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私が「いのち」を持つのではない、「いのち」が私になっているのだ。(西平直「魂のライフサイクル」)
「いのちが私になる」とは、どういうことか。 普通は、「私のいのち」と考える。しかしこう考えると、「いのち」は私の従属物だ。 「いのちが私になる」というのは、私より先にいのちがあるということだ。そして、そのいのちから「私」が生まれてきたと考える。 これは理屈にかなっている。 「私」が生まれたのは、記憶をたどれば、3、4歳頃だろう。私の記憶の最初がいつかを考えればよい。心理学的には自我の発生だ。何年何月何日とは言えないが、私の記憶の始まりが「私」の誕生だ。 では、そのいのちの誕生はどうか。「私」の誕生の3、4年前にこの人間社会に出てきたのだ。さらにその発生は、その10か月ほど前だ。「私」より先に、このいのちは「ある」のだ。 ならば、「いのちが私になる」というのもうなづける。 自身のいのちへの謙虚さがもともと備わっているのは、きっとそういうところから来ているのだろう。 「もともとには備わっていない」と言う人は、きっともともと備わっていたことをすっかり忘れてしまったのだろう。 「私」はこのいのちの従属物なのだ。ならば私は、このいのちに、あまり偉そうになってはいけない! 人生の最後には、「私」は、「私のないいのち」へと還ってゆく。 「永遠のいのち」を考える人や研究者もいるが、この場合には「私」は「「私」のない永遠のいのち」へと還ってゆくことになる。 いのちが私になっているのなら、いのちに私が、傲慢になってはなるまい。 |
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