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〔『福知山城(ふくちやまじょう)』:『福知山市郷土資料館(京都府福知山市字内記内記一丁目)』〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『福知山(ふくちやま)』:四季折々の多くの移ろいを感じた日本海に近い盆地の思い出の町・・・・^〜^v:』:『京都府福知山市(ふくちやまし)』にて 〔2011.08.24〕 〔2011.08.24〕 つい先日の徘徊先は僕の思い出の町、 京都府の日本海近くに位置する『福知山』。 その昔『明智光秀』所縁の地で、城下町として繁栄した町は、 『小倉百人一首』に登場する『大江山』や『由良川』や、 日本海も近く四季折々の多くの移ろいを感じる町。 60番:小式部内侍『大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天橋立』 46番:曽禰好忠『由良のとを 渡る舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな』の歌で歌われた地は、 多くの氾濫でこの町を壊滅的な状態にした市中を流れる『由良川』、 そして、町の北方にある『大江山』、 この山を越せばその向うには、『天橋立』や『日本海』が眼下に。 もう25年以上も昔にわずか二年の間、 家族と住んだこの地で僕が感じた自然の移ろいの美しさは、 大切に心の宝箱に・・・^〜^v 〔訪問時期: 2011.08.24〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【福知山市(ふくちやまし)】は、 京都府北部(旧丹波国)の丹波地方に位置する、 京都市と旧伏見市に続いて府下三番目に市制を施行した市である。 さまざまな出土品から、少なくとも縄文時代の始め頃から人が住んでいたと考えられており、 古くから交通の要衝として栄えた場所でもある。 特に16世紀には、織田信長の家臣・明智光秀が、 この地方を一族で支配していた塩見信房を倒し、 その居城であった横山城を大修築し福智山城(後の福知山城)としてからは、 城下町として栄え、現在でも「鋳物師町」、「呉服町」など地名にその名残を残している。 また、光秀は、たびたび大氾濫を起こしていた由良川の治水に成功し、 地子銭を免除するなどの善政を敷いたことから、御霊神社に祀られ、 現在でも市の花も明智氏の家紋であるキキョウとするなど、光秀への信望はあつい。 一方、特産品の藍染などのさまざまな農産品を生産し、それらを扱う商業都市として栄えてきたが、 後継者不足などの問題によりそれらの伝統産業は衰退し、現在ではほぼ消滅している。 【福知山城(ふくちやまじょう)】は、 京都府福知山市字内記内記一丁目周辺にある平山城。 江戸時代には福知山藩の居城であった。 現在のような縄張りは明智光秀がおこなった。 畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じた。 豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入った。 丹波国を平定した明智光秀が築城し、女婿の明智秀満を城主とした。 現在は、福知山城公園として整備され、 天守は三重三階の大天守と二重二階の小天守が1986年(昭和61年)に復元された。 福知山市郷土資料館の施設となっている。 公園入口には隅櫓風城郭建築様式の福知山市佐藤太清記念美術館がある。 市街地を一望する福知山盆地の中央に突き出た丘陵の先端地にあり、 その地形の姿から臥龍城の別名を持つ。 東から西に流れる由良川が天然の堀となっており、 北側には土師川と合流する標高40mの台地に築かれ展望のよくきく地である。 東、北、西は断崖で要害の地でもあった。 |
♠ 徘徊日誌 ♠
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〔『日本一低い谷中中央分水界』:『水分れ公園(兵庫県丹波市氷上町石生)』にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『水分れ公園(みわかれこうえん)』:雨つぶは、『瀬戸内海』と『日本海』へと分かれ分かれの旅の出発点・・・・^〜^v:』:『水分れ公園(兵庫県丹波市氷上町石生)』にて 〔2011.08.24〕 つい先日の徘徊先は、米どころのひとつ『兵庫県丹波市氷上町』 ここには、『日本一低い谷中中央分水界』が、 近くの山に降った雨つぶは、 約70km先の『瀬戸内海』と約70km先の『日本海』へと、 ここで、分かれ分かれに、 長い旅に出かける出発点・・・^〜^v 〔訪問時期: 2011.08.24〕 . 【水分れ公園(みわかれこうえん)】は、 兵庫県丹波市氷上町石生にある公園。 本州一低い分水界である「水分れ」の近隣に作られている。 公園内を流れる高谷川(加古川水系)の水路分岐点。 丹波市氷上町石生地区には、 本州一標高の低い中央分水界(石生新町交差点あたりで95.45m、分水点延長約1,250m)があり、 その境界上にある道路の南に加古川水系支流の高谷川が流れており、公園はその上流にある。 高谷川の公園入口付近に用水路の分岐点が設けられ、 用水路側は分水界の北側へ導かれてここを起点に黒井川、竹田川、土師川、由良川を経て 約70km先の日本海へ流れていく。 また、高谷川本流は加古川を経て約70km先の瀬戸内海へ流れていく。 公園内には、水別れ資料館、人工の滝や広場が整備されている。 また、延喜式神名帳に記載されている式内社である「イソ部神社」(「イソ」は山偏に石)がある。 |
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〔『バッタ(飛蝗)』:『兵庫県南あわじ市』にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『小宰相(こざいしょう)』:鳴門海峡を望む、淡路島南部は、平家物語所縁の歴史と自然の宝庫・・・^〜^v:『兵庫県南あわじ市』にて 〔2011.08.18〕 先日の徘徊先は、日本最大の島『淡路島』の南部『南あわじ市』、 島内最大の市『南あわじ市』の人口密度は島内3つの市の中で最低。 『鳴門海峡(なるとかいきょう)』の対岸は、四国。 瀬戸内海と太平洋との潮位の差で出来る、『鳴門の渦潮』で有名な地。 この地は、『平家物語』の一ノ谷の戦いでの悲話 『平通盛』の妻『小宰相』ゆかりの地・・・^〜^v 〔訪問時期: 2011.08.18〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【小宰相(こざいしょう、嘉応元年(1164年)??- 寿永3年2月14日(1184年3月27日))】は、 平安時代末期の女性。 刑部卿藤原憲方の娘。 平通盛の妻。 一ノ谷の戦いでの平通盛の死とその妻小宰相が後を追って入水したエピソードは、 古典軍記物語『平家物語』で一章が割かれ、一ノ谷の戦いでの象徴的な悲話になっている。 小宰相は上西門院(鳥羽天皇の皇女で後白河天皇の同母姉)の女房で、 宮中一の美女とうたわれた。 彼女が16歳のとき(治承3年(1179年)頃?)に法勝寺の花見にお供した際に、 これを見た中宮亮通盛は彼女に一目ぼれした。 その後、和歌や恋文をしきりに贈るが3年たっても小宰相は返事をしなかった。 これが最後と思い、文を書き使いに渡したが、折悪しく取次の女房がおらず、使いが戻ろうとすると、 ちょうど里から帰ってくる小宰相の車に行き合った。 使いは文を車に投げ入れて去った。 小宰相はとりあえず持ち帰ったが、御所で宮仕えしていたとき上西門院の前でこの文を取り落とし、 女院はこれを拾って「あまり気が強いのもよくありませんよ」と、 みじめな最期を遂げたという小野小町の例を出して、 自ら硯を取り寄せて返事を書いてやるようにうながした。 こうして女院の仲立ちで通盛と小宰相は結ばれた。 恋愛の末に結ばれたので、ふたりはたいそう仲睦まじかった。 .... 寿永3年(1184年)正月、義仲は鎌倉の源頼朝の弟の範頼・義経に滅ぼされ、 同年2月には範頼・義経は大軍を率いて福原へ迫った。 合戦を前に、通盛は沖合の船団から妻を呼び寄せ 「明日の戦で討ち死にする様な気がする。 私がそうなったら、君はどうする」と言った。 小宰相は戦はいつものことだから、この言葉が本当だとは思わず、 自分が身籠っていることを告げた。 通盛は「わたしは30歳になるが、どうせなら男子であって欲しい。 幾月になるのか?船上のことだから、心配だなあ」と大そう喜んだ。 そこへ平家随一の剛勇で知られた弟の教経がやって来て、 怒りながら「ここはこの教経が置かれるほどの危険な戦場ですぞ。 そのような心がけではものの役に立ちますまいに」と兄をたしなめた。 通盛ももっともなことと思い妻を船へ帰した。 合戦は平家の大敗に終わり、一門の多くの者が討ち死にし、通盛もまた船へ帰ってこなかった。 屋島へ向かう平家の船団の中で小宰相は、夫が討たれたとは聞いてはいたが、 何かの間違いであろうと、 生きて帰ることもあるかもしれないと心細く夫の帰りを待ち続けていた。 小宰相が乗船している船に通盛の従者の滝口時員がやってきて、 通盛が湊川で討死した旨と最後の奮戦の様子を報告した。 これを聞いて小宰相は返事もできずに泣き伏し、夜が明けるまで起き上がることもできなかった。 2月14日、船団が屋島に到着する夜、 小宰相は乳母に「湊川の後、誰も夫と会った人はいませんでした。 もう、夫は亡きものと覚悟しました」と言うと福原での夫との最後の対面のことを語り、 「子を産んで形見として育てねばならないと思うが、 悲しみは増すばかりで、亡き人の恋しさに苦しむよりは海の底へ入ろうと思い定めました。 どうか夫と私の菩提を弔っておくれ」と頼んだ。 乳母は涙を抑えて「子を産んで育て、尼になって生きるべきです」と必死に止めた。 小宰相もその場は「身を投げるといって、本当に身を投げる人はいませんよ」と 思いとどまったように答えた。 やがて、乳母がうたた寝すると小宰相は起き上がり、 「南無西方極楽世界…どうか、別れた夫婦を極楽で会わせてください」と 念仏を唱えると海に身を投げた。 梶取りがこれを見かけて、乳母を起こして、みなで海を探し、 ようやく小宰相の体を引き揚げたが、すでに死んでいた。 乳母は通盛の鎧を亡骸に着せて、泣く泣く小宰相を海に沈めて葬った。 その後、乳母は通盛の弟で僧侶になっていた中納言律師仲快のもとで剃髪出家して、 通盛と小宰相の菩提を弔った。 |
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〔『黒猫』:『先山千光寺(せんざんせんこうじ)』『兵庫県洲本市上内膳』にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『先山千光寺(せんざんせんこうじ)』:日本最初の山頂にある名刹、真夏の昼下がりはお昼寝中・・・^〜^v:『兵庫県洲本市上内膳』にて 〔2011.08.18〕 日中は、まだまだ暑い僕の地方、 先日の徘徊先は、日本最古の山頂に、 その昔、イザナギ・イザナミの二人の神が淡路島を創ったときに、 最初にできたのがこの先山(せんざん)。 そして、山頂には淡路島第一の名刹、 狛犬が猪の『先山千光寺』が・・・^〜^v 〔訪問時期: 2011.08.18〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 . 【先山(せんざん)】は、 兵庫県の淡路島中部にある標高448mの山。 洲本市上内膳に位置する千山山地の最高峰。 山名は国生み神話でイザナギ・イザナミの二人の神が淡路島を創ったときに、 最初にできた山がこの先山であるとされることから。 山頂には淡路島第一の名刹、先山千光寺が建つ。 本尊は千手観音。 縁起によると大猪に化身した観音菩薩に導かれた狩人が開基したとされ、 境内には狛犬ではなく神使として猪が置かれている。 梵鐘は弘安6年(1283年)の銘があり国の重要文化財である。 本堂の鰐口は天文15年(1546年)のもの。 また仁王像は運慶の作であるといわれる。 古くから信仰を集めており、今も大晦日の夜の「除夜詣」から正月の初詣にかけて賑わう。 |
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〔『日本基督教団今津教会会堂』:(滋賀県高島市今津町今津1650-1)にて〕 【画面右下の◎上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『ヴォーリズ通り』:JR湖西線 「近江今津駅」近くに残る『ウィリアム・メレル・ヴォーリズ』設計の3軒の歴史的建造物たち・・・^〜^V:(滋賀県高島市今津町今津)にて〔2011.08.05〕 今日の徘徊先は、滋賀県・湖西北部のJR湖西線 「近江今津駅」近く ここにも、『ウィリアム・メレル・ヴォーリズ』設計の歴史的建造物が、 その名も『ヴォーリズ通り』に面する3軒の建物、 まずは、お昼御飯はなじみの老舗『西友(にしとも)本店』で、 しっかり、うな重を... 食後の散策先は、『ヴォーリズ通り』に面している 『今津ヴォーリズ資料館(元・百三十三銀行今津支店)』 『今津教会会堂』 『旧今津郵便局』 と3軒の歴史的な建物を... そして、近くの『マキノ町』にある『清酒・竹生嶋(ちくぶじま)』の酒蔵に・・・^〜^v 【訪問時期:2011.08.05】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【西友(にしとも)・本店】 住所 〒520-1623 滋賀県高島市今津町住吉2-1-20 TEL 0120-39-2105 0740−22−9111 FAX 0740−22−5951 営業時間 (販売) 10:00〜19:00 (お食事処)11:00〜15:00(オーダーストップ14:20) 17:00〜21:00(オーダーストップ20:00) 定休日 (年末年始除く) 不定休(1月・2月は月曜定休) ※定休日変更の場合があります . 【ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880年10月28日 - 1964年5月7日)】は、 アメリカ合衆国に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家。 建築家でありながら、ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人として メンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもある。 そしてまたYMCA活動を通し、また「近江ミッション」を設立し、 信徒の立場で熱心にプロテスタントの伝道に従事した。 よく「宣教師」と紹介されるが、彼はプロの牧師ではなくキリスト教徒伝道者である。 讃美歌などの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介するなど、 音楽についての造詣も深かった。 【吉田酒造有限会社】 〒520-1811 滋賀県高島市マキノ町海津2292 TEL 0740-28-0014 FAX 0740-28-1390 |





