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先日、毎日新聞岡山支局さんが掲載された「ドングリまきに対して疑義を呈する意見を取り上げた記事」を紹介し、その以前に酷評したドングリまきの事実のみをただ報じただけの群馬支局さんに対して「見習ってください」と書いたところでした。 新聞に記事が掲載されるまでには、取材された記者さんやその上司の方やチェックする部署の方など幾人もの方が関わられると思いますので、書かれた記者さん個人の良否だけではなく、その支局や新聞社そのものの姿勢が垣間見えるものだと思います。 その点で、私は過日のそれぞれの記事については、署名記事ではありましたがそれぞれの記者さん個人の姿勢や資質などではなく、それぞれの支局さんという組織の姿勢などについて言及しました。 そうしたところ、疑問を投げかける記事を書かれた毎日新聞岡山支局の記者である石戸さんから、ご丁寧なメールをいただきました。こういうのがネット時代の醍醐味ですよね。 内容は、私がブログに石戸さんの記事を取り上げたことへのお礼(いえ、こちらがお礼を申し上げたい・申し上げるべきくらいです)と、石戸さんがどのような姿勢で記事を書かれているか?という思いを述べられているものです。 私信で、石戸さん個人のご見解ですのでそのままはここに書きませんが、単に善意による行為を検証せずにすばらしいとだけ書く姿勢には与さないということが感じられました。 石戸さんはツイッターもなされていて、1月13日にそのこと・思いについて、触れられています。 まだお若い記者さんですが、考え方などが大変しっかりされていて、使命感や責任感、情熱があふれています。私は記事の中で記者さん個人のお名前は特に意識せず、また拝見いても不明にしてお聞きしたことは無かったのですが、Googleで検索させていただいたところ、今回の記事も石戸さんについても、既にたくさんの支持者・ファンがいらっしゃるようです。 しかし、いくら記者さんが能力があり情熱を持って読者のための記事を書こうとしても、支局さんが許さなければ日の目を見ないのですから、良質な記事が出るということは、支局さんもやはり、そのようなものをしっかり受け止められている態勢なのだろうなあ、と感じました。 あの記事、私は客観的に見ても良い記事だと思うのですが、同時に、企業の一員としては結構な覚悟がいる部分でもあります。 一見「きれいな・いい話」は、それを称えて感動したがっている人が多いわけです。特に「努力したつもり」「いいことしているつもり」になっている独り善がりな人の場合は自分がそう盲信しているだけに、少しでも疑問を呈されると不快感が大きくなりがちなものです。これがわざわざ疑問を呈さなくても誰も傷つかないものであれば、夢に酔っている人にあえて疑問を呈するのは野暮・重箱の隅かもしれませんが、他者に対して多少なりとも実害が生じているかもしれないことを無視してただ感動にだけ酔う…という姿勢を「社会の公器」とも言われる新聞・報道がするのはどうか?というのは、私のような部外者が言うのは簡単ですが、今のご時世、なかなかそういう気骨ある記者さんや新聞社(支局)さんは少なくなっている印象があります。 苦情などが来れば、記者さんご本人ばかりではなく、ご同僚の方や会社さんにも影響しますから、「触らぬ神にたたり無し」的な事なかれ主義が横行するのでしょう。一方で、何か問題提起や批判をしなければ新聞やテレビとしてスパイスが足りないためなのか、文句が言われそうにない政治家や公務員、重大事件の容疑者などは過剰とも思えるまでに叩くのではないだろうな?と勘繰ってしまいます。 そこをあえて、「市民団体」に対して「ちょっと待って」と言うのは、まして、この秋以降、熊の射殺などにおいてはクレージーな連中が行政や猟友会に苦情を入れているというのは石戸さんもご存じだと思いますので、それなりの覚悟が必要になります。ですが、例えそんなおかしな苦情があろうとも真正面から受け止める覚悟の上で書かれているのだと思います。そういうご自身の書かれる記事に対しての重大性た影響力を認識してその責任や覚悟を持つ精神や姿勢が、私はジャーナリズムだと思いますし、全面的に賛同・支持します。 群馬の読者はかわいそうだと感じますが、岡山の読者は幸せです。 善意ではあっても、その結果がおかしい、あるいは行動に疑義があるのであれば、一歩立ち止まるのが正しい姿勢です。それをしないで「善意というものは何でもすばらしい」という、動機だけをただ称える報道というのは、私もおかしいと思います。 石戸さんの今後のご活躍はもちろん、それを毎日新聞や岡山支局さんがどうバックアップしていくかが今後も期待されます。 ******************************** こういうことを書くとブログコメント欄が炎上しかねないのですが(それほど影響力や反響のあるようなブログでもありませんが)、最近、「タイガーマスク=伊達直人」などを名乗る人々が児童養護施設にランドセルなどを送る「善意」があります。 これも、私は「どんぐりを集めて送る善意・報道」と少し構造が似ている部分があるように感じています。 「タイガーマスク」は別に著しい実害は無いからまだ良いものと思いますが、一方で、報道を名乗るのであれば、「それら贈っている人々が本当に児童養護施設の現状を知っているのか?」「贈っている人は、施設が何を必要としているのか確認しているのか?」などという、現実的な側面を考えずに事実報道だけで済ますのはどうか?と思います。ドングリまきの報道の多くも同じです。 贈っている人の中にはハッキリ言えば「相手の都合(迷惑)を考えず」に実行しているわけで、それは自己満足とも言えるかもしれません。実際に「困った贈り物」が届いたりするという事例も結構出ているようですが、その個別の案件にかかる個人の問題や評価は置いておいて、それをそうと報じている報道はかなり少ないようです。そこが問題だと思います。 災害時の救援物資なども「全国から多くの善意が届いている」とは伝えますが、汚れた服や壊れた機械が送りつける輩もいるということはあまり報じられません。そう報じることで「善意」に水をさし、救援物資が贈られることが鈍るのを恐れているのか、単に苦情が来るのが怖いのか知りませんが。 そういうことにほとんど触れない報道というのは、そういうことを便乗させる余地を生む「報道被害」とさえ私は思います。仮にも報道であるならば、各施設で何が必要なのか?ということや、そこで生じているであろう問題などもきちんと報じるべきでしょう。 何となく、「善意」は「いい話」だけに見えることですが、自身で置き換えてみると、友人や恋人などからいらない・始末に困るものをプレゼントされたら「気持ちはありがたいけど…」と困惑することを考えてみれば、果たして何かを贈るときにはどうあるべきか、少しわかりそうなものですが。 そもそもタイガーマスクの主人公である伊達直人は、自分もその福祉施設の出身で、自分のような苦労を子供たちにさせたくないという実体験からくる思い・共感があって、施設の窮状という現実をしっかりと直面し、何が必要か?何をすべきかを熟考してその寄付をし、命をかけて最期まで戦っていたはずです。単に「匿名で福祉施設に寄付すれば誰もが伊達直人」という一過性のものをただマスコミが煽るのはどうかと思いますし、物語での伊達直人とは別ものだと思います。 ただ、贈らないよりは贈って喜んだ人が確実にいる、ということは評価すべきでしょうけれど、それがあまりに過剰に報道された際には、贈られなかった施設の子供は子供心にどう感じるか?という点では、単発的な善意が誰もが幸せにできるものでは無いとも言えます。 だいたいこのような「ブーム」として取り上げられる以前から、全国にはかなりの方が、このような施設で、あるいは他の困っている人のために、匿名でも名乗ってでも支援をしている人がいます。普段、報道はそれらの「善意」はほとんど取り上げません。 本来、報道であるならば、「そういう必要不可欠なランドセルなどにも窮するような福祉の現状というものを国や自治体に対してぶつける」「そもそも、そういう子供たちはなぜこの施設に入らざるを得ない事情になっているのか?」というような報道にまで至っても良いのではないでしょうか?ただ善意を称えるだけの報道であれば、このブームが飽きられれば、またこれまでと同じです。そうすれば、今年入学する養護施設の子供たちの中でごく一部の子だけが宝くじに当たったようなラッキーなだけという話で終わり、他の圧倒的な多くの子や翌年以降の子にはその手当は無いわけです。 私の想像ですが、ほとんどの贈り主の人は今回、こういうものをこういう方法で贈れば報道が取り上げることを知り、取り上げられることで全国の養護施設の子供たちの現実を多くの人に知って欲しい・抜本的な手厚い支援が国や自治体で本格的に開始・改善されることを願って一斉に賛同・実施したのではないか?と思います。つまり、「その先」まで願っているわけですが、報道側のほとんどは鈍感なのか手抜きなのか、その善意を受け取っているのに機敏にそういう「善意」を読み取らず、単に事実報道をしただけです。自身の影響力をもってこれを改善につなげるように国や自治体など働きかけよう・社会に問いかけるような動きであるべきではないか?それが善意を昇華させることではないかと思いますが。 同時に、今回初めてそのような寄付に参加した人がある程度出たというのは、贈られた施設の子供たちの現状や贈られて喜んでいる笑顔というのを今回初めて知ったからでもあるでしょう。それはやはり、報道がこれまで、そういう施設や子供たちを省みず社会に周知していなかったという、私から見れば「報道の怠慢」というものの裏返しであると思うんですよね。 どんぐりの話題に当てはめれば、「ランドセルでもなんでもいいから、どんどん買って施設に送ろう。送り先住所は…」とだけ報じたのが、群馬支局さん。一方、「そもそもそのようなことよりも、きちんと本当に各施設で困っていることやものを考えて、継続した支援が国や自治体に求められていることでもある」と報じたのが岡山支局さん、というところでしょうか。 報道であるならば、読者にきちんと何がどういう理由で必要なのか?それに賛否両論や懸念すべき事項・注意点は無いのか?などということをきちんと洗い出して提供すべきで、ドングリもランドセルもただ「善意」で贈れば良いというものではないでしょう。それは贈り手側も、実害がありそうか無さそうかの違いだけで、「現実を見ないでいいことをしたつもりになっている」だけという点では変わりが無いような気がしますし、それをきちんと提示するのが報道だと思うのですが。
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某協会さんへ
春先には冬眠から覚めたクマさんがすぐに勉強できるように森の中へランドセルを置いたらいかがですか?・・・(^^;
なお、協会さんにも「論文の書き方」のテキストがタイガーマスクから送られてくることを願っています。しっかり勉強しましょう(^^)/~
2011/1/24(月) 午前 1:01 [ s.stone ]
なんでも、春先にもどんぐりをまくという話があるようです。後先考えない、単なる無知からの自己満足としか思えないのですが…。
論文の書き方、ついダラダラ長ったらしくなる私も欲しい!(笑)
2011/1/24(月) 午前 7:19 [ 泉ヶ岳 ]
心情の善にしても、倫理が利かなければ、ありがた迷惑か。つくづく難しいものだな。こういうのは、サポートとしてあるのが、良識だと思いますが、生きかたに、サポートは禁物。自分の積んだ徳以上のものは望んじゃいけない。なんて、生きる前提だけど、せめて、ひっくり返して論じてはダメなんですよね。
それにしても、編集をそこまで求められず、偏らず、そのまま出る記事なんて、稀有としか言いようがない。そういう抜け道的記述があるのだと気づく記者は少ないですね。有能な記者か、有能な編集者が居ることだけは、確か。
なんか、俺も、登山用のランドセル欲しくなってきたな(笑)
2011/1/25(火) 午前 0:19 [ とーまつ ]
人同士の善意の場合は、コミュニケーションや思いやりや常識が、トラブルを防ぐ(はずな)わけですが、相手が熊や犬などの動物の場合は、人間の感情・感覚で良かれと思うことが迷惑と思われることははるかに多いでしょうね。ペットの犬に分厚い服を着せたり、ドングリをまいたり。
2011/1/25(火) 午後 11:18 [ 泉ヶ岳 ]
熊だって、犬だって、人だって、感情的な表現は、出来るだけ最小限だと心得て居るのだと思いますが、わたしの体験的にですが、犬のさんぽに行く前のすがたを見れば、人がいくら感情で、散歩に行こうなどと譲っても、そのときの犬の顔は、シャキっとして、気張って、隙が無く、感情の欠片も見ないものですね。逆に、「おう、そうだったのか」というくらいでね、いくら自分が「義理でも」って思う部分が、つくづく甘いものだなと。(笑)
その通りだと思いますね★
2011/1/26(水) 午後 11:28 [ とーまつ ]
体験的にですが、ある程度の哺乳類になるとやはり性格やその成長までの環境下で得た学習や経験の結果があって、同じ種類の同じような顔つきでも、全く違う反応をしたりしますね。
熊にも性格があって、だからこそ、「熊とは…」というような十把一絡げでの解説はできないですし、慎重にすべきなんですよね。
一方で、馬でも犬でも性格差があろうと、ある程度プログラム化された「しつけ」とか「訓練」により、大きくそれを変えることはできるわけで、現在のおしおき放獣がどの個体差にも同じ手法でやっているというのはなんだかな、と思いますね。うまい訓練士さんのように、正確を見極めての個別対応というのができれば理想ですね。
2011/1/27(木) 午前 0:16 [ 泉ヶ岳 ]