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〔『知恵の輪』:『智恩寺』(京都府宮津市天橋立文珠小字切戸)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『智恩寺(ちおんじ)』: 朝飯前に、初冬の日本三景『天橋立』ちょっぴり散歩・・・^〜^♪:(京都府宮津市天橋立文珠小字切戸)〔2012.12.21〕 おはようございます! 先日、所用でお泊りした竜宮城のような温泉宿の目覚め、 しっかり、髪が真っ白でないのを確認(笑)。 朝風呂で体を温めて、 朝飯前の日本三景『天橋立』ちょっぴり散歩。 日本海側の海とは思えない穏やかな宮津湾を 横切る『天橋立』の袂には、 日本三文殊のひとつとされる知恵の文殊で有名な『智恩寺(ちおんじ)』。 人一人いない朝の境内をゆっくりひとまわりして、 静かな初冬の『天橋立』を楽しむ・・・^〜^v 〔訪問時期:2012.12.21〕 【智恩寺(ちおんじ)】は、 京都府宮津市にある臨済宗妙心寺派の寺院。 山号は天橋山(てんきょうざん)または五台山。 切戸(きれど)の文殊、、九世戸(くせと)の文殊、知恵の文殊とも呼ばれる。 奈良県桜井市の安倍文殊院、山形県高畠町の亀岡文殊とともに日本三文殊のひとつとされる。 本尊の文殊菩薩は秘仏とされる。 正月三が日、1月10日、7月24日の年5日の開帳がある。 |
神 社・仏 閣
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〔『こまいぬ』:『野崎観音・福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)』(大阪府大東市野崎二丁目7-1)にて〕 『四條畷神社』・『野崎観音』:南朝の将士24人を配祀する『四條畷神社』、『野崎参り』の『野崎観音』で一休み・・・^〜^v:『東高野街道』『大阪府四條畷市・大東市』〔2012.08.18〕 先週末(8/18)は、 大阪府内で最長の縦貫街道『東高野街道』。 その昔、京(京都)や浪花(大阪)から、 高野山を結ぶ『高野参拝道』のひとつ。 今から約700年前の西暦1300年代、 鎌倉時代から室町時代への南北朝時代、 このあたりは、 南朝方の楠木正行と足利尊氏の家臣高師直との戦い 『四條畷の戦い(しじょうなわてのたたかい)』の場。 そして、南朝の将として戦い、四條畷の戦いで敗死した 『楠木 正行(くすのき まさつら)』を主祭神とし、 一族の将士24人を配祀しているのが、 『四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ)』。 西の空を見上げると、夏の風物詩『真っ白の入道雲』が、大空高く巨人のように・・・@¥@ 再びチャリンコは、『東高野街道』をひたすら南へと、 次の一休みの場所は、『野崎観音』。 江戸時代・天和2年(1682年)から続く『野崎参り』は、 有縁無縁問わずすべてのものに感謝を捧げることで知られ、 『お染久松』の物語はじめ、 多くの人形浄瑠璃や落語の作品を通じて有名な野崎観音のお寺は、 『福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)』。 そして、あの真っ白な入道雲は、 西の空を真っ暗に大変身させ、 ゲリラのように豪雨の夕立が大接近・・・^〜^! 【訪問時期:2012.08.18】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【四條畷神社】 【野崎観音】 |
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〔『親鸞聖人坐像』:『宝物館』・『本山専修寺(せんじゅじ)』(三重県津市一身田町2819)にて 〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『宝物館』【後編】:『親鸞聖人の御直筆(影印複製)』と出逢う・・・^〜^v:『本山専修寺(せんじゅじ)』(三重県津市一身田町2819) 『本山専修寺(せんじゅじ)』は、 浄土真宗「真宗十派」の一派『真宗高田派』の本山。 ここには、東西本願寺よりも多い、 現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵している・・・^〜^v 〔訪問時期: 2012.06.03〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【本山専修寺】 現在の三重県津市一身田町にある専修寺は、 1469〜1487年に真慧(しんね)が伊勢国の中心寺院として建立した。 当時この寺は「無量寿院」と呼ばれており、文明10年(1478年)には真慧は朝廷の尊崇を得て、 「この寺を皇室の御祈願所にする」との後土御門天皇綸旨(専修寺文書第29号)を得ることに成功した。 高田の本寺が戦国時代に兵火によって炎上したことや教団の内部事情から、 歴代上人がここへ居住するようになり、しだいにここが「本山専修寺」として定着した。 数多い親鸞聖人の真筆類もここへ移され、 親鸞の肖像をはじめ、直弟子などの書写聖教など貴重な収蔵品を多数保持している。 阿弥陀如来立像を本尊とする。 本山専修寺の伽藍は二度の火災に遭ったが再建されている。 浄土真宗最大宗派の東西本願寺に匹敵する広大な境内を持ち、周囲は寺内町を形成している。 その集落は現在もはっきり見分けることができる。 地元では「高田本山」と呼ばれている。 真宗高田派専修寺(およびその末寺)では他の真宗教団と異なり歎異抄を聖典として用いていない (否定しているわけではないことに要注意)。 これは「専修寺には親鸞聖人の真筆文書が多数伝来しており、 弟子の聞き書きである歎異抄をあえて用いる必要性が薄い」との考えによるものである。 なお、専修寺は現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵しており、 これは東西本願寺よりも多い数である。 |
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〔『名号軸』:『宝物館』・『本山専修寺(せんじゅじ)』(三重県津市一身田町2819)にて 〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『宝物館』【前編】:『親鸞聖人の御直筆(影印複製)』と出逢う・・・^〜^v:』『本山専修寺(せんじゅじ)』(三重県津市一身田町2819) 『本山専修寺(せんじゅじ)』は、 浄土真宗「真宗十派」の一派『真宗高田派』の本山。 ここには、東西本願寺よりも多い、 現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵している・・・^〜^v 〔訪問時期: 2012.06.03〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【本山専修寺】 現在の三重県津市一身田町にある専修寺は、 1469〜1487年に真慧(しんね)が伊勢国の中心寺院として建立した。 当時この寺は「無量寿院」と呼ばれており、文明10年(1478年)には真慧は朝廷の尊崇を得て、 「この寺を皇室の御祈願所にする」との後土御門天皇綸旨(専修寺文書第29号)を得ることに成功した。 高田の本寺が戦国時代に兵火によって炎上したことや教団の内部事情から、 歴代上人がここへ居住するようになり、しだいにここが「本山専修寺」として定着した。 数多い親鸞聖人の真筆類もここへ移され、 親鸞の肖像をはじめ、直弟子などの書写聖教など貴重な収蔵品を多数保持している。 阿弥陀如来立像を本尊とする。 本山専修寺の伽藍は二度の火災に遭ったが再建されている。 浄土真宗最大宗派の東西本願寺に匹敵する広大な境内を持ち、周囲は寺内町を形成している。 その集落は現在もはっきり見分けることができる。 地元では「高田本山」と呼ばれている。 真宗高田派専修寺(およびその末寺)では他の真宗教団と異なり歎異抄を聖典として用いていない (否定しているわけではないことに要注意)。 これは「専修寺には親鸞聖人の真筆文書が多数伝来しており、 弟子の聞き書きである歎異抄をあえて用いる必要性が薄い」との考えによるものである。 なお、専修寺は現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵しており、 これは東西本願寺よりも多い数である。 |
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〔『石板橋』:『雲幽園』・『本山専修寺(せんじゅじ)』(三重県津市一身田町2819)にて 〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『本山専修寺(せんじゅじ)』【後編】:如来堂と御影堂の背後には、自然の美をそのままに生かした名園『雲幽園』が・・・^〜^v:(三重県津市一身田町2819)〔2012.06.03〕 『本山専修寺(せんじゅじ)』は、 浄土真宗「真宗十派」の一派『真宗高田派』の本山。 その、如来堂と御影堂の背後にある庭園は、 『雲幽園』よばれ、 ほとんど石組みを作らず、自然の美をそのままに生かした 池をめぐって歩く廻遊式庭園 僕好みの名園・・・^〜^v 〔訪問時期: 2012.06.03〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『池をめぐる廻遊式のお庭』 両御堂の裏側一帯10,750平方メートル(3,250坪)は庭園になっています。 正式には「雲幽園」と名づけられているのですが、 一般にはお茶席の名をとって「安楽庵の庭」と呼ばれています。 池をめぐって歩く廻遊式庭園で、入口から右へ、竹籔の中の間の苔むした道を進むと、 茅葺の門があります。 「雀の御宿」へ来たような気分です。 門をくぐると、大きな短冊型の延べ石二枚が橋になっていて、 そこから飛石づたいに進みます。 道が二つに分かれるところに、古風な釣瓶(つるべ)井戸があります。 むかし茶席の席の水はここで汲んだのだそうです。 そこから右手に進むと、杉苔が草むした広いお庭で、 向こうに安楽庵の書院が見えて、静寂そのものです。 道を左手にとると、潜り門があって、そこからが内露地です。 砂雪隠や待合があって、茶席へつづくあたりは右の配置一つにも趣向が凝らされていて、 この庭の大きなポイントです。 樹の間がくれに見る中の島も風情があります。 水際にも石組を全く使わない州浜型(すはまがた)です。 言わば自然のままの姿です。 |


