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〔『翼とともに・・・☆彡』:(福岡〜大阪/伊丹)〔ANA:NH428便〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 3-3[完].『翼とともに・・・☆彡』:機上から夕景追いかけて、大阪/伊丹空港に無事着陸・・・^〜^v:『ANA:NH428便』〔2016.09.01〕 おはようございます☆彡 先週(8/30-9/1)は、久しぶりにチャリンコ担いでの旅、 佐賀県・福岡県の一部を二泊三日の一人旅☆彡 今編は、福岡空港から大阪/伊丹空港までの最終編、 余裕で『大宰府』から『福岡空港』ゴールした チャリンコは、再び折りたたんでバッグに、 手荷物として預けてチェックイン完了☆彡 搭乗案内までの間はラウンジで ゆっくり一人で乾杯☆彡 搭乗した僕の窓席からは、 眼下に最後に積み込まれた愛を確認☆彡 『大阪/伊丹空港』に到着するしばしの時間は、 機上から大空と地上を眺める至福のひととき、 翼とともに夕景を追いかける空の旅☆彡 わずか一時間で無事に着陸し、 チャリンコ担いで帰宅となりました・・・^〜^v いつも、ご愛読いただきましてありがとうございます★感謝★ 素敵な週末の日々をお楽しみください(^^♪ . 【完】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 |
【チャリンコで四季さんぽ】
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〔『本殿』(重要文化財・桃山時代):『太宰府天満宮』:(福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 3-2.『観世音寺』(かんぜおんじ)・『太宰府天満宮』(だざいふてんまんぐう):かつて存在した門・回廊などは失われているが九州を代表する古刹と『菅原道真』を祭神として祀る天満宮を訪れる・・・^〜^v:(天神〜大宰府〜福岡空港)〔2016.09.01〕 おはようございます^^v さて、先日(8/30-9/1)のチャリンコ担いでの旅:二泊三日佐賀・福岡 第3日目は夕刻のフライトで帰宅の日、 あさイチで訪れたはかつては、 大陸の玄関として主として 外交と防衛などの大きな権力を持った 古都『大宰府』(だざいふ)☆彡 『大宰府政庁跡』・『戒壇院』に続いて、 かつて存在した門、回廊などは失われ、 現在残る建物はすべて近世の再建ではあるが、 造営開始は7世紀後半にさかのぼる 九州を代表する古刹『観世音寺』(かんぜおんじ)☆彡 そして、九州はもとより日本全国から毎年700万人以上の参詣者がある 『菅原道真』を祭神として祀る天満宮の一つ 『太宰府天満宮』(だざいふてんまんぐう)☆彡 そして、楽しみにしていた近くのお気に入り 『光明禅寺』(こうみょうぜんじ)☆彡 残念ながらお休み?だったので、 前庭を垣間見し、周辺を散策した後、 チャリンコの旅は、 ゴールの『福岡空港』へと・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 観世音寺(かんぜおんじ)は、福岡県太宰府市観世音寺五丁目にある天台宗の寺院。 山号は清水山。 本尊は聖観音(しょうかんのん)。 開基は天智天皇である。 九州西国三十三箇所第三十三番札所。 九州を代表する古寺で、造営開始は7世紀後半にさかのぼる。 奈良の東大寺・栃木の下野薬師寺とともに「天下三戒壇」の1つに数えられる。 平安時代以降は徐々に衰退したが、仏像をはじめとする文化財を豊富に有する。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)は、福岡県太宰府市にある神社。 旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 神紋は梅紋である。 菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。 初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年700万人以上の参詣者がある。 現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。 右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、翌々延喜3年(903年)に同地で薨去した。 薨後、その遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山庿院安楽寺と号した。 一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、これを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀で、正暦元年(990年)頃からは社号としての「天満宮」も併用された。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 光明禅寺(こうみょうぜんじ)は、福岡県太宰府市にある臨済宗東福寺派に属する禅宗寺院である。 山号は神護山(じんごさん)。 1273年(文永10年)、円爾(聖一国師)の門下にあった鉄牛円心によって建立され開山となった。 江戸時代には太宰府天満宮の緇素(しそ・天満宮に仕える人々とその家族)の菩提寺として、1616年(元和2年)に再興されて、1856年(安政3年)7月再営された天満宮の結縁寺である。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 藍染川[ その昔、太宰府天満宮の神官・中務頼澄が京に上った折、京女の梅壺という女性と恋に落ち、梅千代という子どもをもうけた。 しかし、神官はしばらくして太宰府へ帰ってしまう。 残された梅壺は恋しさと、子供のためを思って、遠く太宰府まで下るも、頼澄へ送った文を、頼澄の留守中に妻に読まれ、妻が書いた偽りの文で追い返されてしまった。 悲嘆にくれた梅壺は、世をはかなんで、藍染川に身を投げて死んでしまう。 梅千代が、母の亡骸に取りすがって泣き悲しんでいるところに、偶然、頼澄が通りかかる。梅壺の遺書により事情を知り、梅壺が生き返るよう一心に天神に祈る。 すると、そこに天神が現れ、梅壺を生き返らせたという。 その後、梅壺は尼になり、太宰府の外れに庵をかまえ、仏に仕える一生をおくり、梅壺の子・梅千代は、光明禅寺を開山し、鉄牛円心になったという。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 |
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〔『大宰府政庁跡』(都府楼跡):( 福岡県太宰府市観世音寺4丁目6−1)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 3-1.『大宰府政庁跡』(だざいふせいちょうあと)・『戒壇院』(かいだんいん):7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関と来日に成功した『鑑真』が我が国初めての初の授戒を行った地をチャリンコで訪れる・・・^〜^v:(天神〜大宰府〜福岡空港)〔2016.09.01〕 台風13号は温帯低気圧となり東海道沖を北上中、 不安定な天候が続いておりますが これ以上の大きな被害が発生しないことを願って おはようございます^^v さて、先日(8/30-9/1)のチャリンコ担いでの旅:二泊三日佐賀・福岡 第3日目は夕刻のフライトで帰宅の日、 天神のビジネスホテルから向かった先は 7世紀後半に、 九州の筑前国に設置された地方行政機関 古都『大宰府』☆彡 大陸との窓口という交通の要衝であり、 『菅原道真』はじめ 失脚した貴族の左遷先となることも多かった 朝廷の出先機関『大宰府』! そして、その近くにあるのが 天平勝宝5年(753年)12月20日 来日に成功した『鑑真』が、 その6日後にここを訪れ、 我が国初の授戒を行った『戒壇院』 どちらも、我が国の貴重な史蹟であり、 古の我が国を振り返るマイルストーン・・・^〜^v それでは、ご一緒に 秋の気配も感じる『大宰府政庁跡』(都府楼跡)を お楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。 和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。 多くの史書では太宰府とも記され、現在でも地元は「太宰府」を使っている。 外交と防衛を主任務とすると共に、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、多禰(現在の大隅諸島。824年に大隅に編入))については、掾(じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。 与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。 軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司、主船司を置き、西辺国境の防備を担っていた。 外交面では、北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 本尊盧舎那仏坐像は 平安時代末期の作で、国の重要文化財に指定されている。 両脇侍像は江戸期の作。 本堂内の戒壇には天竺(インド)、唐(中国)、大和(奈良)三国の土が納められているとされる。 しょうじじだい こういんおしむべし むじょうじんそく ときひとをまたず 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 梵鐘は、博多の鋳物師の手による元禄14年(1701年)の作品である。 江戸時代に博多の萬町で酒醸造業で財をなした楠屋白木玄流の臨終の遺言により寄進された。 梵鐘の塔の前に白木玄流氏寄贈と記載されている木札が立てられている。 玄流は黒田騒動の栗山利章(栗山大膳)の甥である白木孫右衛門の子である。 大膳が主君を幕府に訴えた罪で津軽に配流されたために、孫右衛門も糟屋郡で牢人となり病死した。 一歳で孤児となった玄流は宗像で慈愛に満ちた百姓の夫婦に引き取られ成長した。 志を立て福岡に戻り、薬院の楠屋の援助を得て、酒醸造業にて成功した。 育ててくれた養父、養母に感謝して、臨終の際に念願であった戒壇院の梵鐘を寄進を遺言した。 戒壇院(かいだんいん)は、福岡県太宰府市にある臨済宗の寺院。 奈良時代において、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるために設置された施設で、「筑紫戒壇院(ちくしかいだんいん)」とも称される。 古くは観世音寺の一部であった。 西戒壇(さいかいだん)として、中央戒壇(奈良の東大寺)・東戒壇(栃木の下野薬師寺)田尾とともに「天下三戒壇」'''の1つである。 奈良時代の半ばの天平勝宝5年(753年)12月20日に仏舎利を携え薩摩坊津で来日に成功した唐僧鑑真が、同じ年の12月26日に太宰府を訪れこの戒壇院の地で初の授戒を行った。 開山は鑑真であり、戒壇院は現在も奈良時代以来同じ場所にあるとされている。 宗派を超えて僧が集い学ぶという開山の精神から地元では八宗兼学寺とも呼ばれた。 |
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〔『楼門』:『筥崎宮』(はこざきぐう):(福岡県福岡市東区箱崎一丁目22-1)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 2-2.『筥崎宮』(はこざきぐう):『元寇』の際に『亀山上皇』が「敵国降伏」を祈願し、神門(桜門)に扁額が掲げられた八幡宮で一休み・・・^〜^v:(志賀島〜筥崎宮〜天神)〔2016.08.31〕 おはようございます^^v 先日(8/30-9/1)のチャリンコ担いでの旅:二泊三日佐賀・福岡 第二日目のお目当ては、 長年の懸案の場所『志賀島』(しかのしま)☆彡、 玄界灘に突き出したような周囲約10kmの『志賀島』、 一周したころ、空模様が怪しくなってきたので、 この日の宿のある天神に向けて 折り返し来た道を☆彡 その道中にあるのが、 巨大な石造一ノ鳥居と高灯籠が迎える 『筥崎宮』(はこざきぐう)☆彡 『元寇』の際に『亀山上皇』が 「敵国降伏」を祈願し、 神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられた 創建が延喜21年(921年)の筑前国一宮☆彡 それでは、夕刻近くの静かなの境内さんぽと 入社当時、研修の先生だった大先輩と 天神での再会の一コマを・・・・☆彡 . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 本殿、拝殿 延喜21年(921年)6月に藤原真材により創建される。戦国時代に戦火兵乱により荒廃してのち、大宰大弐大内義隆により天文15年(1546年)に再建。本殿は46坪、桧皮葺の流造様式で左右に縋造車寄がある。拝殿は桧皮葺の切妻造・二重虹梁・蟇股。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 楼門 小早川隆景により文禄3年(1594年)に建立。三間一戸の入母屋造。扉の桐紋彫刻は左甚五郎の作といわれる。「敵國降伏」の扁額は亀山上皇によって奉納された醍醐天皇の宸筆とされる。広瀬淡窓の「筑前城下作」の詩の伏敵門はこの楼門を指す。一般の参拝はこの楼門の下で行なわれる。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 神木「筥松」 楼門の右手の朱の玉垣で囲まれる松の木。神功皇后が応神天皇を出産した際、胞衣(えな)を箱に入れてこの地に納め、印として植えられたのがこの「筥松」と言われる。「筥崎(箱崎)」の名称はこの胞衣を納めた箱に由来する 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 博多湾からは本殿まで長大な参道が続く。参道の手前の箱崎浜一体は、以前は白砂青松とうたわれた美しい海岸線を誇っていたが、博多港修築により1936年には護岸整備され、現在では北側に箱崎埠頭、南側に東浜埠頭と博多港の倉庫などの施設が並び姿を一変させている。参道の先の海岸は清めの真砂(まさご)を貰い受ける「お汐井とり」が行なえるよう砂地が整備されている。 筥崎宮(はこざきぐう)は、福岡県福岡市東区箱崎にある神社。 式内社(名神大社)、筑前国一宮。 旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 別称として筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)とも呼ばれる。 京都府八幡市の石清水八幡宮、大分県宇佐市の宇佐神宮とともに日本三大八幡宮の一つ。 |
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〔『記念碑「漢委奴國王金印発光之処」』:『金印公園』:(福岡県福岡市東区志賀島)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 2-1.『志賀島』(しかのしま):『海の中島』を渡り、『金印』の発見と『元寇』(げんこう)の舞台となった古代から大陸への交易の玄関の島をチャリンコ訪問・・・^〜^v:(福岡空港〜海の中道〜志賀島)〔2016.08.31〕 おはようございます^^v 先日(8/30-9/1)のチャリンコ担いでの旅:二泊三日佐賀・福岡 第二日目は、高速バスで佐賀駅前から福岡空港に戻り、 長年の懸案の場所『志賀島』(しかのしま)へ☆彡、 九州本土とを繋ぐ陸繋砂州『海の中道』を渡り、 歴史的な金印『漢委奴国王印』(かんのわのなのこくおういん)が 発見され、また鎌倉時代には二度の、 『モンゴル帝国』(大元ウルス)およびその属国である『高麗王国』によって 対日本本土侵攻『元寇』(げんこう)の舞台ともなった 周囲約10kmの小島がお目当ての『志賀島』。 古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、 歴史的に重要な位置を占めていた島は、 多くの歴史的な見どころはありませんが、 この日も向かい風の中を楽しくチャリンコ散策・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 香椎かもめ大橋(かしいかもめおおはし、愛称:シーガルブリッジ)は、博多港に架かる全長789m・片側3車線の橋梁である。 福岡市東区の箱崎ふ頭4丁目と香椎浜3丁目(香椎パークポート)とを結ぶ。臨港道路香椎パークポート1号線の一部である。 福岡市内の橋梁で最も長い。 福岡一家4人殺害事件の現場は、当橋梁の真下であった。 海の中道(うみのなかみち)は、福岡県福岡市東区にある、志賀島と九州本土とを繋ぐ陸繋砂州である。 全長約8 km、最大幅約2.5 kmの巨大な砂州で、この砂州の北は玄界灘、南は博多湾となっている。 奈良時代に編纂された『筑前国風土記』逸文では、志賀島の記事に関連して海の中道が打昇の浜(うちあげのはま)の名で見える。 また吹上の浜(ふきあげのはま)とも呼ばれていた。 玄界灘側の海岸は現在でも冬季に様々な漂着物が打ち上げられることで知られる。 神功皇后伝説では、遠征前に盛大な神楽が行われ、海底から現れた異形の磯良(いそら)神から玉を借り受けたのは、この地の吹上の崎というところだとされる。 古くから周辺の漁労民によって製塩が行われていたことがうかがわれ、シオヤ鼻(塩屋鼻)に近い「海の中道遺跡」からは漁具や貝塚とともに8–10世紀に用いられた製塩用土器が出土している。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 志賀島(しかのしま)は、福岡県福岡市東区に所属する島である。 博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。 古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。 また島内にある志賀海神社は綿津見三神を祀り、全国の綿津見神社の総本宮であり、4月と11月の例祭において「君が代」の神楽が奉納される全国的にも珍しい神社である。 ・万葉集において、柿本人麻呂の「大君の遠の朝廷とあり通ふ 島門を見れば神代し思ほゆ」と詠まれる。“島門”とは博多湾への入口に位置する志賀島と能古島を門に見立てた謂い。万葉集で志賀島を歌ったものは、全部で16首になる。 ・1274年(文永11年)、文永の役にて撤退する際に座礁した蒙古兵が志賀島で捕虜となり、うち220人ほどが首切塚(蒙古塚)で斬首されたとされる。 ・1281年(弘安4年)、弘安の役では 志賀島の戦いの舞台となる。博多湾に現れた元軍は、石築地(元寇防塁)からの上陸を避け、陸繋島である志賀島を占領し軍の停泊地とした。これに対して、日本軍は海上と海の中道の陸路から元軍に総攻撃を行った。この志賀島の戦いで日本軍は大勝し、元軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退した。島内に残る火炎塚のある場所では高野山の僧侶によって敵軍退散の祈祷がおこなわれた。 ・1784年(天明4年)、甚兵衛という志賀島の農民が田んぼを耕している最中に金印(漢委奴国王印)を偶然発見。 元寇(げんこう)は、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本本土侵攻の呼称である。 1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。 特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊であった。 漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。 読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある。 1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。 |




