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〔『新島襄旧邸』(京都府京都市上京区寺町通丸太町上ル松陰町1)にて 〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 『新島襄旧邸』:『函館』つながりで、『同志社』創立者『新島襄』の旧邸をご紹介・・・^〜^!:(京都府京都市上京区寺町通丸太町上ル松陰町1)にて〔2017.04.27〕 こんばんは〜! 先月は、『北海道・道南』と『九州・島原』との二か所も旅したため ご近所の記事から遠ざかってしまっていましたので、 すこし気分転換に、京都の記事をお楽しみください^^v 連休前の4/27は、毎春楽しみの『京都御苑』内にある『仙洞御所』の藤の花を その帰り道、御苑近くの『新島襄旧邸』が一般公開されていましたので、 寄り道してみました☆彡 彼は、元治元年(1864年)『函館港』から上海経由で『米国』へ志を持って密航し、 宣教師として帰国後、『同志社』を興した明治六大教育家のひとり☆彡 また、彼の妻『新島八重』は、NHK/2013年大河ドラマ『八重の桜』でも紹介され、 皇族以外ではじめて政府より受勲した女性☆彡 それでは、八重桜咲く候の『新島襄旧邸』をお楽しみください☆彡 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 新島旧邸は、京都市上京区にある、同志社創立者 新島襄の旧邸。 外観に洋風を取り入れた和洋折衷の住宅で、1878年に竣工した。 学校法人同志社が所有・管理している。京都市指定有形文化財。 京都御苑の東南、寺町通丸太町に位置するこの邸宅の敷地は、1875年に同志社英学校が開校した土地であり、「同志社発祥の地」とされている。 |
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〔『旧函館区公会堂』:(北海道函館市元町11-13)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 3-4.『函館・歴史さんぽ』:『函館山』の麓に残る、明治期の面影を訪ねて坂の町さんぽ・・・^〜^v:(北海道函館市元町)〔2017.05.08〕 もう先月の思い出になってしまった、 連休の終わりの頃(5/6)にスタートした 今年三回目の北海道旅行 『道南の春を楽しむ級友との二人旅』☆彡 第3日目は、旧陸軍が『津軽要塞』として、 半世紀の間、民間人は入れなかったため、 手付かずの山野草花豊かな『函館山』さんぽを楽しみ、 その帰り道は、『函館山』の裾野に残る 海産物交易の集積地として栄えた港町『函館』の 明治期の建物を訪ねる歴史さんぽ☆彡 海に向かって栄えた坂の町『函館』に残る 歴史的な建物を巡って、 天候にも恵まれた函館山さんぽのフィナーレを ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【第3日目】(5/08) 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 新島 襄(にいじま じょう 英字表記:Joseph Hardy Neesima、天保14年1月14日(1843年2月12日) - 明治23年(1890年)1月23日)は日本の宗教家、教育者。 学位は理学士。 同志社英学校(後の同志社大学)を興した。 明治六大教育家の1人に数えられている。 元服後、友人から貰い受けたアメリカの地図書から、アメリカの制度に触れ、憧れを持つようになる。 その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。 ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船していたこともあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ。 元治元年(1864年)、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かう。 箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。 ニコライは新島から日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ彼に自分の弟子になるよう勧めたが新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に新島の密航に協力した。 6月14日(7月17日)、箱館港から米船ベルリン号で出国する。 上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った。 慶応元年(1865年)7月、ボストン着。 ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学することができた。 古来函館は、和人による侵略統治を受ける前までは、先住民の先住地であった。 縄文時代には7千年に渡り独自の文化が栄え、続縄文時代前期にはオホーツク海側の宇津内文化等とは異なる「恵山文化」が渡島半島から石狩低地域まで広っていた。 現在の函館市はその恵山文化のなかでも縄文系弥生文化に属する(大陸系弥生文化ではない)東北北部の弥生文化が広がった。 たとえば続縄文時代の碧玉製管玉の出土はその例である。 箱館は、江戸時代から松前、江差とともに「松前三港」または「蝦夷三湊」と和人に呼ばれるなど天然の良港として知られてきたところで、海産物交易の集積地として栄えてきた。 1799年(寛政11年)、江戸幕府はロシアの南下に対して蝦夷地を直轄領とし、箱館に奉行所が置かれることになった。 1854年(安政元年)、日米和親条約の締結により幕府は箱館と下田の開港を決定、1859年(安政6年)には長崎、横浜とともに日本国内初となる対外貿易港として開港した。 当初は箱館でも出島方式の外国人居留地が計画されたが失敗に終わって市中に混在することになり、それが異国情緒豊かな街並みとして残り現在に至っている。 明治時代になると箱館から「函館」へ改称して開拓使函館支庁が置かれ、函館県庁、北海道函館支庁と変遷していき、周辺には外国公館や公会堂が建ち並んでいった。 函館のまちはしばしば大火に見舞われているが、1878年(明治11年)と1879年(明治12年)に起こった大火による復興のための市区改正事業により、幅員20間の防火線街路として二十間坂と基坂を拡幅し、幅員6間や12間の街路が直通して矩形の街路が誕生した。1907年(明治40年)、1921年(大正10年)大火後の復興では、1階が和風建築で2階が洋風建築の和洋折衷建築が多く建てられ、函館の特徴的な景観になっている。 1905年(明治38年)に調印されたポーツマス条約によって日本が北緯50度以南の樺太を獲得し、ロシアが日本海、オホーツク海、ベーリング海の漁業権を許与すると、昭和の戦前期にかけて北洋漁業基地として最盛期を迎えた。戦後直後から1952年(昭和27年)まで北洋漁業ができなかったが、その間にイカ釣り漁と加工業が台頭した。 北洋漁業の将来に不安のあった函館市は「工業生産都市」への転換を計ろうとするが、オイルショックによって「工業都市化」や「経済開発」重視から市民の「生活環境」重視へと転換していった。特に、函館山の自然保護と歴史的環境を活用した観光政策に大きな力を注いでいった。また、函館の地域特性を活かすため、2003年(平成15年)に「函館国際水産・海洋都市構想」を策定、「マリン・フロンティア科学技術研究特区」として構造改革特別区域に認定されるなど、産学官の連携強化による新たな都市形成を目指している。 |
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