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〔『武田信玄公之像』:『甲府駅南口 駅前広場』(山梨県甲府市丸の内)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 4[完].『甲府城跡』:巨大なランドマーク『謝恩碑』建つ梯郭式平山城から『甲府盆地』を一望し、帰路に就く・・・^〜^v:『舞鶴城公園』(山梨県甲府市丸の内1丁目)〔2018.11.19〕 【一か月前の(11/16-11/19)の東京・神奈川・山梨の徘徊旅日記】 第四日(11/19)は、帰宅のための移動日、今回の旅の最後の訪問地は 『甲府駅』近くの『舞鶴城公園』として整備されている『甲府城跡』☆彡 快晴の天候に恵まれた青空ですが、 前夜の冷え込みで地表近くは霞んで『富士山』は観えず(涙) お宿のビジホ近くの『遊亀橋』からの入城し、 名残の『山梨県』を楽しむ城内さんぽ^^v 高くそびえるランドマーク『謝恩碑』(しゃおんひ)は、 明治40年の大水害など度重なる水害によって荒廃した山梨県内の山林に対し、 明治天皇より山梨県内の御料地の下賜(かし)が行われたことに対する感謝と 水害の教訓を後世に伝えるために1922年(大正11年)に建設されたとのこと! 天守台から、『甲府市』をはじめ『甲府盆地』を一望し、 晩秋の城内から巨大な『武田信玄公』が鎮座する『甲府駅』から、 『羽田空港』経由の帰路につきました・・・^〜^v . 【完】 謝恩碑(しゃおんひ)とは山梨県甲府市の甲府城跡内にある記念碑である。この記念碑は明治40年の大水害など度重なる水害によって荒廃した山梨県内の山林に対し、明治天皇より山梨県内の御料地の下賜(かし)が行われたことに対する感謝と水害の教訓を後世に伝えるために1922年(大正11年)に建設された。謝恩塔(しゃおんとう)ともいう。 敷地は東西24.5メートル、南北33.6メートル。コンクリートによって敷き固められた基礎地盤の上に、花崗岩を48段、約16.4メートルの高さに積み上げてこれを碑身の中心地業石とし、その上に高さ60尺(約18.18メートル)の碑身が据えられている。碑身は、下部は7尺の(約2.1メートル)、上部6尺の、合計11個の花崗岩を積み重ねたものである。中心地業石と碑身の中央部には3尺(約90センチメートル)の穴が開けられ、中に鉄筋が挿入されている。 中心地業石を取り囲むように、台座と碑台が設けられている。台座の大きさは53尺(約16.1メートル)角、高さ3尺5寸(約1.1メートル)で、地上から12尺(約3.64メートル)の高さにある。台座には階段が設けられて昇降可能となっており、周囲は展望台となっている。台座の中央にある碑台は31尺(約9.1メートル)角、高さ24尺5寸(約7.4メートル)のパイロン型である。碑の建設で使われた石材の総重量は41万4490貫(約1554トン)になる。 碑の正面に彫られた揮毫は山縣有朋の筆による。また、裏面には山梨県知事の山脇春樹の撰文による碑文がある。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9D%E6%81%A9%E7%A2%91_(%E7%94%B2%E5%BA%9C%E5%B8%82) 甲府盆地北部、現在の甲府市中心街の一条小山に築城された中世から近世にかけての平山城である。 甲斐国では戦国期から甲府が政治的中心地となり、躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が造成されたが、武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配し、甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備された。豊臣政権では徳川家康を牽制する要所、江戸時代では将軍家に最も近い親藩(甲府藩)の城となった。天守台はあるが天守が建てられていたかは不明である。江戸時代には初期の幕府直轄領時代から甲府藩時代、享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を通じて統治の拠点となる。 明治時代、1873年の廃城処分となった以降にも甲府は政治的・経済的中心地として機能し、甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ、内堀が埋め立てられて官業施設化される。さらに中央線(JR東日本中央本線)の開通と甲府駅(甲府城清水曲輪跡にあたる)の開業により城跡は分断されたが、戦後には城跡の発掘調査や史跡の整備が進み、現在は、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残り、武田氏居館とともに甲府駅周辺の観光地となっている。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%BA%9C%E5%9F%8E 武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年(大正4年)11月10日に従三位を贈られる。 甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大したものの、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没した。 享年53。臨終の地点は小山田信茂宛御宿堅物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。 辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。 『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。 信玄の遺言については、遺体を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれているが(『甲陽軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったという)、三年秘匿や勝頼が嫡男信勝の後見となっている可能性も指摘され、文書上から確認される事跡もある。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84 |
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2018年12月19日
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