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〔『Cliff Walk at Pourville, 1882』:『Gallery 240』・ 『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)にて〕 Claude Monet French, 1840-1926
Oil on canvas: 66.5 x 82.3 cm (26 1/8 x 32 7/16 in.)
【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 シカゴ美術館の『モネ』(Claude Monet):『Cliff Walk at Pourville, 1882』:『Gallery 240』・『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)〔2014.10.01〕 昨年10月に、『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)を 訪れた際の絵画を時々ご紹介できればと思います。 この美術館は、フラッシュを使わなければ個人的な撮影は 大丈夫です☆彡 日本では、特に多くの『睡蓮』を描いた作品で有名な フランスの画家『クロード・モネ』(Claude Monet)。 その彼の多くの作品の中でも、僕が最もお気に入りの作品が、 この『Cliff Walk at Pourville, 1882』。 作品の構図や構成、色彩などの表現が 綿密に計算・考察されている上に、 同時期は彼の人生にとってのも重要な時であったに違いません。 では、僕のお気に入りの作品をお楽しみください。 . 【つづく】 〔訪問時期:2014.10.01〕 In February 1882, Claude Monet went to Normandy to paint, one of many such expeditions that he made in the 1880s. This was also a retreat from personal and professional pressures. His wife, Camille, had died three years earlier, and Monet had entered into a domestic arrangement with Alice Hoschedé (whom he would marry in 1892, after her husband's death). France was in the midst of a lengthy economic recession that affected Monet's sales. In addition, the artist was unenthusiastic about the upcoming seventh Impressionist exhibition—divisions within the group had become pronounced by this time—and he delegated the responsibility for his contribution to his dealer, Paul Durand-Ruel. Disappointed in the area around the harbor city of Dieppe, which he found too urban, Monet settled in Pourville and remained in this fishing village until mid-April. He became increasingly enamored of his surroundings, writing to Hoschedé and her children: "How beautiful the countryside is becoming, and what joy it would be for me to show you all its delightful nooks and crannies!" He was able to do so in June, when they joined him in Pourville. The two young women strolling in Cliff Walk at Pourville are probably Marthe and Blanche, the eldest Hoschedé daughters. In this work, Monet addressed the problem of inserting figures into a landscape without disrupting the unity of its painterly surface. He integrated these elements with one another through texture and color. The grass—composed of short, brisk, curved brushstrokes—appears to quiver in the breeze, and subtly modified versions of the same strokes and hues suggest the women's wind-whipped dresses and shawls and the undulation of the sea. X-radiographs show that Monet reduced the rocky outcropping at the far right to balance the proportions of sea and sky. |
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〔『霞棚』(かすみだな):『中離宮』・『修学院離宮』(京都府京都市左京区修学院)にて〕 2.『修学院離宮』【卯月】:『中離宮』明治時代に返還・編入された門跡尼寺『林丘寺』(りんきゅうじ)の一部は、優美な女性の宮廷文化が伝わる離宮・・・^〜^v:(京都府京都市左京区修学院)〔2015.04.24〕 もう早くも2週間近く前の良く晴れた日(4/24)、 京都・洛北、東山連峰の山裾に造られた 『下離宮』・『中離宮』と『上離宮』の三つの離宮が、 田園の中に点在する『修学院離宮』。 参観コースに従って、 『下離宮』から、新緑の松並木道を経て『中離宮』へ。 水尾上皇の皇女の御所が前身の門跡尼寺『林丘寺』(りんきゅうじ)の一部が、 1885年(明治18年)に返還・編入された『中離宮』。 朱宮御所の一部だった『楽只軒』(らくしけん)と、 女院御所から移築された『客殿』の二つの建物とお庭からなり、 「天下三棚」のひとつとして言われる『霞棚』(かすみだな)はじめ、 女性の宮廷美を伝える優美な空間。 春の離宮さんぽ、 それでは、参観コースに従って、 元は、尼寺の一部だった『中離宮』を ご一緒に楽しみましょう・・・^〜^v . 【つづく】 〔訪問時期:2015.04.24〕 【中離宮】 後水尾上皇の第8皇女『光子(てるこ)内親王』のために1668年(寛文8年)造営された 『朱宮(あけのみや)御所』が前身である。 朱宮御所は上皇の死後、『林丘寺』(りんきゅうじ)という寺に改められた。 1885年(明治18年)、『楽只軒』(らくしけん)と『客殿』を含む、 林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、 修学院離宮の一部となった。 『楽只軒』は、前述の朱宮御所の一部で、1668年(寛文8年)頃の造営である。 書院造の『客殿』は、1677年(延宝5年)造営された『東福門院』(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の 女院御所の奥対面所を移築したものである。 客殿一ノ間の『霞棚』は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる。 他に表門、中門、瓦葺の総門(もと林丘寺の総門であった)がある。 【客殿】 楽只軒の南東に接して建つ。 東福門院の女院御所の対面所を移築したものである。 楽只軒より客殿の方が若干高い地盤上に建っており、 楽只軒南東の板縁と客殿入側の間は矩折に位置する2つの階段で結ばれている。 階段は楽只軒側が4段、客殿側が3段で、段差が一定の高さでない、特異な階段である。 建物は入母屋造、杮葺とし、南面と西面に1間幅の入側(畳縁)があり、その周囲に板縁をめぐらす。 西側の南が「一の間」、その東が「二の間」、その北が「三の間」で、 一の間の北には仏間(御内仏の間)がある。 一の間は12畳で、北側西寄りに床(とこ)、その東に幅1間半の棚を設ける。 棚は5枚の欅板を高さを違えて設置し、霞のたなびく様に似ることから「霞棚」と称され、 桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに天下三名棚の一とされる。 棚の下方の地袋には友禅染の張り場の風景を描く。 その上には細長い三角棚がある。 地袋小襖の引手は羽子板形、三角棚の小襖の引手はぶりぶり(玩具の一種)形である。 床壁の腰貼りは群青と金箔の菱形を交互に並べた幾何学文で、襖の腰貼りも同様である。 床、棚、襖を通して金泥で雲を描き、その上に和歌・漢詩と水墨画の色紙を貼り交ぜている。 和歌は親王公家、漢詩は五山僧の筆になるものである。 室内の長押には七宝の釘隠14個がある。 二の間は10畳で、狩野永敬の四季絵がある。襖の引手は尾長鳥丸紋のデザインとし、 長押には七宝の竹葉形釘隠8個がある。 南側の畳縁の杉戸には一の間側に鯉と鮒、二の間側に大鯉を描く。 これらの魚の絵には画面全体を覆うように漁網の網目が描き込まれ、 網目がところどころほつれている様子も描写されている。 伝承では、この魚たちが夜な夜な絵から抜け出して庭の池で泳ぐため、漁網を描き加えたという。 他に10畳の「三の間」と6畳の「仏間」があるが、 後者は女院御所を当地へ移築した後に付け加えたものである。 仏壇上方の欄間は波の文様を下向きに表したもので、「逆波の欄間」という。 仏間北側には鉤の手に板縁(榑縁)を設けるが、 その手摺の意匠は斜めの直線数本を組み合わせた独特のもので、「網干の手摺」と称される。 西面入側の北端、楽只軒に通じる階段との境の杉戸には祇園祭放下鉾と岩戸山を描き、 これらの裏面には2枚続きで祇園祭の船鉾を描く。 【楽只軒】 瓦葺、杮庇の建物。 軒名は『詩経』の「楽只君子万寿無期」によるもので後水尾院の命名である。 ほぼ正方形平面で、南面と東面に板縁を設ける。 主たる部屋は東側の「一の間」とその西、建物中心部に位置する二の間である。 一の間は6畳で北側に床(とこ)を設け、床壁貼付と、 その西の壁貼付の絵は狩野探信の「吉野山桜図」である。 二の間は8畳で、西面南寄りの壁貼付絵は作者未詳の「竜田川紅葉図」である。 一の間・二の間境の長押上の「楽只軒」の額は後水尾院の筆になる。 一の間の南には3畳の入側、二の間の南には4畳の入側がある。 このほか、建物の西側に5畳間と2畳間、北側に6畳間、5畳間、納戸(2畳)がある。 |
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