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13 不安でならない父の一時帰国
父が一時帰国してくる土曜日となった。朝早く蜂矢秀介から、「会おう」というメールが届いたが今回も返信はせずにそのままにしていた。先日、「電話をしてくれ」と妹に言付けていたのにも拘らず、連絡をしていなかったかであろう。だが、今の僕は学校のことも友達のことも、まして意地悪な三人組は頭から消し去りたかったのだ。
父が帰るのは夕方だとのことである。何を言われるのかと思うと気が気ではない。昨夜から落ち着きをなくしていたための寝不足で、重い頭を抱えていた。日中は食事以外に階下へ下りることもなく、何をするでもなく部屋の中でウロウロと過ごし、ガンダさんのことをあれこれと思い出していた。
―― 今日は公園に行かれない理由を伝えられなかったので、僕の来ていないことをどう思っているだろうか。
―― ガンダさんの話はどんなドラマを観るより面白く、まるで怪奇の世界に吸い込まれて行くようだ。ポリネシアン・ザウルスも怖かったが、今度聞かせてくれるというアンデスの大魔神とはどんなレスラーなんだろう。
―― それにしても、ジプシー・ガンダという悪役レスラーは幻想の世界に生きていたような不思議な人だ。
この数日、公園で起きた様々な出来事を振り返り、すでにガンダさんの世界にはまり込んでいる自分を感じていた。
だが、数時間後には父が帰ってくるという現実に戻ると、またまた落ち着きをなくしてしまう。ダイニングキッチンでは、約1ヶ月半ぶりに戻ってくる父を待つ母が料理の仕度に追われていた。妹は土産を期待しているのか、片時も母から離れず手伝いの真似事をしている。本来であれば、僕だって父の帰りが待ち遠しくてたまらないはずなのに、時間が迫ってくるにしたがってどんどん気持が沈んでゆく。僕は繰り返し壁掛け時計の針に目を向けた。
母の話だと東京本社の車が羽田国際空港へ出迎え、家まで送ってくれることになっているそうだ。羽田着は16時30分とのことだから、時間どおりに到着していれば今ごろはもう首都高の羽横線を走っているはずだ。心臓の鼓動は時計の秒針に合わせるが如く、ドキドキと音を上げている。
みなとみらい都市の高層ビル群の空が茜色に変わりはじめた頃、細めに開けてある部屋の窓から、家の前に車のきしむ音が聞こえた。
―― パパだ!
小さく鳴らされたクラクションが聞こえ、階下に廊下を走る母と妹の足音がした。玄関ドアを開ける音とともに、妹が門扉までの敷石を走って行ったようだ。
「パパ」
甘えた声の妹に続き、母が運転手さんにお礼を告げていた。
「お帰りなさい。お疲れになったでしょう」
「向うを立つ間際まで仕事をしていたからね」
「そうでしたの。忙しいのに申し訳ありません」
「ところで龍太郎は?」
久々に聞く父の声だ。
「部屋にいるわ。中学生になってから急に変わってしまって。あなたからもアドバイスしてくださいね」
僕の心臓は大きな岩に押しつぶされて破裂してしまいそうだったが、このまま部屋に閉じこもっているわけにもいかない。窓際に寄せた椅子から重い腰を上げて、一階へ降りた。
3人はちょうど玄関に入り、スーツケースを下ろしたところだった。
「パパ、お帰りなさい」
「おお、龍太郎。日焼けして元気そうじゃないか」
父は明るく声を掛けてくれたが、おどおどしている僕の心は見抜いているはずだ。
「毎日公園へ行って、遊んでばかりいるからよね」
母は皮肉っぽい目を向けたが、父の微笑んでいる顔が逆に怖い。たぶん、帰る早々に僕を萎縮させまいとしているのであろう。もともと母のようにガミガミと言うことのなかった父だが今回は別だ。わざわざ中国から戻って来たほどほどだから、今までのようにはいかないだろうとなおさら落ちつかないのだ。
「あなた、お風呂が沸いていますから、旅の汗を流してくださいな。それまでには食事の準備も整いますから」
「そうだな、そうしよう。上海の気温は東京よりかなり高かったからね。ワイシャツの下もベトベトだよ」
そう言った父は、妹のもじもじとしている様子に笑みを浮かべた。
「その前に、お土産を渡しておこうかな。麻衣が気になっているようだし」
「やったー」
妹は満面に笑みを浮かべてぴょんぴょんと飛び跳ねた。
父はスーツケースから「大熊猫」という漢字の下に、パンダがカンフーをしている擬人絵が描かれたTシャツなどを取り出した。
「大熊猫というのはジャイアントパンダのことだよ」
サイズの違う一枚ずつのTシャツと竜太郎には大熊猫キーホルダー、麻衣にはブローチを添えて手渡した。
土産を受け取り、リビングの中を駆け回っている妹を笑いながら見ていた父は僕に向かって、
「忙しくて土産を選んでいる暇もなかったんで、ありきたりのものですまんな」
と、言った。
「ありがとう」
僕の頭の中は説教されることの不安が一杯で、それ以外の声が出てこない。
「それじゃあ風呂へ入るとするか」
スーツの上着を母に渡した父はネクタイを解き、ワイシャツのボタンを外しながらバスルームへと向った。
「着替えとバスローブ、置いてありますから」
母は、そう言いながらキッチンへ戻った。
夕食に家族4人の顔が揃ったのは正月以来である。上海へ赴任する前の父は相当に忙しかったらしく休日も返上し、会社からの帰宅は毎晩遅くなっていたからだ。
ダイニングテーブルには父の大好きな魚貝類の刺身の他に、出身地である甲府の郷土料理ほうとう鍋も卓上コンロに用意されていた。
「おお、キミが本場より美味しいと自慢する、母さん直伝のほうとうだ。嬉しいね」
「あちらでは召し上がれないでしょう?」
「無理だね」
母はアイスペールに浸した日本酒のボトルを取り出し、雫を拭ってから父のグラスに注いだ。
「キミも少し飲めば」
ボトルを握り返した父は、あまり飲めない母のグラスにも注いだ。妹と僕の前にはオレンジジュースの缶が置かれてあった。
「それじゃあ乾杯しましょう」
そう言った母は、
「パパ、お疲れさま」
とグラスを上げた。
父は僕らの顔を見まわし、
「みんな、ありがとう」
と応えてから、目を細めて咽を鳴らした。
椀によそってもらったほうとうに箸をつけた父は、目覚しい発展を遂げてゆく中国の様子などを話していたが、僕はいつ学校のことを切り出されるかと思うと気が気ではない。
時おり母が僕の顔をチョロチョロと見るのがなおさら気になり、普段のようには箸が進まなかった。それでも、いつもの如くよくしゃべる妹が、中国のことを次々と訊いていることが、僕には間がもてて救いだった。
30分ほどの食事とおしゃべりを終えた妹は箸を置き、
「見たいテレビがあるから」
と席を立ってリビングへ向った。妹がいなくなると、僕は急に心細くなり、急いでご飯をかっ込み席を立った。
「龍太郎! 座っていなさい」
母が怖い声を上げたが、父はそれを制した。
「いいよ。龍太郎とは、男同士2人で話をしようと思っている。あとで部屋へ行くから待っていなさい」
僕は無言でダイニングを出ると、自室へ戻った。もらった土産を勉強机の上に置き、いつものように椅子を窓側に移してみなとみらい都市の夜景を眺めた。父は男同士2人で話をすると言ったが、これまでに強く叱られたことがないだけになおさら不安で胸が高鳴る。
幼少の頃から父を怖いなどと思ったことは一度もなかった。それどころか父と一緒にいるのが何よりも楽しく、中国への単身赴任を知らされたときにはパニックになるほどの寂しさを感じたほどだった。だが、今回だけは父の存在が別人のように思える。
小学校時代に長く休んでいる生徒は何人かいたが、まさか自分までが不登校になるなんて考えもしなかったことだ。僕には突然に降りかかった災難のように思えてならないのだが、気の弱さが原因だと分かっている何とも虚しい現実である。
気の弱さに加えて引っ込み思案な自分とは、雲泥の差があるガンダさんのことが自然と思い出され、傷だらけの額や餃子のような耳とあの大きな体躯が目の前に浮んだ。
―― たった一人で外国へ出て、世界中の怪物レスラーと戦って来たというガンダさんは特別な神経を持っている命知らずなんだ。普通の人間にはできるはずがない。だから自分と比較する方が間違っているのだ。
悲しいかな自分自身への慰めともとれる言い訳に思いを巡らせていると、ドアがノックされてハッと我に返った。細身で長身の父が顔を出した。今か今かとドキドキとして待っていたのだが、父の表情は意外なほど柔らかかった。帰ってきた時と同じように、できるだけ威圧を与えまいとしているのが感じられる。
僕は椅子から立ち上がり、
「ごめんなさい」
と先に謝ったが、自分ながら情けないと思うほど小さな声しか出なかった。
父は椅子に座るように言い、自分はベッドの端に腰を下ろした。
「ママから話は聞いているよ。学校を休んでいる原因は、柔道部へ入部したことなんだってな」
僕は両手を膝に置き、じっと足元を見つめていた。
「入りたくて入った訳じゃないんだ」
「でも、自分で入部承諾書かいたんだろ」
「でも…」
たしかに父の言うとおりではあるが、断りきれなかったのだ。
「龍太郎、はじめて何かに挑戦するときには誰だって不安なものだよ。パパだってな、上海の赴任を命じられたときには、正直に言うと不安をとおり越して恐怖だったよ」
「え、パパも上海へ行くのが怖かったの?」
「そうさ。営業部長という重要な任務にくわえ、3年間も家族と離れて暮すことを考えると、辛かったよ。だけどな、人生というものは、常に自分との闘いなんだ」
「自分との闘い?」
「そう、心が弱くては生きていかれないからね。だから、弱音を吐きそうになる自分の心と闘って、少しずつ強くなっていかなきゃならないんだ」
「でも僕は」
すでに弱音を吐いてしまっている僕が別の言い訳をしようとしたとき、父は言葉を遮って言った。
「龍太郎にとっての柔道は、人生の最初に立ちはだかった壁じゃないのか」
「壁。壁って?」
「そうだな。要するに成長を邪魔しようとする障害物のことだが、今の龍太郎にとっての壁とは。嫌でしかたのない柔道と、嫌がらせをする何人かの同級生だ。その壁を乗り越えるには、何とかして柔道を好きになることと。嫌がらせをする同級生に正々堂々と立ち向かうことだよ。つまり、それが自分の心との闘いだ」
父は柔道を好きになることだと言ったが、どう奮起しても無理だ。入部承諾書だって無理やり名前を書かされたようなものだし、それに、あの三人組に立ち向かうなんてとても無理だと心の中で叫んだ。
「龍太郎の年代にとって、スポーツはとても大切なんだ。中学や高校時代にしっかり運動しておくことは、心の強い大人になるための基礎になるんだぞ。私の部下でも、学生時代に運動部でしごかれて来た者は根性が違う。何度も何度もぶち当たった壁をその都度乗り越えて来た経験があるから、弱音を吐くことがない。常に前向きな精神を持っているから、私も安心して仕事を任せられるんだ」
「壁って、何度もあるの?」
「そうさ。龍太郎にとっての今の壁は、さっき言ったとおり初めてだが、今後も、体力の壁、技術の壁、あるいは人間関係の壁など、その他にも様々な苦難が立ちふさがるさ。だが、それらの壁をなんとかして乗り越えなかったら、それ以上前へは進めないじゃないか。龍太郎は小さな頃から心の優しい子だった。だがな、龍太郎だっていずれは親の元を離れてひとり立ちしなくてはならない。家庭を持ったら家族を守っていくのが男の務めだ。つまりは優しいだけじゃ生きてはいかれない。時には敵と闘う強い心と体力も必要なんだよ」
「闘うなんて僕は」
「殴り合いの闘いを言っているんじゃない。パパの場合だって、中国の商人を相手に値段交渉をする時には、つい相手の強気に押されそうになってしまうこともあるんだ。だがな、私の任務は会社へ利益をもたらすことだ。だから相手の言いなりにはならず、自分の意思をはっきりととおす闘いなんだよ」
黙ったままうつむいてはいたが、僕ももう中学生である。父の言うことは理解できるが、敵と闘うなんて到底できっこないと心の中で叫び続けていた。
「今回の経緯のすべては、これまでにはなかった初体験だ。悔しくて腹立たしい思いをしているのは分かるが、逃げていては解決しない。何事も真っ向からぶつかっていかなかったら、負け犬になっちまうぞ。人は乗り越えた壁の数だけ強くなれるし、悩んだ分だけ他人の痛みや苦しみが分かるようになる」
「……」
「ところでママの話だと、毎日公園へボール投げに行っているそうだが、いったいどこの公園へ行っているんだい? ママは近くの公園を見て回ったそうだが、龍太郎の姿を見つけられなかったと言っているし」
僕は答えなかった。
「その公園には、一緒にキャッチボールをする相手でもいるのかい?」
僕はガンダさんのことを思い浮かべたが、父にも話したくなくて口を閉ざしていた。
「そうか。龍太郎には言いたくない理由があるんだな。それならそれでいい。パパはね、龍太郎が自分自身で壁を乗り越える方法を必ず見つけ出すと信じているよ」
「……」
「龍太郎。男は強い信念を持たなければな」
父は立ち上がって僕の肩に手を置くと、
「明日の日曜日は、みんなでドライブに行こう」
と言って部屋を出て行った。
僕は、「信じている」と言ってくれた父の言葉が嬉しかった。母のようにガミガミ言うだけではないのは、様々な壁を乗り越えて今の地位にたどり着いた経験が自信になっているのであろう。
だからといって僕には、すぐにでも学校へ復帰しようという勇気はまだ湧いてこない。柔道の練習も嫌だし、嫌がらせをする3人組にも会いたくはない。
つづく
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