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Makalu 1955

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マカルー ー全員登頂  ジャン・フランコ著 近藤等 訳 白水社1956
Makalu Jean Franco 1956

目次
序に代えて ヒマラヤ登行五十年史  リュシアン・ドヴィス

25ページにわたり非常に簡潔にヒマラヤ登攀史(1955年まで)をまとめてあり便利
です。マカルーがフランス隊によって登られた1955年までに登られた8000m峰は
14座あるうちの5峰でした。

1950年06月03日 アンナプルナ フランス隊
1953年05月29日 エベレスト イギリス隊
1953年07月03日 ナンガパルバット ドイツ・オーストリア隊
1954年07月31日 K2 イタリア隊
1954年10月19日 チョー・オユー オーストリア隊

そして1955年は
1955年05月15日 マカルー フランス隊
1955年05月25日 カンチェンジュンガ イギリス隊
となります。


まえがき
1.ネパールまで
2.熱帯を行く
3.セドアの人々
4.モン・ブランの標高にて
5.バルンの標高にて
6.上げ潮
7.頂上波状攻撃
8.三つ折り画
訳者あとがき

アンナプルナの登頂によって8000m峰初登頂を切り開いたフランス隊は
再び待望の8000m峰に挑みます。
隊長であるジャン・フランコは1914年生まれでこの時40歳を越えていましたが
優れたアルピニストでフランス国立登山スキー学校の教官(後に校長?)でもありま
した。さらに彼は稀代の「晴男」でもあったようです。

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1954年秋にフランコはジャン・ブーヴィエ、ジャン・クジー、ピエール・ルルー、
ギド・マニョ-ユ、リオネル・テレイらとマカルーの偵察に赴きます。
マカルーはこの時までにアメリカ隊とニュージーランド隊に試まれましたが
いづれも敗退しました。
そしてマカルーの乗越(コル)の西側を通るコースの7140mまで試登されました。
さらに(ついでに?)10月22日、マカルー第二峰(7660m)と10月30日に
非常に厳しい環境の中、チョモ・ロンゾ(7797m)に初登頂しました。
チョモ・ロンゾからクジーとテレイがマカルーの北面を見て登攀可能であることを
確かめ、一番快適なルートを追うこともできました。
この偵察行は寒さと風に支配されており酷く辛いものだったそうです。

1955年、いよいよ本隊がネパールへ入ります。
隊荷の一部がカルカッタに到着せずにラングーンに入ってしまい
ジャン・クジーがこれを飛行機で輸送したのを除いて、他はうまくいきました。
リュシアン・ドヴィスは以下のように書いています。

「1955年の遠征隊は予定されたルート通りに展開されたのである。
登攀計画は頂上アタックが5月上旬に開始できるように仕上げられた。
すべてのコンディションと天候は最適の状態だったので、登攀は三ヶ月前に
原則的に決定されたのと、正に同じ期日に実施された。
かくて登攀隊全員(5月15日、ジャン・クジーとリオネル・テレイ、16日、隊長の
ジャン・フランコ、ギド・マニョユ、サーダーのギャルツェン、17日、ジャン・
ブーィエ、
セルジュ・クーベ、ピエール・ルルー、アンドレ・ヴィアラット)が頂上に達した
が、
これは今日(注・1955年)までのヒマラヤ年代記の中で全く前例の無いことであっ
た。

7800mの第6キャンプを午前のはじめに出発して、登攀隊は11時から12時までの間に
頂上に達したのだった。最後の300mは、このような高所では、まだかつて
突破されたことのない困難なものであることを考えるなら、一行の余裕綽綽たる
登攀ぶりは注目に値しよう。
このようにマカルー征服は異例の成功といわなければならない。
それは秩序整然としたデモンストレーションのような感を与えずにはおかない。
しかも、マカルーが多分、今日まで登攀されたヒマラヤのピークのうちで、
最も困難なものであることを考えるならば、これは驚嘆すべきことである。」

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遠征隊長であるジャン・フランコは以下のように書いています。

「私たちが大きな幸運に恵まれたことは確かだ。酸素器具は完璧に活動した。
先輩たちの経験に基づいて、フランスの大制作所とヒマラヤ委員会の仲間たちに
よって綿密詳細に研究された装備は申し分なかった。キャンプ用具、ラジオ送受信
器、耐寒装備などについては、以前に作られた最上の品々を総合し、
合理的に改良しようとした。得られた結果は協力して下さった全ての人々の
名誉となるものである。

そしてとくに、私たちは寛大な天候に恵まれた。

人間と器具とは、いかに優れたものを苦心して選んだところで、高所の嵐が猛威を
逞しゅうするならば、頑張り通せるチャンスはわずかしかない。
このことは秋に経験済みだった。ヒマラヤの歴史は嵐を通じて繰り広げられている。
失敗・放棄・遭難は不利な天候事情が高所によって特に一層悪化したためである。
マカルーでは天候はBCまでのキャラバン中はまあまあという所でありマカルーのコル
までの期間中は晴天、頂上攻撃の時期には快晴となった。夜間は寒く(C6でー32度)
昼間はずっと陽光が照り、まったくの無風状態だった。

8470mの頂上で、私たちの内、一人として防寒用の大型ヤッケを着ていた者はいな
い。私たちは薄い絹手袋だけで手を保護していた。これは前代未聞のチャンス
だった。こうした条件は奇跡的なものであると見なすべきかどうかを知るのは
難しい。しかし、アルプス的な方法による私たちの登頂はヒマラヤにつきものの
風が吹いているか、または50cmの新雪でも積もっていたなら、
全く異なったものになっていただろう。
(中略)
安全を期するためのこうした用心は私たちの立場を非常に堅固にしてくれた。
頂上を目指して私たちが第6キャンプを出発した時には、全くの話が、午前の山行の
ために山小屋を出発するザイルパーティのような気分だった。
山から下って、私たちの幸運を歌いながら私たちは状況を調べてみた。
使い果たしたものはわずかだった。酸素のストックは半分使用しただけだった。
7400m以上で2度滞在したシェルパは一名もなく、全員がもう一度登りなおせる
状態だった。隊員各自の体のコンディションと残っている物資をもってすれば
直ちに新しいアタックを組織することも可能だった。

心の底では、みな、いくらか期待はずれだったかもしれない。
私たちに与えられた手段や私たちにずっと微笑み続けた幸運よりも、私たちはもっと
手剛い相手を見出したかっただろう。だがしかし、たとえどんなであったにしても
その快い安全確実さにおいてマカルー登攀はヒマラヤの歴史の幸運な1ページ
として残るだろう。幸運な民族と同じように巧みに果たされた登山には、
とりたてて語るべきことはない。
有名なある新聞記者に私がマカルー登山中に撮影した幾枚かの写真を
見せた時、彼は大衆の気を引くような見世物的な惨劇がないので、
何か細かい事で面白い事を探り出そうとして私に尋ねた。

「しかし、そのう・・・・なんと申しますか・・・・アクシデントぐらいはおありに
なったのでしょう?」
「残念ながらありません。クレヴァスに落ちもしなければ雪崩にキャンプを埋められ
たこともありません。8000mでもモン・ブランの頂上と同じことだったんです。
頂上には9人が立ちました。三日間に3回登ったんです。
これじゃ、征服じゃありませんよ。それに、足が寒いとさえ思わなかったんです。」
「それじゃ、なんですか、何も起こらなかった訳ですね?」
私に尋ねられなかったことは <なぜ何も起こらなかったか> ということだった。


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Jean Couzy(1923-1958)
http://fr.wikipedia.org/wiki/Jean_Couzy
ジャン・クジーは次のヒマラヤ遠征であるジャヌーの隊員になることが決まっていた
1958年の11月にロック・デュ・ベルジュの未踏岩壁で落石により生涯を終えます。
・・・彼が反復して登った一流の山々のその質の高さと数の多いことで偉大なアルピニスト
だと考えられるのに価いするのだとしたら、それは、とりもなおさず、彼を最も傑出した
アルピニストのランクにのし上げた「新しい企画やルートの立案者」という彼の経歴に
よってなのである。彼はザイル仲間のルネ・ドメゾンと共にアルプスの最も偉大な最後の
征服者のひとりであった。・・・・とテレイは自著の中で書いています。

リオネル・テレイはマカルー登頂でかなり拍子抜けしているようです。
彼は後年(1961年)に書いた自著の「無償の征服者」の中で以下のように書いています。

「私がそのために1年を捧げたこの巨人を、我々は面食らうくらい簡単に登りきって
しまったので、私は軽い失望を感じた。帰国してまもなく、マカルーの頂上で
いましがた感じたような想いになお胸をふさがれていた(以下略)」


完全燃焼することなく、あっさり?落としてしまったマカルーですが
フランコやテレイは次のヒマラヤでは、より難しいジャヌーを選びます。

その内容は「ジャヌーへのたたかい」という本に書かれていますが
1977年に自分自身も未踏の北壁から登頂した小西政継さんが
「まさに血沸き肉踊る内容」と書いているように面白く、また格好いい内容でした。
これについてはまたメモとしてブログに上げようと思います。

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55年時代に登頂に脅威を感じます。
現在であれば装備等優秀でしょうから・・・

2009/4/1(水) 午後 7:16 atago 返信する

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tubo2342さん:
この時代は8000m峰の初登頂の黄金期でしょうね。
テレイの写真がそれを表わしているように思えます。
装備も服装などはその後の原型ができつつあったのかもしれないですね。

2009/4/2(木) 午後 9:09 Inaodake 返信する

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