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〔『転法輪堂』(重文:釈迦堂):『西塔』・『比叡山延暦寺』境内(滋賀県大津市坂本本町)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 5[完]『西塔』(さいとう):多くの『歌碑』が迎える『釈迦堂』を本堂とする『西塔』さんぽ・・・^〜^v:『比叡山延暦寺』(滋賀県大津市坂本本町)〔2018.06.03〕 一か月も前の日曜日(6/3)の『比叡山延曆寺』の思い出記事の最終編☆彡 『東塔』(とうどう)・『西塔』(さいとう)・『横川』(よかわ)など 『三塔十六谷』に所在する150ほどの堂塔の総称本堂とする『延暦寺』☆彡 その中心『根本中堂』を本堂とする延暦寺発祥の地『東塔』から、 北へ約1kmほどの第2世天台座主寂光大師『円澄』に開かれた『西塔』☆彡 かつては行者たちが通った参道のさきには鮮やかな朱色の一組二堂、 廊下で結ばれた全体の形が天秤棒に似ているところから 弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、 『担い堂』(にないどう)とも呼ばれる重文の御堂☆彡 左が、四種三昧のうち、常行三昧を修す阿弥陀如来を本尊とする『常行堂』、 右が法華三昧を修す普賢菩薩を本尊とする『法華堂』☆彡 そして、最後の向かったのは一般にはご本尊の釈迦如来にちなみ、 『釈迦堂』として知られている 西塔の本堂にあたる『転法輪堂』☆彡 多くの歌碑も楽しみながらの『西塔』さんぽ、 駐車場の境内地図で改めてその規模と歴史を振り返って 眼下に『琵琶湖』を眺めながらの帰路、 山の院櫺子(れんじ)の端に せきれいの巣あり ひな三つ母まちて鳴く ・れん‐じ【連子/×櫺子】木・竹などの細い材を、縦または横に一定の間隔を置いて、窓や欄間 (らんま) に取り付けたもの。 出典: https://dictionary.goo.ne.jp/jn/235252/meaning/m0u/ 名僧を輩出 大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した。円仁(慈覚大師、794 - 864)と円珍(智証大師、814 - 891)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くした。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがった。 なお、比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになった。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもった。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきた。 平安から鎌倉時代にかけて延暦寺からは名僧を輩出した。円仁・円珍の後には「元三大師」の別名で知られる良源(慈恵大師)は延暦寺中興の祖として知られ、火災で焼失した堂塔伽藍の再建・寺内の規律維持・学業の発展に尽くした。また、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖・良忍も現れた。平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。 比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。 ・良源(慈恵大師、元三大師 912年 - 985年)比叡山中興の祖。 ・源信(恵心僧都、942年 - 1016年)『往生要集』の著者 ・良忍(聖応大師、1072年 - 1132年)融通念仏宗の開祖 ・法然(円光大師、源空上人 1133年 - 1212年)日本の浄土宗の開祖 ・栄西(千光国師、1141年 - 1215年)日本の臨済宗の開祖 ・慈円(慈鎮和尚、1155年 - 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。 ・道元(承陽大師、1200年 - 1253年)日本の曹洞宗の開祖 ・親鸞(見真大師、1173年 - 1262年)浄土真宗の開祖 ・日蓮(立正大師、1222年 - 1282年)日蓮宗の開祖 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%9A%A6%E5%AF%BA |
神 社・仏 閣
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〔『浄土院』:『西塔』・『比叡山延暦寺』境内(滋賀県大津市坂本本町)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 4『西塔』(さいとう):『東塔』から北へ約1kmキロメートル『釈迦堂』を本堂とする『西塔』へ、『三塔十六谷』巡り・・・^〜^v:『比叡山延暦寺』(滋賀県大津市坂本本町)〔2018.06.03〕 今朝も続く『台風7号』の置き土産、凄い雨と風の難破船状態のおはようございます! さて、一か月も前の日曜日(6/3)の『比叡山延曆寺』の思い出記事☆彡 『延暦寺』は、『比叡山』の山上から東麓にかけて位置する 『東塔』(とうどう)・『西塔』(さいとう)・『横川』(よかわ)など 『三塔十六谷』に所在する150ほどの堂塔の総称本堂とする☆彡 『根本中堂』を本堂とする延暦寺発祥の地『東塔』から、 北へ約1kmほどの第2世天台座主寂光大師『円澄』によって開かれた 行者たちの足跡を楽しみながら『西塔』へ☆彡 まずは、弘仁13年(822年)6月4日、56歳で入寂された大師の遺骸を、 慈覚大師が仁寿4年(854年)7月に移して安置した場所 『伝教大師最澄』の御廟『浄土院』へ☆彡 その後、森の古道で、かつての『親鸞聖人』も修行したと伝わる 浄土院 伝教大師の御廟がある浄土院は、弘仁13年(822年)6月4日、56歳で入寂された大師の遺骸を、慈覚大師が仁寿4年(854年)7月ここに移して安置した場所です。 東塔地域と西塔地域の境目に位置し、所属は東塔地域になります。 現在は十二年籠山の僧が毎日、生身の大師に仕えるごとくに奉仕しています。 出典: https://www.hieizan.or.jp/keidai/saitou 常行堂・法華堂(にない堂) 同じ形をしたお堂が廊下によって繋がっています。正面向かって左が、四種三昧のうち、常行三昧を修す阿弥陀如来を本尊とする常行堂、右が法華三昧を修す普賢菩薩を本尊とする法華堂です。弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、にない堂とも呼ばれています。国重要文化財に指定されています。 ※にない堂は内部非公開です。 出典: https://www.hieizan.or.jp/keidai/saitou |
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〔『戒壇院』(重文):『東塔』・『比叡山延暦寺』境内(滋賀県大津市坂本本町)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 3『東塔』(とうどう):『伝教大師最澄』が開いた『延暦寺』の発祥の地をさらりと散歩・・・^〜^v:『比叡山延暦寺』(滋賀県大津市坂本本町)〔2018.06.03〕 『台風7号』の置き土産、凄い雨と風の難破船状態のおはようございます! さて、一か月も前の日曜日(6/3)の『比叡山延曆寺』の思い出記事☆彡 『延暦寺』は、『比叡山』の山内にある1700ヘクタールの境内地に点在する 約100ほどの堂宇の総称☆彡 そして地域別に、東を『東塔』(とうどう)・西を『西塔』(さいとう)・北を『横川』(よかわ)の 三つに区分して三塔と言い、それぞれに本堂があります。 『東塔』は延暦寺発祥の地であり、 本堂にあたる根本中堂を中心とする区域です。 伝教大師最澄が延暦寺を開いた場所であり、 総本堂根本中堂をはじめ各宗各派の宗祖を祀っている大講堂、 先祖回向のお堂である阿弥陀堂など重要な堂宇が集まっています。 それでは、『根本中堂』は、平成28年度から約十年をかけ大改修中で ご紹介できませんが、 今回訪れた堂宇などを少し御紹介いたします・・・^〜^v 東塔 延暦寺発祥の地であり、本堂にあたる根本中堂を中心とする区域である。 根本中堂(国宝) - 最澄が建立した一乗止観院の後身。現在の建物は織田信長焼き討ちの後、寛永19年(1642年)に徳川家光によって再建されたものである。1953年(昭和28年)に国宝に指定された。入母屋造で幅37.6メートル、奥行23.9メートル、屋根高24.2メートルの大建築である。土間の内陣は外陣より床が3メートルも低い、独特の構造になっている。内部には3基の厨子が置かれ、中央の厨子には最澄自作の伝承がある秘仏・薬師如来立像を安置する(開創1,200年記念の1988年に開扉されたことがある)。本尊厨子前の釣灯篭に灯るのが、最澄の時代から続く「不滅の法灯」である。この法灯は信長の焼き討ちで一時途絶えたが、山形県の立石寺に分灯されていたものを移して現在に伝わっている。嘉吉3年(1443年)に南朝復興を目指す後南朝の日野氏などが京都の御所から三種の神器の一部を奪う禁闕の変が起こると、一味は根本中堂に立て篭もり、朝廷から追討令が出たことにより幕軍や山徒により討たれる。 文殊楼(重文) - 寛文8年(1668年)の火災後の再建。二階建ての門で、階上に文殊菩薩を安置する。根本中堂の真東に位置し、他の寺院における山門にあたる。 大講堂(重文) - 寛永11年(1634年)の建築。もとは東麓・坂本の東照宮の讃仏堂であったものを1964年に移築した。重要文化財だった旧大講堂は寛永19年(1642年)に完成した裳階つき建築だったが1956年に放火による火災で焼失している。本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然、親鸞、良忍、真盛、一遍の像が安置されている。いずれも若い頃延暦寺で修行した高僧で、これらの肖像は関係各宗派から寄進されたものである。 大乗戒壇の設立 延暦25年(806年)、日本天台宗の開宗が正式に許可されるが、仏教者としての最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、比叡山に大乗戒壇を設立することであった。大乗戒壇を設立するとは、すなわち、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようにしようということである。 最澄の説く天台の思想は「一向大乗」すなわち、すべての者が菩薩であり、成仏(悟りを開く)することができるというもので、奈良の旧仏教の思想とは相容れなかった。当時の日本では僧の地位は国家資格であり、国家公認の僧となるための儀式を行う「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在しなかったため、天台宗が独自に僧の養成をすることはできなかったのである。最澄は自らの仏教理念を示した『山家学生式』(さんげがくしょうしき)の中で、比叡山で得度(出家)した者は12年間山を下りずに籠山修行に専念させ、修行の終わった者はその適性に応じて、比叡山で後進の指導に当たらせ、あるいは日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張した。 だが、最澄の主張は、奈良の旧仏教(南都)から非常に激しい反発を受けた。南都からの反発に対し、最澄は『顕戒論』により反論し、各地で活動しながら大乗戒壇設立を訴え続けた。 大乗戒壇の設立は、822年、最澄の死後7日目にしてようやく許可され、このことが重要なきっかけとなって、後に、延暦寺は日本仏教の中心的地位に就くこととなる。823年、比叡山寺は「延暦寺」の勅額を授かった。延暦寺は徐々に仏教教学における権威となり、南都に対するものとして、北嶺と呼ばれることとなった。なお、最澄の死後、義信が最初の天台座主になった。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%9A%A6%E5%AF%BA |
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〔『行者の足元』:『無動寺 護摩堂』境内(滋賀県大津市坂本本町)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 2『無動寺』:『千日回峰行』の拠点のゴールは、『大乗院』での『親鸞聖人』の『そば喰い木像』に御対面・・・^〜^v:(滋賀県大津市坂本本町)〔2018.06.03〕 『台風7号』は通り過ぎたはずなのですが、 凄い雨と風の難破船状態のおはようございます! さて、もう一か月も前の日曜日(6/3)、 『比叡山 延曆寺』を訪ねた思い出記事 第二編は、『千日回峰行』の拠点『無動寺』の続き、 境内には修行中の行者たちの足元を守る『藁草履』が、 いたるところに・・・! 行者たちの必需品、表に裏に乾されていました☆彡 今回のお目当てのひとつは、 その昔『親鸞聖人』も修行していたと伝わる『大乗院』と そこに伝わる『そば喰い木像』、 伝説は、記事の中の解説板をご参考に! コースは『大乗院』でUターンして 『延暦寺』・『東塔』(とうどう)へと、 それでは、『無動寺』の続きをお楽しみください・・・^〜^v 大乗院の如意輪観音より夢告(むこく)を得られた親鸞聖人は、同じく如意輪観音を本尊とする京都・六角堂に百日の参籠(さんろう)を決意された。それからというもの、夜になると大乗院を抜け出す聖人の姿があった。一日(毎夜)も欠かすことなく六角堂に参詣し、明けがたに大乗院に戻るという強行軍。この聖人の行動は、他の僧侶に不審をいだかせた。多くは『毎夜、大乗院を抜け出すのは、女に会いに行くのだろう』とうわさした。このうわさを、聖人の出家の戒師である慈円(じえん)大僧正に告げ口した者があらわれた。そこで、慈円大僧正はうわさの真偽を確かめようと、真夜中に突然に僧侶を集め、ソバをふるまった。ところが、六角堂に行っている筈の聖人があらわれ、僧侶達と一緒にソバを食べたのである。驚いたのは僧侶達。翼早朝、さらにビックリすることが起きた。朝もやの中を、聖人が大乗院に帰ってきたのである。では、ソバを食べたのは親鸞は誰だということになり、僧達は慌てて食堂に走った。そこで、彼らが見たものは、親鸞聖人とそっくりの木像であった。しかも、口もとにはソバがついていたという。この奇想天外な出来事に遭遇した僧侶達は、これ以来親鸞聖人をねたむ者はいなくなり、親鸞聖人の身代りとなった木像を『ソバ喰いのお木像』として、大切に伝えたと言われている。 比叡山延暦寺では、来年の親鸞聖人750回大遠忌法要のあわせて、本来安置してある大乗院から、この『ソバ喰いのお木像』を大講堂にお移し、多くの真宗門徒の皆さんにご縁を結んでいただこうと計画しておられる。なかなかどうして、延暦寺様もしっかりと考えておられる。 尚、『ソバ喰いのお木像』は、大乗院の他に京都三十三間堂の近く法住寺(ほうじゅうじ)にもある。この法住寺のお木像は、江戸時代後期の天保年間に、熱心な門徒の願いに応じて大乗院から下山されてたものと言われている。どちらが本物かと議論の余地がありますが、この際はどうでもよろしい。どちらも本物と理解すればよいのです。 なぜならば、昔から無動寺谷大乗院にて修行僧から『親鸞聖人のお木像と』して敬い、尊敬されて今に伝えられてきた事実、そして、多くの念仏者達からは親鸞聖人の比叡山のご苦労を偲ぶ格好のお話として信仰の対象になってきたという事実の方が大切なのです。 出典: https://blog.goo.ne.jp/myougenji/e/4f021886c8be28891ec2225b93e4bda6 |
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〔千日回峰行の祖『建立大師 相応和尚像』:『無動寺 明王堂』(滋賀県大津市坂本本町)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 1『無動寺』:『伝教大師 最澄』が開いた『日本天台宗』の本山『比叡山 延曆寺』・『東塔』・『無動寺谷』にある『千日回峰行』の拠点になる塔頭を訪ねて・・・^〜^v:(滋賀県大津市坂本本町)〔2018.06.03〕 『台風7号』接近中のおはようございます! もう一か月も前の日曜日(6/3)、 『比叡山 延曆寺』を訪ねた思い出記事をはじめます☆彡 今回は『延曆寺』訪問は、少しディープなスポット巡り まずは、『東塔』(とうどう)の琵琶湖に向かった『無動寺谷』、 7年間にわたって行う『千日回峰行』(せんにちかいほうぎょう)の拠点でもある 塔頭『無動寺』を初めての訪問! 鮮やかな辨財天さんの鳥居が目立つ 『比叡山ドライブウェイ』の三差路 『西尊院堂』から石段を下って 『坂本ケーブル』の『ケーブル延暦寺駅』を経て、 『無動寺参道』を少し下ると木漏れ日の中に 『千日回峰行』の9日間の堂入りの際、 深夜二時に行者が不動明王に捧げる水を 1日1回だけ汲む井戸『閼伽井』(あかい)☆彡 そして、5年700日を満行後に 最も過酷とされる『堂入り』が行われる 『明王堂』へと・・・^〜^v 『千日回峰行』については、写真のあとに解説します↓ 閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。サンスクリット語のargha(アルガ)の音写で、功徳水(くどくすい)と訳される。閼伽井から汲まれた水に香を入れることがあり、閼伽香水とも呼ばれることもある。 インドでは古く、来客に対し足をそそぐための水と食事の後口をすすぐための水が用意されたといい、それが仏教に取り入れられ、仏前や僧侶に供養されるようになったものである。 閼伽を汲むための井戸を「閼伽井」、その上屋を「閼伽井屋」、「閼伽井堂」と称される。また、閼伽を入れる瓶(びん)を水瓶(すいびょう=軍持)と称し、閼伽を入れる器を「閼伽器」、閼伽を供える棚を「閼伽棚」と称される。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BC%E4%BC%BD 無動寺(むどうじ)は、滋賀県大津市にある比叡山延暦寺東塔無動寺谷にある塔頭で、千日回峰行の拠点である。無動寺谷には明王堂・建立同上・大乗院・法曼院・弁天堂などがある。東塔の一谷ではあるが別格で「南山」と呼ばれている。 平安時代前期の貞観7年(865年)に天台宗の相応和尚によって建てられた。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%8B%95%E5%AF%BA_(%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%B8%82) 相応(そうおう、天長8年(831年) - 延喜18年11月3日(918年12月8日))は、平安時代前期の天台宗の僧。一般的には相応和尚(そうおうかしょう)と記述されている事が多い。建立大師(こんりゅうだいし)ともいう。 近江国浅井郡の人で、俗姓は櫟井氏。比叡山に無動寺を開創。千日回峰行の祖とされ、数々の霊験譚が伝えられている。なお、最澄の伝教大師、円仁の慈覚大師の諡号は、相応の奏請による。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%BF%9C_(%E5%83%A7) 千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とは、滋賀県と京都府にまたがる比叡山山内で行われる、天台宗の回峰行の1つ。満行者は「北嶺大行満大阿闍梨」と呼ばれる。 「千日」と言われているが、実際に歩くのは「975日」で、残りの「25日」は「一生をかけて修行しなさい」という意味である。 7年間にわたって行う。1〜3年目は年に100日、4〜5年目は年に200日行う。 無動寺で勤行のあと、深夜2時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と260箇所で礼拝しながら、約30 km を平均6時間で巡拝する。 途中で行を続けられなくなったときは自害する。そのための「死出紐」と、短剣、埋葬料10万円を常時携行する。 未開の蓮華の葉をかたどった笠をかぶり、白装束、草鞋履きで行う。 堂入り 5年700日を満行すると、最も過酷とされる「堂入り」が行われる。 入堂前には行者は生き葬式を行い、無動寺明王堂で足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥の4無行に入る。堂入り中は明王堂には五色の幔幕が張られ、行者は不動明王の真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。水を汲みに出る以外は、堂中で10万回真言を唱え続ける。 堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行から、衆生救済の利他行に入る。 6年目にはこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60 km の行程を100日続ける。 7年目には200日行い、はじめの100日は全行程84 km におよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30 km の行程に戻る。 満行後 満行者で、無動寺谷明王堂の輪番職にある者は、その後2〜3年以内に100日間の五穀断ち(米・麦・粟・豆・稗の五穀と塩・果物・海草類の摂取が禁じられる)の後、自ら発願して7日間の断食・断水で十万枚大護摩供(別名:火炙り地獄)を行う。 満行者は京都御所に土足参内し、加持祈祷を行う。京都御所内は土足厳禁であるが、満行者のみ許される。回峰行を創始した相応和尚が草鞋履きで参内したところ文徳天皇の女御の病気が快癒したからであるとも、清和天皇の后の病気平癒祈祷で草履履きのまま参内したからだともいわれている。 百日回峰行 (比叡山)を終えた者の中から、選ばれた者だけが行える。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%97%A5%E5%9B%9E%E5%B3%B0%E8%A1%8C_(%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1) |




