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〔『ただいま熟成中』:『熟成庫』・『サントリー山崎蒸溜所』(大阪府三島郡島本町山崎五丁目2番1号)にて〕 『サントリー山崎蒸溜所』:『マッサン』(竹鶴政孝)が造った「本邦ウイスキー発祥之地」で、乾杯(笑)・・・^〜^v:(大阪府三島郡島本町山崎五丁目2番1号)〔2014.12.10〕 とある今月の初旬(12/10)はあっちこっちと無料参観・見学の一日、 朝一番で、今年最後の『桂離宮』(京都府京都市西京区桂)参観。 そのあと、『サントリー京都ビール工場』(京都府長岡京市)見学で、 出来立てビールで乾杯。 最後は、京都府下で最も面積の小さい町『京都府乙訓郡大山崎町』に隣接する 『大阪府三島郡島本町』にある『マッサン』が造った『サントリー山崎蒸溜所』。 この地は、かつて『千利休』が茶室を設けた場所であり、 古くから「水生野」(みなせの)と呼ばれ名水の地であり、 また、『宇治川』・『木津川』・『桂川』の三つの河川が合流するため、 霧が立ち込めるウイスキーづくりの立地条件に適した地理。 そして、皆さんご存知のように、 スコッチ・ウイスキーの本場スコットランドでウイスキー製造を学んだ 『竹鶴政孝』(マッサン)を山崎蒸溜所長として、 当時の『寿屋』(現、サントリー)創業者である『鳥井信治郎』が招聘し、 1923年、日本初のモルトウイスキー蒸留所として開設した工場。 それでは、ご一緒にマッサンが日本で初めて造った蒸留所の 今をお楽しみください(笑)・・・^〜^v 【訪問時期:2014.12.10】 【山崎蒸溜所】(やまざきじょうりゅうしょ、SUNTORY YAMAZAKI DISTILLERY)は、 大阪府三島郡島本町山崎五丁目2番1号にあるサントリー酒類のウイスキー蒸留所である。 同蒸溜所では、同社のシングルモルトウイスキーの主力銘柄である「山崎」を生産している。 サントリーでは、山崎を「水生野」(みなせの)と呼ばれた名水の地だとしている (近くの水無瀬神宮には名水百選にも選ばれた離宮の水が湧き出ているように 古くから名水の地として有名である)。 また、山崎はかつて千利休が茶室を設けた場所であり、 水質の良さと3つの川(宇治川、木津川、桂川)が合流するために霧が立ち込めている立地が ウイスキーづくりに適しているとされる。 この山崎の地に、1923年、寿屋(現・サントリーホールディングス)によって 日本初のモルトウイスキー蒸留所として開設された。 寿屋創業者・当時の社長である鳥井信治郎は、本格的なウイスキー製造を目指し、蒸溜所開設を企画し、 1923年、スコッチ・ウイスキーの本場スコットランドでウイスキー製造を学んだ竹鶴政孝を招聘、 山崎蒸溜所長に任じたのである。 この際、竹鶴は日本におけるウィスキーづくりの好適地は北海道であることを訴えるが、 鳥井は輸送コストがかかることに加え、工場見学を消費者にしてもらうことを考えていたため、 工場の位置だけは京阪神付近の交通の便が良い所で良い水のある場所にするように命じ、 それ以外のことは竹鶴に任せたとされる。 竹鶴時代の1929年に、山崎蒸溜所は日本初のウイスキー(ジャパニーズウイスキー)「白札」を 製造・出荷した。 竹鶴は10年の契約期間が終了した際、鳥井との基本的な方向性の違い (竹鶴は経営的には不利でも北海道に蒸溜所を作りたかったことなど)もあり 契約を更新せず寿屋を退社し、 北海道余市郡余市町に大日本果汁(のちのニッカウヰスキー)を興している。 山崎蒸溜所建設の準備資料や設計図「壽屋スコッチウヰスキー醸造工場設計図」は、 初代所長・竹鶴政孝の遺品中に発見され余市蒸留所のウイスキー博物館で展示されている。 またサントリーがオーナーを務めているボウモアディスティラリーを通じて イギリス国内でも販売されている。 【おまけ】 「ありがたき すがたおがまむ 杜若(かきつばた)」 『芭蕉』(貞永四年・1687年) 俳諧の祖『山崎宗鑑』を没後訪ね、敬意を表して詠んだ一句 【山崎 宗鑑】(やまざき そうかん、寛正6年(1465年)? - 天文23年10月2日(1554年10月28日)?)は、 戦国時代の連歌師・俳諧作者。近江国の出身とされるが、 本名・出自については諸説ある。 近江国栗太郡志那村(後の常盤村、現草津市志那町)に生まれ、 佐々木義清の裔で志那弥三郎範重と言い、 幼少時より室町幕府9代将軍足利義尚に仕え(近習とも祐筆とも)、 一休禅師とも親しくよく連れ立って志那に来たと伝えられている。 義尚が鈎の陣で没した(延徳元年、1489年)後世の無常を感じ出家した。 摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山城国(摂津国?) 山崎に庵「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。 現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。 大永3年(1523年)ごろ山崎の地を去り、 享禄元年(1528年)に讃岐国(香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」を結びそこで生涯を終えた。 「一夜庵」の名は宗鑑が長居の客を厭い一夜以上の宿泊を断ったからといい、 建物は修復を重ねながら現地に残されている。 最初連歌師を志し宗祇・宗長等と交わったが、 滑稽機智を主眼とし天性の洒落気を持つ宗鑑には貴族的で伝統を重んじる連歌の世界は肌に合わず、 より自由な俳諧の世界へと足を踏み入れた。 当時俳諧は未だ連歌から完全に独立したものではなく、連歌の余興として扱われていた。 保守的な連歌師は宗鑑の作風と俳諧を卑属・滑稽と哂ったが、 宗鑑は「かしましや 此の里過ぎよ 時鳥 都のうつけ 如何に聞くらむ」と逆に哄笑し、 より民衆的な色彩の中に自己の行く道を見出し、 座興として捨てられていた俳諧を丹念に記録・整理して俳諧撰集の草分けである「犬筑波集」を編み、 俳諧を独立した芸術として世間に公表した。 俳諧撰集「犬筑波集」の自由奔放で滑稽味のあるその句風は、 江戸時代初期の談林俳諧に影響を与え、荒木田守武とともに、俳諧の祖と称される。 (旧暦)天文23年10月2日(1554年10月28日)一夜庵で「ヨウ(できもの)」を患いそのために命を失い、 辞世は 「宗鑑は いづくへと人の 問うならば ちとよう(ヨウ)がありて あの世へといへ」。 |
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2014年12月27日
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