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 7  えっ! おじさんはプロレスラーだったの 

 僕は意図的にボールを受け損ない、またあの人の所へ転がして見たいとも思ったがそんなわざとらしい演技のできるほど器用な性格ではない。でも、もう一度あの速球を受け止めて見たいし、座ったままの姿勢から投げられる腕力も羨ましくてならない
 尻のポケットに入れてあるスマホを覗くと、デジタル時計の数字が正午になろうとしていた。僕はボールを投げるのを止めた。近くの手洗い場汗ばんだ顔を洗い、荷台カゴのコンビニ袋を掴んで花壇の縁石座った。そして菓子パンを取り出そうとしたときだった。
「おい、坊主」
 突然あの大男がしたのだ顔を向けると僕を手招きしていた。僕は動悸が高鳴りかなり動揺した。先日の一件から想像しても悪い人ではなさそうである。でも、手招きをされたからといってすぐに走って行くほどの思い切りのよさなどあろうはずがないなにしろ小学生時代は、「知らない人に話しかけられたら十分に注意をするように」という教育を受けていた世代である教え云々より元来の性格がそうだ
だが、剛速球の好奇心は消えていない。どのような人なのか訊ねてみたい気持ちはあるのに、身体は拒否している
「こっちに来なよ」
 大男先ほどよりも大きな声を出した。僕は逃げようかとも思った。
「心配することはねえ」
 ちょっとだけ笑みを浮かべて、また声を上げた。それでもまだ躊躇っていたのだが、かなりの勇気を振り絞ってコンビニ袋とペットボトルを手にすると恐る恐るベンチへ近づいて行った
―― 何かされたら逃げ出せばいいし、この人より僕のほうが足は速いはずだ。
そんなことを考えていると、大男僕に笑顔を向け、腰をずらしてスペースを開けると顎をしゃくった。
「座れよ。メシ、一緒に食おうじぇねえか
 あらためてよく見ると本当に大きな身体をしている。小学生の時の遠足で行った、総持寺の山門にある金剛力士のようにゴツイ。
いつも一人じゃつまらねえだろう
―― やはりこの人は、いつも見ていたんだ… 
 僕が黙ったまま突っ立っていると、大男
「おい」
と言って座るよう促し、リュックのジッパーを開けて新聞紙の包みを取り出した。包みを開くと中から大きなおにぎりが3個出てきた。そのひとつを無雑作に掴むと、ガブッと口にほおばり、
「うめえ」
微笑んだ身体が大きいだけに、その仕草がどこかユーモラスに見えたため緊張は少しほぐれた。
―― 怖そうだが悪い人ではなさそうだ。
 僕は小さくお辞儀をし、隣へ硬くなって座った。大男はコンビニ袋の中味を覗き込み、
「食えよ」
と言った。萎縮したままの僕が菓子パンをひとかじりしたとき、ひとつのおにぎりはもう食べ終わっていた。そして脇に置いてあった2リットルのペットボトルの水をガブガブと飲み、ふたつ目に手を伸ばした。
「野球、好きか?」
 大男は僕の顔を覗き込んだ。僕は黙って首を横に振った。
「そうか」
 先ほどのおばさんたちのように、学校のことなどは何も訊かず、ただ無心に口を動かしていた
「あのう…
 僕は傍らへ寄ったとき以上の勇気を振り絞って言った声が震えているのが自分でも分かる。
「おお、坊主。はじめて口をきいたな。で、なんだい?」
「おじさんは、プロ野球の選手だったんですか?」
プロ野球なぜだい?」
「この前、投げ返してくれた球が凄く速かったもので」
「ハッハッハ、そうだったのかい。だけど野球の選手なんかじゃねえよ
「そうですかじゃあお相撲さん?」
「いや違う」
でも、スポーツはしていたんでしょう
 僕の声はおどおどと上ずっている。
「ああ、昔はプロレスラーだった」
「えっ! プロレスラー」
 この大きな人がプロレスラーだったと知りなるほどそうだったのかと思いながらも思わず驚きの声を上げてしまった。
「坊主、おの名前は?」
「武田…、武田龍太郎です」
「そうか、龍太郎強そうでいい名前だな
 小さい頃から同じことをよく言われるのだが僕は首を横に振った。名前は父が考えたとのことだが、慶應義塾大学の大先輩であり、「誠」を座右にする橋本龍太郎総理大臣の信念を尊敬していたからだという。だが、信念といわれると僕の性格にはあまりのもギャップがありすぎ、自分ではいい名前だとはまったく思っていない。それでつい首を横に振ってしまう癖がついているのだ。
の名前はな…
 そう言いかけた大男、大きく息を吐いて青く澄み渡った空を仰いだ。だが、その横顔が少しだけ淋そうに感じられたのはなぜだろうと思った
のリングネームはジプシー・ガンダってな、外国のあちこちを長いこと転戦していたんだ」
「ジプシー・ガンダ
「ああそうだ。本名は神田というんだが、アメリカのプロモーターから、カンダよりガンダの方が悪役の響きがあると言われてガンダに変えたんだよ
 僕は正直、カッコいいリングネームだと思った。
ところがな、日本へ帰る直前。カナダの北部にあるユーコン州のホワイトホースという町で猛吹雪に襲われ交通事故に巻き込まれちまったのよ」
 僕は片方の靴しかない足元に目を落とした。
「そうさ、おの想像するとおり、そのときに片脚をなくしちまったのよ。もう、遠いのことだがな
 僕がちょっと不思議に思えたのは、父と同年代に見えなる大男が「遠い昔」と言った
ことである
 大男は下肢のない膝を撫で回し、事故を思い出したのか再び天を仰いだ。僕は黙って
菓子パンをちぎって口に入れた。足元に、数羽の鳩が近寄ってきた。大男は食べかけの
おにぎりを指先でつまみ、ポンと投げ与えた。
                                          つづく

6  近寄ってきた松葉杖の大男

 今日からゴールデンウイークがはじまり、学校も飛び石的に休みが続いている。本来なら楽しでならないはずなのに、外へ出れば同級生にも会うだろうし、岸根公園も人出が多いと想像されるため、休日は家にこもって過ごすことにした
 昨年は父の実家である甲府へ3泊4日で出かけたのだが今年は特に計画はない。地元横浜生まれの母は、わざわざ実家へ行くこともなく、妹にせがまれてディズニーランドへ出かけた。もちろんも誘われたがまったく気が進まず、留守番をして家でゴロゴロとしていた。
 テレビを観たり音楽を聴いたりする以外は何もする気力が起こらずやたらと長く感じた連休の終わったその朝。
「パパも心配しているから、くよくよ考えていないで学校へ行きなさい」
いつもの母の言葉を無視して、公園に向うべく自転車にまたがった
龍太郎!」
 背中に、母のヒステリックな声を聞いたが構わずにペダルをこいだ。僕が近くの公園を避けてわざわざ遠くまで出向いているのは知っている人に出会うのを懸念してのことだが行き先を知らせてない
途中のコンビニでお昼用の菓子パンミネラルを買った。もうすっかり走りなれた道を20分ほど飛ばし、公園に着いたのはいつもの時間だった。
僕はあ日の一件以来ちょっぴり気になっているあの人を探した。さりげなく枝の張ったドングリの木下のベンチに目をやると新聞を広げている横向きの姿が見えた
―― いた!
 機械室のところからは10メートル以上離れている。僕がじっと見ている視線を感じたのか、男の人は新聞から目をはなしてこっちを向いた。だが僕は、そ知らぬふりをして背中を向けた 
僕のほうが気にしていたのにもらずうろたえてしまっのだが、気を取り戻していつものようにグローブをはめて肩をまわしていたときだったトラックを回っていた例のおばさんたち、僕の傍でウオーキングの足を止めたのだ。しかも、何を思ったのツカツカッ近づいてたのである
もうすっかり顔見知りにはなっていたが、これまでに言葉を交わしたことなどはもちろん一度もない僕は何事かと驚き、イヤホンを外した。
「あなた中学生でしょう。どこの学校?」
 一番太めで、あとの二人を仕切っている感じのおばさんがいきなり声を掛けてきた。軽くはずむ息せいか、声が途切れ途切れにやたらと大きい。僕が黙っていると、もう一人がいかにも心配しているような顔を作り、後に続けた。
「学校へ行かなきゃだめじゃない。おの方も、先生も心配してるわよ」
 おばさんたちは顔を見合わせうなずき合っていた。
中学時代にしっかり勉強しておかないと、あとで困ることになるのよ。どんな理由があるのか知らないけど、不登校なんて絶対によくないわ」
「ね、悪いことは言わないから、私たちの言うことをきいて、学校へ行きなさい」
「そうよ。私たちはあなたのためを思って、心配しているのよ」
 僕は腹の中で、何も知らないくせに余計なお世話だ、と思っていたが言い返すことなどとてもできずそのまま下を向いて黙っていた。
と、そのときである。件のベンチから突然に、低音でよくとお声がしたのだ。
「あんたたちは他人のお節介を焼くより、自分の健康だけを考え、頑張って歩いていなよ」
 あまりにも突然のことで僕も驚いたが声の方向に振り向いたおばさんたちはもっと驚いたようだ。口をあんぐりと開けて、声の主ポカン見ていた。男の人はのっそりと立ち上がった。そして外にも、こっちへ向ってゆっくりと歩いてのだ。男の人は両脇に松葉杖をついていた
「あっ!」
 僕は思わず声を上げてしまったのだが、左側のジャージーパンツは膝部分り詰めてある。つまり、片方の下肢がなかったのだ。アスファルトのトラックを突く、松葉杖のコツコツという音が近づいて来る
固唾を呑む僕らの前で男の人は足を止めた僕が再び声を上げそうになるほど驚いたのは、その人の身体があまりにも大きかったからだ。この前は座っていたので気がつかなかったが、見上げるほどの身長だ。
「何よあなた。お節介を焼くななんて、失礼な
「本当よ。私たちはこの子を心配して言っているのに
 おばさんたち精一杯の虚勢を張るように男の人を見上げて言った。だが、だんだんと顔色が青ざめ少しずつ後ずさりをした
173センチの僕が肩までもないほどだから、190センチ以上あるかもしれないそれに首も太く、肩幅も広くがっちりとしている。
「誰にでも悩みはあるものさ。なあ坊主」
「……」
 僕は不思議の国から突然現れたガリヴァーを目の前にしたようで返事もできずに固まっていたおばさんたちは小声でぶつぶつ言い合いながら、トラックった。そして、何度か振り向き、コーナーを回て行った。
 僕はこれまでに見たこともない大男を目の前にして、膝がガクガクと震えるのを感じた。
「なんの悩みか知らんが、時期がくればつまらねえことだったと思うさ。それまでは壁と向き合って、好きなだけボールを投げていればいいよ」
 大男は僕の肩に手を置き、向きを変えるとベンチへ戻ってった。その後姿を呆然と見ていたが、肩に触れられた大きな手の感触が、なぜか冷やりと残っていた
 それからも機械室の外壁めがけ、繰り返し投げつけては跳ね返ってくるボールをキャッチし続けた。だが、これまでのように没頭できないでいる原因は明らかである。
―― あの大男僕をずっと見ていたのかもしれない。
 そう思うと後ろのベンチが気になって仕方がなかった。かれこれ30ほど続けてから一休みするため、自転車の荷台カゴに乗せているペットボトルを持って花壇を囲む縁石座った。水を一口飲み気になるベンチへチラッと目を向けた。大男はまだ新聞を読んでいた。おばさんたちはもう僕のことに無視を決め込んだのか、飽きもせずに歩き続けている。
―― あんな大きな人は今まで見たことはない。柔道部顧問の大岩先生も大き比較にならない。いったいあの人は誰なんだろう
 時の剛速球といい、また新たな好奇心が頭に取り付いてしまった。もしかすると、僕が生まれる以前のプロ野球選手だったのか、あるいはお相撲さんだったのかれないなどとも思ったが好奇心とは裏腹に直接訊きに行くほどの勇気などあろうはずがない。そんな勇気があるくらいなら、柔道部の勧誘をはっきりと断っている。
―― それにしても、片脚をなくしてしまった原因はなんだろう?
気になりだしたら頭から離れなくなってしまうのも僕の性格で、あれこれと想像してみても所詮は何も分かるはずがない。僕は立ち上がって再び壁の前へ立った。
そよ風に乗ってヒヨドリの甲高い鳴き声がすると、追い立てられたスズメの群れが飛び去っていった。そのスズメに自分の今を重ね合わせ、ますます暗く落ち込んでいった。
先ほど話しかけてきたおばさんたちは、「もう勝手にしなさい」と言わんばかりの冷ややかな目線を投げかけいつものように歩数計を覘き、スポーツタオルで汗を押さえながら帰ってった。
                                          つづく

気になるミステリアスな大男に遭遇

 その晩も母の小言を散々かされ、早々と二階の自室へ戻ったのだが、当たる相手がなくて壁を蹴飛ばし、脱いだカーデガンを窓ガラスに投げつけオーディオのスイッチを入れると腹立ち紛れに音楽のボリュームを思い切り回した
 僕の家は横浜駅西口から15分ほど高台へ歩いた高島台という、横浜港側に面した見晴らしのよいところだ。僕が小学生の低学年で妹が幼稚園児だったころ、中古の戸建を買って越してきたのだが周りには緑が多く、庭も広いからの住宅地だ静かで環境は素晴らしいのだが、強いて難をつけるならば坂道がきついことと商店が近くにないことである。
 気持が塞いでむしゃくしゃしている僕は、勉強机の椅子を窓側にずらし夜空くっきりと映えるみなとみらい都市の高層ビル群の明かりを見つめた。
―― くそっ! 中学へ上がるのが楽しみだったのに、他の小学校から来た奴らはみんな意地悪だ。
このまま不登校を続けていていいわけはないことくらい分っているが、学校へ戻ればいつらのいじめが待っている。
 どう足掻いても癒すことのできない虚しさに胸が張り裂けそうになっていたとき、突然背中を揺すぶられて我に返った。小さな手の感触で妹の麻衣だとすぐに分かったが、いつ部屋に入ったのかも気付かずにいた。
「お兄ちゃん。ママがオーディオの音を下げなさいって」
 耳元に大声を上げた妹は勝手につまみを回して出て行った。
今日も担任の先生から連絡があったというし気にならないわけではなくむしろ負け犬の惨めさにも似た気持すら抱いている
―― どうしたらいいんだ。
頭を抱えて目を瞑ったとき、公園でボールを投げ返してくれた男の人をふと思い出した。
―― はじめて見たけどいつもあのベンチにいたんだろうか? 
―― 座ったままであんなスピードのある球を投げられるんだから、もしかして昔は野球選手だったのか
 あの時は突然の驚きもあって顔も覚えてはいないが、長い髪の毛を後ろで束ね、黒っぽいジャージーを着ていたような気がする
―― あの場所に、明日もいるのかな? 
 何事もそうだが、気になりだしたら頭から離れなくなってしまう性格の僕が、あれこれと想像していたときだった。いきなりスマホの着メロが鳴って我に返った。ディスプレーを覗くと、小学生から友達で蜂矢秀介だった。
 小学5生頃までの秀介とは比較的気が合いよく遊んでいたのだが、6年生へ進級してから間もなく、僕のほうから少し距離を置くようになった。というのは、勉強もできて社交性に富んでいる彼が誰とでも仲良く話しているのを見て、やたらと羨ましく思えるようになったからだ。
 着信音は鳴り続いている。でも、どうせ彼の用件は分かっている。僕は着メロを聞き流し、窓側からベッドへ移って横になった。
柔道部の勧誘に端を発したもろもろの経緯が蘇えってくる。保健室での一件を言いふらした女子生徒、廊下でわざとぶつかってきた体格のいい、黒板に落書きをした茶髪、ズボンを脱がそうとした変態らの顔を厭わしく思い出して、僕は唇を噛んだ。
そして、いつの間にか眠ってしまったようである。
                                                                                                                     つづく

 4 ずる休みがばれていじめの標的
 
 翌日、痛みはまったく消えていたし打ち身の痕跡すらもない。1日くらいは学校を休んだほうが退部する理由づけも増すと考えたのだが、さすがにそこまでやる気にはなれず登校した。
それでも退部届けを出しに行く勇気はなく、「まだ痛むのだから仕方がない」と無理やり自分に言い聞かせて、そのままにしておいた。そして次の日も、また次の日も部活へは顔を出さなかった。そうしてぐずぐずしていたのは、そのうち自然に名札が外されるだろうと安易に考えていたからである。
 ところが、思いもしなかった事態が起きてしまったのである。保健室で診てもらっていたとき、カーテンの閉じていたベッドにいたのがクラスの女子だったのだ。そのとき先生が、「たいしたことはない」と言っていたのを聞いていて言いふらされてしまったのである。
いつまでも痛いふりをしている僕の嘘がすっかりばれてしまい、クラスのみんなからは「意気地なし」とか「弱虫」「泣き虫」の烙印が押され、何かにつけてはやし立てられるようになってしまったのである。
中には廊下ですれ違う際、わざとらしくぶつかって来て、
「大丈夫か! 保健室へ行こうか」
などと大声で笑い出す者まで出てきたのだ。
 教室の黒板には僕が柔道着を着て泣いている落書きをされたし、柔道の真似事をして襟と袖を握り合っている片方の奴が、
「ママ、怖いよ!」
と叫んだりして喜んでいた。それを見ている女子生徒は、
「それっていじめじゃない、止めなさいよ」
と言いながらも目は笑っている。
 それだけにはとどまらず、僕に対する冷やかしと悪戯は日に日にエスカレートしていったのだ。そして不登校にいたる決定的な原因となったのは、いじめの首謀者ともいえる体格のいい奴と、いつも寄り添っている茶髪の2人に押さえつけられ、
「おまえ、チンポコついてんのかよ」
とズボンを下げられそうになったことである。さすがにクラス中が騒ぎ出したために途中で止めたが、僕は屈辱のあまり体調までおかしくなり、先生には、「頭が痛い」と伝えて早引きをしたきり学校へは行かなくなった。
まだ他人の心理をよく理解し得ない年代には善悪の区別もないまま、悩める精神に追い討ちを掛けてしまうことは珍しくはない。悪戯をして喜ぶ生徒たちには大した悪気もないのだろうが、僕にとっては屈辱きわまりない、いじめ以外の何ものでもない苦痛なのだ。
 あれほど楽しみにしていた中学校進学だったのに、柔道部の勧誘をはっきり断れなかったことの後悔が胸を締め付けた。
 そのような経緯があって学校へは行きにくくなり、ついに入学10日目で不登校生の仲間入りをしてしまったのである――。
                   
「嫌な奴らだ!」
思い出したくもない屈辱だった。はやし立てて落書きをした奴や、廊下でぶつかってきた奴、ズボンを脱がそうとした奴、それを見て笑っていた奴らの顔が倉庫の壁に次々と浮かび、思わず悔しまぎれの声がもれた。
「くそっ!」
腹立ち紛れに強く投げつけたボールが高く跳ね返り、僕はジャンプしてキャッチしようとしたのだがグローブを外れてしまった。受け損なったボールは多目的トラックを弾んで一段高くなった内側の広場に入り、僕は追いかけて行った。ところが数メートル走ったところで、一瞬ギョッとして足を止めた。
思わず足がすくんでしまったのは、広場に生えているドングリの木の下のベンチに、一見、異様な感じのする人が座っていたからだ。その人は足元に転がってきたボールを拾い上げてこっちを見た。別に睨んでいるわけではないようだが鋭い眼光をしていた。
僕は声も出せず、じっと立ったままでいた。僕の父はこの4月から単身赴任をしていて中国の上海にいるが、その父とほぼ同年代かも知れないと思った。
 すっかり固まってしまい、ただじっとしている僕に、男の人は身体をはすに向けて無言で投げ返してよこした。ビューンという風を切るボールは僕のグローブにバシッと快音を上げて痛いほどの強さだった。
―― 凄げえ!
僕が目を見張るほどは驚いたのは、ベンチに座ったまま肘と手首のスナップを利かせただけで投げたのに見事な剛速球だったからである。僕は軽く頭を下げただけで元の場所へ戻った。
つづく
 3 練習の初日に早くも怪我
 
学校は家から徒歩15分くらいのところにある歴史の長い公立中学校だ。全校生徒は650名ほどだが昨今の少子化時代では多いほうであろう。これまでに大きな暴力行為や喫煙問題などは取りざたされたことのない学校だが、運動はそこそこである。それでもご多分に洩れず、サッカー部や野球部、女子だとヒップホップダンス、バレーボール部は人気だが、柔道部員は極めて少ないことを入部後に知った。
新学期の授業が本格的に始まったその日。僕の性格を知っている同級生らは、柔道部へ入部したと聞いて信じられない顔をしていた。もちろん僕自身もすべての授業がまったく頭に入らないほど動揺し、放課後の初練習が気になって仕方がなかった。
―― 家から急用の電話でも掛かってこないかな…。
そんなことまで考えてしまったが、ついに最後の授業の6限目を終えた。柔道にはまったく向いていない痩せた身体をわざとらしく眺めた同級生は、小枝のように細い手首を握って、
「大丈夫か、おまえ」
と、冷やかし顔でヘラヘラと笑いかけた。すっかり落ち着きをなくしてしまっている僕には言葉を返す余裕すらない。
「おまえ、顔が青いぞ」
 そう言ってからかった同級生は、サッカー場の方へ向って行った。
―― なぜ、はっきりと断れなかったんだ。
僕は繰り返し悔やんだがもう遅い。そして、激しい後悔の念を胸に、濃い霧の中へ向うが如き重い足取りで、校舎とは別棟の道場へ魂が抜けたようにふらふらと歩いた。
入り口付近で足を止め、オドオドとしている僕に、入部勧誘の声掛けをした一人が笑顔で近寄ってきた。
「よう龍太郎、今年の入部はおまえだけだからさ、頑張ってくれよな」
「えっ、一年生は僕だけですか?」
「そう、マジで一人だけ。だから期待してるぜ。それからさ、道場への出入りには、必ず礼をしてくれよな」
 さも武道精神を意識したような真顔で言ったが、僕の動揺はいっそう激しくなっていった。道場内は汗の臭いがする。50畳の畳を取り巻く板壁に何着かの柔道着がぶら下げてある。その中の一着をつかんだ先輩が無雑作に差し出してよこした。
「着替えろよ」
「ここで、ですか?」
「きまってんじゃ。女子の部員はいないからさ、気にしなくていいんだ」
 僕は同学年の中でも身長は高いほうなのだが、よく食べるわりにはガリガリに痩せている。だから身体検査以外は人前で裸になったことはほとんどない。
「早くしろよ」
 柔道着を受け取ったままうつむいている僕に、先輩はイライラしたように促した。仕方なく、震える足を引きずるようにして道場の隅へ向かい、周りの目線を気にしながら真新しい制服のボタンを外した。柔道着は汗の臭いがぷんぷんとして、じっとりと重い。
―― 不潔そうで気持が悪い。
そんなことを思い、もたもたと着替えている間に何人かの先輩が道場へ入ってきた。全員が大きな声の挨拶で迎えたところを見ると、3年生の部員なのであろう。
肌にひんやりとする柔道着にやっと着替え終わった僕は、長く余ってだらりと下がっている帯の先を心細く握っていた。すると、体格の大きな先輩が近寄ってきた。
「俺、主将の岸本。宜しくな」
 僕は短く返事をしたが完全に固まってしまい、情けない小さな声しか出せなかった。すると、主将だと名乗った岸本先輩は二重に巻いた僕の帯を、1本だけ握って引っ張った。僕が思わず、
「痛っ!」
と、声を上げてしまったのは、引っ張られたときに胴が締め付けられてしまったからである。
「帯はな、二重になった下側からとおして結べば、引っ張られても胴が締まらないよ」
 そう言った岸本主将は自分の帯を結び、
「こおいうふにな」
と、やって見せてくれた。
僕は見ていたとおりに結び直したが、目にも落ちつきがなく無意識に瞳を動かしていた。すると、部員の名札が掛けが目に入った。
顧問の大岩先生は三段と書かれており、一級の3年生が計3名、2年生は2級から3級までの3名、そして真新しい僕の名札も下げてあった。つまり全部員が7名だけということになる。数日前までは中学生になれた嬉しさに胸がはずんでいたはずなのに、まさかこんなことになるとは夢にも思わず、まるで孤独な別世界の迷路に迷い込んでしまったような心細い心境だった。
「みんな揃ったか」
 突然に野太い声がした。入り口に目を向けると、すでに柔道着を着込んでいる大岩先生だった。入学式のときにも、一段と体格の大きさが異彩をはなっていたのでよく覚えている。
「整列!」
 そう声を上げたのは先ほどの岸本主将だった。それまでは学年同士で話し込んでいたそれぞれが、先生を前にして一列横隊に並んだ。僕もみんなに倣って一番端に並んだ。
「おまえは向うだ」
 そう言われた僕は、立ち位置を間違え三年生の先端に立ってしまったようだった。慌てて反対端に回ると、太い首と揉み上げからつながっている顎ひげが特徴の先生が、部員の顔を確認するように見回し、話をはじめた。
「3年生と2年生は進級おめでとう。それから1年生は入学おめでとう。えー、毎年同じことを言うようだが、今年こそは、出ると負けと陰口を叩かれている我校の汚名を返上し、せめて県大会のベストフォー…、いやベストエイトまででいいから勝ち進めるよう、目標をしっかりと持って練習に精を出してもらいたい。いいな。みんなも、我校の伝説を聞いていると思うが、神奈川県の代表校として全国大会に出場したのは50年以上も前の一度きりだ。とにかく、勝つためには一に練習二に練習。たゆまぬ努力あるのみだ。いいな」 
 先生がここまで話をすると、僕を除く6名の部員は大きな返事をした。
「おまえら、返事だけはしっかりしているんだけどな。本当に気合を入れて頑張ってくれよ。いいな」
 部員たちは応えたが、先ほどよりは若干声が小さかった。
「それから…」
 そう言った先生は僕の方に顔を向けた。
「新入生のキミ、名前は?」
「は、はい。武田、龍太郎です」
 僕は消え入るような声でおどおどと答えた。
「そうか、龍太郎か。前へ出てみんなに挨拶をしなさい」
―― えっ!
 突然に、挨拶するようにと振られた僕がうろたえていると、隣に立つ2年生が背中を押した。よろよろと二、三歩前へ出ると先生が手招きをして隣へ立たされた。何度も言うように極めて気の弱い僕は、たとえ6人だけの前とはいえすっかり上がってしまって、たぶん顔は青ざめていたと思う。
「さあ」
 先生は促した。僕は目眩を起こしそうで何を言ったのかははっきりと覚えていないが、たぶんあらためて名前を名乗った後に、「よろしくお願いします」とだけ言って頭をぴょこんと下げた気がする。
「先輩であるみんなは、新入部員の分からないことは親切に教えてやるように。絶対に無理なことをさせるんじゃないぞ。いいな」
 先生は新入部員と大げさに言ったが、僕だけしかいない。
「よし、それじゃあ準備運動の後、打込み練習から乱取りに入ってくれ。気合入れろよ。いいな!」
 みんなは再び大きく応え、道場の中央に円陣を作った。それでも広さだけは50畳もあるためか、空きスペースの空間がやたらと寒々しく感じる。
「龍太郎。おまえはまったくの初心者だから、まずは受身の練習からはじめる。準備運動が終わったら俺のところへ来い」
 先生は、
「いいな」
と、念を押したが、先ほどからもそうだったように、言葉の最後にそう付け加えるのがどうやら癖のようである。
全員が掛け声を上げての準備運動をはじめると、僕も回りを見て真似をした。だが、先ほど先生が、「いいな」と、念を押した気合はまるで入いらない。
「もっと、関節を伸ばせ!」
 主将が僕のやり方に声を上げる場面も何度かあったが、どうにか見様見真似の準備運動を終えた。
「よし、打ち込み練習はじめ。投げの型をしっかりと覚えろよ。いいな」
先生の号令で6人が散らばった。そして、それぞれが2人組になって相手を投げるための動作を繰り返しはじめた。
僕ははじめに言われたとおり、先生の傍へ行って頭を下げた。
「いいか、柔道は受身が基本だ。しっかり覚えておかないと、投げられたときに怪我をする。気合を入れて頑張れよ。いいな」
 もともと希望して入ったわけではなく、災難としか言いようのない入部である。それなのに気合を入れろ、と言われても入れようがなく、ただ先生の言葉にうなずくより仕方がなかった。
「まずは、基本的な受身の前方回転だ。よく見ておけよ。いいな」
 そう言った先生は、膝を曲げて上体をこごめると、畳に手をつけた。そして前方へ回転してから片方の手で畳をバーンと叩き、くるっと立ち上がった。
「もう一度、よく見ておけ」
 先生は同じことを繰り返し、僕の傍らへ戻ってくると、
「さあ、やってみろ」
と促した。畳に手をつく最初の形を、先生は手を添えて教えてくれたが、前方へ回転したつもりが横へ転がってしまった。先生は、
「違う、違う」
と言い、何回も手本を見せてくれた。言われたとおりに繰り返し試みてはいるが、どうしても上手くはできない。それどころか畳を叩くたびに、手がしびれるように痛くて仕方がない。
―― 何でこんな馬鹿馬鹿しいことをしなければいけないんだ。もう止めたい。勧誘のとき先輩は、「向いていないと思ったらいつ退部してもいい」と言っていたし…。
 心の中では早くも弱音を吐き、練習は何時に終わるのだろうかと家へ帰ることばかりを考えていた。
先生は何度も同じ注意を繰り返していたが、どうせ退部するのだからと思うと、いつの間にか上の空で聞いていた。それから2、3回ほど繰り返したときであろうか。まったく気持が入っていないぞんざいから、畳へ肩を打ちつけて早くも怪我をしてしまったのだ。瞬間、左肩に疼きの走った僕は、その場にうずくまり顔を大げさにしかめた。
「大丈夫か」
 先生は肩に手を当てがい、顔を覗き込んだ。僕は応えず必死で痛みを堪えているかのように歯を食いしばった。
「痛いか?」
 僕は眉毛をしかめた表情を崩さず、うなずいて見せた。先生もどうしたものかと考えていたようだが打ち込み練習をしていた部員の一人を呼び、僕を保健室へ連れて行くように指示をだした。
僕は肩を押さえ、上体をこごめてそろそろと校庭の端を歩いた。サッカー部や野球部の部員たちの視線が刺すように感じられた。
 保健室に年配の女の先生が待っていたのは、もう携帯電話で連絡を受けていたのであろう。保健室内にはベッドが二つ置かれており、仕切りのカーテンが片方を塞いでいた。誰かが休んでいるのかもしれないのが少し気になる。
 折りたたみのパイプ椅子に座るよう指示されたが、付き添いの先輩は黙って見ていた。
「1年A組の武田龍太郎くんね」
 先生は顔を覗き込むようにして確認したが、僕は黙ってうなずいた。
「どっちの肩を打ったの?」
僕が痛む個所に手を当てて無言で示した。先生は肩に指を押し当て、
「痛むのはどの辺り?」
と指を移動させながら訊いた。正直に言うと、もう痛みはほとんど治まっていたのだが、僕は触られるたび、いちいち顔をしかめて見せた。強いて大げさにしていたのは、怪我が原因で退部した方が、柔道が向かないと言い訳をするよりも適当な理由だと考えていたからである。
「骨には異常ないし、たいしたことはないと思うけどね。心配なら念のため病院へ行こうか?」
 先生は、肘を持って上げたり下げたりしていた腕をゆっくりと戻して無表情に言った。僕はあわてて首を横に振った。自分でもたいしたことのないのは分かっているのだから、病院の先生には大げさなのがすぐにバレてしまうだろう。その挙句、痛い注射なんかされたらそれこそ嫌だ。
それで結局、肩に2枚の湿布薬を貼られて再び道場へ戻ったのだ。本当はこのまま家へ帰りたかったのだが、着替えや通学バッグが置いたままなので仕方がない。
みんなは、と言っても先生を含めた三組だけだが、乱取りという実戦さながらの練習をしており、僕をチラッと見た。声を上げて指導していた大岩先生が僕を振り返り、相手にしていた部員を投げ飛ばしてから傍へ来た。保健室へ付いて来てくれた先輩は先生と交代して、その相手と組み合った。
「保健室の先生から、軽い打ち身だと連絡があった。まあ、俺の見たところでもたいしたことはない。明日の朝には良くなっていると思うから、今日はここに座って見学していろ」
 本当は早く帰りたいのだが文句も言えず、仕方なく隅の方に小さくなって正座をした。でも明日からはもう顔を出さないことに決めている。
つづく

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