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〔『梅が枝餅』:『大宰府天満宮』にて 〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『大宰府天満宮』:『菅原道真』縁の『梅の花』春便り・・・^〜^v (福岡県太宰府市) 〔2010.02.20〕 春の便り『梅の花』ゆかりの『大宰府天満宮』へ、 そして、大好物『梅が枝餅』食べたさに..。 時折気まぐれな自然の振る舞い 『小雪』が吹雪く日もありますが、 本格的な春の便りを感じる今日この頃、 『大宰府天満宮』の『梅の花』の様子を・・・^〜^v 〔訪問時期: 2010.02.20〕 【太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)】は、 福岡県太宰府市にある神社。 菅原道真を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。 学問の神として知られる菅原道真が祀られている。 道真は901年に藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に権帥として左遷され、903年に死去した。 その遺骸を都まで送ろうとしたが、大宰府から外れた所で牛車を曳いていた牛が動かなくなった。 それはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、 そこに墓が作られ、905年には墓所に廟が建てられた。 安楽寺天満宮の創始。 ・・・・ 表参道のみならず、境内の裏手にも点在する茶屋。 飛梅にまつわるものが多い。 飛梅とは、菅原道真が京都から左遷されたとき、京都から飛んできたとされる梅である。 「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」 という有名な歌はその伝説を詠んだもので、拝殿の手前にその飛梅の古木がある。 太宰府天満宮での御神酒は梅酒である。 また参道には梅ヶ枝餅と呼ばれる餡入りの焼き餅を販売している店が並ぶ。 |
神 社・仏 閣
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〔『南神門』:『明治神宮』にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『明治神宮』に、初詣^〜^v:『JR代々木駅』から、『JR原宿駅』へと・・・:『明治神宮』にて(2010.01.08) (東京都渋谷区) 日本一の初詣の参拝者を集める『明治神宮』に 少し遅い時期になりましたが、 初詣することが、できました・・・^〜^v コースは、『JR代々木駅』北参道から、 『明治神宮』へと、 そして、南参道で『JR原宿駅』へと..。 〔訪問時期:2010.01.08〕 【明治神宮(めいじじんぐう)】は、 東京都渋谷区にある神社。 初詣では例年日本一の参拝者数を集め、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする。 正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神宫』。 1912年(明治45年)に明治天皇が崩御し、 立憲君主国家としては初の君主の大葬であったがその死に関する法律はなく、 なんらかの記念(紀念とも)するための行事が計画される。 その事業は程なく予定されていた明治天皇即位50周年のものを引き継ぎ、 続いて1914年(大正3年)に皇后であった昭憲皇太后が亡くなると、 明治天皇と昭憲皇太后の遺徳を偲ぶ国民からふたりを祀る神社を求める機運が高まった。 これを受けて政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、 大正天皇の裁可を受けて1915年(大正4年)5月1日、 官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された。 明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ 代々木の南豊島世伝御料地を境内地として造営が行われた。 1920年(大正9年)11月1日に鎮座祭が行われた。 ちなみにこの御料地は、かつて近江彦根藩井伊家の下屋敷のあった場所で、 明治維新後に井伊家から政府に対して献上されたものである。 |
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〔笑顔の『福娘』さん達・・・@^@v:『堀川戎神社(ほりかわえびすじんじゃ)』にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『十日えびす』「商売繁盛で、笹持って来い・・・!」^〜^v:『お初天神』前から、『堀川戎』へと・・・:『堀川戎神社(ほりかわえびすじんじゃ)』にて(2010.01.10) (大阪市北区) 昨日は、『十日えびす』・・・^〜^ 昨年は、『今宮戎』だったので、 今年は、「堀川のえべっさん」で親しみのある『堀川戎』へ 大阪・梅田の『お初天神』の前から始まる『堀川戎参道道』 まだ時間帯が、少し早かったのか歩きやすかったです..。 『今宮戎』に比べると、少しこじんまりしていますが、 地元の『えべっさん』のように親しみを感じました。 それでは、ご一緒に「商売繁盛で、笹持って来い・・・!」 帰路は、『天神橋筋商店街』を通り抜けて・・・^〜^v 〔訪問時期:2010.01.10〕 【堀川戎神社(ほりかわえびすじんじゃ)】は、 大阪市北区にある神社である。 大阪市内および近畿一円では、大阪市内南部の今宮戎神社および兵庫県の西宮戎神社などと共に 商売繁盛の神様として知られている。 「堀川のえべっさん」として知られ、 毎年1月9日から11日にかけて十日戎(とおかえびす)が開催される。 蛭児大神(蛭子大神)を主祭神とし、少彦名命・天太玉命を配祀する。 社伝によれば、欽明天皇の時代、止美連吉雄が蛭子大神の神託により堀江で玉を得、 それを神体として富島に蛭子大神を祀ったのに始まる。 当時は瓊見社(たまみのやしろ)・止美社(とみのやしろ)と呼ばれていた。 白雉2年(651年)に少彦名命(淡島明神)、大宝3年(703年)に天太玉命を配祀した。 平治元年(1159年)、平治の乱を避けて丹波国何鹿郡山家に遷座した。 文和年間に現在地に遷座し、以降、堀川戎社と呼ばれるようになった。 明治40年(1907年)、近隣の神社を合祀して「堀川神社」に改称し、村社に列格した。 昭和20年に戦災で全ての建物を焼失し、昭和38年(1963年)に本殿が再建された。 江戸時代中ごろより祭礼が盛り上がり、 ミナミの今宮えびすとキタの堀川えびす が大阪の十日えびすを代表するようになる。 また今宮戎、西宮戎と並び、「三大戎」に数えられる。 |
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〔『入場規制』・・・@^@v:『大阪天満宮』にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 初詣『大阪天満宮』へ・・・^〜^v:『天神橋筋商店街』を通り抜け、『天満天神繁昌亭(てんまてんじんはんじょうてい)』へと・・・ (2010.01.01) (大阪市北区) 家族全員で元旦のお祝いを、 すこし飲みすぎ&食べすぎに...! 元旦は、いつも家でゆっくりなのですが、 酔った勢いで、『大阪天満宮』へ初詣に、 参道は、すごい参拝客で『入場規制』@^@! なんとか、一番前まで進み家族とブログの皆さんの御多幸をお祈りして、 ふと下を見ると、景気悪そうでした(爆) 押し出されるように出た、一方通行の出口は、 『天満天神繁昌亭(てんまてんじんはんじょうてい)』の正面に・・・^〜^v 〔訪問時期:2010.01.01〕 【天神橋筋商店街(てんじんばしすじしょうてんがい)】は、 大阪市北区にあるアーケード商店街。 南北2.6キロメートル、600店の日本一長い商店街である。 各商店街は、地名にならって「○丁目商店街」のように分類される。 【大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)】は、 大阪府大阪市北区に鎮座する神社(天満宮)。 「天満の天神さん」と呼ばれる。 別名に天満天神・浪華菅廟・中島天満宮がある。 毎年7月24日から25日にかけて行われる天神祭は 日本三大祭、大阪三大夏祭りの一つとして知られている。 901年に菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ配転させられた際、 同地にあった大将軍社に参詣した。 903年に菅原道真が没した後、天神信仰が始まる。 949年に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。 そのため村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりである。 【天満天神繁昌亭(てんまてんじんはんじょうてい)】は、 大阪府大阪市北区にある寄席。 上方落語唯一の寄席で、落語を中心に、漫才、俗曲などの色物芸が多数執り行われている。 元々は天神橋筋商店街で落語会を開く予定だったが、 打ち合わせをしていくうちに定席の寄席話が持ち上がり、 大阪大空襲後60年間上方落語には無かった定席が開設されることになった。 2005年12月1日に着工、2006年8月8日に竣工、2006年9月15日開席。 初代席亭には朝日放送出身の岩本靖夫が就いた。 岩本は2006年10月に退任。 その後2007年1月に「支配人」の名称で、和歌山放送出身の恩田雅和が席亭に就任。 「繁昌亭」の名前は、6代目笑福亭松鶴の発案により千里中央のセルシーホールで 上方落語協会が主催していた落語席「千里繁昌亭」に由来する。 |
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〔この作品は、淀川と大阪湾の『ゴミ』でできています!@^@:『水都大阪2009』にて・・・^〜^v〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『楠木 正成(くすのき まさしげ)』ゆかりの神社と『野崎参りの屋形船』ゆかりの船着場を訪ねて・・・^〜^v:『浪花人?の足跡散策』【後編】 (大阪府:四条畷市・大阪市) 〔2009.10.10〕 昨日は、『元・体育の日』台風一過のすばらしい秋日和 昔の大阪人=浪花人?の足跡を訪ねての散策を 『野崎観音(慈眼寺)』・『飯盛山』・『四条畷神社』・『八軒家船着場』そして『中之島公園』界隈へ 野崎参りで有名な『野崎観音(慈眼寺)』から『飯盛山』に登り 降りてきたところは、秋祭りの真っ最中、 ここ『四条畷』は、南北朝時代の1348年(正平3年/貞和4年)、 南朝方の『楠木正行』と足利尊氏の腹心である高師直との間の戦い:『四条畷の戦い』の地 まずは、土地の人々は「歯噛様」として祭っている『和田 賢秀(にぎた かたひで)』のお墓に そして、『楠木正行』ゆかりの『四条畷神社』へと、 丁度、神前結婚式の真っ最中・・・ JR『四条畷駅』から片町線(学研都市線)で『大阪城北詰駅』へ 次の目的場所は、『野崎参り』の際の『屋形船』の発着場所『八軒家船着場(はちけんやふなつきば)』 今は、京阪電鉄天満橋駅近くの昆布店の軒先に石碑が そしてここはまた、紀州熊野本宮への参詣路である熊野街道の出発点でも、 500m程、南の公園の傍には、石碑も・・・ この後は、明日(10月12日)までの『水都大阪2009』の会場へ 充実した秋の散策になりました・・・^〜^v 〔訪問時期:2009.10.10〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)】は、 南北朝時代の1348年(正平3年/貞和4年)1月5日、 河内国北條(現在の大阪府四條畷市・大東市)における、 南朝方の楠木正行と足利尊氏の腹心である高師直との間の戦いである。 足利方は本格的な南朝攻撃を決意し、ついに1348年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、 北上する楠木軍と四條畷に対峙した。 楠木軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れ、正行は弟の正時と刺し違えて自決した。 勢いに乗った高師直は、南朝の本拠吉野(奈良県吉野郡吉野町)に攻め入り陥落させ、 後村上天皇はじめ南朝は賀名生(同県五條市)に逃れた。 【和田 賢秀(にぎた かたひで、? - 貞和4年/正平3年1月5日(1348年2月4日))】は、 南北朝時代の武将。 またはけんしゅうとも呼ばれる。 楠木正季の五男(末男)で、楠木正成の甥。 貞和4年(1348年)正月、四條畷の戦いで正行と高師直で戦い敗死した。 かつて味方であった湯浅党の者に背後から討たれたという。 時に齢20前後だったという。 討死の際に敵将の首に噛み付き睨んで放さず、敵はそれが因で死んだと言う逸話が残っており、 土地の人々は賢秀の霊のことを「歯噛様」として祭っている。 【四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ)】は、 大阪府四條畷市にある神社である。 建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。 南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した楠木正行を主祭神とし、 一族の将士24人を配祀している。 付近にも楠公と付く地名が多く、 現在も楠木正成、正行親子は地元の人々から「楠公さん(なんこうさん)」と呼ばれ慕われていて、 この呼び名は「ちょっとなんこうさんにお参りしてくるわ」という感じで 四條畷神社そのものを指すのにも使われる事も多い。 境内やその周辺には桜が多く植えられており、春は多くの花見客でにぎわう。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【八軒家船着場(はちけんやふなつきば)】は、 大阪市中央区の旧淀川(大川)左岸に有る船着場である。 江戸時代には八軒の船宿などが軒を並べていた事から八軒家浜と呼ばれ、 京洛から淀川を下ってきた三十石船が到着した。 熊野参詣の起点としてだけでなく、京都と大坂を結ぶ淀川舟運の要衝として栄えた。 その様子は多くの書物に遺されている。 十返舎一九「東海道中膝栗毛」第八編では、 舟を下りた弥次郎兵衛と北八が「大坂の八軒家」で上陸し、 また摂津名所図会「八軒屋」、浪華百景「八軒屋夕景」には 八軒屋の賑わいが描かれている。 京阪電鉄天満橋駅から土佐堀通りを挟んだ向かいにある 永田屋昆布店の軒先に石碑が立っている。 |





