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20 ガンダさんの生い立ちと一寸先は闇
翌朝。僕は思い切って学校へ行こうかとかなりの時間悩んだが、どうしても決断ができずにまた公園へ向かってしまった。
父が一時帰国し、「龍太郎を信じているよ」といろいろな話をしてくれて以来、母が口やかましく言うことはなくなっている。それでも、僕には母の焦りがよく分かっている。
昨夜もトイレへ起きた時に偶然聞いてしまったのだが、父へ電話をしていた母は啜り泣きを漏らしていた。
家の中では務めて明るく振舞おうとしているが、やはり表情には陰りがあるし、ついさっき家を出てくる時もそうだった。すでに不登校は知られているであろう隣近所の目を、極端に気にしている様子がありありと分かる眼差しで周りを見ていた。
僕は、どうしようもなく重くのしかかる灰色の霧を胸に抱えて坂道を下った。昨日までは好天気続きだったが今朝はどんよりとした曇り空で、午後からは雨になるかもしれないとの予報だった。
母は、「雨になるから今日は家にいなさい」と言ったのだが、このストレスから寸時でも解放されるのはガンダさんと話をしている時以外にない。僕は公園を目指して夢中でペダルをこいだ。
ガンダさんはいつものベンチで新聞を読み、おばさんたちは今日もトラックを回っていた。自転車を停め、グローブとボール、それに母が不安を隠した表情で渡してくれたおにぎりを荷台カゴから取り出した。
ところが自分の意思とは関係なく、突然に涙の筋が頬を流れた。まったく意図しない涙だった。零れ落ちる涙の雫はガンダさんの大きな背中を見たとたんに、自分の弱さが情けなくなったからなのだろうか。
僕の足はいつものようにガンダさんのところへ進まず、しばらくはその場に立ちつくしたままうつむいていた。頬を伝わった涙が運動靴の上にポツンとこぼれ落ちた。背後に僕の気配を感じ取っていたガンダさんは振り向きもせずに、
「どうした?」
と声を掛けてくれた。その声を聞いた途端、僕の感情が一気に高まり、声を上げて泣いてしまった。
ガンダさんは新聞を綴じ、
「龍太郎、ここへ来て座れよ」
と言った。もう中学生になっているのに嗚咽を上げている自分が情けなく、必死で抑えようとしているのだがどうしても止められない。ガンダさんは再び、
「おいで」
と促して顔を向けた。
地に貼りついたかと思うほど硬直してしまった足をやっと持ち上げ、ガンダさんの前に立つと情動が益々高ぶり、大きくて頑丈な身体にしがみ付いてしまった。
「おいおい、どうしたんだよ今日は。泣いたりしておかしいぞ」
ガンダさんは優しく笑いながら言ったが僕の嗚咽は止まらず、しばらくは胸の中に顔をうずめていた。そしてジャージーの下に隠れているライオンの爪痕を思った時、ふとガンダさんの体がひんやりとしているのを感じた。ガンダさんは僕の細い背中に手を置いた。
「龍太郎、身体を起こして深呼吸してみな。焦っている時やパニックになった時は、静かに深呼吸してから、肩の力を抜くと落ちつくものさ」
ガンダさんは僕の両肩に手を掛けて起き上がらせた。
「そうだな…。今日は俺がどうしてプロレスの道に入ったか話してあげようか」
どうにかしゃくり泣きの治まった僕は、涙でくしゃくしゃになった顔を上げてガンダさんを見つめた。
「俺もな、子供の頃には龍太郎のように痩せていたんだ。背は高い方だったんだがケンカが弱くて、あだ名は「日陰のモヤシ」だったよ。同級生には、「モヤシ、モヤシ」とはやし立てられ意地悪ばかりされていたな、あの頃は」
深呼吸のお蔭で、僕は少しずつ落ち着きを取り戻した。でも、ガンダさんほどの人が、ケンカが弱くて意地悪ばかりされていたとは以外だった。
「俺は悔しくてな。いつも殴ったり蹴ったりする奴にどうしても勝ちたかったよ。とにかく、何が何でもケンカが強くなりたい一心で柔道の町道場へ通うことにしたんだ。小学5年の時だったが、最初のうちは受身の練習ばかりさせられたよ」
「受身の練習!」
僕の声は泣きしゃっくりと混じって途切れ途切れだったが、あの時のことが蘇えった。
以前にもガンダさんから柔道もやっていたと聞いてはいた。だが、「最初は受身の練習ばかりだった」とあらためて聞き、それが嫌で止めてしまった自分の情けなさが頭をよぎった。
「すぐに出来るようになった?」
「いや、なかなかできなかったよ。でも何日かしたらコツを掴んだんだ。たとえば前方回転でも、上手くやろうとする焦りから力みすぎてできなかったんだ。だから神経は集中させていても、身体はリラックスさせていた方がいいことを知ったのさ。つまり、焦りを鎮めるには深呼吸と肩の力みを抜くことが大切なんだ」
僕は柔道部へ入部したあの練習を思い出した。確かに嫌々やっていたこともあるが、力みすぎて肩を打ちつけたような気がする。
「何とかかんとか受身ができるようになるまで、一週間くらいかかったかな。それから、少しずつ技の掛け方を教わり、乱取りもさせてもらえるようになったんだが、今度は投げ飛ばされるのが嫌でな。途中で止めてしまおうと思ったこともあるよ。だけど、ここで止めてしまったら一生ケンカには勝てないと自分に言い聞かせて、1日1日を頑張っていたらいつの間にか柔道が楽しくなってきたんだ」
「投げ飛ばされるのが楽しくなったの?」
僕のしゃっくりは大分治まってきた。
「いやいや、いつまでもやられてばかりではなくなってきたさ。ある日のことだったよ。最初はまったくかなわなかった相手に、足払いを掛けたら見事に極まってな。先生は手を叩いて褒めてくれたが、あの時は本当に嬉しかった。そのうち、その相手とは五分五分の対戦ができるようになってきたんだ」
「ふうん」
「最初はケンカが強くなりたいと思っていたんだが、いつの間にかそんなことは忘れてしまったよ。辛いこともあったけど、なにくそ、と思って頑張っていたらだんだんと体重も増えてきて、小学6年生のときには、県大会で個人優勝し、全国大会にも出られるまでになったんだ」
「優勝したの!」
やはりガンダさんは特別な才能があったんだ。と思っていたら僕の思っていることを察したかのように話を続けた。
「龍太郎。男が一度やると決めたら何が何でもやりとおさなきゃ。誰だって辛いのは一緒なんだから、つまり、辛さから逃げる言い訳をしないことだ」
ガンダさんは自らの体験を言っているのだが、気の弱い自分のことを見透かされた気がした。だが、振りかえって考えれば、いつも言い訳ばかりして嫌なことや辛いことから逃げていたような気がする。
「俺は中学へ上がってからも迷わず柔道部へ入ったよ。3年生のときには主将になり、全国大会で優勝をしたこともある」
「凄げえ、全国優勝!」
「ところが…」
ガンダさんは話の間をおいて、足元へ寄ってくるいつもの鳩に手を差し出した。
「高校へ入って間もなくだった。俺の家にとんでもない不幸が訪れたのよ。まさに一寸先は闇ってえやつだな」
ガンダさんはペットボトルの水で口を潤してから空を見上げ、
「天気予報、当たりそうだな」
と言ってから、話を戻した。
「俺の家は小さな不動産屋をしていて生活には困らなかったんだがな。親父が突然脳溢血で倒れ、あっさりと死んでしまったのよ。ヘビースモーカーだったことに加えて大酒飲みだったからな」
このとき僕は、ガンダさんが煙草を吸わないことにはじめて気付いた。
「ガンダさんが煙草を吸わないのはそのせい?」
「そうだ。煙草なんてえものは百害あって一利なしって言うからな。大きくなっても龍太郎は吸うんじゃねえぞ」
「僕んちのパパも吸わないから」
「そうか、それはいい」
ガンダさんはそう言ってから話の続きをした。
「ところで、俺たちに降りかかった不幸だが、不動産取引の資格を持っていないお袋じゃ店をやっていくことはできず、残された家族はその日の生活にも困ることになったんだ。それで仕方なく俺は高校を中退して、自動車修理工場の見習いとして働くことになったんだ」
「柔道は止めちゃったの?」
「ああ、その時には柔道どころじゃなくなった。なにしろ俺の親父はよく仕事もしたが遊びも達者でな。家には余分な貯えもなかったために、俺が働かなきゃ弟や妹が学校へも行かれなくなっちまう状態だった」
「貧乏になっちゃたの?」
ガンダさんは笑って見せたが、僕は自分の家のことをふと思った。父は健康だし、食品商社の上海支店で営業部長をしているから生活には困っていないはずだ。だが、ガンダさんの言った一寸先は闇という言葉が、いつ降りかかってくるかも分からない。考えても見なかったことだが、もしそんなことになったら。そう思うと弱気の虫がまた頭をもたげた。
つづく
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