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ここでいう自由独立は、独立自由と表現してもよい。自由独立の両端をとって自立でもよい。
これは、他人(自分以外の人)に飲み込まれないで自分らしくしっかりと生きることでもある。当然それは、他人の価値観(他の誰かの価値観や世間の価値観)で生きることではない。 自分以外の人とは、社会的には「仲間」と表現してもよい。 仲間との関係では、 「仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。」(中村元訳:ブッダのことば;蛇の章;犀の角) 「遊戯と歓楽」とは、ひとときの悦楽である。一時しのぎの楽しさである。一時しのぎであることの証拠は、その後に生じる虚しさ(虚無感)や寂しさによって確認できる。仲間の中にいれば自分がどこまでも独りであるということを忘れ、楽しいひとときを過ごすことはできるが、いっときのことである。このひとときが過ぎれば、たちまち自分というものが独りであることに気づかされる。これは人間の健全さでもある。 一方、 「仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねに人に呼びかけられる。」(中村元訳:ブッダのことば;蛇の章;犀の角) 仲間の中にあれば、常に人を気遣いながら、また、常に人に気遣われながら、生きることになる。気遣われるという温もりを得る代わりに、気遣われることの煩わしさのなかで生きることになる。温くて居心地がよいが、自分らしく生きられないもどかしさと、不充足感で生きることになる。この自身の不充足感は、いわば他人への従属による、自分らしく生きられていないことによる不全感である。 そこで、次のように言われるのである。 「他人に従属しない独立自由をめざして・・・ただ独り歩め。」(中村元訳:ブッダのことば;蛇の章;犀の角) ただ、世間の偉い(ような)人たちは、そう言って終わる。しかし、騙されてはいけない。 かく言う人たちも、そのようには生きていない。また、日々に経を唱え、寺を守るお坊さんたちも皆、人に煩わされながら生きているのである。 では、自分らしく生きるために「他人に従属しない独立自由をめざして」「ただ独り歩」むにはどうすればいいか。 それは、自分以外の他者との適切・適当な距離をもって生きる、ということだ。 これは、人間誰しも無自覚的に、ある程度はやっている。しかし、ここでいう独立自由を目指して生きようとするなら、より自覚的に「適切・適当な距離をもって生きる」ことをしなければならない。 ただし、独りであることに苦しい時は距離を取ることに無理をしないことだ。 「適切・適当な距離」については、このブログのどこかで書いていると思う。 |
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