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16 なんの詮索もしないガンダさんの謎
父が一帰国して再び上海へ戻って行ってからの母は、以前のように学校のことでガミガミ言うことはなくなった。だが、表情の暗さに変りはなく、早く壁を乗り越えて復学するのを待っているのが分かる。だから僕は以前にも増して母と顔を合わせるのが辛くなってきていた。
長く休めば休むほど、勉強がどんどん遅れていってしまうことは誰に言われなくとも分かっている。このままだと高校へ行かれなくなってしまうどころか、本当の負け犬になってしまう。早く学校へ戻らなければと焦る気持はあっても、また意地悪をされることを想像するとつい弱気の虫が頭を持ち上げてしまい、どうしても前向きな一歩が踏み出せないでいる。
僕は心の中にモヤモヤと渦巻いている黒い霧を払い切れないまま、今日もまた岸根公園へ向かった。
僕の心とは反対に5月晴れが続いている。公園内の樹木も鮮やかな新緑に被われ、花壇の花々も色とりどりに咲き乱れている。自転車を停めた僕はガンダさんの前へ走って、こっちから挨拶ができるほど親しみを感じるようになっていた。
「よう」
ガンダさんは待っていたかのように片手を上げてから新聞を畳み、
「さあやるか」
と、いつもの笑顔でボールを投げる仕草をした。とその時、僕はふと思った。
―― ガンダさんとパパはそう変わらない年齢だと思うから、もしかして僕と同年代の子供がいるのだろか? いるとすれば、もちろん学校へ行っているはず。僕が不登校生だと知っているのに、なぜそのことには触れないのだろう?
おばさんたちのお節介から思わぬ形で知り合いになったが、これまでは外国でプロレスをしてきた話しか聞いていない。大事故で片脚を失った時のショックを思うと察するに余りあるが、その失意はおくびにも出さない。それどころか悪役を貫きとおした信念と、人間的な優しさは十分に感じられる。だが、私生活はまったく分からない謎の人物でもある。
僕はおにぎりの入ったビニール袋をベンチの端の置き、グローブをはめながら気になっていたことのひとつを思い切って訊ねた。
「あのー。ガンダさんの家はこの近くなの?」
「俺の家?」
と、一瞬怪訝そうな表情を見せたがすぐ笑顔に戻し、
「ハッハッハ、俺は流れ者のジプシー・ガンダさ」
と白い歯を見せた。
「それよりも、早くポジションにつけよ」
僕はなんだか悪いことを訊いてしまった気がして、
「すいません」
と小さく頭を下げてからマウンドの位置へ走った。僕の投球は最初のころより速めになっているのに、相変わらず平気な顔をしている。
「ストライク! いい球だ」
ガンダさんは目を細めて投げ返してよこした。だが、僕の内心は先ほどはぐらかされてしまった家の場所や家族のことがまだ気になっている。
―― 外国で交通事故に遭い、片脚を切断する大怪我でプロレスができなくなったとしか聞いてはいないのだが、どうして毎日公園へ来ているのだろうか。
おばさんたちが軽い息を弾ませてとおり過ぎて行った。
学校や柔道部のこと、両親の心配、それにガンダさんのことなどが交互に頭をよぎり、今日はいつも以上に心が乱れている。ガンダさんの返球を何度も受けそこないその度に拾いに走った。ボールの転がっていった広場の中ほどでは、犬を連れている人同士が立ち話をしており、吠え立てられた鳩の群れが一斉に羽音を上げて舞い上がった。
何球目かのボールを投げたときだった。やはり気が入っていなかったのだろうか、指が滑って暴投をしてしまったのである。ガンダさんは大きく手を伸ばしたがキャッチする事ができずに、広場の中から転がり出て行ってしまった。
「すいません」
本当に今日はミスが多い。僕はぴょこんと頭を下げ、すぐにボールを追いかけてトラックに出たときだった。偶然にも例のおばさんたちが回って来たのだ。そして何を思ったのか、トラックを転がって草むらに入ったボールを拾いに行ったのである。
「あれ?」
ガンダさんが「余計なお節介は焼かずに、黙って歩いていなさい」と言った例の一件以来はまったく無視を決め込んでいたおばさんたちである。あっけに取られた僕は足を止めてその様子をじっと見ていた。
おばさんは拾い上げたボールをすぐに投げ返してくれるわけでもなく、なにやら意味のありそうな顔つきをしていた。やむなく僕はゆっくりと近づいて手を差し出した。すると一番太ったおばさんがガンダさんの背中にチラッと目を向け、口元に手をあてがってから小声で話しかけてきた。
「あの大きな人、誰なの?」
あれ以来僕と仲良くしているのが気になっていたのであろうか。
「凄い人だよ」
いきなりの問いかけに、僕は咄嗟にそう答えた。
「なにが凄いのさ?」
そう返されても、ガンダさんがプロレスラーだったことも、外国で多くの強敵と戦ってきた話も、交通事故で片脚をなくしたことも、なぜか僕だけが知る秘密にしまっておきたくて、とても教える気にはなれずにそう答えたのだ。
「何よあなた。ニヤニヤ笑ったりして。変な子ね」
「おばさんたちに言っても分からないと思うよ」
「なぜ分からないの?」
「なぜでも。だからさ、お腹が引っ込むようもっと頑張れば」
「まあ! あなた、ずいぶん憎まれ口をきくようになったわね」
「きっと、あの人のせいだわ」
中の一人がガンダさんの背中をキッと睨んだ。
「あなたね、あんな怖そうな人と仲良くしていたら悪い子になっちゃうわよ。だから早く学校へ行きなさい」
「まったくだわ。毎日遊んでばっかりいる子が、お腹を引っ込めるようになんてよくも言えるわね」
おばさんたちは僕の言葉がよほど腹立たしかったのか、三人とも目をきつくして言いたい放題なことを口にした。
「拾ってあげたのにお礼も言えないなんて、あなた最悪ね」
「まったくだわ。あれ以来すっかり生意気になって」
眉を逆立て、ボールを突き返してよこしたが、おばさんたちの言うとおりだ。振り返って見ればこれまでの僕にはとても考えられない反発であり、自分自身でもよく言えたものだと驚いている。
ボールを返してもらい元のポジションに立つと、ガンダさんはニヤニヤと笑っていた。多分おばさんたちとの短いやり取りが聞こえていたのであろう。
僕らは飽きもせずに黙々とキャッチボールを続けたが、やはりいつもよりコントロールが悪く、ガンダさんは上半身を左右に大きく動かしたり、腕を高く伸ばしたりして、ぎりぎりのキャッチをしていた。
晴天続きの今日も空は抜けるように青く、真上に来た太陽は僕の野球帽に照りつけていた。
10周を歩き終えたおばさんたちが、憮然とした表情を投げかけて公園を出て行った。いつもながら正確な時間の予定終了である。それから少しして、ガンダさんも時計を覗いた。
「メシの時間だ」
僕はベンチへ戻り、グローブを外してボールとともに置いた。
「龍太郎よ、自分でも気が付いていると思うが、今日はコントロールが今一だったな。何事もそうだが、雑念にとらわれていると上手くできねえ。たとえキャッチボールといえども、集中力に欠けてはだめだ」
僕がいろいろなことを考え、時には上の空で投げていたのをガンダさんは見抜いていたようである。
「まあ今日は別にして、最初の頃に比べれば投球も型にはまってきたよな。肩の筋肉が強くなってきたんだと思うが、何のスポーツでも、繰り返し練習していけば、少しずつ上達していくもんだよ」
ガンダさんは知らないはずなのに、柔道が原因で不登校になったこと見透かされているような気がしてドキッとした。でも、そ知らぬ顔をしていつものとおり手洗い場に走った僕は、ガンダさんから受け取ったタオルを濡らした。
「あれ?」
僕が首をかしげたのは、これまでのものとは違うスポーツタオルだったからだ。白地のタオルには『NWA』と黒糸の刺繍がされており、二人のレスラーが首に手をまわして組み合っているイラストがプリントしてあった。
僕はタオルを絞り、ガンダさんの傍へ戻った。
「ガンダさん、このタオル、カッコいいね」
「おお、これか」
そう言ったガンダさんは手を拭く前に、タオルを広げて見せた。
「NWAと言うのはな、ナショナル・レスリング・アライアンス、つまり国際レスリング連合の略だ。俺がアメリカにいた時代には、鉄人の異名を持つルー・テーズという偉大な世界チャンピオンのいたプロレス界最大の組織だったんだ。もちろん俺はNWAでも試合はしたが、元来一箇所に縛られるのが嫌いな性格だから、フリーとして各国を転戦して回ったのさ」
「ジプシーだもんね」
「ハッハッハ、そういうことだが、龍太郎も最初の頃と比べてずいぶん明るくなったな」
僕は照れ笑いを浮かべたが、ガンダさんのことを知れば知るほど、一般人とはあまりにもかけ離れた凄い体験をしてきた人だとつくづく羨ましく感じられる。
つづく
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