3.『如己堂』(にょこどう):結核のX線検診に従事し自ら被曝による白血病を発症後、長崎市で原子爆弾の爆心地近くで被爆し重傷を負うも救護活動にあたった『永井 隆』所縁の建物訪問:〔2018.10.06〕
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〔『如己堂』(にょこどう):『長崎市永井隆記念館』(長崎県長崎市上野町22-6)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 3.『如己堂』(にょこどう):戦時中フィルム不足で透視による結核のX線検診に従事し自ら被曝による白血病を発症し、その二か月後 長崎市で原子爆弾の爆心地近くの長崎医大の診察室にて被爆し右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった『永井 隆』(ながい たかし)が白血病の療養をしていた建物訪問!:『長崎市永井隆記念館』(長崎県長崎市上野町22-6)〔2018.10.06〕 『長崎県』の『島原半島』の南西端部にある 『雲仙市お試し住宅』でのい週間の移住体験 第三日目(10/6)の旅日記^^v 『台風25号』が九州に接近中のこの日は、 『長崎市永井隆記念館』訪問☆彡 『永井 隆』(ながい たかし、1908年(明治41年)2月3日 - 1951年(昭和26年)5月1日)は、 『長崎の鐘』や『この子を残して』等の著書がある 日本の医学博士、随筆家☆彡 戦時中、フィルム不足で透視による結核のX線検診に従事し 自ら被曝による白血病を発症! そして、長崎市で原子爆弾の爆心地近くの長崎医大の診察室にて被爆し 右側頭動脈切断という重傷を負うも、 布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。 その後、浦上の人たちやカトリック教会の協力により、 『如己堂』(にょこどう)と名付けた庵で執筆しながら療養するも 1951年(昭和26年)5月1日(43歳没)☆彡 詳細は、文末に引用追記します^^v↓ . 【つづく】 如己堂(にょこどう)は、長崎県長崎市にある、永井隆が白血病の療養をしていた建物である。長崎の被爆から約3年後の1948年(昭和23年)3月、長崎市浦上の人達やカトリック教会の協力により建てられた。この二畳一間の部屋で、永井隆の著名な作品の数々が生まれた。現在は、隣接地に長崎市永井隆記念館が建てられている。 新約聖書マルコによる福音書12章31節にある「己の如く人を愛せよ」という言葉から名付けられた。 如己堂が建てられた場所は、帳方屋敷の跡地でもある。帳方とは、潜伏キリシタンの信仰組織における組頭である(惣頭ともいう)。浦上村の初代帳方は孫右衛門で、その後の帳方も孫右衛門の子孫から選ばれており、この地にあった帳方屋敷に住んでいた。1856年に起きた浦上三番崩れにより、初代孫右衛門から続いた帳方は7代目の吉蔵で途絶えることになったが、この吉蔵は永井隆の夫人・みどりの曾祖父にあたる。 如己堂の赤瓦は、永井隆の出身地である島根県飯石郡三刀屋町(現雲南市)にある実家から運ばれたもの。 永井の生誕100周年を記念して2008年、出身地の雲南市では同市にある永井隆博士記念館に如己堂が再現された。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E5%B7%B1%E5%A0%82 永井 隆(ながい たかし、1908年(明治41年)2月3日 - 1951年(昭和26年)5月1日)は、日本の医学博士、随筆家。『長崎の鐘』や『この子を残して』等の著書がある。 戦時中は結核のX線検診に従事したが、フィルム不足で透視による診断を続けたため、1945年(昭和20年)6月 には被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受けた。この時白血球数10万8000、赤血球数300万(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)であり、発病は1940年 (昭和15年)と推定された。 1945年(昭和20年)8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆。右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。投下された爆弾が原子爆弾であると知ったのは、米軍が翌日に投下したビラを読んでからのことであった。 3日目の8月11日 、学長代理として指揮をとっていた古屋野教授の許可を得て帰宅。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見し、その骨片を拾い埋葬した。8月12日、子供と義母が疎開していた三山(市内西浦上)に行き、そこに救護本部を設置して被爆者の救護に当った。 9月10日頃 、昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として「光りつつ 秋空高く 消えにけり」を詠じた。9月20日、傷口からの出血が止まらず再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散。 10月15日 、三山救護所で救護活動の合間に「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を執筆し、長崎医大に提出。 1946年(昭和21年)1月28日、長崎医科大学教授に就任したが、同年7月には 長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなった。11月17日、 長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行った。 1948年(昭和23年)には荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈。これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。3月、浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行うための庵が完成する。「己の如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付けた。8月、大学を休職し療養に専念。 10月18日、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる。予告なしの不意な訪問であった。1949年(昭和24年)5月27日、昭和天皇に謁見。5月30日、浦上公民館で日本に運ばれていたフランシスコ・ザビエルの聖腕に接吻し、ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿の見舞を受けた。当初は聖腕と特使が如己堂に来ることになっていたが、永井はそれを辞退して公民館まで出向いた。 8月1日 、長崎市長から表彰を受ける。9月30日 長崎医科大学教授を退官。12月3日、長崎市名誉市民の称号を受ける。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E9%9A%86_(%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E5%8D%9A%E5%A3%AB) |





