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〔『Gallery 243』:『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)にて〕 Medieval to Modern European Painting and Sculpture
【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 シカゴ美術館の『モネの睡蓮』(クロード・モネ:Claude Monet):『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)〔2014.10.01〕 昨年10月に、『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)を 訪れた際の絵画を時々ご紹介できればと思います。 この美術館は、フラッシュを使わなければ個人的な撮影は 大丈夫です☆彡 日本では、特に多くの『睡蓮』を描いた作品で有名な『クロード・モネ』(Claude Monet)。 シカゴ美術館では、彼の睡蓮の作品・三点との出逢いありました。
・『Water Lily Pond, 1900』:Oil on canvas, 89.8 x 101 cm (35 3/8 x 39 3/4 in.)
. 【つづく】 ・『Water Lilies, 1906』:Oil on canvas, 89.9 x 94.1 cm (35 3/8 x 37 1/16 in.) 〔訪問時期:2014.10.01〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【クロード・モネ】(Claude Monet, 1840年11月14日 - 1926年12月5日)は、 印象派を代表するフランスの画家。 「光の画家」の別称があり、時間や季節とともに移りゆく光と色彩の変化を 生涯にわたり追求した画家であった。 モネは印象派グループの画家のなかでは最も長生きし、 20世紀に入っても『睡蓮』の連作をはじめ多数の作品を残している。 ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンらはやがて印象派の技法を離れて独自の道を進み、 マネ、ドガらはもともと印象派とは気質の違う画家だったが、 モネは終生印象主義の技法を追求し続けた、もっとも典型的な印象派の画家であった。 「光の画家」と呼ばれたモネは、 同じモチーフを異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作したが、 もっとも作品数が多く、モネの代名詞ともなっているのが 1890年代終わりから描きはじめた『睡蓮』の連作である。 『睡蓮』はジヴェルニーの自宅の庭にある睡蓮の池をモチーフに、 1899年から1926年に亡くなるまでの間に全部で200点以上制作されている。 1883年にジヴェルニーに移り住んだモネは、1890年に同地の家と土地を正式に購入。 1893年には土地を買い増して池を造り、1901年にはエプト川の水を引き込んで池を拡張した。 しばしば絵のモチーフになっている日本風の橋は1895年に造ったものである。 睡蓮や池をモチーフとした作品は1890年代半ばから現れるが、 本格的にこのテーマに取り組むのは1899年からである。 同年から翌1900年にかけて、睡蓮と日本風の橋とをテーマとした連作を手がけ、18点が制作された。 1900年頃からの晩年には他の絵はあまり描かなくなり、もっぱら『睡蓮』に傾注した。 例外は1908年10月から12月の初のヴェネツィア旅行の際に描いた同地の風景である。 1890年代の『睡蓮』には岸に生える柳の木や、池に架かる日本風の橋などのモチーフが描かれていたが、 1900年代になると、画面のすべてが水面でおおわれるようになり、 水面に浮かぶ睡蓮、水中の茎や水草、水面に映る空や樹木の反映が渾然一体となって描かれている。 晩年はモネが白内障を患い、失明寸前の状態にあったこともあり、画面は限りなく抽象に近付いている。 1903年から1908年にかけては多くの『睡蓮』を描き、 1909年にはデュラン=リュエル画廊で『睡蓮』48点を展示した「睡蓮、水の風景」という個展を開いた。 その後、1909年から1913年頃までは視力の悪化のため、あまり制作をしていない。 この間、1911年5月には2番目の妻アリスが病死。実子のジャンも1914年に没した。 1914年頃から制作を再開。 縦1メートル、横2メートル、あるいはそれ以上の大キャンヴァスにもっぱら描くようになる。 視力が悪くても、大画面に描き、遠くから眺めれば何とか制作できることがわかったからである。 1922年には片目は強い光が分かる程度、もう一方の目の視力も極度に落ち、 1923年には3回にわたって眼科の手術を受けた。 最晩年の「日本の橋」や「バラの小道」をテーマとした作品群はほとんど抽象に近づいている。 パリのオランジュリー美術館の2部屋を占める『睡蓮』の大壁画は、 1918年、モネの友人でもあったジョルジュ・クレマンソー(首相経験者)を通じて、 モネが国家に寄付を申し出たものである。 この『睡蓮』の展示にあたっては (1)『睡蓮』の部屋には他の作品を展示しない、 (2)作品と観客との間に仕切りやガラスなどを設置しない、 などモネ自身によって厳しい条件が付けられている。 モネが1923年にしぶしぶ白内障の手術を受けたのは、この大作を完成させるためだったという。 作品の出来に満足していなかったモネは一時は国家への寄贈を取りやめようとさえ思ったが、 クレマンソーはモネに対し 「あなたのために国家は多額の出費をした。あなたには寄贈を取りやめるという選択肢はない」 との書簡を送った。 モネは死の直前までこの大作に筆を入れ続けた。 そして「作品の展示は自分の死後にしてもらう」という条件だけは断固として貫いたのである。 モネは1926年12月5日、86年の生涯を閉じ、『睡蓮』の大壁画は翌1927年、正式にフランス国家に寄贈された。 |
☆ シカゴ美術館さんぽ☆
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〔『The Girl by the Window』:『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)にて〕
Edvard Munch: Norwegian, 1863-1944
【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】Oil on canvas:96.5 x 65.4 cm (38 x 25 3/4 in.) Searle Family Trust and Goldabelle McComb Finn endowments; Charles H. and Mary F.S. Worcester Collection, 2000.50 Medieval to Modern European Painting and Sculpture:Gallery 244 参考: http://www.artic.edu/aic/collections/artwork/154235 シカゴ美術館の『エドヴァルド・ムンク』(Edvard Munch):『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)〔2014.10.01〕 昨年10月に、『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)を 訪れた際の絵画を時々ご紹介できればと思います。 この美術館は、フラッシュを使わなければ個人的な撮影は 大丈夫です☆彡 今月はじめての今日は、 『叫び』の作者として有名なノルウェーの国民的な画家。 大好きな『エドヴァルド・ムンク』(Edvard Munch)の一枚 『叫び』を描いた同じ画家とは思えないような 大好きな作品をご紹介いたします。 背後に気になる男性の姿が印象的です...? . 【つづく】 〔訪問時期:2014.10.01〕 【エドヴァルド・ムンク】(Edvard Munch (ノルウェー語: [ˈɛdvɑʈ muŋk] ( 聞く), 1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、 19世紀〜20世紀のノルウェー出身の画家。 『叫び』の作者として有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。 現行の1000ノルウェー・クローネの紙幣にも彼の肖像が描かれている。 生と死の問題、そして、人間存在の根幹に存在する、孤独、嫉妬、不安などを見つめ、人物画に表現した。 表現主義的な作風の画家として知られる。 また、数多くの浮名を流したことでも知られ、恋を「昔の人が愛を炎に例えたのは正しい。 愛は炎と同じように山ほどの灰を残すだけだからね」と語っている。 有名な作品が19世紀末の1890年代に集中しており、「世紀末の画家」のイメージがあるが、 晩年まで作品があり、没したのは第二次世界大戦中の1944年である。 気に入った作品は売らずに手元に残しており、死後は遺言によって、 手元に残していた全作品がオスロ市に寄贈された。 このため代表作の多くは1963年にオープンしたオスロ市立ムンク美術館に収蔵されている。 |
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〔『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 シカゴ美術館の『アンリ・マティス』(Henri Matisse):『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)〔2014.10.01〕 昨年10月に、『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)を 訪れた際の絵画を時々ご紹介できればと思います。 この美術館は、フラッシュを使わなければ個人的な撮影は 大丈夫です☆彡 昨日に続いて、今日も大好きな『アンリ・マティス』(Henri Matisse)を 僕が訪れたとき、出会った8点の作品をご紹介いたします。 . 【つづく】 〔訪問時期:2014.10.01〕 【アンリ・マティス】(Henri Matisse, 1869年12月31日 - 1954年11月3日)は、 フランスの画家。 フォーヴィスム(野獣派)のリーダ−的存在であり、 野獣派の活動が短期間で終わった後も20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けた。 自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」と謳われ、緑あふれる世界を描き続けた画家であった。 1869年、フランスのル・カトー=カンブレジに生まれる。 はじめ法律家を志すが、1890年、盲腸炎の療養中に絵画に興味を持ち、画家に転向する決意をする。 ボザールへの入校は許可されなかったが、 熱意を評価した教官ギュスターヴ・モローから特別に個人指導を請ける事ができた。 この時、ボザールに入校してモローの指導を受けていたジョルジュ・ルオーとは生涯の友情を結ぶ。 マティスの初期の作風は写実的なものを志していたが、 次第にフィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャンら後期印象派の影響を受け、 自由な色彩による絵画表現を追究するようになる。 『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』(1905年)、『ダンスI』(1909年)など、 大胆な色彩を特徴とする作品を次々と発表し、 モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドランらと共に野獣派と呼ばれるようになる。 しかし、フォーヴィスムとしての活動は1905年から3年ほどの間だけで、 それ以降は比較的静かで心地の良い作品を描くようになる。 (そのころのマティスの言葉:『私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい』) 本人は、フォーヴィスムと呼ばれ見なされることをひどく嫌った。 線の単純化、色彩の純化を追求した結果、切り絵に到達する。 マティスにとってハサミは鉛筆以上に素画に適した道具だったのである。 『ジャズ』シリーズなど切り絵の作品を多数残している。 |
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〔『Medieval to Modern European Painting and Sculpture』:『Gallery 392A』・『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『ワシリー・カンディンスキー』(Vasily Kandinsky):『Gallery 392A』・『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)〔2014.10.01〕 昨年10月に、『シカゴ美術館』(The Art Institute of Chicago)を 訪れた際の絵画を時々ご紹介できればと思います。 この美術館は、フラッシュを使わなければ個人的な撮影は 大丈夫です☆彡 まずは、大好きな『ワシリー・カンディンスキー』(Vasily Kandinsky)を 僕が訪れたとき、出会った4点の作品をご紹介いたします。 . 【つづく】 〔訪問時期:2014.10.01〕 【ワシリー・カンディンスキー】 (Василий Васильевич Кандинский、Wassily Kandinsky、Vassily Kandinsky、1866年12月4日(ユリウス暦)/12月16日(グレゴリオ暦) - 1944年12月13日)は、 ロシア出身の画家であり、美術理論家であった。 一般に、抽象絵画の創始者とされる。 ドイツ及びフランスでも活躍し、のちに両国の国籍を取得した。 彼はモスクワに生まれ子供時代をオデッサで過ごした。 1886年から1892年まで、モスクワ大学で法律と政治経済を学ぶ。 1896年にミュンヘンで絵の勉強を始め、象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックに師事する。 1902年、ベルリンの分離派展に出品。 1904年からはパリのサロン・ドートンヌにも出品している。 1909年には新ミュンヘン美術家協会会長となるが、 1911年にはフランツ・マルクとともに脱退して「青騎士」(デア・ブラウエ・ライター)を結成した。 その間の1910年に最初の抽象画を手掛け、絵画表現の歴史の新たな一歩を記している。 代表作の『コンポジション』シリーズはこの最初のドイツ滞在期に制作された。 革命後、1918年にモスクワに戻った。 当時のソ連では前衛芸術はウラジーミル・レーニンによって「革命的」として認められており、 カンディンスキーは政治委員などを務めた。 しかし、ヨシフ・スターリンが台頭するにつれ前衛芸術が軽視されるようになり、 スターリンが共産党書記長に就く直前の1921年に再びモスクワを離れてドイツへと向かった。 1922年からはバウハウスで教官を務め、 1933年にナチス・ドイツによってバウハウス自体が閉鎖されるまで勤務した。 1941年にフランスがナチスによって占領されたのにも関わらず、 彼はアメリカへの移住を拒否し続け、 パリ郊外に位置するヌイイ=シュル=セーヌでその生涯を閉じた。 なお、1928年にはドイツ国籍、1939年にはフランス国籍を取得している。 |
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〔シカゴ美術館 (The Art Institute of Chicago)〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 ☆ シカゴ美術館 ☆ 〔2008.05〕 僕のお気に入りの『シカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)』、 今まで何回も所蔵する作品のご紹介は掲載してきましたが、 肝心の『シカゴ美術館』については、まったく何も・・・ そこで、今回は、この美術館を是非身近に知っていただきたいので、 『絵画以外』を撮った数少ない写真をご紹介いたします・・・ 〔訪問時期:2008.05〕 【シカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)】は、 アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ市内にある美術館である。 ニューヨークのメトロポリタン美術館、 ボストン市にあるボストン美術館とともにアメリカの三大美術館の1つに数えられる。 館名は日本語では「シカゴ美術研究所」、「シカゴ・アート・インスティテュート」などと 表記される場合もある。 1866年、市内ディアボーン通りのアトリエに設立された 「シカゴ・アカデミー・オブ・デザイン」(Chicago Academy of Design)であった。 このアカデミーは1868年から授業を開始し、1870年にはウェスト・アダムズ通りに移転したが、 翌1871年のシカゴ大火で焼失。 1879年に「シカゴ・アカデミー・オブ・ファイン・アーツ」(Chicago Academy of Fine Arts)として 再発足した。 通常、この1879年をもってシカゴ美術館の設立年としている。 1882年、「シカゴ美術研究所」(The Art Institute of Chicago)と改称した。 ・・・ 本館の建物は、1893年のシカゴ万国博覧会の際に建てられたものである。 その後数度にわたり増築が行われ、展示室の構成はかなり複雑になっている。 日本ギャラリー(屏風ギャラリー)は安藤忠雄の設計になるものである。 ・・・ |




