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〔『慌て者・曼珠沙華』:『生産の森』・『自然文化園』:『万国博覧会記念公園』(大阪府吹田市千里万博公園1-1)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 『小さな秋さがし』:今年初めての秋色・可愛い実りとの出逢い、猛暑も頑張った名残の夏花たち・・・^^v:『自然文化園』:『万国博覧会記念公園』(大阪府吹田市千里万博公園1-1)〔2018.08.16〕 お盆過ぎて、台風もやって来たのに、 まだまだ昼間は猛暑が続く8月も明日が最終日! もう二週間も前に出掛けて見つけた 今年初めての秋色と小さな実りを やっとご紹介^^v お盆が明けた途端にいきなり飛び出してきたのは 慌て者の『彼岸花』! そして、ゆっくり成長中のまだまだ青い可愛い『ドングリの赤ちゃん』と 果物の子供たち! お花の少ない猛暑中を咲き誇ってくれたお花たちも そろそろ名残の候となってしまいました! それでは、二週間前(8/16)のくそ暑かった『万博公園』を ゆっくりお楽しみください・・・^〜^v 【万国博覧会記念公園】 |
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2018年08月30日
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〔『根本大塔』(こんぽんだいとう):『壇上伽藍』(だんじょうがらん)・『金剛峯寺』(こんごうぶじ)・『高野山』(和歌山県伊都郡高野町高野山)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 4.【高野参り】:3『壇上伽藍』(だんじょうがらん)真言密教の根本道場のシンボル『大塔』(だいとう)から、『西行法師』手植えの桜を通り抜けて、『蛇腹路』(じゃばらみち)へ・・・^〜^!:『大塔』(だいとう)・『不動堂』(ふどうどう)・『東塔』(とうとう)他:『壇上伽藍』(だんじょうがらん)・『金剛峯寺』(こんごうぶじ)・『高野山』(和歌山県伊都郡高野町高野山)〔2018.08.08〕 猛暑の『伊勢参り』を始点に、土砂降りの『那智山』を経て、 今回の『紀伊半島』の聖地めぐりの最終地は 『空海』(弘法大師)が修禅の道場として開いた 『高野山』(こうやさん)☆彡 その一段高い土地にある『空海』が在世中に堂宇を営んだ 曼荼羅の道場が『壇上伽藍』(だんじょうがらん)と呼ばれるエリア☆彡 『壇上伽藍』の諸堂塔は、大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建されていますが、 今も、真言密教の道場としての高野山の中核エリアです! それでは、『空海』が『法界体性塔』とも呼んだ真言密教の根本道場のシンボル 『根本大塔』(こんぽんだいとう)をはじめ 『壇上伽藍』東部エリアの各諸堂をご案内いたします・・・^〜^v . 【つづく】 壇場とは曼荼羅の道場の意。伽藍地が一段高い土地にあるため、一般には「壇上伽藍」と表記される場合が多い。高野山内の西寄り、金堂、根本大塔、西塔、御影堂などの立ち並ぶ一画で、高野山の聖地の1つである。ここは、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建であるが、真言密教の道場としての高野山の中核となる部分である。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%B3%AF%E5%AF%BA お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。 出典: http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#daito 根本大塔 - 金堂の右後方にある多宝塔(1階平面が方形、2階平面が円形の二重塔)。1937年(昭和12年)、空海入定1,100年を記念して再建したもので、鉄筋コンクリート造である。内部正面の梁には昭和天皇宸筆の勅額「弘法」が掲げられている。中央に胎蔵大日如来像、その四方に金剛界四仏を安置する。塔内の柱などに描かれた仏画は堂本印象の筆である。本来別々の密教経典に説かれている「胎蔵曼荼羅」の仏像と「金剛界曼荼羅」の仏像を一緒に安置するが、これは、両者は根本的には1つだという、空海の思想を表したものといい、「根本大塔」という建物名もこれに由来するという。内部の柱には十六大菩薩、壁面には真言八祖像が堂本印象によって描かれている。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%B3%AF%E5%AF%BA 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 建武元年(1334年)、後醍醐天皇の綸命(りんめい)によって四海静平(しかいせいへい)、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)を祈るために建立されました。本尊は愛染明王で、後醍醐天皇の御等身といわれています。昔はこのお堂で不断愛染護摩供(ふだんあいぜんごまく)や長日談義(ちょうじつだんぎ)が行われ、「新学堂」とも呼ばれました。このお堂も何度か罹災し、現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建されたものです。 出典: http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#aizendo 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 建久8年(1197年)、鳥羽上皇の皇女である八條女院(はちじょうにょいん)内親王というお方が発願され、行勝(ぎょうしょう)上人によって建立されました。もともと一心院谷(現在の金輪塔<きんりんとう>所在地付近)に建てられていましたが、後世になって伽藍へ移築されました。現在の建物は14世紀前半に再建されたものです。お堂の四隅はすべて形が違い、四人の工匠(こうしょう)がそれぞれの随意に造ったためと伝えられています。当初は阿弥陀堂であったと推定されていますが、後に不動明王を本尊とし、八大童子(はちだいどうじ)が奉安されました。この八大童子は運慶の作として有名で、現在は霊宝館に収められています。 出典: http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#fudodo 鳥羽法王の皇女である五辻斎院(ごつじさいいん)内親王というお方が、父帝の追福のため建立されました。もとは別の場所に建立されていたのですが、長日不断談義(ふだんだんぎ)の学堂として壇上に移し、蓮華乗院(れんげじょういん)と称するようになりました。後にこの論議は衰退し、現在では法会執行の際の集会所的役割を担うようになりました。現在の建物は嘉永元年(1848年)に再建された五間四面のお堂。 出典: http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#daiedo 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 済高(さいこう)座主(870年〜942年)が延長7年(929年)に建立されたお堂で、もともと総持院(そうじいん)境内に存在していました。済高師はこのお堂で「理趣三昧」という儀式を執り行っていたため、三昧堂と呼ばれるようになりました。後に壇上へ移されるのですが、修造にかかわったのが西行法師だと伝えられています。三昧堂の前の桜は、西行法師手植えの桜として、西行桜と呼ばれています。伝説にはこのお堂を修造した記念に植えられたそうです。現在の建物は文化13年(1816年)の再建です。 出典: http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#sanmaido 大治2年(1127年)、白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正(だいごさんぼういんしょうかくごんのそうじょう)によって創建されました。当初は上皇等身の尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)が本尊として奉安され、不動明王、降三世(ごうさんぜ)明王の二体も脇侍(きょうじ)としてまつられました。天保14年(1843年)に焼失してからしばらくの間再建されず、140年たった昭和59年(1984年)にようやく再建されました。 出典: http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#toutou 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 東塔より東へ少し行くと、小さな廟がひっそりとたたずんでいます。この廟は、お大師さまの甥である智泉大徳(ちせんだいとく 789年〜825年)の御廟です。幼い頃より非常に優秀で、お大師さまに随従し、後には入唐も果たされましたが、37歳の若さで入寂されてしまいます。お大師さまはこれを大いに悲しまれ、お墓を築かれたのでした。 出典: http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#chisenbyo 伽藍入り口から東塔東側付近までのびる小道を「蛇腹路」と呼びます。高野山はお大師さまが「東西に龍の臥せるがごとく」と形容され、壇上伽藍を頭として現在の蓮花院(れんげいん)までを龍が臥している形に例えたのでした。そして、ちょうどこの小道が龍のお腹付近にあたることから蛇腹路と呼ばれるようになりました。 出典: http://www.koyasan.or.jp/meguru/sights.html#jabaramichi |
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