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22 目の前にはばむ壁から逃げたら、一生つきまとう敗北の二文字
「トレーナーは日系二世の元レスラーで「反逆者」と呼ばれていたヤス・タカギという人だった」
「反逆者?」
「ああ。タカギさんはな、太平洋戦争中アメリカ従軍兵士だったんだよ」
「アメリカ軍?」
「日系の二世だから国籍はアメリカさ」
「へーえ、そうなんだ」
「反逆者と呼ばれるよになった理由なんだがな。第二次世界大戦の末期だった昭和20年の沖縄戦線に徴用された時、司令官の命令に背く事件を起こしたことがあるんだ」
「……」
「つまり、沖縄上陸戦になった時、日系であるタカギさんは日本人に銃を向けることはできないと言って戦線に加わることを拒否したんだ。その後、軍法会議にかけられて反逆罪で投獄されたんだが、それ以来アメリカでは反逆者と罵られるようになり、プロレスラーになってからでも、逆にそのキャラクターを利用して悪役に徹底していたんだ。身体は小さかったが、度胸と信念の据わった人だったよ」
「信念…」
僕は父の命名した名前の由来が頭をよぎった。
ガンダさんは空を仰ぎ、リュックのポケットから腕時計を取り出した。
「龍太郎、天気予報が当たりそうだから早目の昼メシにしようや」
僕はうなずき、受け取ったタオルを持って手洗い場に走った。ガンダさんは顔と手を拭き、いつものおにぎりを取り出してから話を続けた。
「俺は早速タカギさんからプロレスの手ほどきを受けたんだが、トレーニングが辛くてな。何度日本へ帰りたいと思ったか分からねえよ」
「えっ!」
ガンダさんほどの人から、「トレーニングが辛くて」という言葉を聞こうとはまったくの意外だった。
「早朝からのトレーニングは延々と続くんだ。その日によってプログラムは変わるが、ランニングや階段登りのダッシュから始まり、その後はトランプをめくって出た数の3倍のスクワットとプッシュアップの組み合わせとか。天井から下がったマニラロープをよじ登るロープクライミング、首を鍛えるブリッジ、バーベルやダンベルを使っての筋力強化。それに、柔道とはまったく違う受身の練習とスパーリングなど、まだまだたくさんの種目がある。とにかく、毎日毎日くたくたになるまで絞られどうしだった。その挙句、俺のスタミナ源である米のメシは喰えず、パンばっかりなのもまいったよ」
「柔道が役に立たないの?」
「いや。まったく役に立たないと言うわけじゃねえが、プロレスはただ強いだけじゃ客は喜ばねえ。プロレスはな、戦うもの同士が阿吽の呼吸で試合を盛り上げてゆく命懸けのエンターテイメント・スポーツなんだ。それがなかなか理解できなくてな、デビュー前のトレーニングは本当に厳しく、正に地獄の特訓だったよ。正直に言うと、俺はホームシックにかかって何度涙を流したかわからねえ」
「マジで!」
僕にはガンダさんの涙など想像もできず、まったくの驚きであった。
「俺はさっき、何度日本へ帰りたいと思ったがしれねえと言ったが、そんな弱音ばかりを吐いたある時だった。俺は鏡に映った自分に、「もうプロレスなんか諦めて日本へ帰りたい」って独り言を言ったんだ。そうしたらな、鏡の中から、「嫌なら帰ればいいじゃん」って聞こえた気がしてびっくりしたんだ」
「えっ?」
「あの時には、精神的にも肉体的にもかなり追い込まれてパニックだったんだな。すると鏡が、「投げ出してしまえば楽になる。だけど柔道場を建てる夢も消えて一生後悔するぞ」って言うんだ」
心の中で自分の心境を重ね合わせていると、ガンダさんは当時の話を続けた。
「それからの俺は弱音を吐きそうになる度、目標の夢を思い浮かべて鏡に映る自分と対話をしながら乗り越えてきたんだよ。そうやって辛抱しているうちに、最初は辛くてたまらなかったトレーニングにも体力が順応してきて、3ヵ月後に「東京流れ者」という無法者のキャラクターで悪役デビューさせてもらったんだ。場所はオリンピック・オーデトリアムというデカイ会場でな。リングへ上がるまではドキドキしっぱなしで生きた心地がしなかったよ。正直に言うと、あのデビュー戦は怖くてたまらなかったな」
僕が無言のままでガンダさんの顔を見つめ続けたのは、まったく意外な一面を知ったからだ。後にはライオンと戦ったほどの人でも、怖くてたまらなかった時代があったとは、本当に意外だった。
「でも、「やるしかねえ」と覚悟を決めてリングへ向ったんだ。セコンドについてくれたタカギさんは、「落ち着け。深呼吸しろ。肩の力みを抜け」と何度も声をかけてくれたんだが、どうやって試合をしたのか覚えていないほど無我夢中だった。でも、今んなって振り返ればいい思い出さ。それからも何度となく壁に突き当たって悩んだが、ひとつひとつ乗り越えていけば、自然と成長してゆくもんだ。男の人生は闘いだ。壁を目の前にして弱音を吐いてしまったら、待っているのは敗北という惨めな二文字だ」
「壁!」
「ああ、プロレスラーってものはな、自分の試合を目当てに来る客をどれだけ多く掴んでいるかが商品価値なんだよ。大金を稼ぐためにはどうしたらライバルを越えられるか、毎日が壁との闘いなのさ。ポリネシアン・ザウルスやアンデスの大魔神の他にも多くの強豪と戦い、何度も怖い思いをしたが相手だって内心は俺を怖がっている。だから弱音を曝すと舐められっぱなしになってしまうのさ」
「相手も?」
「そうだよ。でも、プロレスラーはそんなそぶりを絶対に見せないけどな」
ガンダさんは再び空を仰いだ。辺りの景色はどんよりとした空気に包まれ、僅かに見えていた人の姿も、先ほどまで足元を歩き回っていた鳩たちも消えていた。
「いけねえ、ポツポツ降って来やがった。龍太郎、本降りにならねえうちに帰ろうぜ」
ガンダさんは立ち上がって身支度をはじめた。そして、手にしていたタオルを無雑作に差し出した。
「龍太郎にやるよ」
僕は驚いた。NWA national wrestling allianceの文字とレスラーが組み合っているイラストのスポーツタオルだ。
「えっ! 貰っていいの?」
「ああ、これを見たら俺のことを思い出してくれ」
ガンダさんはベンチから立ち上がると、ニコッと笑ってから背中を向けた。先ほどまでおばさんたちの歩いていたトラックに、ポツン、ポツンと付いた雨の染みが広がりはじめた。僕はタオルを握りしめたまま、ガンダさんの大きな背中と松葉杖の遠のく音を見送っていたときだった。不意に胸のつかえが天に上る煙のごとく消え去り、学校へ戻る決意が湧いたのだ。僕はどうしてもガンダさんに伝えたいと後を追って走った。ところが、角を曲がった先は一直線道路で見通しもいいのに、ガンダさんの姿はもう見えなくなっていた――。
つづく
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