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私利私欲の私

私利私欲に囚われて生きていては、どこまでも、いつまでも満足や安心を得られることはない。
 
それは、幸せが足元にあることに気づかず、追いかけてばかりいる姿に似ている。
 
心のもち方しだいといえば、それまでなのだが、それでは正しくない。
 
それを正しくいえば、「私」次第なのだ。
 
「私」の囚われなのだ。
 
「私」が何に動かされているかなのだ。
 
 
心の本体的念慮でない場合は、それは私念であって、問題にならない。(伝習録・陳九川所録)
 
 

生きていることの希薄さとは、たとえば、足を地に着けて生きていないことである。

たとえば、自分の生を本当の意味で大切に生きていないことである。

たとえば、自分の人生を大切に生きていないことである。

たとえば、主体的に生きていないことである。

たとえば、無責任に生きていることである。

たとえば、上辺(うわべ)のものに心を奪われて生きていることである。

大抵の人は、「私」という言葉を知りながら、その「私」を希薄に生きている。

これは、目で見、耳で聞き、鼻でにおいをかぎ、舌で味を知り、身体で痛みや快を知る生活のなかで、常に生じてくる生きる姿である。

しかし、人は、本来の生へ還る力を常に備えている。それが、私がまさに私を生きるということなのである。

それは、私が私を自覚して、さらには自認、自得して生きることにより可能になる。

「己の生を生きよ」とは、そのことを指している。

「あなただけのいのちを生きよ」というのも同じことだ。

奇妙に思うかもしれないが、実は、それが大いなるもの、あらゆるものとともに生きるということでもある。

「私」は、そこに連なり、しかも、「私」そのものだからなのである。

「私は、今、まさに「私」そのものとして生きています」という言葉がでるとき、その人は、自身が満たされて生きているときである。

「私」のいのちが大切に生きられている瞬間である。

喜びに満ちている時である。



ルドルフ・シュタイナーは次のように言う。
「わたしは、わたしについてしか「わたし」ということができない。ほかの人がわたしを指して、「わたし」ということはできない。自分のことだけを「わたし」ということができるのである。」
(R.シュタイナー『神智学の門前にて』)

私の内と外と方便

少々知識を得て、個人としての人の世界を、内界と外界、内なる世界と外なる世界などと言い、人のその夫々の経験世界をあれこれと説明する。

しかし、本来、人の経験世界には内も外もない。

立ち止まって、自己を思案したものに過ぎない。

一つの方便である。

実は、この方便が曲者である。

方便がまかり通ると、方便としてのものを真実と履き違えて生き、また、方便としてのものを真実と教え導き、そういう人間を再生させ、且つ、そのような社会が作り上げられていく。

こういうところにも「知」と「欲」の恐ろしさがある。

私しだい

人はそれぞれに「私」が見ようとしたものしか見えない。

それは、その人の目が見るものではない。

「私」が見たものなのだ。

それは、「私」しだいで善も悪に見え、悪も善に見えるということだ。

そこに真理があっても、「私」しだいでそれが見えない、ということだ。

私がなにを欲するか、

私がどういう私を欲するか、

すべては、私しだいなのです。

欲することによって、そういう私が生まれてきます。


我仁を欲すれば斯(ここ)に仁至る。
仁遠(とほ)からんや。
(論語、述而篇)

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