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〔『日本一低い谷中中央分水界』:『水分れ公園(兵庫県丹波市氷上町石生)』にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『水分れ公園(みわかれこうえん)』:雨つぶは、『瀬戸内海』と『日本海』へと分かれ分かれの旅の出発点・・・・^〜^v:』:『水分れ公園(兵庫県丹波市氷上町石生)』にて 〔2011.08.24〕 つい先日の徘徊先は、米どころのひとつ『兵庫県丹波市氷上町』 ここには、『日本一低い谷中中央分水界』が、 近くの山に降った雨つぶは、 約70km先の『瀬戸内海』と約70km先の『日本海』へと、 ここで、分かれ分かれに、 長い旅に出かける出発点・・・^〜^v 〔訪問時期: 2011.08.24〕 . 【水分れ公園(みわかれこうえん)】は、 兵庫県丹波市氷上町石生にある公園。 本州一低い分水界である「水分れ」の近隣に作られている。 公園内を流れる高谷川(加古川水系)の水路分岐点。 丹波市氷上町石生地区には、 本州一標高の低い中央分水界(石生新町交差点あたりで95.45m、分水点延長約1,250m)があり、 その境界上にある道路の南に加古川水系支流の高谷川が流れており、公園はその上流にある。 高谷川の公園入口付近に用水路の分岐点が設けられ、 用水路側は分水界の北側へ導かれてここを起点に黒井川、竹田川、土師川、由良川を経て 約70km先の日本海へ流れていく。 また、高谷川本流は加古川を経て約70km先の瀬戸内海へ流れていく。 公園内には、水別れ資料館、人工の滝や広場が整備されている。 また、延喜式神名帳に記載されている式内社である「イソ部神社」(「イソ」は山偏に石)がある。 |
【兵庫の四季さんぽ】
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〔『雪景色』:『神戸市中央区』にて〕 『神戸・北野町山本通』:雪の神戸・北野町および山本通界隈を散策・・・^〜^V:『兵庫県神戸市中央区』にて〔2011.02.11〕 今日は、全国的に雪模様、 神戸も六甲山麓を中心に、雪景色になりました。 そんな神戸の山の手、異人館の多い 北野町および山本通界隈を散策してきました・・・^〜^V 【訪問時期:2011.02.11】 . 【北野町山本通(きたのちょうやまもとどおり)】は、 兵庫県神戸市にある街区に対する呼称。 明治大正期に建てられた洋風建築物(異人館)が数多く残存することから、 中央区の北野町と山本通一丁目から山本通三丁目界隈の地域を このように一括して呼ぶことがある。 北野町および山本通界隈には、 明治20年代から大正期(19世紀末〜20世紀初)にかけて建設された洋風住宅(いわゆる異人館)が 多数残り、それらが和風住宅と混在して調和のとれた街並みを形成している。 こうした伝統的建造物群が集中して残る、東西約750メートル、南北約400メートルの地区が、 1980年には種別「港町」として最初に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 保存地区内では、洋風建築物34棟、和風建築物7棟等が伝統的建造物として特定され、 保存措置が講じられている。 江戸幕府は、1858年、アメリカと結んだ日米修好通商条約など五ヶ国と安政の五か国条約を締結し、 箱館(函館市)、新潟(新潟市)、神奈川(横浜市)、兵庫(神戸市)、長崎(長崎市)の5か所の港を 開くことになった。 条約では、開港地には外国人居留地を設けることが義務付けられ、 兵庫では近くの神戸村の海岸沿いの地区が居留地と定められた。 しかし、この居留地の整備が思うように進まなかったことから、 周辺地区にも外国人住宅の建設が進められた。 外国人居留地の北方、六甲山麓に位置する北野町山本通はそうした地区の1つである。 神戸の中心部である商工業地域とはやや離れており、 また外国人居住区ということで神戸大空襲の対象とされなかったことが幸いし、 垂水区のジェームス山などと並んで、 戦前の神戸の優雅な雰囲気を残す稀少な街並みとなっている。 |
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〔『お局塚』:『兵庫県南あわじ市』にて〕 【画面右下の◎上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『お局塚』:「南無西方極楽世界…どうか、別れた夫婦を極楽で会わせてください」と念仏を唱えると海に身を投げた『小宰相(こざいしょう)』の塚に出逢う・・・:兵庫県南あわじ市〔2010.09.09〕 もう一ヶ月以上も前に訪れた、淡路島の南端『南あわじ市』、 山中に、ひっそりと大切に保存されている『お局塚』に出逢う、 石碑によれば、 「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しで知られている『平家物語』の『平通盛』の妻の碑。 彼らは、三年越しの大恋愛の末に結ばれたが、 平家の大敗の結果、討ち死にした『平通盛』をおって、 子供を宿していた『小宰相』も、 鳴門の海に身を投げたとか... 物語としては、美しいお話かも知れませんが、 あまりにも悲しすぎます・・・^〜^(涙) 【撮影時期:2010.09.09】 【小宰相(こざいしょう、嘉応元年(1164年)?- 寿永3年2月14日(1184年3月27日))】は、 平安時代末期の女性。 刑部卿藤原憲方の娘。 平通盛の妻。 一ノ谷の戦いでの平通盛の死とその妻小宰相が後を追って入水したエピソードは、 古典軍記物語『平家物語』で一章が割かれ、一ノ谷の戦いでの象徴的な悲話になっている。 小宰相は上西門院(鳥羽天皇の皇女で後白河天皇の同母姉)の女房で、宮中一の美女とうたわれた。 彼女が16歳のとき(治承3年(1179年)頃?)に法勝寺の花見にお供した際に、 これを見た中宮亮通盛は彼女に一目ぼれした。 その後、和歌や恋文をしきりに贈るが3年たっても小宰相は返事をしなかった。 これが最後と思い、文を書き使いに渡したが、折悪しく取次の女房がおらず、使いが戻ろうとすると、 ちょうど里から帰ってくる小宰相の車に行き合った。 使いは文を車に投げ入れて去った。 小宰相はとりあえず持ち帰ったが、御所で宮仕えしていたとき上西門院の前でこの文を取り落とし、 女院はこれを拾って「あまり気が強いのもよくありませんよ」と、 みじめな最期を遂げたという小野小町の例を出して、 自ら硯を取り寄せて返事を書いてやるようにうながした。 こうして女院の仲立ちで通盛と小宰相は結ばれた。 恋愛の末に結ばれたので、ふたりはたいそう仲睦まじかった。 ・・・・ 寿永3年(1184年)正月、義仲は鎌倉の源頼朝の弟の範頼・義経に滅ぼされ、 同年2月には範頼・義経は大軍を率いて福原へ迫った。 合戦を前に、通盛は沖合の船団から妻を呼び寄せ 「明日の戦で討ち死にする様な気がする。私がそうなったら、君はどうする」と言った。 小宰相は戦はいつものことだから、この言葉が本当だとは思わず、自分が身籠っていることを告げた。 通盛は「わたしは30歳になるが、どうせなら男子であって欲しい。 幾月になるのか?船上のことだから、心配だなあ」と大そう喜んだ。 そこへ平家随一の剛勇で知られた弟の教経がやって来て、怒りながら 「ここはこの教経が置かれるほどの危険な戦場ですぞ。そのような心がけではものの役に立ちますまいに」 と兄をたしなめた。 通盛ももっともなことと思い妻を船へ帰した。 合戦は平家の大敗に終わり、一門の多くの者が討ち死にし、通盛もまた船へ帰ってこなかった。 屋島へ向かう平家の船団の中で小宰相は、夫が討たれたとは聞いてはいたが、 何かの間違いであろうと、生きて帰ることもあるかもしれないと心細く夫の帰りを待ち続けていた。 小宰相が乗船している船に通盛の従者の滝口時員がやってきて、 通盛が湊川で討死した旨と最後の奮戦の様子を報告した。 これを聞いて小宰相は返事もできずに泣き伏し、夜が明けるまで起き上がることもできなかった。 2月14日、船団が屋島に到着する夜、小宰相は乳母に 「湊川の後、誰も夫と会った人はいませんでした。もう、夫は亡きものと覚悟しました」 と言うと福原での夫との最後の対面のことを語り、 「子を産んで形見として育てねばならないと思うが、悲しみは増すばかりで、 亡き人の恋しさに苦しむよりは海の底へ入ろうと思い定めました。 どうか夫と私の菩提を弔っておくれ」と頼んだ。 乳母は涙を抑えて「子を産んで育て、尼になって生きるべきです」と必死に止めた。 小宰相もその場は「身を投げるといって、本当に身を投げる人はいませんよ」 と思いとどまったように答えた。 やがて、乳母がうたた寝すると小宰相は起き上がり、 「南無西方極楽世界…どうか、別れた夫婦を極楽で会わせてください」と念仏を唱えると海に身を投げた。 梶取りがこれを見かけて、乳母を起こして、みなで海を探し、ようやく小宰相の体を引き揚げたが、 すでに死んでいた。 乳母は通盛の鎧を亡骸に着せて、泣く泣く小宰相を海に沈めて葬った。 その後、乳母は通盛の弟で僧侶になっていた中納言律師仲快のもとで剃髪出家して、 通盛と小宰相の菩提を弔った。 人々は、夫に先立たれた妻は尼になるのが普通なのに、後を追うとは珍しいことだと感心し 「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえず」と(『史記』の故事をひいて)言い合った。 『建礼門院右京大夫集』にも上西門院の美人で有名だった女房が通盛の妻となり、 夫の死の後を追ったことが「これまでにない契の深さよ」と京都でも評判になったと記されている。 |
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〔『布団太鼓(ふとんだいこ)』: 兵庫県神戸市垂水区(西垂水)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『海神社・秋祭り』:半世紀ぶりに、『布団太鼓』(西垂水)に出逢う・・・^〜^v:兵庫県神戸市垂水区 〔2010.10.10〕 昨日(10/10)は、JR山陽本線『垂水駅』近くのお友達から『秋祭り』のご招待、 そこには、『海上渡御祭』で有名な『海神社(わたつみじんじゃ/かいじんじゃ)』が、 昨日のお目当ては、『布団太鼓』。 子供頃僕の住んでいた地区にもあったのですが、 かれこれ、半世紀ぶりの『布団太鼓』との出逢いです! 日本の秋は、『秋祭り』の季節、子供頃の思い出にひたりながら、 素敵な日本の秋の一日を過ごすことができました・・・★感謝★ 〔撮影時期: 2010.10.10〕 【ふとん太鼓(ふとんだいこ)】は、 大阪府河内・和泉地方や、兵庫県播磨・淡路その周辺で担がれる大型の太鼓台のことである。 重さは1.0t〜2.5tあり、約50〜70人ほどで毎年各神社の祭礼で派手な演出と共にいきおいよく担がれている。 現在では少なくなったが戦前は一カ所の神社で約10台以上、宮入されていた所(開口神社、菅原神社)もある。 【海神社(わたつみじんじゃ)】は、 兵庫県神戸市垂水区にある神社である。 式内社(名神大社)で、旧社格は官幣中社。 伊和神社、粒坐天照神社とともに播磨三大社とされる。 「綿津見神社」とも表記され、「かいじんじゃ」とも読まれる。 古くは、あまじんじゃ・たるみじんじゃ、日向大明神、衣財田大明神。 「ワタツミ」の読みは本居宣長の説に基づき明治4年に採用したものである。 『播磨国官幣中社海神社史』では「古例の通りアマもしくはタルミと読むべきである」としている。 「タルミ」の読みは、祭神の本来の名称が垂水神であったことによるものである。 「アマ」は、当社が海直(あまのあたい)の氏神であったことによる。 海神三座として以下の三神を主祭神とし、大日孁貴尊を配祀する。 上津綿津見神(うわつわたつみのかみ):海上=航海の神 中津綿津見神(なかつわたつみのかみ):海中=魚(漁業)の神 底津綿津見神(そこつわたつみのかみ):海底=海藻、塩の神 【三井アウトレットパーク マリンピア神戸(みついアウトレットパーク マリンピアこうべ)】は、 三井不動産が展開する三井アウトレットパークの一つ。 兵庫県神戸市垂水区海岸通。垂水沖を埋め立てて1999年に開業した。 神戸市内は勿論、兵庫県全域や岡山、大阪、四国方面からも多くの客が訪れる。 2009年3月に新商業棟「ファクトリーアウトレッツセントラル」が開業。 近畿初、日本初の専門店が多く出店する |
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〔『宝塚大橋』にて:(兵庫県宝塚市)〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『スミレの里』:『花のみち』を、『宝塚大劇場』・『阪急・宝塚南口駅』へと散策・・・^〜^v (兵庫県宝塚市) 〔2010.04.24〕 先週の週末(4/24)、旧福知山線跡ハイキングの帰り道 宝塚で、JRから阪急電鉄に乗り換えて帰宅、 まだ、お昼すぎだったので、阪急・宝塚南口駅まで散策しました。 以前は、遊園地『宝塚ファミリーランド』もあったのですが、 今では、ほとんどの敷地はマンションなどになっています。 宝塚駅前から、『花のみち』を通って、 『宝塚大劇場』へ、 武庫川を眺めるテラスで一休み、 その後、『宝塚大橋』をわたり、 『阪急・宝塚南口駅』へのコースです・・・^〜^v 〔撮影時期: 2010.04.24〕 【花のみち(はなのみち)】は、 兵庫県宝塚市の道路である。 阪急宝塚駅から宝塚大劇場を結ぶ段葛型道路で、 1924年の宝塚大劇場開場により造成された。 宝塚歌劇へ続く花道の意味がある。 桜をはじめ四季の花々や植物が植えられている。 並行したショッピング街、花のみち1番館・2番館は、2000年の改修時にオープンした。 |


