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全国にゴマンとあるという城館を、徒然なるままに紹介する探訪記。ときどき浮気して古墳も紹介。在住地の福島県の城館と古墳が中心。

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安子島城

今日は10連休の振り替えで休みだった。家の用事をする予定だったが、午前中に少し時間が空いたので、郡山市の安子島城を訪ねてみた。1992年度に中心部分のほぼ全体が発掘調査され、大きな成果を上げたことで、当時とても注目された城館である。調査の終了後に圃場整備が実施されており、現在は部分的に遺構が残っているにすぎないが、主郭の東側を画する巨大な堀は健在で、往時をしのばせてくれる。

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主郭東側の堀を南から見たところ。おそらく谷地形を利用しているのだろうが、壮大な景観である。写真の左側が主郭。右側は、遺跡の範囲には含まれているものの、城に伴う遺構はないようだ。

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発掘調査が実施された旧主郭に建つ記念碑。

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主郭の北西コーナー付近を西から見たところ。主郭の西側を画する堀がわずかに残っている。

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発掘調査時の安子島城を南方上空から見たところ。中央の台形部分が主郭。先に写真を掲載した堀も写っている。写真は、郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団編『安子島城跡』(郡山市教育委員会 1993年)より転載。

あの発掘調査から四半世紀が経つ。その間における中世考古学や中世地域史研究の進展は著しい。それらを踏まえた調査成果の再検討が必要だろう。

白川城

白河城に続いて、白川氏の本城である白川城を訪ねる。城域は広大で、御本城山地区と美濃輪地区に大きく2分できる。

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御本城山地区の主郭に設置されている解説板。

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方形基調の平面を呈する御本城山地区の主郭。この場所に、白川氏の御殿などがあった、と思われる。奥の方に土塁が見える。

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美濃輪地区西部の鐘撞堂山東辺の横堀を北から見る。地形を利用しているにしても、かなりの規模である。

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同じく鐘撞堂山西辺の土塁を北から見る。土塁の右側下には横堀が沿う。

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美濃輪地区東部の搦目山の東辺には4つの張出しが並ぶ。写真は、そのうちの南から2つ目の張出しを東から見たところ。

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同じく南から3つ目の張出しを北から見たところ。

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美濃輪地区の主郭から白河城の方向を見る。写真の中央からやや左よりの場所に三重櫓と前御門が見える。右手の河川は阿武隈川。

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美濃輪地区北面の岩壁には、結城宗広・親光を称える感忠銘が刻まれている。「感忠銘」の題字は松平定信の揮毫。

御本城山地区と美濃輪地区とでは縄張の様相が全く違う。築城や運用の主体、あるいは時期などが異なるのだろう。御本城山地区は、文字通り白川氏の本城が主体となる地区なので、問題となるのは美濃輪地区である。技巧的な縄張に、佐竹氏の影響を読み取る見解が提示されている。

白河城

今日はこどもの日。久しぶりの休みで天気も良かったので、石垣の復興が進んでいる白河城へ行く。同城の行政的な正式名称は小峰城だが、白河藩の本城なので、本ブログでは白河城と呼ぶことにする。

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4月20日にオープンした小峰城歴史館の復元模型。城の構造がよくわかる。

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白河城といえば、やっぱり三重櫓と前御門。木造復元のはしりである。何度見ても美しいと思う。

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本丸から二の丸方面を見る。奥の山並みのうち、左側の鉄塔の建っている辺りに、この後に行く白川城がある。

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本丸南面の石垣。東日本大震災では大きな被害を受けたが、見事に復興した。

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旧太鼓櫓。往時は二の丸太鼓門の西側にあった。移築に際し、原形が大きく損なわれたらしいが、貴重な現存建物である。

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城域の北側を画する蛇尾堀の跡。奥の山林内には石垣が残る。

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築出門付近の石垣。城域北側の石垣はまだ復興途中で、立ち入り禁止の場所が多い。

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蛇頭堀と三重櫓。

今日は連休で好天だったこともあるだろうが、たくさんの観光客が来ていた。たいへん良いことだと思う。多くの人の訪れが、復興を後押しするはずである。

五斗蒔上館

五斗蒔館から南東方向に尾根を150メートルほど登ると、遺跡としては未登録の城館がある。広長秀典氏が発見・紹介した城館で、馬出を構えているのが特徴である(『郡山地方史研究』第38集 2008年)。名称が定まっていないので、本ブログでは「五斗蒔上館」と仮称する。前回紹介した「五斗蒔館」と同じく字五斗蒔に所在し、その上方にあるという意味である。

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作成した縄張図の下書き。地形図と重ねていないので、描き歪みがある点はご了承を。

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主郭から馬出を見る。写真の中ほどが土橋。その幅は狭く、人が1人通れる程度。

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北東から馬出を見る。写真の右奥に見えるのは主郭。

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馬出と主郭をつなぐ土橋を北から見る。写真の左側が馬出、右側が主郭。

単郭の構造で東に馬出が取り付くという単純な縄張。馬出の規模は小さく、土橋の幅は狭い。実戦でさほど威力を発揮するとも思えないのだが、このような馬出をあえて構える意味とはなんだろうか。それにしても、稜線の小ピークに占地しているので、たいへん眺めがよい。

五斗蒔館

いよいよ10連休が始まった。ただ私の場合は、4月28日・30日と5月5日・7日の4日間のみが休み。しかも連休無しなので、遠征は諦めた。そこで今日、地元の城の縄張図作成にでかけた。まず訪ねたのは郡山市中田町中津川の五斗蒔館。ところがこの城館は、遺跡地図の類いには「中津川館」として登録されている。この名称だと、あたかも中津川の中心となる城館だと勘違いしてしまう。しかし、中津川の中心となる城館は、この城館から北方に約1キロメートルの場所にある「町館」である。本来はこちらを中津川館もしくは中津川城と称すべきと考えるので、遺跡名である「中津川館」ではなく、字名の五斗蒔をとって「五斗蒔館」と仮称した。

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北西から見た五斗蒔館。谷地形の奥まったところの尾根の先端に築城されている。そのような立地と、中津川の町とは離れていることから、地域の中心的な城館とはとても考えられない。

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城域の北西を画する堀切を南西から見る。写真の右側が城内の方向。

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主郭の南東端にある櫓台を北西から見る。奥にチラリと見えるピークには、この後に訪ねた別の城館がある。その距離およそ150メートル。非常に近接した場所に、2つの城館が取り立てられたことになる。両城館の関係が気になるところ。

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城域の南東を画する堀切を北東から見る。非常に大規模で感動的。

五斗蒔館の来歴は全くわからない。両末端を堀切で画しているのが特徴である。主郭は地形なりに細長く、削平の程度は甘い。軍事的な要請により取り立てられたと想像する。

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