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年度末に向けて、管理する設備の更新や修理、契約の見直しなどでブログ更新もままならず、こんなブログでもせっかく訪問してくださっている皆様にはご無礼をかけており、すみませんです。。。 さて、時間の合間を見て最近ようやく読んだ本で今日紹介いたしますのは、「シャトゥーン ヒグマの森」(増田俊也 宝島社)です。 冬の北海道を舞台に、シャトゥーン(「穴持たずの熊」の意味)が、山小屋を襲って次々に研究者らを食らうという小説です。 テンポが良く、著者もそれなりにヒグマの生態や歴史を勉強した様子が文章から感じ、娯楽作品としては面白いです。 人間が、有効な銃を持たなければヒグマにとっていかに無力か?ということを思い出させてくれます。銃を持ってもなお、その持つ人の技量ではヒグマにはかなわないわけですから。 しかし、以前紹介した吉村昭さんの「羆嵐」のように、登場人物それぞれに感情移入をしたり、人間心理に共感したり、ということはまったくありませんでした。 登場人物は多いのですが、魅力に乏しく、殺害されてもそれが「実感」しないんですね。殺害されたことを生き残った人々が嘆いても、共感しにくいです。単に字面で「1人が襲われて残酷な殺され方をした描写」という、そう説明されているというふうにしか感じません。 ひと言で言えば、「羆嵐」は文学作品、この「シャトゥーン ヒグマの森」は娯楽作品で、内容としては羆嵐よりかなり「うすっぺらい」感じは否めません。「羆嵐」は何度も読み返す名作ですが、こちらは一度読めばもう一度手に取ることは無い本ですね。 「頑なな研究者らが命を賭して守ろうとしたもの」への考え方がこの作品の1つの大きなテーマだと思うのですが、どうも掘り下げが浅いような気がします。 とは言いましても、古い「動物パニックもの」というわけでもないので、楽しめる作品ではないかと思います。ただし、残酷な描写が嫌いな人にはおすすめはできないかもしれませんね。
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【読書感想】
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私が読んだ本の書評を掲載していきます。
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普通に生活していると、1日に仕事で何千字も入力しようとも、「宇宙」という単語は入力しませんし、書きもしないですね。ヘタすれば書くときに、「宙」の字が自信無いかも。 私は無学ですが、ことさら宇宙には縁遠く、また興味もありません。 今思えば、子供のころに夢中になったシャーロック・ホームズの第1作目「緋色の研究」(本当は『緋色の習作』と訳すのが正しいようですが)で、ワトソンがこう「述懐」していますが、これの影響を受けたのかも(笑)。 彼は驚くべき物知りであると同時に、一面いちじるしく無知であった。当代の文学哲学政治に関する彼の知識はほとんど皆無らしかった。私がトーマス・カーライルをもちだしたら、彼はきわめて無邪気に、それがなにものでどんなことをした人であるかをたずねた。
ワトソンも余計なことを言ったものです。だがそんなのはまだよいとして、偶然のことから、彼が地動説や太陽系組織をまったく知っていないのを発見したとき、私の驚きは頂点に達した。いやしくもこの十九世紀の教養ある人物で、地球が太陽の周囲を公転しているという事実を知らぬものがあろうとは、あまりの異常さに私はほとんど信じがたくさえあった。 「ふふふ、驚いたようだね」彼は私のあきれた顔を見て微笑しながら、「だがこうして知ったからには、こんどはできるだけ忘れてしまうように努めなきゃ」 「忘れるように?」 「僕はおもうに」と彼は説明した。「人間の頭脳というものは、もともと小さな空っぽの屋根裏部屋のようなもので、そこに自分の勝手にえらんだ家具を入れとくべきなんだ。ところが愚かなものは、手あたりしだいにこれへいろんながらくたまでしまいこむものだから、役にたつ肝心の知識はみんなはみだしてしまうか、はみださないまでもほかのものとごた混ぜになって、いざというときにちょっととりだしにくくなってしまう。 【中略】だから役にもたたぬ知識のために、有用なやつがおし出されないように心掛けることがきわめて大切になってくる」 「だって太陽系の知識くらい・・・・・・」と私は抗議した。 「僕にとってそんなものがなんになるものか!」彼はせきこんで私の言葉をおさえた。「君は地球が太陽の周囲を回っているというが、たとえ地球が月の周囲を回転しているとしても、そんなことで僕の生活や僕の仕事に、なんの変化もおこらないんだからね」 「緋色の研究」コナン・ドイル 延原謙訳 新潮文庫より ホームズの「頭脳=屋根裏部屋」説はどうあれ、知識というのは活かしてこそのものと思う私は、無用の知識を「教養」として、「ただ知っていることに意義がある」というような考え方はバカバカしいとしか思えません。 ワトソンは、太陽系の知識を患者の診察や日常生活の何に使うつもりだったのでしょうか?きっと彼がその知識を知ってからその知識を実生活で使ったのは、このホームズとの会話が最初で最後だったのでは。 だいたい、そう偉そうにホームズに言うワトソンにしても、太陽の周りを地球が回っているのを見たわけでは無く、学校かどこかでそう言われたのをそのままそう覚えたという程度に過ぎないはずで、それを「常識」として疑いもせずに他人を批評するワトソンを、本当はホームズは太陽系らのことを知っていて、しかし批判してそう知らないふりをして逆襲したのではないか?とさえ思ってしまいます。 単純にホームズの言葉だけ見ても、引用部分の最後「たとえ地球が月の周囲を回転しているとしても」ということからもホームズが宇宙に関する知識は持っているのではないか?とうかがわせます。 なぜなら、こういう言い方は「地球が月の周囲を回転していない」ことを知っている人間しか言わない言い方です。全く知らなければこの会話の中では出て来ていない「月」のことを新たに持ち出さずに、例えば「太陽が地球の周りをまわろうが、地球が太陽の周りをまわろうが関係無い」という言い方をするのではないかと思うのです。 また、シリーズが続くうちに、ホームズはしばしば聖書の一説や様々な文学作品の一節などを引用したりするのが描かれており、ワトソンのこのホームズ評はやはり間違っていたわけです(後で物語の設定を変えたとか単にドイルが忘れただけというのは『シャーロキアン』失格です)。 さて、私の場合は、仕事などである特定分野のものにかかることになると、その分野の専門家(というほどではありませんが)になるという癖があります。 例えば、昔は野外体験施設で働いていたことがあったので、そのときは自然観察に関係することに関心が高く、またそれなりに詳しくなりました。しかし、その後は今の施設管理の仕事をしていますので、危機管理や建築設備に関係することが詳しくなり、自然観察は忘れつつあります。 しかし、素地はあるのですから、何かのキッカケでまた自然観察系の仕事やそれに夢中になれば、たぶん復活する知識でしょうし、しかしその代わり、今度は施設管理系の知識を隅っこに追いやりそうな感じがしますね。 ですので、ホームズの場合も、せっかく今、苦労して積み上げた推理や観察の生活を、何か新しいものに夢中になってそちらに動くと、またイチからやりなおし、となるのが怖いのかな?と思ったり。 と、書いたところで思い出しましたのは、以前にも少し紹介しました「ツチノコ」でも有名な随筆家、故 山本素石さんは、その著書「完本・逃げろツチノコ」(筑摩書房)の中の「戦友往来」の中で、こう書かれています。 【前略】クラブ員に共通して見られる性癖は、思考能力の小児的集中と偏向であろうか。
・・・。ううむ、自分のことを言われているような気がする(笑)。【中略】 だが、わがクラブ員たちの困った特色は、餌のことが頭の一部を占めると、忽ちそれが人生の一大事に発展して、他のことはもう入る余地がなくなってしまう。一人がはいるともう満員になる便所みたいな頭脳構造の持ち主が威勢をふるっている。 たとえば、釣餌としての水生昆虫のことを考えだすと、その分類、生態、習性、分布状態と、次第に虫の世界に関心が移って、それを餌にして魚を釣るという最初の目的はどこかへけしとんでしまう。そして自分の年のことも忘れて、今から昆虫学者になろうと志を立てる。 そうなると、本職の方はうわの空で、暇さえあれば川の石をひっくり返してあさり歩く。そのうち、ふと手にした石のことが気になりだすと、これは花崗岩か、水成岩か、それとも安山岩か、あるいは盆石としてはどうかんど、虫のことを忘れて石に夢中になり、今から鉱山学を専攻するのは遅いだろうか、と大まじめに考えはじめる。 どうとも思案が決まらぬうちに、何気なく手折って持ち帰った水辺の花が、たまたま近所の花屋の目にとまって、 「珍しい花を持ってやはりますなァ。うちの店ではめったに置くこともできまへん。一本一〇〇〇円でもよう手に入れまへんヮ」 なんていわれると、昆虫や鉱物のような儲からぬガクモンに身を入れるよりも、ひとつ花屋でも開業してひと儲けしてやろうかという気になり、にわかに商売根性が頭を出す。しかし店を開くには金がかかるので、資金かせぎに野花の担ぎ屋から始めようかと、とつおいつ思案に耽っているうち、ある日、友人から電話があって、明日釣りに行かぬかと誘われる。そこでやっと釣りの気分に逆戻りすると、もう花屋のことなんか忘れてしまって、まっしぐらに餌を飼いに走ることになる。 しかし、この後、山本さんはこうも書かれています。 こういう連中の寄り集りだから、ツチノコの探検に出かけてツチノコが捕まらなくても、一向に悲観したり落胆したりする様子が見えない。腹いせというわけでもあるまいが、その辺に生えているワラビやゼンマイ、ヤマウドなどを摘み採る者、沢をうろついて珍しい石を拾う者、さては手製の毛鉤をとばして天魚釣りをする者など、結構目先をかえてあそぶことを知っている。気変りが早いのも、こういう時には救いにもなるもののようである。
私もそうですね。きれいな紅葉を見るために旅行に出かけた先で雨に降られたり既に紅葉が終わっていたりしても「じゃあ、風景を見るのはそこそこに、温泉でもゆっくり入ろう」「予定に無かったけど、博物館にでも行くか」と、ガッカリするということはまずありません。 目的ばかりに目がいくと、こういう失敗の話もあります。 「おれは釣りにいって、金を五十両釣り上げた」と一人が言う。「そんなら、おれもいこう」ともう一人が品川沖へ出、大きな鯛を釣り上げたが、針から抜いて海へ投げ、「いまいましい。うぬじゃない」
以前書いたように、何か高い目標や理想を掲げると、目の前の十分な目標や理想にも不満だったり関心を持たないということの笑い話ですね。(江戸小咄本「茶の子餅」より) そういえば、学生時代、知り合いの女性にあるタレントに熱狂して、「彼以外の男は考えられない。結婚したい。絶対に彼」などと公言してはばからないような人がいました。 私の友人が、これまた外見もまあハンサムといえる部類で頭も良く、性格も温和で優しいという男がいましたが、その彼が私が止めておいた方がいいと忠告したもののその女性に告白し、案の定、「彼以外は考えられない」として断られたというのを間近で見ていた思い出があります。 何年か前に彼に会った時は結婚して2人の父親になっていましたが、伝え聞く彼女は卒業後も違うタレントだのにうつつを抜かしたり、目の前の人間よりも自分の中で創り上げた「理想の彼 像」に夢中にある内にこもった性格のためか、独身だそうです。まあそれが幸せならばそれでいいのですが、たぶん、彼女は目の前にその夢中になっているタレントを連れて来ても、失望はしても喜ぶことはしなかったでしょうねえ。 ・・・あぁ、しまった。最初は「宇宙」に関する記事を見て感想を書こうと思ったのに、あっちこっちに話を飛ばして脱線してしまった。
まさに、「一人入ればもう満員の便所」みたいな私の頭脳(笑)。 |
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昨日、書いたように、私は一時期自然体験施設で働く機会があって、そこで出会ったホオジロやキジバトの行動を目の当たりにして感動したことや、それまで全く知らなかった野鳥たちのことを少しずつ知るにつれて、野鳥に興味を持つようになってきました。 そこで、ヘタながらも写真を撮り始めたころ、同僚の野鳥好きの指導教師に見せてもらったのが、この「WING 野鳥生活記」という写真集です。 小学館から出ていて、2,700円(税別)。 ところが残念なことに、既に絶版となっており、今はYahoo!オークションでたまに出るのを落札するか、古書店やAmazonで探さなければ入手できませんが、まだそれほど入手困難でもないと思います。 ちなみに、復刊ドットコムで、復刊を希望するという投票を求めています。 撮影したのは「和田剛一(わだごういち)」さんという方です。 …お名前をお読みになられて、何人の方が「あぁ、その写真集なら知っている」とか「あぁ、あの和田さん」とか、そういう反応をなされたでしょうか? 私は初めてこの写真集を手渡されたとき、普通に生活していて野鳥に少し興味が出てきた程度でしたが、正直、存じない方でした。 しかし、ページを開く前にこの表紙からして、いつも見慣れているはずのスズメたちの、愛らしいような中にも身を寄せ合って必死に生きている力強さを感じる写真に、圧倒され、すぐにページを進めました。 和田さんのすばらしいお写真は、和田さんのホームページでも拝見させていただけます。 私はこのたくさんの写真を拝見させていただいて、初めて、野鳥にも表情があること。そして感情があるということを確信したのでした。 そのころには私も、風景写真などをちょこちょこ撮っていて、コンテストで賞をいただいたり、写真家の方に自分のところで修行しないかとお誘いいただいていたころでしたので、この写真がいかに大変な時間と労力と機材と、そして何より、撮影者である和田さんがいかに深く野鳥をご存じで愛している優しい方なのか…ということがわかりました。 どのお写真も、例え私なんぞが同じ時間と機材を与えられようとも、到底撮影できないようなもの。「才能」というものや「感受性」などの容量などをまざまざと見せつけられたような感じがして、「ハハーッ!」と写真集にひれ伏したくなるほど感動しました。 こんなすごいお写真を2,700円でお分けいただけるなんて、本当にいいんですか!?安すぎませんか!?…って。 先に書いた「STVの女子アナ!!…と、男性アナたち」などという、(自分で買っておきながら言うのもなんですが、)こんなゴミみたいなDVDが、このすばらしい写真集「WING 野鳥生活記」よりも高いというのですから…いやはや。 …しかし同時に、漠然と「好きな写真で食べていけないかなあ」などと甘いことを考えていた私は、「この、自分などとはケタ違いにすさまじいお写真を撮る和田さんでさえ、一般に広く知られているわけでもない。ベストセラーになっているとも聞かない…。」と愕然としました。 つまり、ここまで撮影できる方でさえ、商売として十分以上に食べていけるかどうか?というわけで、比較にもならない自分がいかにお話しにならないのかをも冷静に教えてくれたのでした。 その後ネットで、たくさんの野鳥撮影家の方のお写真を見せていただく機会があり、たまたま拝見する機会を得たkochanさんの「花鳥茶屋@BLOG」を拝見したときにこの方も和田さんと同じくらいのお写真で驚き、プロの写真家の方かと思ってお尋ねしたところ、kochanさんはプロの方ではなく、しかし以前、和田さんに弟子入りを希望したけれども「貧乏だから」と断られたということでした。 kochanさんほどの写真を撮影できる方でもプロをあきらめ、和田さんのような方でも写真だけで十分な生活をできているわけではないらしい…。 これほどのお写真を撮影でき、見せてくださる方が十分な対価を得られないというのは、なんともこの国はこういう才能には冷酷というか無礼な国・文化レベルなのだな、と無性に腹立たしくなった覚えがあります。 それは、すばらしい芸術家・努力家、啓蒙家…が育ちにくいという公憤と、私の夢みたいなものを閉ざされる環境という私憤と両方の意味で。 そう思ったので、仕事として収入を得られるかどうかと考えるのはさっさと諦め、しかし、野鳥が安心して豊かな表情や営みを見せてくれるまでの信頼関係を築けるような、敏感な野鳥がその人間の心根を読み取ったときにそこにいることを許してくれるような人間性豊かな人間になりたいな、と思いつつ7年、全く進歩の無い人間性で今に至っております(←ダメじゃん)。 野鳥や動物の写真では2通りあって、野鳥の姿・特徴をうまく撮影できている「記録写真」「生態写真」と、それらの要素も多少ありつつも「表情」「感情」をも表現している…なんというか「作品」がありますね。 前者は、時間と機材と研究で何とか誰でもある程度のレベルの撮影はできるようになるのかもしれませんが、後者は、野鳥や動物に対する愛情や好奇心や、その場の雰囲気との同化というか、そういった「場との一体化」「撮影者の心の豊かさ」があふれていなければ、到底撮影できるようなものではないと思います。 |
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しかし、これらの雑誌に対しての私の論評は、「参考になっても、信頼性が低い」というのが正直なところです。 なぜなら、最新情報を得たり、デモ機を借りたりということで、
ということが事実としてあるからです。 デジタルカメラの購入のためにこれらの雑誌で「各社新モデル比較テスト」なる記事が掲載されたとしても、メーカー側に都合が悪い情報、逆に言えばユーザー=読者側にどれだけ有益な情報が得られるか、大いに疑問と感じるところは、
というところからです。 「スポンサー様」の意向を、広告収入源が大きな収入源である雑誌社が無視するはずは無いと思うわけです。 そういう偏見?先入観?があるからでしょうか、「辛口テスト」などと見出しにあっても、「どこが辛口やねん」と関西弁でツッコミたくなるようなソフト路線に見えてしまいます。 そんな中、今日ぶらりと立ち寄って書店で何気なく手に取った雑誌がこちら、「家電批評VOL.1」(晋遊舎)です。590円でした。 この雑誌に何に驚いたか?と言えば、雑誌なのに広告が表紙の裏と、裏表紙の両面だけということです。しかも、記事中には関係ない腕時計などの広告。 もちろん、中古車購入雑誌やヨドバシカメラの情報誌のような「売り手側の作る雑誌」ではありません。 そのためでしょうか、冒頭から、具体的な番組・提供社名をあげて「テレビショッピングは本当に安いのか!?」などという記事からあって、遠慮無く「本体が安くとも、余計な出費がかさむ」「抱き合わせ商法」という過激な言葉が出てきます。ちょっと記事のスタンスが私と似ていて親近感(笑)。 もちろん、頭からこれも信用できるとは限りませんが、少なくとも今まで私が見てきた家電などの情報誌に比べれば、大いに参考意見にはなりそうです。
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私は昔から「シャーロック・ホームズ」シリーズが大好きで、「観察と推理の違い」や、「ただ見ているだけと、観察することの違い」などは、幼少時にホームズから学びました。 後年、野生動物のフィールドサインを見つけ追跡したり、何気ない自然現象に興味を持ったり、施設管理の仕事をしていて異常を察知して対処方法を瞬時に採ることができるのは、そんな幼少時の読書に原点があるかもしれません。 私の読んだシャーロック・ホームズシリーズは、新潮社から出ている文庫で、延原謙さんの訳のものです。 この文庫でシャーロック・ホームズに親しんだ方も、多いのではないでしょうか?19世紀末への情景を思い浮かばせるには十分の、実に名訳です。 さて、その中の1冊「シャーロック・ホームズの思い出」に収録されている「株式仲買店員」という作品です。 経理士「アーサー・ピナー」を名乗る謎の男が、後でこのことをホームズに相談しにきた依頼人・ホール・パイクロフト氏の元を訪問した際に、パイクロフト氏がピナーからのスカウトを承諾し、その前に決まっていた就職先「モウソン」に手紙で内定を断るというのをピナーが止める、というくだりがあります。 『それが困るから尋いてみたのです。私はモウソンの支配人と口論しましたよ。じつは君のことを問いあわせに行ってみると、失礼なヤツですね、うまい口車か何かで君を騙して引きぬいてゆく気だろうの何のと、あんまりなことをいうものだから、私も腹にすえかねて、そんなに役に立つ人物なら俸給だって立派に出したらいいじゃないか、といってやりますとね、あの男は君のところなんかで高い俸給をもらうよりは、給料は安くともこっちで働きたがっているのさといいます。 こっちも負けてないで、へん、あの男はひと言こっちから話しさえすれば、こんな店なんかけとばしちまうに決まっているんだから、五ポンド賭けてやらあ。すると向こうも、よし、いったな!おれのほうじゃ溝から拾いあげてやった男なんだ。そうやすやすと逃げだす気づかいはないさ、といういい草です』 『何という失敬な!モウソンの支配人だなんて、私は会ったこともないのに!私がどうしようと、そんな奴からかれこれいわれる道理はありませんよ。あなたがそのほうがいいとおっしゃるんなら、誰が手紙でことわったりなんかするもんですか!』 …よく読むと、変だと思いませんか? 上記を読むと、「ピナー」と名乗る男は、パイクロフト氏が手紙を出そうというのを止めた理由として、「モウソンの支配人とピナーが、パイクロフト氏に自分が良い条件を出して誘った場合、モウソンを断るか否かを(=けとばしてしまうに決まっている、いや、ドブから拾った恩義で逃げ出さないはずだ、という点で)賭けているから」と言っています。 この理由であれば、止めずに、パイクロフト氏がモウソンの支配人に断りの手紙を出した方が、「モウソンを蹴とばした」ことになり、賭けがピナーの勝ちと証明できるはずなのです。 なぜ、こんな理由でパイクロフト氏が「誰が手紙でことわったりなんかするもんですか!」と言うのか、私は昔から理解できませんでした。 ところが原文を読むと、この「モウソン支配人」と「ピナー」の言い争うくだりは以下のとおりです。 "'He would rather have our small price than your big one,' said he. "'I'll lay you a fiver,' said I, 'that when he has my offer you'll never so much as hear from him again.' "'Done!' said he. 'We picked him out of the gutter, and he won't leave us so easily.' Those were his very words."''' 思いっきり意訳すれば、 「モウソンの支配人が『パイクロフトは、うさんくさいお前んとこの高給なんかよりも、信用あるウチの安月給を選ぶはずさ』と言うものですから、私も『そんなこと、あるものか。5ポンド賭けてもいい、私が彼に好条件でひと声かければ、こんなとこなんかにもう二度と彼から連絡してくることは無いだろうよ』と言ってやると、『何だと!こっちは野郎がドブに落ちてもがいているところを拾ってやったんだ。逃げ出しっこないさ』と、言い争いをしたのです」 と、いう感じでしょうか。 つまり、延原さんの訳ですと、「パイクロフト氏がピナーの誘いに乗るか否か(モウソンへの就職を断るか否か)」が賭けの対象と読めるのですが、実際は賭けの方法は「パイクロフト氏からモウソンに連絡があるかないか」という内容なわけです。ですから、それが例え「断りの手紙」であっても、「パイクロフト氏がモウソンに連絡する」と、ピナーは賭けに負けてしまうから、というのが真相なのですね。 …と、偉そうに英語を訳したようなことを言っていますが、実は単に、先日知恵袋で「lancepierres」さんに教えていただいて、長年の軽い疑問が解けたわけです(笑)。
疑問に感じていたことを何十年も放置していたようでは、まだまだ私はホームズには到底及びませんね。 |




