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消えゆくもの

雑誌がどんどん消えてゆくな。
もともと出版不況のうえに、「百年に一度の危機」が来ちまったもんで、どうしようもない。
studio voice の休刊も、ああやっぱし…くらいな感じで、特段驚きもしなかった。
っていうか、俺も最近はほとんど買ってなかったし(汗

俺が高校生の頃は中綴じじゃなかったかなぁ、この雑誌。
デザインがたいしたことなかったんで、中綴じ時代はあまり記憶がない。

90年代に入って、ADが変わって、無線綴じ(背表紙がつくヤツね)になって、紙がザラ紙に変わり風合いが出て、モノトーンの写真と原色をうまく組み合わせた誌面をよく覚えてる。いわゆるポップアートっぽい誌面。60年代特集とかやると、誌面のデザインと相まって、なかなかよろしかった。
特色もやたら使っていた印象がある。
金があったんだね、あの頃は。

もともと、雑誌のような、動的でグラフィカルな誌面を作りたいと思って、今の職業に就いた。
単行本はどっちかってと静的だからね。基本的に「保存版」であるから、あまりふざけたことができない。
雑誌はまあ、期間限定商品みたいなとこもあるから、その時代(あるいは季節など)に即した表現とか、そういうのが可能だから。レイアウト的に「遊べる」というかね。
けど、そういう雑誌みたいなフィールドそのものがなくなってしまうと、いったい自分はなんのためにデザイナーなんかになったんだろうと思ったりする。
まあでも、しょうがないよな。
ゲタ履く人がいないのにゲタ作ってるようなもんなんだからさ。
雑誌とともに、俺も消えるんだろう。

(先日「今後5行以内目標で書く」とか言ってみたが、なかなか5行はムズかしいね -_-;;)

初版復刻版の本

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以前に、漱石の本の、初犯…じゃなかった初版復刻版を買っててさ。
「吾輩は猫である」と「こころ」と「虞美人草」。
別にそういうもんを「コレクションしよう」なんて気はなくて、たまたま古本屋で見っけて、漱石なんてだいぶ久しく読んでないから久々に読んでみるかと思ったとか、初版当時の装丁やら活字の組みが気になったのとか…その程度の思いであり、まあ、あんまし意味はない。
いやあるか…って、そんな大それたもんじゃないが。

確かこれを買ったのは去年の今頃だったと思うが、漠然と「来年の今頃は谷中か根津か千駄木に住んでんだろうな」なんて思ってた。本当にそうなっちまうから人生面白いわけだが。
で、千駄木で文豪といえば、鴎外か漱石が筆頭だろう。千駄木の文豪ってより明治の文豪つうか近代文学の二大巨頭か。。
千駄木界隈は、東大が近いということがあってか(あの人たちは東大で教鞭をとってような気が…それとも鴎外は従軍医師だったような気がするので日医大で教えてたのか? 全然知らんで喋ってますが;;…ちなみにウチの近辺は日医大の城下町みたいなとこです)、たまたまお二方とも、この辺に住んでたらしい。

お恥ずかしいことに、鴎外は「山椒太夫」と「高瀬舟」こっきりっきゃ読んでないんでスルー(汗
漱石はわりと読んだ気がするな。

漱石の小説読んでると、このあたりの地名がよく出てくる。
「吾輩は猫である」はモロ、千駄木の漱石の家界隈の話だし(ウチから歩って2〜3分)、あの本に出てくる近所の学校ってのは、どうも現・郁文館をモデルにしたようだし(現在は二言目には「夢」とか言ってウザったいワタミ傘下)、「三四郎」は団子坂界隈(千駄木駅近く)が出てくるし(乱歩の「D坂の殺人」とかいうのも団子坂のことらしい)、「こころ」には、「先生と私」が、鴬谷駅近辺を散策しながらのやりとりがあるし…と、ちょっと憶えてるのを書きだしてみただけでこんなに出てくるんだから、きちんと読み直して検証したらもっといろいろあるんだろうと思う。

で、まあ、谷根千界隈に住んだあかつきに、その土地を肌に感じながらもう一度読み返したら、また新たに思うところがあるんじゃないかと思って、去年買っておいたんだ。

もっとも、漱石の時代と今の時代では、同じ土地でもだいぶ違うんじゃないかとは思う。
しかし、このあたりは大正時代の震災もわりと被害が少なかったというし、第二次大戦時の空襲の被害も免れているという希有な土地のため、区画などが昔のまんま残っているし、寺町のため幸か不幸かバブルの地上げも免れている。そんな偶然が重なって、都心に近いポジションでありながら、都市化の波から守られてきたといえるところがある。そういった意味で、漱石の頃と時代は変われども、街の本質は変わらずに残っているんじゃないかと思うんだ。「吾輩は猫である」の頃同様、やたら猫も多いし(笑
そういう意味で、この場所に移り住んで少しずつ馴染みつつある今、漱石の初版復刻本を読んでみることは、それなりに意味のあることのような気がする。

…とか、偉そうなこと言っておきながら。
すいません全然読んでません(汗
我ながらいけませんなぁ。。
掛け声ばっかデッカくて何もしない政治家みたいぢゃないか(笑

正直、「猫」なんかほとんど忘れちゃってるから、もう一度読み返すというよりは、新作を読む気分だな。ああ、確か日暮里の「羽二重(はぶたえ)団子」という団子屋も小説の中に出てきたような気がする。あすこの団子、甘いの苦手な自分でも美味いと思う。ああいう上品な甘さ、お茶とよく合う甘さであれば、結構甘いのを食すのもやぶさかでないのだが。
「虞美人草」はまったく初めて。たぶん漱石の主要な本で読んでないのはこれだけだったような。
「こころ」は過去何度か読み返しているな。
初めて読んだのは中学生くらいだったと思うけど、その頃頭の中で思い描いていた「先生の家周辺の街並み」は、オトナになってから知った根津・千駄木界隈にぴったりハマった。「書生さん」なんていうヒトがそこらへんの路地裏からヌッと出てきそうな街並みだからね。

というわけで、早く読みたいのだが…
仕事はいらないんで休みをくれ〜。また今月も1日しか休めねえよ〜(泣
…と、負け犬の遠ぼえというか独り言(汗

photo:件の初版復刻版の本たち。
「こころ」って漱石が自分で装丁したっての知ってた? 恥ずかしながらワタシ初めて知りました(汗

自分で手製本

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小学校に入ると、教科書もらうじゃんさ。当たり前だけど。
「うわ、タダでこんなに本をくれんの?」と大喜びしたワタシ。
「タダなら…」というわけで、即座にやったことは、全教科書の分解作業(汗

幼稚園の頃買ってもらってた絵本とかもよく分解して、おかげで製本とはどういうもんか、おおまかにわかってたつもりなんだけど、どうも絵本と教科書は、同じ本でも構造が違うような気がしたんでね。モノは試しというわけで。
おかげさんで、製本についてはすばらしくよくわかった。いわゆる「無線綴じ」というヤツを身体に刻み込んだ。
次の日、親に大喝され、担任のセンセに注意され、クラス中の笑い者となったけどな(汗

けど、いろんな製品を分解・あるいは破壊してその構造を知る、というのは、幼いころの一時期やっといたほうがいいと思う。親に怒られてもシカトしてやっとくべき。
そのへん、追々の想像や創造の能力にわりと直結するような気がするんでね。

「ウチのおじいちゃんとおばあちゃんの仕事は『セイホンショクニン』らしい」と知ったのは小学校3年くらいの頃だったかなぁ。
今にして思えば、そん時に、手製本の方法をいろいろ聞いときゃよかった…って、今も祖父・祖母とも耄碌することもなく健在だけどさ。オトナになってから聞くより、コドモん時聞いといた方がよかったかな、ってね。

同じころ、活字だとかタイポグラフィだとかに興味を持ち、クラスのやつらが国語の教科書にパラパラマンガを描いてた頃、ワタシはせっせと国語の教科書体やクルマのカタログの写植文字(石井明朝オールド…プロっぽく言うとBM-A-OKLという書体に惹かれた)を参考に、ノートや教科書などにレタリングしておりました。写植や活字の文字を描くことによって「図形としての文字」を因数分解していたわけですな。変わったコドモではある。サヴィニャックの「豚の輪切り」のポスターをどこかで見てぶっ飛んだのもこの頃。

あんましアートとかいうことに興味はなく(いまだにそうだが)、文字による紙面構成(タイポグラフィ)や、、ページネーションによる連続した紙面構成による効果についての研究とか、スイスのタイポグラフィであるとか(スイスは印刷物の紙面上で常に3か国語を扱うケースが多いので、必然的に他国より紙面上におけるルールづくりが進化しやすい環境であった)、同じスイスでもバーゼルとチューリッヒでちょっと違うんだとか、「石井茂吉と写真植字」という古〜い本を古本屋を何十件かまわって探しだしたりとか、出版に関わることに関して、わりと興味を持っていたのが中学生の頃。やっぱちょっと変わってる中学生だったのかな。

そういうことに興味があるんなら、それを商売にしちまいますか、というわけで高校はデザイン科へ。

…んで、あんまし紆余曲折を経ず、現在に至る。
いや、そりゃいろいろあったけど、なかったことにしとく。

コドモの頃から、考えてることがほとんど変わらない(成長しない)のは、コドモの頃から興味を持ってたことが商売になっちまったからかもしんない。
こんなこと書くと「コドモの頃の夢をかなえた人」みたいな感じに思われちまうそうだから一応言っとくと、挫折はしてますよ人並みに。けど、めげずにほどほどにやっとります、って感じかなぁ。

まあ、そんなわけで、出版物に関わる装丁・デザイン・レイアウト、なんてことが生業です。
本の装丁をすると、紙の指定をしたり、丸背だの角背だの決めて、花布はコレで、スピン(しおりひも)はアレで、見返しはソレにして…なんてふうに「指定」だけしているわけだが、実際にそれらがどんなふうに組み合わさっているのかというプリミティブなことは、ついぞ忘れがちである。

何年か前に出版された、内澤旬子が挿し絵イラスト描いている「印刷に恋して」「本に恋して」というシリーズ本が、手製本や活版印刷などの、古き良き(?)出版物のありかたを再提示してくれて、ここ数年、そういう「印刷・製本にまつわる職人技」みたいなことに興味を持っていた。やっぱ、機械製本や、最近主流のダイレクト刷版印刷は、なんかこう、仕上がりが寒々しい。10年前の印刷物と比べると雲泥の差である。昨今、印刷技術が進歩したばかりに、紙面の印象があまりにも硬質なように思う(デザインではなく、印刷のテイストが硬質すぎるということ)。まあ、印刷物は大量生産の物質であるために、自動化がある程度の主流になるのは仕方ないとしても、職人の技があまりに急速に消えゆくのは寂しすぎる。

そんなことを思っているところへ、ちょうどいいタイミングで、とあるクライアントから「今度弊社で製本講習会を開きます。基本的には弊社の社員教育の一環ですが、外注スタッフさんも招いて、皆さんの交流の場として機能させることも考えていますので、よろしければ参加しませんか。無料です」などというありがたいお誘いを受けたんで、氷雨の降る月曜日、行ってきました。

行ってみたら、拍子抜けというか…外注スタッフで来ていたのはワタシ一人。
外注スタッフは15人くらい参加予定だったらしいが、皆さん、当日ドタキャンだったらしい。
ま、他人のことは何とも言えんけども…自分のことを言うと、ワタシは仕事を一本引き伸ばして、この講習会優先でスケジューリングした。こういう講習会をキャンセルして日々の業務を優先するような人生は、たぶんものすごくつまんない生き方だと思うんでね。俺だったら、徹夜してでも行く。

今回の製本講習の内容は、「文庫本をハードカバーにする」というもの。文庫本は各自持参。
ウチにある、どの文庫本をハードカバーにしようかといろいろ迷って、谷崎の「細雪」をチョイス。
中公文庫版の、上・中・下巻が1冊にまとまった分厚いヤツなんだけども、あまりの分厚さに圧倒されて、まだ読んでません…買ったの10年くらい前なんだけど(汗汗
何に圧倒されたって、この小説、導入部の2〜3ページは会話から入るんでスンナリ読めるんだけど、その後、改行がほとんどない状態でビッシリとページ全体が活字で埋め尽くされているページが連続するんだよね…パッと見だけで言ってますが(汗
で、こういう、見た目すごいへヴィな本であるから(内容は知らんけどw)、文庫判ソフトではなく、ハードカバーにしたら、読む側(つまり自分)の意識の変容を迫ることが出来るんではないかと思ったんだ。ものすごく単純に言うと「気合い入れて読もう」って気になるんじゃないかという。そうやって気合いを入れて、あの埋め尽くされた活字を呑み込み、谷崎と対峙する、というような…「覚悟」のようなものが、ハードカバー化することによって発生するんではないか、と、漠然と思ったんでね。

製本講習会での規定は、「厚さ50ミリまでの文庫本をご用意ください。と言っても、そんなに分厚い文庫本もそうそうないとは思いますが」とのこと。
「細雪」は、厚さ40ミリちょい。
おうおう、ちょうどイイじゃん…ということで決定。

んで…
…手製本の、細かい手順は省きますが、いろいろ大変でした。
自分が持っていった「細雪」の保存状態が悪くて、本が歪んじゃってたので、製本もちょっと歪んじった(汗)。見返しの紙がズレたりして。
出来上がってみて、分厚い文庫本がハードカバーになったわけだが…なんだか、ミニ聖書みたいではある(笑

でも、おもしろかったなぁ。
久々に、刷毛というものを使った。
水で薄めたボンドや、薄めないボンドの使い分けだとか…ボンド塗ったとき、紙の片側だけ水分吸うから反るんだよな…とか。そういうの久々だった。
当日は雨で湿気が多かったわけで、そうすると紙の伸縮具合もいろいろ(紙の種類のもよるし)だし、そういや紙ってもともとは木であり、プラスチックなんかとは違って「生きている」素材だから、伸びたり縮んだり歪んだりするんだよなとか、そんな当たり前のことに改めて気づかされ。
製本稼業なんて、わりと単純作業の繰り返しであろう、などと思われがちだが、生きている素材である紙と対話しながら、ボンドの質・粘度などを計算に入れつつの作業だから、結構繊細な作業である。現代人が弱っている身体力(感覚)に鋭敏でなければいけない。
今と違って、ウチの爺さん婆さんが働きだした戦中・戦後の頃は、ボンドの質も悪かったろうし、労働条件その他、今よりずっと悪条件だったんだろうな…ふーん…ウチの爺さんと婆さんはこんな仕事してたんだ、と改めて知り、なんだか感慨深くなり。手製本職人なんて、未来に残しておきたい職業のひとつだもんな。

そんなわけでね。
今度、ウチの祖父・祖母に、デキの悪い孫が作ったデキの悪い似非ハードカバー本を見せてみて、四方山話しよっかな、と思った次第であります。



photo:歪んで製本された細雪
歪んだ以外にも、上(天)の花布が左右にちょっと長かったりなど、随所に不完全なところが見え見え(汗
製本職人の祖父・祖母に見せるには、かなりお恥ずかしい状態です(汗汗

言葉の麻痺と思考停止

先日、田口ランディさんのブログの内容について若干批判めいた発言をしたから、というわけではないのだけれど、今日の田口さんのブログの内容については、日頃自分が考えていることとリンクする事柄がいくつかあるので、肯定的なトラックバックをさせていただきます。





ここ数年、マスメディアの伝える「コトバ」のいくつかに、ずっと違和感を持っている。
「国益」というコトバもそのひとつだ。この言葉について、日本に住んでいる一人ひとり(あえて国民とは言わない)が、妙に、ごく自然に受け入れているように感じるのだが、個人的にはこの言葉がどうにも受け入れ難い。

なぜかというと、タカ派の政治家がこの言葉を用いて持論を展開する場合、「国家」のことは考えているけれど、この国に一人ひとりの違った人間が存在しているということを無視しているような気がしてならないから(国益=みんなの利益、になるかのような言い方するし。みんなって一体誰?)。

今使われている「国益」という言葉は、ちょっと大げさだけど、60年前に使われた「お国のために」とか「天皇万歳」とか「満州は日本の生命線」とかいったような言葉を、現代風にアレンジしたもののように思われて仕方ない。「統制」という言葉とリンクするようなイメージ。

それは、振り返れば、あまり議論もなく、通信傍受法、個人情報保護法、国旗国家法、ガイドライン法、有事法制(周辺事態法など)、人権保護法案などが、ここ数年の間に次々と可決し、この国がすごい勢いで「統制」の方向に向かっているから(しかし、こう法案の名前を列挙してみると、なんだか国がいろいろ面倒見てくれそうな気がしてしまうとこがすごい。ホントにオーウェルの「1984」の世界になってきたな)。

危機管理は大事だし、それら法案が十二分に議論されたうえでの可決であればいい。しかし、有事法制のように、「イラク人質自己責任論」を各マスコミがキャンペーンのように盛り上げている裏でコッソリ隠れて審議、みたいなやり方で可決した法案があることも事実だ(当然政府の仕込みによると考えられるけど)。「自己責任論」でヒステリックな非難を浴びた人質や人質の家族は、有事法制可決のための「いけにえ」にすぎなかったようにさえ思える。



「経済制裁」という言葉にも、似たようなことを思う。
経済制裁肯定派の人がその言葉を発するとき、それによって苦しむかもしれない人々の姿は全く想起されていないように感じる。

「でも、こっちは拉致で被害を受けているうえに、なおかつ向こうはウソをつく国だから、仕返しは当然っしょ」

そういう意見もあってもいいかもしれない。少なくとも、拉致被害者のご家族の方がそうお考えになるのは無理はない。
だけど、直接の被害者ではない私たちは、もう少し冷静に煩悶してもよいのではないか。拉致被害者本人やその家族の気持ちを察することは大事だけれど、みんながその人たちと同じ発想をもたなければいけない必要性はないと思う。

他に方法はないのか。本当に万策つきたのか。
それを活発に議論すべきところだと思うんだけど…とても議論し尽くされたように思えないし。

経済制裁のような「目には目を」的なことって、誰でも考えられることだ。もっと他にいろんな方策を練ることも政治家の仕事のひとつでもあるはずだと思う。ただ声高に、高圧的に強行突破するだけだったら、そもそも政治家なんていらないし。だいたい、制裁すべきは向こうの政府官僚であって、住んでいる人々ではないはずだ。

ま、今はまだ、制裁とはいえある種の「制限」のレベルだから、まだいい。
でも、本格的な経済制裁をやってもダメだったら、その次には、どんなカードがあるのか。次はもう「戦争」しかないと思うんだけど。

…ひょっとして、そのためにさっき挙げた法案を可決させたのか。
あーあ、やっぱりなー、とか変に納得。
60年前の記憶もそうだけど、全てはあとから気づくものか。
人間って、進歩できない動物なのかな…。


それは置いといて、

まず、個人個人が十二分に煩悶する(メディア自身も)。
それを踏まえて、きちんと議論をする(変に感情的になってはならない)。
最後に、多数決で意思決定。

こういう、普通のプロセスを踏めないものでしょうか。
今日は、いつもにも増して自戒を込めて書いてみました。





(もし、昨日のネタの続編を楽しみに見に来てくれた人がいたら、いきなり違う話でごめんなさいね ^^;)

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(なんかメディアの論調といい、田口ランディさんへのトラックバックといい、一面的な感じがするのでちょっとノタマってみます。特にトラックバックは、いくら彼女のファンばかりとはいえ画一的な気がするので、少し視点を変えてみようかと。こんなこと当たり前ダヨ、って話かもしれませぬが ^^;)


 田口ランディ氏のブログは文章のボリュームがやたらと長いので(人のこと言えない ^^;)あまり読まないのだが、今日のブログの内容は(もしご本人が書き忘れていなかったりすればだけども)、なんだかちょっと、視点が変にウェットな感じがした。(http://blog.ameba.jp/randy/archives/000637.html

 内容を簡単に言うと「ライブドアの堀江氏のドライさと野望に対する違和感もしくは嫌悪感、彼の目指す来るべき次世代情報(過多)社会の到来についての漠然とした不安」みたいなもの。自分は昭和30年代の庶民文化に育ったから、そのような社会は生きづらく、加えて情報資本主義が横行するはずだから、情報貧民のような人々が出てくるのではないか。しかし、堀江氏はドライで強い自我があるから、彼の思う情報資本主義を形成して、その中で大金持ちになれるかも知れないが、そのほかの人はどうなんだろう……物凄い端折っているが、まあ、そういうことを書いている。Webの江川紹子ジャーナルの堀江氏のインタビュー(全然かみ合っていない)記事を読んで、そう思ったらしい。

 確かに、ある程度そうなるだろうと思う。というか情報資本化は今既に現在進行形。そういうのは、自分もどちらかといえば古いタイプの人間だから、あまり好ましい状況と思っていない部分もある。よい部分もあるけど。

 だけど…。その、「情報資本主義の野望」みたいなものを満たすためためだけに放送局を買収しようとしているじゃないと思うんだけど、と仮説めいたことを考えてみる。

 堀江氏は、「情報」がつかないほうの「資本主義」の原理の中で、いかに生き延びるかを考えた結果、今回の行動を起こしているんではないか。「情報資本主義王」とかっていう果てしない幻想よりも、もっと切羽詰まった危機感、目前に迫った現実が、あのような行動に走らせたのではないかと思う。野望は野望としてもちろんあるだろうけれども。

 ネットとテレビやラジオなどのメディアがクロス化するなんてのは、随分前から言われているわけで、要はそれを何処が一番早く確立するかがもう時間の問題であるわけだ。あとは方法論の問題で、それはポータルサイトがメディアを買収するのか、その逆(これは堀江氏は何としても避けたいだろう)か、あるいはCSみたいなとこと組むのか、とか。ライブドアみたいなあまり大きくない企業は、それを他に先んじてやらないと生き残れない。もし、もっと体力のあるヤフーなんかがクロスメディアで何かやりだし、それがヒットしてしまったら、ライブドアみたいな会社はそれこそ死活問題なんじゃないか。だからあんな悪条件で800億円も相当無理して借り入れているんだと思う。「野望」というより、どちらかというと「死活問題」ではないか。

 だから堀江氏の「情報資本主義の野望」だとか「古い価値観を壊す」だとか「既存メディアを殺す(この言葉は強烈だが)」だとか言うのも、「オレんとこで他に先んじてやらなきゃ、他社に潰されちまう(自分が既存メディアに殺される)」という、そういう焦燥感みたいなものが、彼をより一層ドライに見せているんだと思うがどうだろう。

 その証拠に、彼は新しい紙媒体を立ち上げると公言しておきながら、その根本の部分、つまりどのように情報を仕入れ編集し公開するのか、という点にいたっての返答は、すごくあいまいな発言をしている「市民記者に書かせる。内容については、見る者が善し悪しを決定するのだから、特に編集方針は必要ない」と。ここだけとりあげれば、彼は媒体というものに関しては読みが浅いのではないだろうか。ちょっと売り物にするにはキビシイと思う。イデオロギーが必要なのはまさにここなのだから(まあ、だからこそ幻冬舎と提携したのかもしれないけど)。

 堀江氏は発言などが僕ら素人にもある程度わかりやすいうえに、突っ込みやすいキャラだから世間もいろいろ言いやすい。しかし、僕は堀江氏なんぞより、ヤフーの孫氏やルパート・マードック氏などの方が、世間との折り合いをつける政治力と、ライブドアとは比較にならない財力を持っている分、よっぽど恐い面もあると思う。(孫氏は早くも野球の方でいろいろ動いているし、このままだとパ・リーグに“もうひとつのジャイアンツ”ができるのは間違いない。マードック氏に至ってはもう書いたらキリがない。ひとつあげればドジャーズ。もてあそんでポイ、だもんな。F1のバーニー・エクレストンなんかも、そっち側の人だな。F1は彼にとっては金のなる木であり、マネーゲームの場で、スポーツでもなんでもない)

 そういうわけで、クロスメディア化はライブドアがやらなくても、必ず誰かがやることだ。別に他社だって、手をこまねいているわけではないと思うし。

 堀江氏がやるとダメだけどマードック氏ならいいのか。やり方に差異があるだけで、根本的には同じことをしている(規模は全く違うが)。僕は個人的には、誰がそういうことをやっても積極的には受け入れ難いが、しかし、僕らの存在とは関係なく、情報資本化は進んでしまうと思う。携帯電話やネットがそうだったように。音楽がすっかり消費されるものになったように。雑誌やテレビが読者や視聴者ではなく代理店にばかり頭を下げてタイアップ企画のつまらない記事ばかりが増えたように。そして、結果的には僕らはそれを受け入れたくないと思いつつも、それを享受している(させられている)面も確かにある。

 話は少しそれるが(記憶が多少あいまいだけど)、昔、ソニーがプレステ2を開発中に、DVD再生の機能を盛り込むかどうかでモメた、という話をどこかで聞いたことがある。ゲーム機にDVD再生機能をつけてしまうことに、ソニーのDVD部門は反対だったと(DVD部門自体がいらなくなるから)。だけど、それはほっといたら他の会社がやってしまうことであり、それによってプレステ2が売れなくなったら、ソニーとしては本末転倒である。結局、中途半端なDVD再生機能をつけることで妥協した。ちょっと例えが変かも知れないけど、ライブドアの話も、それと似たところもあるんじゃないかな。

 田口氏の言っていることは、イデオロギーとかイズムの話として成立しているけれども、当の堀江氏の感覚はそういうものより「食うか食われるか」の感覚に近いのでは、と思ったりする。そう思えば、堀江氏のあの妙な「ドライ感」は、なんとなく説明がつく。

 かたや「物を書く人」の主張と、かたや「経営者」の業界予測に基づく企業買収という行動。後者にももちろん主張があるが、彼の話を聞いているかぎりでは、通り一遍の、10年前から言われているメディアの複合化、というようなことを繰り返すのみで、こちらがびっくりするような新しい価値観を提示しているわけではない。

 そういう意味では、田口氏評する堀江氏、というのは、何か論点が論点になっていないような、両者すれ違い、みたいな感じがする。

 結局、情報資本主義云々というイデオロギー的なものより、資本主義の縮図、マネー・ゲームが世の中を変えていく。それは別にネット関連に限ったことではなく、好むと好まざるとに関わらず既に起こっていることだ(その歪みがあちらこちらにでているわけだが)。そういうのは、誰にも止められない気がする、悲しいけど。だがそれは、デメリットもあるけれど、メリットもあるかも、という風に思うしかないような。

 ま、大事なのは、受け手、つまり個人の解釈によるところが大きいのではないか、と(それすらも昨今かなり怪しいが)。嫌ならば拒絶もできるし。もっとも、世の中の流れでそれがかなわないこともあるのだが、しかしそれこそ止めるのは不可能に近いんじゃないかな。そのように今日のところはとりあえず納得してみる。まだわからないけども。



(ううっ。エラソーに書いてしまった。。。お叱りが来そうな予感。それと自分の文章だけど「田口ランディ」というお名前に「氏」を付けたのは響きが何だか変だな ^^;。ま、ご本人は読まないでしょうし、よしとしますか)

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