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8 興味尽きないジプシー・ガンダの武勇伝
昼食の後もしばらくはボール投げを続けたが、僕はかなり興奮していた。なにしろ先日来から気になっていた大男が、なんとプロレスラーだったと知ったからである。
―― 外国のあちこちを長いこと転戦していたと言っていたが、どんな相手と戦っていたんだろう。話を聞いてみたい。
僕は剛速球以来の新たな好奇心が湧き、ふと後ろを振り向くと大男の姿はベンチから消えていた。それから間もなく、公園を出た僕は真っ直ぐ家へ帰るのが嫌で、自転車を新横浜駅の方へ向けて横浜アリーナまで来た。
幸いなんのイベントも行われてはおらず、広いエントランス脇の石段に腰を下ろして時間をつぶすことにした。まだ陽は高く、ポカポカとした日差しが柔らかく降り注いでいた。僕は石段に映る自分の影をじっと見つめた。
先ほど一緒にお昼を食べたあの大男の姿が思い浮かぶ。見ず知らずの人と話をしたばかりか一緒にご飯を食べたなんてはじめての経験であり、もし母が知ったら卒倒してしまうかも知れない。
かつてはプロレスをしており、ジプシー・ガンダというリングネームだったと言っていたが、どことなくミステリアスな感じの人だった。
頭の中では学校の不安と、ジプシー・ガンダという元プロレスラーへの興味が混ぜこぜになった思考が交差して、少しずつ長くなってゆく影をぼんやりと見ていた。
と、その時である。僕はイヤホンで音楽を聞いていたために気付かなかったが、いつの間にか近づいてきた人の影にふと顔を上げた。アリーナを巡回している警備員さんだった。警備員さんは訝しげな目を向けてきたので仕方なく立ち上がった。
いつものことだが暇をつぶす一日というのはやたらと長い。ゲームセンターには不良グループがたむろしているかも知れないと思うと怖くて近寄れず、他には行くところも限られている。僕は再び自転車にまたがるとゆっくりとペダルをこぎ、来た道を引き返して家へ戻った。
ちょうど母も買い物から帰ったところで、車のトランクから野菜などの荷物を取り出していた。
「龍太郎! ここへ座りなさい」
怖い顔をした母に命じられた僕は、リビングのソファーへ小さくなった。
「毎日、どこへ行っているの?」
僕は運動靴の中に入った土で汚れている靴下の先を見つめたまま黙っていた。
「それに、お昼はどうしているの?」
「お小遣いがあるから、コンビニで買っている」
母は涙目になって、ため息を漏らした。
「まったくもう。パパのいないこんな時に限って…。しっかりしてよ」
くぐもった涙声でそう言った後にしばらく口を閉ざし、目頭を押さえてから僕のほうへにじり寄って肩を揺すった。
「気持を強く持って、明日から学校へ行きなさい。柔道だって練習をすると決めて入部したんでしょう。それなのに、どうして一日で辞めてしまうのよ。男の子なのに、情けないとは思わないの」
「肩を怪我したんだよ」
僕は言い訳をしたが、たいしたことのないのはとっくに見破られている。
「嘘つきなさい。本当は怖くなって、練習に行かなくなったんでしょう」
母の言うとおりなので、僕には返す言葉がなかった。
「今日のお昼休みに、わざわざ担任の先生が来てくださったのよ。クラスの子たちがはやし立てたりしたのは厳重に注意したと言っていたわ。だから心配しないで学校へ行きなさい。柔道だって本当に嫌なのなら、退部届けを出さなきゃだめでしょう。まったく無責任なんだから」
母の説教はまだまだ続きそうなので、僕は勝手に席を立った。
「龍太郎!」
母はヒステリックな声を上げたが、僕は構わずに部屋へ戻った。
翌朝、妹を見送った母は、
「約束どおり学校へ行きなさい」
と、部屋まで言いに来たが、僕は約束などしてはいない。
―― あんな奴らのいる学校へなんか行くもんか。
心の中でそう叫んだ僕は、貯金箱から500円を取り出し、母がゴミ捨てに出るタイミングを見計らっていた。そしていつものとおり、学校の授業がはじまっている時間に自転車へ乗った――。
公園には今日も春の日差しが降り注いでいた。だが、爽やかな陽気とは逆に、僕の心には停滞したままの暗雲が立ち込めている。
いつもの場所に自転車を停め、ベンチに目をやるとジプシー・ガンダという大男は昨日と同じ姿勢で新聞を開いていた。しばらく見つめていた僕の気配を感じたのか、こっちへ顔を向けて軽く手を上げた。僕は一瞬焦ったが、小さくお辞儀をした。
ちょうど、おばさんたちが軽い息を弾ませて目の前をとおり過ぎた。先日の一件で不快な思いを抱いているのか、今日は僕の姿を一瞥しただけで無視を決め込んでいるようである。
不登校中学生なんて実に嫌な言葉だが、僕がその仲間入りをするなどとは思いもしなかったことだ。ついひと月前には想像すらできなかったことだが、今では情けない公園通いが日課になってしまっている。でも、「すべてはあいつらが悪いからだ」と、いちいち自分に言い訳をして慰めている。
僕はいつもの手順で、いつものとおりのことをただ黙々と続けた。壁に当たるボールの音も、キャッチするグローブの音も耳に染み付いてしまったが、今の僕にはただ虚しいだけでどうしようもない。
壁と向き合い、ただただ単純な動作を黙々と繰り返して、また昼になった。これもまたいつものとおり、手洗い場で汗ばんだ顔を洗い、自転車の荷台カゴからコンビニ袋を取り出した。すると昨日と同じようにベンチの方から声が聞こえた。低音の良くとおる大きな声である。
「龍太郎、こっちへ来いよ」
まさかと思ったのだが、大男は僕の名前を覚えてくれていたようである。ちょっと嬉しかったが、昨日と同様すぐ近づいて行くにはまだ躊躇があった。大男は再び名前を呼んで手招きをした。
いつまでもぐずぐずとしている僕を、じれったい奴だと思っているかもしれない。本心は走って行きたいのだが、思うとおりに行動できないのは小さい頃からの悪い性格だと自分でも分かっている。
それでも、やっとうなずいた僕は、手にしたコンビニ袋とペットボトルを持って近づいて行った。大男は昨日と同じように腰をずらしてくれた。僕は小さく頭を下げ、腰を下ろそうとして上体をかがめた時だった。
―― あっ!
大男の顔を見て、思わず叫びそうになるほど驚いてしまったのだ。
昨日はほとんど顔を上げることもできず、ただおどおどしていて気がつかなかったのだが、大男の額には無数の傷痕が生々しく盛り上がっていた。それに、後ろで結わいてある長い髪からはっきりと出ている両耳も、餃子のように異様な形をしていた。
僕の驚く顔に気付いたのか、
「これ、気になるか?」
と言って、おでこを触ってから小さく笑った。
「この傷痕はな、何度も流血したからこんなになっちまったんだ。おかしいよな」
「流血!」
僕は恐ろしくなって思わず声を上げてしまった。
「それからこの耳はな、格闘技をやっている者なら、たいがいがこうなってしまうんだ。最初はぶつかったり擦れたりしての内出血で膨れ上がるんだが、ちょっと触られただけでも飛び上がるほど痛い。でもな、そのうちコチコチに固まって感覚がなくなってしまうのさ。日本では「耳が沸く」って言うが、アメリカでは「カリフラワー耳」って呼ばれているよ」
「カリフラワー」
そう言われれば野菜のカリフラワーに似ていると思った。
「触ってみるかい」
興味はあるが躊躇っていると、大男は僕の手を取って自分の耳にあてがった。
「うわーっ!」
思わず突拍子もない声を上げてしまったのは、ぼくの手を取った男の手がすごく冷たかったことと、変形した耳がまるで石のように硬かったことによる。
「あのう…、柔道でも、こういう耳になるんですか?」
僕はもう柔道部へ戻る気持はさらさらないのだが、何気なしに訊いた。
「ああ、俺は高校生のときになったよ」
「えっ! おじさんは柔道もやっていたんですか?」
僕は、かなり調子はずれの声をあげたらしく、大男は笑った。
「柔道をやっていたからって、なにをそんなに驚いてるんだ。それより、俺のことを、おじさんじゃなくガンダと呼んでくれ」
「は、はい…」
「いつまでも突っ立ってねえで早く座れよ」
僕は端の方にちょこんと腰を下ろし、コンビニ袋を開いた。
「今日も菓子パンか?」
自分の包みを開きながら、袋の中をチラッと覗き込んだ。
「いえ、今日はサンドイッチです」
「そうか、サンドイッチか。パンが悪いってえわけじゃねえが、日本人は米を食わねえと、力が出ねえぞ。なんたって、弥生時代から1,000年以上もメシ粒を食ってきた遺伝子を引きついているんだからな。西洋人の真似をしても日本人には合わねえよ。俺はアメリカにいたときでも自分でメシを炊き、みそ汁を作っていたからな」
そう言って、おにぎりをガブリとほおばった。
「ガンダ、さん…は、アメリカでプロレスをしていたんですか?」
「ああ、アメリカだけじゃねえよ。いろんな国へ行って、いろんなレスラーと戦ったよ。多分2,000試合近くになるだろうな」
「2,000試合!」
「自分で言うのも何だが、俺は結構人気があったからな。プロモーターからは引っ張りだこで、あちこちのテリトリーを荒らしまわったものさ」
「テリトリーって?」
「うん。世界は広いからな、それぞれの国の中でも、地域ごとに興行権を持つプロモーターがいてな、その勢力圏をテリトリーっていうんだよ」
「ガンダさんより大きいレスラーもいるんですか?」
「ハッハッハ、俺なんか決して大きい方じゃねえ。まあ中くらいってところかな。外国には怪物みたいなレスラーがごろごろといるからな。そんな連中と年がら年中戦っていたから、ずいぶんと危険な目にもあったし、時には死ぬかと思ったことだって何回もあったよ」
この大男のガンダさんよりもっと大きい、怪物のようなレスラーがごろごろいると聞き、小さい頃に父が聞かせてくれたおとぎ話の世界が思い出された。そして、話の中に登場する数々の巨人を連想した。
小学生時代、子供が事件に巻き込まれるニュースが報じられるたび、「知らない人に声を掛けられたら用心するように」と学校からきつく言われていた。そのため、これまで他人の大人と話をした経験のない僕だが、ガンダさんには不思議な興味を感じはじめた。それでも僕は、まだおどおどとした口調で訊ねた。
「ガンダさんが戦った、一番大きなレスラーは誰ですか?」
「ん…。龍太郎はプロレスが好きなのか?」
ガンダさんはすぐには答えてくれず、おにぎりを噛みながら僕の目を覗き込んだ。
「小学3年生のとき、パパに横浜文化体育館へ連れて行ってもらったことがあります。悪役の外人が客席まで暴れ込んできて、怖くて逃げ出しました」
「そうか、龍太郎はプロレスを観たことがあるのか。それじゃあ話もしやすいな。最近はテレビでもあまり放送をしなくなったし、プロレスそのものを知らない子供もいるようだからな」
ガンダさんは脇においたペットボトルへ手を伸ばした。
「日本のプロレス界は、もう10年以上も客が入らねえようだが、つまりは業界の努力が足りねえんだよ。マッチメークをやっている連中はもっと世界に目を向けて、いい悪役を発掘してこなきゃだめだ。プロレスは悪と善が対決するという、もっとも分かりやすい最高のエンターテイメントなんだけどな」
「悪役って大切なんですか?」
「そうだよ。プロレスが面白いか、つまらねえかは、試合の大部分悪役の手腕にかかっているんだ。つまり、悪役はレフェリーの目をかいくぐり、いかに巧妙な反則を繰り返すかで客の興奮度が違ってくる。外国人の悪役を上手く使ったストーリーを考えていけば、若い人たちだってもっとプロレスに興味を持ってくれるんだけどな」
僕にはガンダさんの言っている意味がよくは理解できなかったが、たしかにプロレスの話をしている友達は誰もいない。それもガンダさんの説でいえば、凄い悪役がいないのでつまらないからなのだろうか。
僕は臆病なわりにプロレスを観るのが嫌いではない。柔道ですら向かないのだから、プロレスラーになろうなどとは夢にも思ったことはないが、たぶん弱虫の自分を強いレスラーに置き換えて観ることができるからだと思う。
「俺が外国で戦った話、聞きたいか?」
僕はゴクンと唾を飲んで大きくうなずいた。まるで未知の扉を開けたような興奮を覚え、心臓がドキドキと鼓動を打つのが感じられた。
つづく
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