|
自然保護団体や動物愛護団体の人も、自然に関心が高い人でも、とにかく山に広葉樹をひたすら植えることが、自然保護・野生動物愛護のように言う方が少なからずいます。
私は、人為的に・大規模にその自然環境を変えるということは、森林伐採も、既に針葉樹などが植えられているところを一斉に広葉樹に変えるようなことも、同じように慎重にすべきだと考えています。
1つの世代の人間の知恵では自然のことを理解できるはずはなく、「何も考えず」に性急に行うことは、伐採も植林も、思いがけない影響が生じかねないという恐れがあるからです。10年かけて変わった環境とか、変わって10年経過した環境というのは、10年も20年もかけて戻すくらいの忍耐や継続した努力が無ければならないと考えます。
ところが、一部の自然保護などの団体は、結果を急ぎ過ぎているものも見られ、危なっかしいなあ、と感じます。効果や結果が実感できなければ多くの人が継続してついてこない・飽きるという面があるからかもしれませんが、こういう運動はその内容によっては、孫子の代に結果が出ればいいなという気長にしなければならないというものもあるはずです。ブナの木は発芽から結実する木に成長するまで50年かかると言われているのですから。
なるほど、針葉樹の森を広葉樹に変えれば、山の土は豊かになり水を貯めるかもしれない。しかし、 以前書いたように、既にそこに定着しているその環境を好む昆虫や植物、動物などは大きなダメージになるかもしれない。
「自然保護」などと言うけれど、例えば長らく草地になっている土地に名前も知らないような「雑草」が生えているとして、そこに広葉樹の苗木を植えて、下草刈りを何度もして、やがて紅葉もあざやかな森林にするということは、見た目もイメージも「正しい」ように感じがちです。リスや小鳥が木の実を食べに集うでしょう。しかし一方で、その名前も知らない草が、刈られ、広葉樹に日光を奪われて衰退して、それとともにそれに依存していた目立たない生命が消滅するのを良しとするのが、果たして「自然保護」と言えるのでしょうか?せいぜい「広葉樹保護・増産計画運動」とでも言うべきではないかと思うのですが。
言葉尻であげ足・皮肉を言っているのではなく、実際に自分自身が何を行っているのかということを、正しく認識してそういうものだと自覚・覚悟して行わなければ、とんだ失敗につながりかねないということを言いたいわけです。
さて、これも 以前にも書いたのですが、この秋の熊の大量出没を受けて、公園のドングリを集めて山に置こう、という運動を展開する人などがいるようですが、様々な疑問は置いておいて、私が明確に回答してもらいたい1番の疑問は、「木々の拡大戦略を妨害しているのではないか?」ということです。
木々の実りが凶作となるのは人為的なものとは関係の無い、木々の生理現象で、「そこで死ぬべき動物を作る」のもそのシナリオなわけです。
ひたすらその地域に生きる熊を生き残らせようとあれこれ画策したところで、行きつく先は?考えたことがあるのでしょうか?
動物は、農業を営む人類以外、その食性・生息する地域の環境によって、生きて行くために必要な面積というものが決まっています。何らかの要因でその地域の食べ物が減れば、その食べ物を同じくする動物同士の熾烈な生存競争と淘汰がなされるわけです。それを、ドングリなどをまけば、死ななければならなかった命を無理に延命させる・生き残った生命が新たな命を増やすことになり、将来、次の食糧難が発生した際には、さらに過酷な生存競争を強いる結果になり、より多くの命を失わせることになりかねないわけです。
一部の団体は言う。いや、人間が奥山を壊したから悪いのだ、と。
では、2ヶ月近く前の記事になってしまうのですが、9月21日の毎日新聞に、知床のヒグマに関するなかなか参考になる記事がありましたので、ご紹介いたしましょう。
記者の目:生態系維持に数の調整は必至=本間浩昭
世界自然遺産である北海道・知床の濃い緑に覆われた豊かな自然に異変が起きている。激増したエゾシカによって、植物が芽を出すやいなや食い尽くされ、巨木は樹皮をはがされて枯れていく。春先の主要な餌をエゾシカに奪われたヒグマが、ついにはエゾシカを捕食し始めた。ヒグマの食性は変化し、冬眠も短くなっている。いびつになった生態系の時間軸をどの時点まで戻せばいいのか、知床は新たな課題に直面している。
「弱ったオスジカを真っ黒いヒグマが追っていた。ダメもとで襲撃したのだろうが、眠っていた血が騒ぎ、味を覚えてしまったのではないか」。エゾシカを襲うヒグマの姿を羅臼町の自営業、宮腰実さん(61)が初めて目撃したのは14年前の夏。ハンター歴37年の宮腰さんの目には「昔はクマを警戒するシカも少なかった」と映ったが、それ以降、捕食を「数え切れないぐらい見た」という。
◇クマがシカ捕食、冬眠明け早まる
春先のヒグマの排せつ物からシカの骨や毛が出始めたのも、そのころだ。出現頻度は5割以上、と当時の知床財団の記録にある。川に遡上(そじょう)するサケのほか、時には海岸に流れ着く鯨やアザラシの死骸(しがい)もむさぼり食う雑食性のヒグマだが、餌の9割以上はセリ科などの植物。クマの食性を変えたものは何なのだろう。
一つの推測はこうだ。そもそもヒグマは、敏しょうなシカを捕まえるのは難しい。だが、いまや冬眠明けで穴から出るころには餌の植物はシカに食べ尽くされている。クマも背に腹は代えられない。たまたま出くわしたのが餓死したシカだったり、生後しばらく動き回ることができない子ジカだったのではないか、と。
冬は食料が乏しいため、4月中旬ごろまで冬眠しているはずのヒグマが、数年前からは1〜2月でも動き回るのが目撃され、冬眠明けが早まってきている。「シカという食料がふんだんにあれば冬眠も短くて済むのだろう」と知床財団事務局長の山中正実さん(51)は指摘する。食性の異変はそれだけではない。ヒグマが春先に地面を掘ってエゾハルゼミを食べたり、海鳥の巣を襲って卵やひなを食べるケースも目立ち始めた。
ほんの40年前まで知床にエゾシカはいなかった。明治期の豪雪で姿を消した。雪深い知床は絶滅と隣り合わせでもあった。再分布したのは70年代初頭である。国指定鳥獣保護区のため、ハンターに狙われることのない知床は、エゾシカにとっての「エデンの園」だったのだろう。北海道庁の推計では、09年度の全道の生息数は64万頭以上で、知床は越冬地として増加が著しい。
◇規制を緩和し駆除しやすく
「何十年かに1度の豪雪に個体数調整を任せればいい」。10年ほど前まで、研究者の間ではそうした意見が大勢だった。ところが多少の大雪の年でも餓死するのは子とオスばかり。10年以上、毎年1頭ずつ子を産み続けるメスはほとんど死なず、爆発的な増加の原動力になっている。環境省は「知床半島エゾシカ保護管理計画」を策定し、個体数調整を進めているが、急峻(きゅうしゅん)な山々が続き、道路もろくにない知床は駆除も容易ではない。
シカの激増は知床だけではない。地球温暖化による気候変動の影響も受け、世界中で深刻になっている。米国では、シカの警戒心が薄れる主に夜間、ハンターが消音装置を付けたライフルでまとまった捕獲をする「シャープシューティング」という手法が個体数調整に実績を上げている。
日本は鳥獣保護法で「夜撃ち」が禁じられ、消音装置の使用は銃刀法に抵触する。法改正には時間がかかるが、環境省所管の鳥獣保護法は、「特区」方式により弾力的に運用できないことはないだろう。間違いなく言えるのは、年率20%以上の複利計算で増え続け、約4年で倍増してしまう現実を、ただながめている余裕はないということだ。
「減らすのは難しいことではない。問題はどの水準まで減らしたいのかだ」。個体調整を手掛ける米国のNPO「ホワイトバッファロー社」のアンソニー・デニコラ代表(44)は7月に知床を訪れ、地元関係者らにそう助言した。その数字を決めるのは容易ではない。かつていた天敵エゾオオカミは絶滅し、豪雪による個体数調整も期待できない。多少間引いたところで、すぐに隣接地域から侵入されるかもしれないし、減らしすぎれば元も子もない。
デニコラさんは「(適正な個体数を)決めるのはあなた方だ」と語った。個体数を調整しながら、生物多様性をいかに確保していくのか。私たちの知恵が試されている。
非常に良質の記事です。
ただ、エゾシカを襲って食べる目撃はされていますし、敏捷な動物をひたすら追っているのは海外のものですが、映像に撮られているんですけれどね。
知床はあのとおり、古来、まったく手つかずの自然で、まだまだ不十分な点が多いものの、日本で最も自然保全について進んだ地域だと思います。
しかし、その知床でも他の地域と同じように増加したエゾシカが入り込み、人間が手を加えずとも様々な植物が食べられ、そこの植生が大きく変わっています。
その影響は上記記事のとおり、ヒグマの食性にも変化をもたらしています。
世界自然遺産として、狩猟や人為的介入も最小限にした環境下においても、このように人為介入を進めて行く方向も検討しなければならないという事態になっています。いくらでも膨れ上がり、そして本来、その土地の中で死ぬべきだった命が、追われることが少ないために、市街地や農地に出没している。それは狩猟が減少していることが大きな要因なのは間違いない。
自然保護団体などは、明治期や江戸時代以前まで持ち出して、「動物と人は共存していた」とか、諸外国、特に北米などを持ち出して取組事例を語る場合もありますが、それは動物の生息する山と、農地が近接していなかったり、適切な狩猟者があったり、狭い現代日本の国土面積や条件という要素を一切無視した話です。
それなのに、狩猟が一律悪いと。動物を殺すのは残酷だという、目先の感情論を唱えることは、より多くの命を、より悲劇的な形で失わせる可能性が極めて高いという自覚は一切無いのでしょうね。
この辺の疑問を、狩猟一律反対論者などの皆さんに、ご見解をお聞かせ願いたいものです。
|