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〔『釜蓋城(かまぶたじょう)趾展望台』:(長崎県雲仙市千々石町己)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 6-1.『千々石町』(ちぢわちょう):天正遣欧少年使節の一員、至純の人『千々石ミゲル』生誕の町を歴史さんぽ・・・^^v:(長崎県雲仙市千々石町)〔2018.10.09〕 『長崎県』の『島原半島』の南西端部にある 『雲仙市お試し住宅』で移住体験一週間、 第六日目(10/9)の旅日記^^v 自然も歴史も大好きな僕、 『雲仙岳』を構成する『国見岳』(1,347m)や『九千部岳』さんぽで たっぷり『雲仙市』の自然を堪能したので、 この日は、歴史さんぽの一日☆彡 まずは、島原半島の北西部に位置し、 『吾妻岳』などをはじめとした雲仙山系の山々に三方を囲まれ、 西方は『橘湾』に面する『千々石町』(ちぢわちょう)へ、 「千々石」の地名の由来は、 『角川日本地名大辞典 42 長崎県「千々石」』によると 高来郡西北に「比遅波」(ひじは)とよばれる断崖があり、 付近にあった池を「土歯」(ひじは)池といった。 この「ひじは」が転訛して千々石(ちぢわ)になったとされる。 いつも気になる大きな軍人の銅像『橘中佐』所縁の『橘公園』・『橘神社』、 そして、天正遣欧少年使節の一員『千々石ミゲル』の生誕の地と伝わる 『釜蓋城(かまぶたじょう)趾展望台』から眼下に『橘湾』を眺めて、 『仙落しの滝』へと・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 出典:『平成30年度版 雲仙市定住促進パンフレット』 http://www.city.unzen.nagasaki.jp/info/prev.asp?fol_id=24653 橘 周太(たちばな しゅうた、慶応元年9月15日(1865年11月3日) - 明治37年(1904年)8月31日)は、日本の陸軍軍人。日露戦争における遼陽の戦いで戦死し、以後軍神として尊崇される。官位は陸軍歩兵中佐正六位勲四等功四級。 慶応元年(1865年)9月15日、庄屋城代季憐(格橘季憐とも)の二男として長崎に生まれる。勝山小学校、長崎中学校、二松学舎を経て1881年(明治14年)、陸軍士官学校幼年生徒に合格する。 以後軍人の道を歩み、東宮武官、歩兵第36連隊中隊長、名古屋陸軍地方幼年学校長を歴任し、1904年(明治37年)の日露戦争開戦にあたっては新設の第2軍管理部長に任命される。同年8月には歩兵第34連隊第1大隊長に転出し首山堡の攻撃にあたる。橘はその戦闘で死亡し、同日付で陸軍歩兵中佐に進級し勲四等旭日小綬章及功四級金鵄勲章を賜った。生前は長崎中学から漢学塾二松学舎出身ということもあり、漢詩をよくしたため、名古屋陸軍幼年学校校長時代は自ら教壇に立ち漢文を弁ずることもある教育熱心な軍人であった。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%91%A8%E5%A4%AA 釜蓋城(かまぶたじょう)は、有馬氏の家臣千々石淡路守直員(千々石ミゲルの実父)が城主として付近一帯を支配拠点とした日本の城。標高154メートルの山城である。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E8%93%8B%E5%9F%8E 千々石 ミゲル(ちぢわ ミゲル、Miguel 永禄12年(1569年)ごろ - 寛永9年12月14日(1633年1月23日)?)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士、キリシタン。「ミゲル」は洗礼名で本名は千々石紀員(のりかず)。肥前国釜蓋城主千々石直員の子。大村純忠の甥、大村喜前及び有馬晴信の従兄弟。イエズス会による天正遣欧使節に派遣された正使の1人として、そして4人の正使の中で唯一、棄教してキリスト教から離れたことで知られている。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E3%80%85%E7%9F%B3%E3%83%9F%E3%82%B2%E3%83%AB |
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2018年10月31日
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