|
〔『浴龍池』(よくりゅうち):『千歳橋』(ちとせばし)・『上離宮』・『修学院離宮』(京都府京都市左京区修学院)にて〕 [完]『修学院離宮』【卯月】(うづき):【上離宮】昨春の思い出、、『比叡山』からの谷川を堰き止めた巨大な池の畔さんぽ・・・・^〜^v:(京都府京都市左京区修学院)〔2017.04.05〕 寒さ厳しい今冬、あまりの寒さで冬眠中の僕 未発表の昨年の京都の春の思い出を紹介中☆彡 昨年の春の訪れは例年より一週間ほど遅かったような そんな4月初めの京都の洛北にある『修学院離宮』を 参観したのは昨春の4/5のこと! 『上離宮』は、『修学院離宮』を構成する上中下の三つの離宮で 一番標高の高い位置にある山荘☆彡 谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園は、 上皇が力を入れて設計したと伝わる 巨大な人工池の『浴龍池』(よくりゅうち)と 『大刈込』を中心とした壮大な庭園! 眼下に拡がるその眺望を 『隣雲亭』(りんうんてい)から堪能し、 水鏡にも映える借景の山なみや木々を愛で、 洛北の自然に包まれた一本道を歩む風情を、 その足元の小さな春の到来を愛でる 懐かしい昨春の思い出を ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v 帰り道は、いつものように餃子とビールで乾杯して、 木屋町通を夜桜さんぽ☆彡 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【上離宮】 巨大な人工池の『浴龍池』(よくりゅうち)と『大刈込』を中心とした壮大な庭園である。 杮葺の御成門を入ると、右は山道、左は池畔の道となる。 『浴龍池』は谷川を堰き止めて造った人工池で、堤防は高さ13メートル、延長200メートルに及び4段の石垣で補強されているが、武骨な石垣が見えないよう、3段の生垣と大刈込で覆っている。 『大刈込』とは、異なる種類の樹木を混ぜ植えたものを刈込んで、全体の形を整えたものである。 『御幸門』から石段を上った離宮内の最高所に『隣雲亭』が建つ。 ここまで登ると、急に展望が開け、眼下に浴龍池、遠方に借景の山々を望む壮大な風景が広がる。 『浴龍池』には中央の中島『窮邃亭』のほか、2つの島があり、北側の島は三保島、南側の島は万松塢(ばんしょうう)という。 中島には東岸から楓橋、北岸から土橋が架かる。楓橋は欄干付の木橋。土橋は上に土を盛った木橋である。中島と万松塢の間には中国風な千歳橋が架かる。 上御茶屋の主要建物は隣雲亭と窮邃亭の2棟である。 |
皇居・御所・離宮・迎賓館の四季
[ リスト | 詳細 ]
|
〔『霞棚』(かすみだな):『客殿・一ノ間』・『中離宮』・『修学院離宮』(京都府京都市左京区修学院)にて〕 『修学院離宮』【卯月】(うづき):【下離宮】・【中離宮】『後水尾上皇』の指示で造営された離宮(皇居以外に設けられた天皇や上皇の別邸)の昨春の思い出・・・^〜^v:(京都府京都市左京区修学院)〔2017.04.05〕 寒さ厳しい今冬、あまりの寒さで冬眠中の僕 未発表の昨年の京都の春の思い出を紹介中☆彡 昨年の春の訪れは例年より一週間ほど遅かったような そんな4月初めの京都の洛北にある『修学院離宮』を 参観したのは昨春の4/5のこと! 叡電『一乗寺駅』近くの蕎麦屋で しっかり昼食をいただき、 参観時刻前に到着したので、 近くの『赤山禅院』に寄り道して、 一年ぶりの『修学院離宮』に入苑☆彡 洛北の春は、京都の町に比べて遅く 桜の花も咲き始めた侯、 東山連峰の山裾に造られた 『後水尾上皇』ゆかりの離宮は、、 谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園と その関連建物からなり、 『桂離宮』や『仙洞御所』とならぶ、 王朝文化の美意識の到達点☆彡 それでは、約1時間20分の約3kmほどの苑路の参観を、 宮内庁の職員の案内に従って、 『下離宮』から、『中離宮』へと ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【下離宮】 池泉観賞式庭園のなかに、後水尾院の御座所となった『寿月観』(じゅげつかん)が建つ。 門などの付属建物を除くと残る建物は、この寿月観(寿月観も当初の建物ではない)のみである。 『御幸門』を入り右折すると『中門』があり、池を掘った土を盛り上げた高みに寿月観がある。 庭園裏手には東門があり、これを出ると、道は右の『中離宮』と左の『上離宮』方面に分かれる。 寿月観 後水尾院行幸時の御座所となった建物。 当初の建物は岩倉殿(顕子内親王)の山荘から移築したものであったが、享保年間(18世紀前半)に失われ、文政7年(1824年)に再建された。文政の再建は、徳川家斉が光格上皇のために離宮の改修を行った際のものである。 東側に「一の間」、その西に「二の間」、その南に「三の間」が鉤の手に連なり、三の間の西には5畳の茶室がある。二の間の北には4畳半、その北には10畳半の「玄関の間」が突出し、建物の北西端に式台玄関(御輿寄)がある。屋根は杮葺で、一の間側が寄棟造、三の間側の南妻は入母屋造とする。一の間の東・南面から二の間・三の間の東面にかけて板縁を設ける。 一の間は15畳。うち北西隅の3畳分を框で一段高くした「上段」とする。上段の西側に床(とこ)を設け、これと矩折の北側に脇床(琵琶床)、棚を設ける。床柱は杉の面皮柱、長押は杉丸太である。棚の上の天袋小襖には鶴、下の地袋小襖には岩に蘭を描く。これらは原在中の筆である。西側の二の間境には岸駒筆の「虎渓三笑」の襖絵がある。修学院離宮のうち後水尾院造営部分(上・下御茶屋)にある唯一の襖絵だが、後水尾院没後の作である。 二の間は12畳で、西側南寄りの杉戸に夕顔の絵がある。 その南の三の間は6畳で、従者の控えの間である。茶室は5畳で北側に床を設け、裏に物入と水屋がある。一の間南側軒下の「寿月観」の額は後水尾院筆。 寿月観前庭の飛び石や、庭に立つ袖石灯篭も有名である。 御馬車道 上・中・下の御茶屋の間を結ぶ松並木の道は、もとはあぜ道であったが、明治18年(1885年)の中御茶屋併合後、明治天皇の行幸に備えて拡幅整備し、松を植栽したものである 【中離宮】 後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所が前身である。 朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められた。 1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となった。 書院造の客殿は、1677年(延宝5年)造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築したものである。 客殿一ノ間の霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる。 他に表門、中門、瓦葺の総門(もと林丘寺の総門であった)がある。 楽只軒 瓦葺、杮庇の建物。 軒名は『詩経』の「楽只君子万寿無期」によるもので後水尾院の命名である。 ほぼ正方形平面で、南面と東面に板縁を設ける。 主たる部屋は東側の「一の間」とその西、建物中心部に位置する二の間である。 一の間は6畳で北側に床(とこ)を設け、床壁貼付と、その西の壁貼付の絵は狩野探信の「吉野山桜図」である。 二の間は8畳で、西面南寄りの壁貼付絵は作者未詳の「竜田川紅葉図」である。 一の間・二の間境の長押上の「楽只軒」の額は後水尾院の筆になる。 客殿 東福門院の女院御所の対面所を移築したものである。 建物は入母屋造、杮葺とし、南面と西面に1間幅の入側(畳縁)があり、その周囲に板縁をめぐらす。 西側の南が「一の間」、その東が「二の間」、その北が「三の間」で、一の間の北には仏間(御内仏の間)がある。 一の間は12畳で、北側西寄りに床(とこ)、その東に幅1間半の棚を設ける。 棚は5枚の欅板を高さを違えて設置し、霞のたなびく様に似ることから「霞棚」と称され、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに天下三名棚の一とされる。 棚の下方の地袋には友禅染の張り場の風景を描く。 その上には細長い三角棚がある。 地袋小襖の引手は羽子板形、三角棚の小襖の引手はぶりぶり(玩具の一種)形である。 床壁の腰貼りは群青と金箔の菱形を交互に並べた幾何学文で、襖の腰貼りも同様である。 床、棚、襖を通して金泥で雲を描き、その上に和歌・漢詩と水墨画の色紙を貼り交ぜている。 和歌は親王公家、漢詩は五山僧の筆になるものである。 室内の長押には七宝の釘隠14個がある。二の間は10畳で、狩野永敬の四季絵がある。 襖の引手は尾長鳥丸紋のデザインとし、長押には七宝の竹葉形釘隠8個がある。 南側の畳縁の杉戸には一の間側に鯉と鮒、二の間側に大鯉を描く。 これらの魚の絵には画面全体を覆うように漁網の網目が描き込まれ、網目がところどころほつれている様子も描写されている。 伝承では、この魚たちが夜な夜な絵から抜け出して庭の池で泳ぐため、漁網を描き加えたという。 仏間北側には鉤の手に板縁(榑縁)を設けるが、その手摺の意匠は斜めの直線数本を組み合わせた独特のもので、「網干の手摺」と称される。 西面入側の北端、楽只軒に通じる階段との境の杉戸には祇園祭放下鉾と岩戸山を描き、これらの裏面には2枚続きで祇園祭の船鉾を描く。 |
|
〔『萌黄』(もえぎ):『南池』:『仙洞御所』(京都府京都市上京区・京都御苑内)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 [完]『仙洞御所』【弥生】(やよい):昨春の思い出ひとつ、萌黄に染まる御所の池畔を早春さがし・・・^〜^♪:『京都大宮御所』・『仙洞御所』(京都府京都市上京区・京都御苑内)〔2017.03.29〕 おはようございます! 今日の朝は、この冬一番の寒い朝になりました...(寒) さて、お花の少ないこの季節、 この寒さと相まって、ひきこもり状態の僕ですが、 幸いに未投稿のいくつか写真がありますので 季節外れになりますがお付き合いお願いいたします^^v 昨日に続いて、昨春の思い出から、 『京都御苑』内、『京都御所』の南東に位置する 天皇を退位された上皇や法皇の『仙洞御所』(せんとうごしょ)☆彡 1627年(寛永4年)に『後水尾上皇』のために造営され、 その後の火災で庭園のみが残っており、 隣接する『大宮御所』とともに、 現在は、皇室の京都における邸宅として使われている 宮内庁管理の『仙洞御所』! 三月も下旬の苑内は、 梅の花は見頃を過ぎ、 でも桜の花はまだ咲かずの様子、 ただ池畔の足元だけが萌黄の色に染り 本格的な春の訪れを待つ候、 『北池』と『南池』とのふたつの池畔の春さがし☆彡 では、参観コースに従って 宮内庁職員の御案内で、 『京都大宮御所』の『御常御殿』から参観スタートし、 『北池』に続いて、 こちらも萌黄の色にそまった『南池』の池畔を周って 再びゴールの『北池』に戻る『仙洞御所』参観を ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【完】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 南池 ゆったりした風景の中に,滝,橋,島,洲浜など多様な要素が展開しています。 紅葉橋(もみじばし) 北池と南池をつなぐ掘割に架かる土橋です。 洲浜(すはま) 楕円形のやや平たい粒の揃った石を敷き詰めています。 その石一個につき米一升の約束で集めさせたという伝承があり,「一升石(いっしょうせき)」の別名もあります。 八ッ橋(やつはし) 南池の西岸から中島に架かる橋で,藤棚で覆われています。 醒花亭(せいかてい) 庭園の最も南に位置する柿葺(こけらぶき)の茶亭です。 醒花亭の名は中国・唐の詩人 李白(りはく)の詩に由来しています。 又新亭(ゆうしんてい) 明治17年(1884年)に近衛家から献上された茶亭です。 もともとこの場所には,修学院離宮から移築した茶室止々斎(ししさい)がありましたが,火災により焼失しました。 亭の南側にある中門の外に外腰掛を設えています。 北池(きたいけ) 造営当初は女院御所の庭園でしたが,18世紀の前半までに南池と掘割(ほりわり)によりつながりました。 仙洞御所(せんとうごしょ)は、譲位した天皇(上皇・法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処をいう。そこから転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。 現在、京都市にある京都御苑内には京都御所の南東に仙洞御所が位置している。これは1627年(寛永4年)に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は桜町殿という。東部には広い池を中心に庭園が広がっている。初め小堀遠州によって築庭されたが、のちに後水尾上皇の意向により大きく改造されている。 仙洞御所の建築群は1854年(安政元年)の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っており、1867年(慶応三年)以降には隣りの御常御殿が残る大宮御所に組みいれられ、皇室の京都における邸宅として整備された。 仙洞御所西北に隣接する京都大宮御所は後水尾天皇の中宮であった東福門院の女院御所として造営されたものが元となっている。前述のとおり京都大宮御所は御常御殿を改修を行いそれに伴い仙洞御所との塀を除きこれを組み入れた。大正時代には大宮御所の御常御殿が内装などが洋室に改装されるなど住居としての実用性が向上し、仙洞御所の庭園を合わせた邸宅としての装いが整った。現在では大宮御所と仙洞御所を合わせた邸宅を単に「大宮御所」と呼び天皇、皇后、皇太子及び皇太子妃の京都府への行幸啓(帰京)の際の滞在施設として使用されている。 2019年5月に、明仁が皇太子徳仁親王へ譲位することに伴い、従来の東宮御所を赤坂御所とし、その後、徳仁が御所に正式に移ってからの赤坂御所を改修の上で、仙洞御所として使用される予定。改修が完了するまでの間、高輪皇族邸を仙洞御所の御假寓として使用する方針。 |
|
〔『萌黄』(もえぎ):『北池』:『仙洞御所』(京都府京都市上京区・京都御苑内)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『仙洞御所』【弥生】(やよい):昨春の思い出ひとつ、萌黄に染まる御所の池畔を早春さがし・・・^〜^♪:『京都大宮御所』・『仙洞御所』(京都府京都市上京区・京都御苑内)〔2017.03.29〕 今年の冬は、強すぎる寒気の連続パンチ、 今日も寒い朝のおはようございます! さて、お花の少ないこの季節、 この寒さと相まって、ひきこもり状態の僕ですが、 幸いに未投稿のいくつか写真がありますので 季節外れになりますがお付き合いお願いいたします^^v まずは、昨年の春の思い出から、 『京都御苑』内、『京都御所』の南東に位置する 天皇を退位された上皇や法皇の『仙洞御所』(せんとうごしょ)☆彡 1627年(寛永4年)に『後水尾上皇』のために造営され、 その後の火災で庭園のみが残っており、 隣接する『大宮御所』とともに、 現在は、皇室の京都における邸宅として使われている 宮内庁管理の『仙洞御所』! 三月も下旬の苑内は、 梅の花は見頃を過ぎ、 でも桜の花はまだ咲かずの様子、 ただ池畔の足元だけが萌黄の色に染り 本格的な春の訪れを待つ候、 『北池』と『南池』とのふたつの池畔の春さがし☆彡 では、参観コースに従って 『京都大宮御所』北側にある『参観者出入口』から入苑し、 『参観者休所』で概要案内のビデオのあと、 宮内庁職員の御案内で、 『京都大宮御所』の『御常御殿』から参観スタート☆彡、 萌黄色の『北池』の池畔さんぽを ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 北池(きたいけ) 造営当初は女院御所の庭園でしたが,18世紀の前半までに南池と掘割(ほりわり)によりつながりました。 六枚橋(ろくまいばし) 阿古瀬淵に架かるのは,切石6枚が並べられた六枚橋です。 紀氏遺蹟の石碑(きのしいせきのせきひ) 明治8年(1875年)に建てられた石碑で,紀貫之の邸宅跡をこの仙洞御所の中としています。 仙洞御所(せんとうごしょ)は、譲位した天皇(上皇・法皇)の御所。仙洞とは本来仙人の住み処をいう。そこから転じて退位した天皇(上皇・法皇)の御所をいい、さらに転じて上皇・法皇の異称としても使われた。 現在、京都市にある京都御苑内には京都御所の南東に仙洞御所が位置している。これは1627年(寛永4年)に後水尾上皇のために造営されたもので、正式名称は桜町殿という。東部には広い池を中心に庭園が広がっている。初め小堀遠州によって築庭されたが、のちに後水尾上皇の意向により大きく改造されている。 仙洞御所の建築群は1854年(安政元年)の火災後再建されず、現在では庭園のみが残っており、1867年(慶応三年)以降には隣りの御常御殿が残る大宮御所に組みいれられ、皇室の京都における邸宅として整備された。 仙洞御所西北に隣接する京都大宮御所は後水尾天皇の中宮であった東福門院の女院御所として造営されたものが元となっている。前述のとおり京都大宮御所は御常御殿を改修を行いそれに伴い仙洞御所との塀を除きこれを組み入れた。大正時代には大宮御所の御常御殿が内装などが洋室に改装されるなど住居としての実用性が向上し、仙洞御所の庭園を合わせた邸宅としての装いが整った。現在では大宮御所と仙洞御所を合わせた邸宅を単に「大宮御所」と呼び天皇、皇后、皇太子及び皇太子妃の京都府への行幸啓(帰京)の際の滞在施設として使用されている。 2019年5月に、明仁が皇太子徳仁親王へ譲位することに伴い、従来の東宮御所を赤坂御所とし、その後、徳仁が御所に正式に移ってからの赤坂御所を改修の上で、仙洞御所として使用される予定。改修が完了するまでの間、高輪皇族邸を仙洞御所の御假寓として使用する方針。 |
|
〔『藤の花』:『八つ橋』・『南池』:『仙洞御所』(京都府京都市上京区・京都御苑内)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 続『仙洞御所』【卯月】(うづき):先週は少し早かった、楽しみににしていた今春の『藤の花』池畔さんぽ…トホホ:『南池』・『仙洞御所』(京都府京都市上京区・京都御苑内)〔2017.04.27〕 春の大型連休、ゴールデンウイークもそろそろ後半のおはようございます^^v さて、先日(4/27)は午前に『桂離宮』、 そして、午後は『京都御苑』内、『京都御所』の南東に位置する 天皇を退位された上皇や法皇の『仙洞御所』(せんとうごしょ)参観☆彡 1627年(寛永4年)に『後水尾上皇』のために造営され、 その後の火災で庭園のみが残っており、 隣接する『大宮御所』とともに、 今は、皇室の京都における邸宅として使われている宮内庁管理の施設☆彡 春の『藤の花』と秋の『紅の葉』が名所として有名なスポットで、 今回は、『南池』の『八つ橋』の藤花を楽しみに^^v 三か月前の一日に申し込んだ今回の参観、 その日はなんと元旦の朝、 今年の春の開花は例年より遅くなとは予測もつかず、 すこし早かった『藤の花』となりました・・・トホホ それでは、新緑の『北池』に続いて 藤と躑躅さく『南池』の回遊して、 再び『北池』の畔に建つ茶亭『又新亭』(ゆうしんてい)へと ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【完】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 ゆったりした風景の中に,滝,橋,島,洲浜など多様な要素が展開しています。 南池の西岸から中島に架かる橋で,藤棚で覆われています。 楕円形のやや平たい粒の揃った石を敷き詰めています。 その石一個につき米一升の約束で集めさせたという伝承があり、「一升石(いっしょうせき)」の別名もあります。 庭園の最も南に位置する柿葺(こけらぶき)の茶亭です。 醒花亭の名は中国・唐の詩人 李白(りはく)の詩に由来しています。 明治17年(1884年)に近衛家から献上された茶亭です。 もともとこの場所には,修学院離宮から移築した茶室止々斎(ししさい)がありましたが,火災により焼失しました。 |


