs.yahoo.co.jp/mquqm/17753945.html)を思い出します。

そのとき自分は何者でもなかった。世の中が決めた、そして自分が経験で得たと思えるすべてのものから離れていた。

そしてそれはたとえ後から経験として思い出しても何の価値もないと実感できるのです。そのものは人に教えることも説明することもできないのです。

ある男がなぜ妻と離婚するかを説明してこう言います。

「私たちはうんと若い頃に結婚しましたが、数年後にはもう物事すべての面で、性的にも精神的にも悪い方向に進みはじめ、お互いにまったく相性がよくないように思えてきたのです。それでも初めは愛し合っていたのです。それがいまはしだいに憎悪に変わりつつあります。別れなければなりません。弁護士に後のことを処理してもらいます」

これに対してクリシュナムルティは次のように述べています。

愛は快楽だろうか、欲望の無理強いだろうか?愛は肉体的感覚だろうか?誘惑してそれをみたすことか?愛は思考の商品だろうか?環境の成りゆきによってできあがったものだろうか?仲間づきあいや親切や友情のようなものか?もしこれらのどれかが優先するなら、それは愛ではない。愛は死と同じように最終的なものだ。

初めてこれを読んだときは衝撃的でしばらくぼーっとしていました。クリシュナムルティはこの記述のあとにすばらしい情景を続けているのでそれも紹介します。

森や草地や見晴らしのよい場所を通って、高い山なみにつづいている道がある。坂道のはじまる前のあたりにベンチがあり、年老いた夫婦が腰をおろして日に照らされた谷を見おろしている。二人はよくそこへやって来て、一言も話さず黙って大地の美しさを見ながら坐っている。二人はやがてやって来る死を待っているのだ。その道は雪のなかへとつづいている。

「夫婦」という言葉を耳にするといつもこの情景が甦ってくるのです。

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