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私は実家が非農家ですが学生時代に農業を勉強していましたので、今、非農家の人が普通に生活していては見られない「食べ物が食卓に届くまでの過程」なども知ることができ、そしてそれはとても有意義でありがたいことだと思っています。 普通、食べ物は動物でも植物でも他に生きているものの命を分けていただくということです。ですから、それはありがたく、大切に食べなくてはならない…というのはこんな言葉でも理屈でもなく、本来は感覚的な・常識として身につくものですし、身につけるべきことです。 魚などはまだ、1匹まるまる売っているので、あの魚の形=刺身や焼き魚という連想はしやすいのですが、食肉は、動物としての牛や豚と、食肉としての牛肉や豚肉とは、なぜか連想しづらいという人もいるでしょうし、肉は好きだけれどもそれが食卓に並ぶまでのことはあずかり知らぬ、という人は相当多いのではないでしょうか。 今の世の中では、畜産業者から出荷された牛や豚などが、どのように屠殺されて解体されて、そして「肉」となるのか、知る機会はほとんどありません。一種のタブーとなっている感さえあります。 大型動物の解体というのは、「画」としてはグロテスクであり、これまた理屈ではなく「かわいそう」「残酷」という気持ちを感じさせるものです。しかし、肉を食べている以上、かわいそう・残酷だ、という他の生命を重んじるという大切な感情はいつまでも持ちつつも、しかし、それを乗り越えて、それが人が生きるということ・食べるということだということを学習して強く・命を大切にする大人になって欲しいと、子供たちを見るたびに思います。 むろん、だからといって、むやみにそういう場面を公開すれば良いというわけではありません。人間誰もがトイレに行くからといって、四六時中・どこででもトイレや大便の話をするのは社会常識に反するわけで、そういったことはマナーや礼節、そしてなんといっても教育の問題でしょう。 3月2日の朝日新聞の記事に、長野県で興味深い活動をしている方の記事が出ていました。 「狩猟」から命を考えよう 県クマ対策員の後藤さん授業 2011年3月2日 「狩猟は良いことでしょうか、悪いことでしょうか」。県クマ対策員の後藤光章さん(37)の問いかけに、首をかしげる生徒たち。後藤さんは「祖先は狩猟で命をつないできた。狩猟の一部を担うことで、命を考えるきっかけにしてほしい」と続けた。狩猟を題材に命を考えるこんな授業に県内外で取り組んでいる。 長野市立長野高校でこのほどあった「ノーマライゼーション講座」には講師として招かれた。自らが猟に出て撃ったニホンジカ3頭を教材にと持参した。「狩猟は撃って解体し、胃袋に入るまで」と話す。生徒は実際にシカの皮をはぎ、解体した肉で作った料理を味わうなどした。 最初は瞳が開いたままの親子のシカを見つめ、おそるおそるナイフを握っていた高校生も、次第に慣れた手つきで肉をさばく。2年生の市川実季さんは「普段はパックで売っている肉を料理するだけ。でも、自分で解体してみて、命をもらって食べているのを実感した」と話した。 後藤さんは、信州大農学部の学生時代にクマの調査・研究をしていた。その中で、野生動物が増えすぎることなく人間と野生動物の共存関係を保っていくためにも「人間の生活に狩猟は欠かすことができないと気づいた」という。 各地で食害が問題になっているシカの場合、2009年度には県内で約1万8700頭が捕獲されたが、そのうち食肉として流通しているのは約1300頭にとどまるという。多くは猟師が自家消費するか、土に埋められる。 「動物の命を奪う行為と食べることがかつては一致していた。その重みを教えることで獲物も生きてくる」と後藤さん。猟で捕獲した動物を教材に、小学校や大学でも授業をしている。(小林直子)記事にある後藤さんのお考えは、私も全く同感です。この点、私は後藤さんと全く同じ価値観です。 近年、国内の食糧自給率への関心がようやく国民の間でも高くなり、また、最近では少しずつ農林業関係者でなくとも有害鳥獣やその駆除にも関心がもたれるようになってきました。これは国とか自治体といった行政とか政治家、被害にあっている農林業関係者だけの問題ではなく、国民全体の関心や理解が対策や解決には不可欠なものですから、その点では国民1人1人が国内のこういった現状にどう向き合うのか、嫌でも真剣に考えるべき義務を有するような時代−本来は常にそういう意識を持っているべきだと思いますが−になったと思います。 最近、ようやく一部の小学校などで、農業体験をし、自分たちの食べ物を振り返るという試みを始めるようになってきたようです。 例えば、上越市立大手町小学校では、5年生の総合学習として、食べるための豚を飼うか?飼わないか?というところから子供たちで話し合い、結論を出し、やがて食べることを承知の上でみんなで育てる活動をしました。 育て始めて数ヶ月後、大きく育ったところで出荷。学校で一緒に生活してきた豚が、このトラックに乗っていけば殺されて肉にされるということは最初から分かっていたはずのことであったのに、当然、子供たちの中には泣き崩れたりする子もいます。そしてその後で、その自分たちが育てた豚の肉を食べるか?食べないか?これも子どもたち自身で決めます。 このときの子供たちの議論は、非常に真剣で、誰もが必死に考えた意見だとわかるものばかりです。「かわいそうだけど、食べられるために肉となったのに、食べない、というのはかえってかわいそうだ」「ありがたいと食べることが、一番の感謝の気持ちを表すことになると思う」などなど。それは見ている大人たちの方でも、そんな子供たちの様子や意見から学ぶことがたくさんあります。 そうして子どもたちは、「いただきます」の意味を理屈ではなく感覚で学ぶんですね。 決して保護者や教師が強制や示唆することなく、子供たちが自ら考え、決断し、それを通じて感じるという、すばらしい教育だと思います。 有害鳥獣として駆除された動物を食べることに対して、私にはさっぱり何をおっしゃっているのか意味が理解できないことを主張する人や団体もありますが、この子供たちに比べ、何と子どもっぽい考えかと言わざるを得ません。そういうことを言う人は、食べ物や命について、この大手町小学校の皆さんほど考えたり感じたことが無いのかもしれません。
教育というのは実に大切なものだと、あらためて思います。 |
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正しくその通りかと思います。
私は農業高校で畜産を3年学んできたものなので、ヒヨコから育てたブロイラーを自らの手で絞め、命を頂きました。その他にも、朝の当直で世話をした肉牛が夕方には枝肉になっていたこともありました。
そういった現場を知っているからこそ理屈抜きに、残さずに食べようといつもご飯をいただいています。万が一残してしまう場合はせめてもの気持ちとして「ごめんなさい」と言うようにしています。
ここで紹介された事例以外にも、今月のアウトドア雑誌のBE-PALに、料理教室で野性動物の解体から調理までを行う企画も行われているようです。
見たくないものや残酷なものから目を逸らさず、本当の意味での「命」というものを知ってほしいものですね。
2011/3/11(金) 午前 0:01 [ 少納言 ]