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〔『中庭』:『船場ビルディング』(大阪府大阪市中央区淡路町2-5-8)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 6.続『びっくりポン!な大阪』:【大阪今昔さんぽ十】「あさが来た」の舞台を中心に、江戸時代から繊維・衣料関係の町として栄えた大阪の中心地さんぽ・・・^〜^v:『船場ビルディング』・『綿業会館』・『北御堂』・『南御堂』ほか〔2017.08.26〕 数年前、連続テレビ小説として 今世紀最高の視聴率を記録した NHKの朝ドラ「あさが来た」の舞台 幕末から明治・大正・昭和への大阪レトロ探し☆彡 続『びっくりポン!な大阪』【大阪今昔さんぽ十】は、 生活に必要な「衣食住」のトップバッター『繊維・衣料関係の町』として 江戸時代から栄えた大阪の中心地『本町』エリアのレトロ探し☆彡 まずは、探しまくって、ゴミ箱のなかから発見した 『勝海舟寓居跡・海軍塾(専称寺)』跡碑! 続くは、表から全く分からない、素敵すぎる僕好みなビル環境 『船場ビルディング』!! 三番目は、『近代化産業遺産』にも選ばれた、 近代の日本を代表する国際会議の場として数多く利用され 戦前の日本外交の舞台にもなった『綿業会館』!!! その後、『大坂』(大阪)の町の原点として、 中心部を南北に貫く大通『御堂筋』に建つ 東西『本願寺』の別院、『北御堂』・『南御堂』へと ご案内致します・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 船場ビルディングは、三休橋筋拡張を機に大正14年10月(1925年)に竣工致しました。 当時、オフィスと住宅をあわせもつ大変にユニークで革新的なビルとして注目を集め、同時に船場という所柄、 装飾性のみでなく、トラックや荷馬車などを引き込むのに便利な機能性を重んじた設計が大きな特徴となっています。 これはすでに今日でいうところの住環境を整え美化するという考えに至っていた欧米の手法をいち早く採り入れた桃谷政次郎翁を はじめとする経営首脳の先見性に依るもので、さらに船場という土地柄を考慮に入れ、 船場ビルディング独自のスタイルを つくりあげたのです。 以来、船場ビルディングは数々の自然災害や戦争をくぐり抜け、 大正時代の雰囲気を漂わせながら ほぼ竣工時の姿のまま今日に至っています。 また、常に地域文化と大阪文化のために 船場ビルディングは、 大阪・船場の淡路町という地域のなかの建造物であり、この地域の環境を形成するひとつの要素です。 綿業会館は、大阪府大阪市中央区船場にあるルネサンス風の歴史的建造物。三休橋筋に面して立つ。2003年12月25日に国の重要文化財に指定され、2007年には近代化産業遺産に認定された。 東洋紡績専務取締役・岡常夫の遺族から贈られた100万円と関係業界からの寄付50万円、合わせて150万円(現在の75億円に相当)を基に、1931年12月日本綿業倶楽部の施設として建設された。 近代の日本を代表する施設として国際会議の場として数多く利用され、1932年3月には リットン卿を団長とする国際連盟日華紛争調査委員会メンバー(リットン調査団)が来館するなど、戦前の日本外交の舞台にもなっている。 1945年3月の大阪大空襲で船場オフィス街は壊滅的な被害を受けたが、この建物は各部屋の窓にワイヤー入り耐火ガラスを使用していたために、窓ガラス1枚とカーテン1枚に被害を受けただけで殆ど無傷であった。 しかるに同年7月5日、大阪師団管区司令部はこれを徴用となし、倶楽部は休館のやむなきにいたって寺田ビルを事務所とした。日本敗戦後の同年10月11日、占領軍はこれを全館接収し、1952年(昭和27年)5月23日返還するまで使用した。返還により同年10月2日再び倶楽部となり、1962年11月には東隣に新館が増築されている。 設計は渡辺節らによりなされ、外観はアメリカのオフィスビル風でさりげないが、クラブ建築らしく内部は充実しており、室毎に異なるスタイルで装飾されている。ジャコビアン様式(イギリスの初期ルネサンス風)と言われる2階談話室は全室中最も豪華な部屋で、映画やドラマの撮影などにもよく使われる。非財閥の民間の建物でありながら、内外装の細部に至るまでのデザインや最先端の設備の導入がなされるなど、「最高」を求めた造作になっている。 本願寺津村別院は、大阪府大阪市中央区本町4丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院。 通称は、北御堂(きたみどう)。 住職は龍谷門主が兼ねる。別院輪番が置かれて実務を主管している。浄土真宗本願寺派の大阪教区教務所が併設されているが、教務所長は津村別院の副輪番である。 別院名の「津村」とは戦国時代に見られる摂津国西成郡の郷名で、入り江であった古代の円江(つぶらえ)から転じたと言われる。船場が市街化されたのちも、1872年(明治5年)まで当院北に位置する御霊神社にかけての町名となった(当院北側の備後町通沿いは津村南之町)。また、当院東側の御堂筋は、北御堂と南御堂(真宗大谷派難波別院)を繋ぐ道であることに由来する。 真宗大谷派難波別院は、大阪府大阪市中央区久太郎町4丁目にある真宗大谷派の寺院。 通称は、南御堂(みなみみどう)。 真宗大谷派の大阪教区教務所、教化センター会館が併設されている。 別院名の難波とは摂津国西成郡上難波村の旧地であったことに由来する。船場が市街化されたのちも、1872年(明治5年)まで当院南に位置する難波神社にかけて上難波町という町名となり、以降、1914年(大正3年)まで当院南西部を含む北部が上難波北之町となっていた。また、当院東側の御堂筋は、北御堂(本願寺津村別院)と南御堂を繋ぐ道であることに由来する。 御堂筋(みどうすじ)は、大阪府大阪市の中心部を南北に縦断する街路。 国道25号および国道176号の各一部に指定されている。現代の大阪市における南北幹線の基軸である。 名前は北御堂(西本願寺津村別院)と南御堂(東本願寺難波別院)の2つの寺院が沿道にあることに由来する[1]。 大阪市の北の玄関口梅田と南の玄関口難波を船場・島之内経由で結ぶ、全長4,027メートル、幅43.6メートル(24間)、全6車線の幹線道路で、日本の道100選のひとつ。交通量が増加したため1970年(昭和45年)、大阪万博の開催を機に国道1号・国道2号と交差する梅田新道交差点より南の全車線が南行きの一方通行となる。平日の昼12時間の交通量は、自動車28,000 - 38,000台、歩行者10,000 - 26,000人となっている。 中世から江戸時代 記録上、御堂筋の名が初めて現れるのは1615年(元和元年)、大坂夏の陣の落人狩りなどを記録した徳島藩の「大坂濫妨人落人改之帳」の中で、捕らえられた男女のうち、男1人の居場所として「大坂御堂筋」と記されているのが最初である。松尾芭蕉の没地は現在の大阪市中央区久太郎町4丁目付近で、御堂筋拡幅により現在は御堂筋の車線上にある。 江戸時代以来、御堂筋と呼ばれていた区間は船場のうち淡路町通以南に過ぎず、淡路町通以北は淀屋橋筋と呼ばれていた。これは、淀屋橋から南下した淀屋橋筋が淡路町通で終わり、西へ少しずれて御堂筋が始まるため、別の道路とみなされていたことによる。淀屋橋筋は淀屋橋(土佐堀川)を渡って中之島へ出ることができ、現在のように一本道ではないが大江橋(堂島川)と蜆橋(曽根崎川)を渡って曾根崎新地へ出ることもできた。一方の御堂筋は長堀川への架橋はなく島之内へ出ることができず、堺筋・心斎橋筋などと比べて見劣りのする、人通りの少ない道であった。 本町(ほんまち)は、大阪府大阪市中央区の町名。1〜4丁目がある。郵便番号は541-0053。 船場のほぼ中央を東西方向に貫く本町通沿いの両側町。東端は東横堀川(阪神高速1号環状線南行)に架かる本町橋、西端は西横堀川(現在は埋立。阪神高速1号環状線北行)に架かっていた信濃橋跡。 大坂城下の中心であり、江戸期は本町通を境に大坂三郷の北組と南組に分かれていた(本町は南組に含まれていた)。現在も大阪市を代表するオフィス街であり、過去には京阪バスや近鉄バスが乗り入れるバスターミナルが設けられていた。 本町の南隣には、現在は中央大通までを町域とする南本町があり、さらに中央大通の船場センタービルを町域とする船場中央(かつての唐物町と北久太郎町の一部)があるが、中央大通の地下に大阪市営地下鉄中央線の本町駅や堺筋本町駅があるため、南本町と船場中央も含めて本町と呼ばれることが多い。一方、本町通北側には大建造物が多く、幾つかのビルは同じく両側町である北隣の安土町に跨って建っている。 本町の東西には、本町通に沿って東横堀川以東の上町に中央区本町橋(町名。かつての内本町橋詰町)と内本町、西横堀川以西の下船場に西区靱本町や西本町という町名もある。 |
【大阪市内で四季さんぽ】
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〔絵馬『張子の虎』:『少彦名神社』(すくなひこなじんじゃ)(大阪府大阪市中央区道修町2-1-8)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 5.続『びっくりポン!な大阪』:【大阪今昔さんぽ九】「あさが来た」の舞台を中心に、近代大阪の金融の中心『今橋』(いまばし)から、医薬品の『道修町』(どしょうまち)へ・・・^〜^v:『開平小学校』・『少彦名神社』ほか〔2017.08.26〕 数年前、連続テレビ小説として 今世紀最高の視聴率を記録した NHKの朝ドラ「あさが来た」の舞台 幕末から明治・大正・昭和への大阪レトロ探し☆彡 続『びっくりポン!な大阪』【大阪今昔さんぽ九】は、 『五代友厚』ゆかりの『大阪取引所』のある『北浜』の南東に位置する 近代大阪の金融の中心であった『今橋』(いまばし)から、 江戸時代、清やオランダからの薬を一手に扱い、 今も製薬会社や薬品会社のオフィスが並ぶ「くすりの町」 『道修町』(どしょうまち)へ☆彡 大両替商や薬問屋が軒を並べてた江戸時代の『大坂』(大阪)の賑わいを想像しながら お楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 大阪市立開平小学校(かいへいしょうがっこう)は、大阪市中央区にある公立小学校。 都心部のドーナツ化による児童数の減少に伴い、1990年に大阪市立愛日小学校と大阪市立集英小学校の2校を統合して発足した。学校敷地は旧集英小学校のものを継承している。 校名は、朱子(朱熹)の『近思録』の一節より採られた。 集英小学校は、明治時代初期に東船場地区に設置された6つの小学校を前身としている。6校が1885年に北船場東(のち集英)・中船場東(のち汎愛)・南船場東(のち浪華)の3校に再編された。 その後昭和時代に入り、1940年代前半の大阪市は、中等学校の入試難を緩和するための方策として中等学校の増設を図った。この際、既存の小学校(国民学校)を近隣校へ統廃合して、空いた校舎を転用することで中等学校を新設する方法をとった。その一環として、1942年に汎愛国民学校校舎を転用して大阪市立汎愛中学校(現在の大阪市立汎愛高等学校)を設置した。これにより、汎愛国民学校は集英国民学校に統合された。 さらに太平洋戦争に伴う国策で、男子商業学校の工業学校への転換とそれに伴う女子商業学校の増設のために、1944年には浪華国民学校校舎を転用して大阪市立浪華女子商業学校(戦後大阪市立東商業高等学校へ統合)を設置した。これに伴い、浪華国民学校は久宝国民学校へ統合された。なお久宝国民学校は戦災被災のため1946年に廃校され、同校校区のうち浪華校統合前の元々の久宝校校区を大阪市立愛日小学校校区へ、また旧浪華校校区を集英小学校校区へとそれぞれ分離編入した。 なお、旧汎愛国民学校跡(現在の中央区淡路町)は企業ビル、旧浪華国民学校跡(現在の中央区久太郎町1丁目)は大阪市立東商業高等学校となっている。 太平洋戦争前には3校あった小学校を1校に統合する形で、1947年に学制改革によって大阪市立集英小学校となった。しかし1970年代頃から児童数の減少傾向が目立つようになり、同様に児童数減少が目立っていた大阪市立愛日小学校との統合の話が持ち上がった。大阪市教育委員会や両校の学校・地域関係者らが折衝を進め、1989年9月に大阪市教育委員会から2校の統合が正式発表された。統合で開平小学校が設置されたことに伴い、集英小学校は1990年3月に閉校となった。 江戸時代、経済制度の発展に伴い、今日の銀行的業務の必要が生じ両替商が生まれてきた。大坂では寛永5年(1628)天王寺屋五兵衛が始めたのが最初という。寛文10年(1670)には幕府により十人両替が誕生した。ここにはその中でも最大手の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が、道を挟んで店を構えていたことからこのように呼ばれた。 今橋(いまばし)は、大阪府大阪市中央区にある東横堀川に架かる橋および同橋西詰以西の町名。 江戸時代以来の今橋1丁目と2丁目には天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛、鴻池善右衛門といった大両替商が軒を並べ、近辺は大阪の金融の中心地だった。また、北浜に金相場会所(1743年)と証券取引所(1878年)が設立されるまでは、金銀銅などの取引は今橋で行われていた。現在も銀行などが軒を連ねるオフィス街である。 明治以降には、鴻池家によって第十三国立銀行が設立され、大阪毎日新聞の前身である日本立憲政党新聞や日本生命も今橋で誕生した。 高麗橋野村ビルは、大阪府大阪市中央区にあるオフィスビル。野村財閥の持株会社である野村合名の地所部が建てた最初の貸ビル。 大阪瓦斯ビルディングなどの設計で知られる、近畿地方を代表する建築家安井武雄の設計で1927年に建てられた。当時としてはまだ珍しかった鉄骨鉄筋コンクリート構造で、戦前は地上は5階までであったが、戦後に6階・7階を増築しており、外観・建築様式が明らかに異なっている。 堺筋に面する広い間口に対して奥行きが極端に狭い敷地に建つ。東洋的な装飾が施され、モルタル塗りの腰壁は薄い褐色である。 各階間の腰壁上端を外側に迫り出させた外壁形状はエーリヒ・メンデルゾーンが当時のドイツの建築でとった手法を採用している。さらにその縁をオリエンタル調の装飾を施している。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 小西家住宅(旧小西儀助商店社屋)は、大阪府大阪市中央区の船場にある歴史的建造物である。 1900年代に建てられた和風の商家であり、その大部分が重要文化財に指定されている。1996年12月20日に主屋、衣装蔵、二階蔵、三階蔵が登録有形文化財に登録された。また2001年6月15日には、主屋、衣装蔵、二階蔵及び宅地が重要文化財に指定された。 1903年、小西屋(後の小西儀助商店、現コニシ)の屋敷兼社屋として約3年間の工期を経て完成した。 南は道修町通、西は堺筋、北は伏見町通にそれぞれ面した約315坪の敷地に建設され、道修町通沿いに建つ主屋とその東側に建つ納屋、堺筋沿いには貸家、伏見町通沿いには土蔵と納屋、更に主屋の裏には湯殿が設けられた。 主屋は、表通りに面して商いを行う店棟と、その奥にある住まいを中庭で結んだ表屋造と呼ばれるものである。完成当初は主屋の一部が三階建となっており、近代大阪の町屋の特徴である土蔵造、三階建、表屋造を備えていたという。 建築当初は堺筋沿いの歩道の辺りまであったが、1911年8月、堺筋の拡張工事に伴い堺筋に面した約四間分が道路用地として収用された。「軒切り」と呼ばれたこの道路拡張により、その大部分が道路用地となった貸家はそれを機会に撤去され、主屋も西側約3間分が削り取られた。これに伴い伏見町通との角地となった場所に新しく衣装蔵が建てられた。 また1923年に起こった関東大震災を期に、地震への備えとして三階部分が撤去されたことにより、ほぼ現在の外観となった。この時に撤去された三階部分への階段は現在も残されているという。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『春琴抄』(しゅんきんしょう)は、谷崎潤一郎による中編小説。盲目の三味線奏者・春琴に丁稚の佐助が献身的に仕えていく物語の中で、マゾヒズムを超越した本質的な耽美主義を描く。句読点や改行を大胆に省略した独自の文体が特徴。谷崎の代表作の一つで、映像化が多くなされている作品でもある。 1933年(昭和8年)6月、『中央公論』に発表された。単行本は同年12月に創元社より刊行された。 あらすじ 物語は「鵙屋春琴伝」という一冊の書物を手にした「私」が、春琴の墓と、その横に小さくある佐助の墓を参り、2人の奇縁を語り始めるモノローグで始まる。 大阪道修町の薬種商鵙屋の次女、春琴(本名は琴)は9歳の頃に眼病により失明して音曲を学ぶようになった。春琴の身の回りの世話をしていた丁稚の佐助もまた三味線を学ぶようになり、春琴の弟子となる。わがままに育った春琴の相手をさせようという両親の思惑とは裏腹に、春琴は佐助が泣き出すような激しい稽古をつけるのだった。やがて、春琴が妊娠していることが発覚するが、春琴も佐助も関係を否定し、結婚も断る。結局、春琴は佐助そっくりの子供を出産した末に里子に出した。 やがて春琴は20歳になり、師匠の死を期に三味線奏者として独立した。佐助もまた弟子兼世話係として同行し、我が儘がつのる春琴の衣食住の世話をした。春琴の腕前は一流として広く知られるようになったが、種々の贅沢のために財政は苦しかった。 そんな中、春琴の美貌が目当てで弟子になっていた利太郎という名家の息子が春琴を梅見に誘って口説こうとするが、春琴は利太郎を袖にしたあげく、稽古の仕置きで額にケガをさせてしまう。その一か月半後、何者かが春琴の屋敷に侵入して春琴の顔に熱湯を浴びせ、大きな火傷を負わせる。 春琴はただれた自分の顔を見せることを嫌がり、佐助を近づけようとしない。春琴を思う佐助は自ら両眼を針で突き、失明した上でその後も春琴に仕えた。佐助は自らも琴の師匠となり、温井(ぬくい)琴台を名乗ることを許されたが、相変わらず結婚はせずに春琴の身の回りの世話を続けた。 春琴は明治19年に脚気で亡くなり、佐助もまた、その21年後の明治40年に亡くなった。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)は、大阪市中央区道修町二丁目にある神社。旧社格は無格社。別称として、道修町の神農(しんのう)さん、神農さん。 祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、少彦名神社では、薬の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。 医薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者などの信仰を集めている。また、病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を願う参詣者も多い。 近年ではペットの病気平癒・健康祈願に参拝する人も多い。伊勢講から始まった神社でもあるため、伊勢神宮のお札を求める参拝者で正月は賑わう。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 くすりの道修町資料館は、大阪府大阪市中央区道修町にある資料館。少彦名神社の境内に併設されている。 1,000巻に及ぶ目録に収められた江戸時代の薬種業者による関係文書約3,000点、明治以降の資料約30,000点、さまざまな薬草、昭和40-50年代のポスター、おまけプレミアム商品とともに、道修町の歴史も紹介している。 館名に「くすりの道修町」とあるが、そもそもなぜ道修町がくすりの町と呼ばれるのかについて、考察する。道修町そのものの歴史については道修町#歴史を参照されたい。 寛永年間、道修町1丁目に堺の商人である小西吉右衛門が薬種屋を開き、道修町はくすりの町として歩み始めた。1722年(享保7年)、124軒の薬種業者が株仲間として江戸幕府から公認を受け、薬に値段を付け全国に売り捌くことが認められた。幕府が公認に至った背景として、当時の薬種の原料である中国から輸入された唐薬種や日本で採れる和薬種は、適切な品質であるかどうかを見分けるのが非常に難しかったため、知識をもつ薬種業者の検査が必要とされていたことが挙げられる。 1822年(文政5年)、大阪でコレラが流行した際、薬種業者が疫病除けの薬として虎の頭の骨を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきおうえん)」という丸薬を作って神前で祈祷後、庶民に無料配布したとされる。もちろん、虎頭殺鬼雄黄圓にはプラシーボ以上の効果はない。なお、道修町で疫病除けのお守りとして売られている張り子の虎はこれに由来している。 明治時代になると西洋医学が広まり、薬舗夜学校が開設され、薬種業者は西洋医学の勉強も始めたという。薬舗夜学校は、現在の大阪大学薬学部や大阪薬科大学のもととなった。今でも、周囲には日本を代表する製薬企業の本社などが立ち並び、研究を行っている。これが、道修町がくすりの町と呼ばれるゆえんである]。 入館料:無料(但し、少彦名神社へ参拝される事) 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 道修町(どしょうまち)は、大阪府大阪市中央区の町名。1〜4丁目がある。郵便番号は541-0045。 江戸時代に、清やオランダからの薬を一手に扱う「薬種中買仲間」が店を出す。日本に入ってくる薬は、いったん道修町に集まり、全国に流通していった。その関係で現在でも製薬会社や薬品会社のオフィスが道修町通りの両側に多いことで知られている。武田薬品工業、塩野義製薬、田辺三菱製薬が本社を構えている。薬品業界に関しては外資系も関西を拠点とするところが多く、バイエル(大阪府大阪市北区)、アストラゼネカ(大阪市北区)、P&G(兵庫県神戸市中央区)、イーライー・リリー(神戸市中央区)などが挙げられる。 道修町にある少彦名神社は、薬の神様として地元では長く親しまれている。 日本初の薬学専門学校(現在の薬科大学に相当する)が設置されたのも道修町である。 |
4.続『びっくりポン!な大阪』:【大阪今昔さんぽ八】「あさが来た」の舞台を中心に、近代大阪の学問の原点をめぐる・・^〜^v:『大阪慶應義塾』・『適塾』・『愛珠幼稚園』・『懐徳堂』〔2017.8.26〕
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〔『史跡緒方洪庵旧宅及び適塾』:(大阪府大阪市中央区北浜3丁目3−8)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 4.続『びっくりポン!な大阪』:【大阪今昔さんぽ八】「あさが来た」の舞台を中心に、近代大阪の学問の原点をめぐる・・・^〜^v:『大阪慶應義塾跡』・『適塾』・『愛珠幼稚園』・『懐徳堂跡』ほか〔2017.08.26〕 一旦は出来上がった今日の記事でしたが、 『決定』ボタン押したら消滅してしまいました・・・トホホ(涙) 機嫌を直して、再度作った二作目です^^v 数年前、連続テレビ小説として 今世紀最高の視聴率を記録した NHKの朝ドラ「あさが来た」の舞台 幕末から明治・大正・昭和への大阪レトロ探し☆彡 続『びっくりポン!な大阪』【大阪今昔さんぽ八】は、 近代大阪の学問原点をめぐるレトロ散歩 まずは、交通手段が厳しかったため設けられた『大阪慶應義塾』、 蘭学者『緒方洪庵』の旧宅と蘭学の私塾『適塾』、 民間の手によって建てられた日本最古で木造の幼稚園『愛珠幼稚園』 そして、現在の『大阪大学』の礎となった『懐徳堂』などの史蹟を お楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 適塾は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。正式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)という。また、適々塾とも称される。緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来である。幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出し、現在の大阪大学医学部および慶應義塾大学の源流の一つとされている。 緒方 洪庵(おがた こうあん、文化7年7月14日(1810年8月13日) - 文久3年6月10日(1863年7月25日))は江戸時代後期の武士(足守藩士)、医師、蘭学者である。大坂に適塾を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。 諱は惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎・華陰と称する。 武士の子であったが、虚弱体質のため医師を目指した。 当時やむなく使用されていた人痘法で患者を死なせ、牛痘法を学んだ。 洪庵の功績としてもっとも有名なのが、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出したことである。 日本最初の病理学書『病学通論』を著した。種痘を広め、天然痘の予防に尽力。なお、自身も文化14年(1817年)、8歳のときに天然痘にかかっている。安政5年(1858年)のコレラ流行に際しては『虎狼痢治準』と題した治療手引き書を出版し医師に配布するなど、日本医学の近代化に努めた。 人柄は温厚でおよそ人を怒ったことがなかったという。福澤諭吉は「先生の平生、温厚篤実、客に接するにも門生を率いるにも諄々として応対倦まず、誠に類い稀れなる高徳の君子なり」と評している。学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責した。ただし決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があった。 大阪市立愛珠幼稚園(おおさかしりつ あいしゅようちえん)は、大阪府大阪市中央区今橋三丁目にある公立幼稚園。 1880年6月1日に開園した。現存する幼稚園としては大阪府内では最も古い歴史をもち[1]、また日本でも2番目に古い歴史をもつ。現存する木造の幼稚園園舎としては日本最古、また民間の手によって建てられた幼稚園としても日本最古となっている。淀屋橋の南方、船場のオフィス街の中に位置し、適塾跡に隣接している。園の敷地は江戸時代の銅座の跡地で、その記念碑が建つ。 大阪市立開平小学校との交流、専門家を招いての芸術文化体験、動植物の飼育栽培など、心豊かな子どもを育てることを目標とした幼稚園教育をおこなっている。また未就園児向けの保育や、夕方や長期休業中の預かり保育も実施している。 懐徳堂(かいとくどう)は、江戸時代中期に大坂の商人たちが設立した学問所。明治初年の閉校、大正時代の再建、太平洋戦争による罹災焼失を経て、現在は大阪大学が継承しているとされる。 享保9年(1724年)、大坂の豪商たち(三星屋武右衛門・富永芳春(道明寺屋吉左右衞門)・舟橋屋四郎右衛門・備前屋吉兵衛・鴻池又四郎)が出資し、三宅石庵を学主に迎えて船場の尼崎町一丁目(現在の大阪市中央区今橋三丁目)に懐徳堂を設立した。三星屋らは懐徳堂の「五同志」と称される。享保11年(1726年)、将軍徳川吉宗から公認されて官許学問所となり、学校敷地を拝領した。官許は得たものの、その後の運営の財政面は町人によって賄われ、懐徳堂が「町人の学校」と呼ばれる所以となっている[1]。明治政府によって旧幕府から受けていた諸役免除などの特権を廃止され、明治2年(1869年)に懐徳堂はいったん廃校となる。 中井桐園の嫡子であった中井天生(木菟麻呂)は、懐徳堂の廃絶後もその復興を悲願としていた。また大阪朝日新聞の主筆であった西村天囚は優秀な漢学者でもあり、やはり懐徳堂の復興を祈念していた。主として天囚が大阪の財界や政界に働きかけて、大正5年(1916年)に懐徳堂が再建された。これを江戸時代の懐徳堂と区別して重建(ちょうけん)懐徳堂と呼ぶ。 空襲により講堂などを失った重建懐徳堂では、罹災を免れた書庫内などで講義を継続していたが、戦後の混乱期に独立した運営を続けることは困難であった。折しも新制大学としての大阪大学に法文学部が設置されることとなり、財団法人懐徳堂記念会と大阪大学との間で協定が結ばれ、重建懐徳堂の資料等と職員(書記)を大阪大学へ移管し、重建懐徳堂で行われていた講義等も引き続き行っていくことが確認された。 |
3.続『びっくりポン!な大阪』:【大阪今昔さんぽ七】「あさが来た」の舞台を中心に、築99年の『中之島公会堂』から『北浜』に建つ『五代友厚』の巨像へ・・・^〜^v:『大阪取引所』〔2017.08.26〕
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〔『五代友厚』像:『株式会社大阪取引所』前(大阪府大阪市中央区北浜一丁目8番16号)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 3.続『びっくりポン!な大阪』:【大阪今昔さんぽ七】「あさが来た」の舞台を中心に、築99年の『中之島公会堂』から『北浜』に建つ『五代友厚』の巨像へ・・・^〜^v:『大阪市中央公会堂』・『大阪取引所』ほか〔2017.08.26〕 今月・八月も今日が最終日の31日(木)! 数年前、連続テレビ小説として 今世紀最高の視聴率を記録した NHKの朝ドラ「あさが来た」の舞台 幕末から明治・大正・昭和への大阪レトロ探し☆彡 続『びっくりポン!な大阪』【大阪今昔さんぽ七】は、 近代『大阪』の原点『中之島』のランドマーク的な築99年のレトロビル 『中之島公会堂』として親しまれている『大阪市中央公会堂』から、 『ライオン橋』とも呼ばれる『難波橋』を渡って、 『北浜』の『大阪取引所』へ^^v 明治維新とともに廃止された蔵屋敷の跡に 株式仲買人である『岩本栄之助』が 寄付した当時の100万円をもとに建設された 『大阪市中央公会堂』から出発し、 今まで前を通り過ぎただけの石碑などを きっちり・しっかりチェックして、 ライオンが見守る『難波橋』(なにわばし)を 『土佐堀川』の対岸『北浜』☆彡 諸藩の蔵屋敷があった江戸時代の大坂(大阪)の米穀取引所を起源して 設立された『大阪株式取引所』が前身である 『大阪取引所』の前に立つのが、 発起人の中心人物『五代友厚』です^^v それでは、一世紀前に再開発された『中之島』から、 当時の商取引の中心地『北浜』への 【大阪今昔さんぽ七】をお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 大阪市中央公会堂は、大阪市北区中之島にある集会施設。 大阪市中央公会堂(通称:中之島公会堂)は、1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が公会堂建設費として当時の100万円を寄付したことにより、1911年8月に財団法人公会堂建設事務所が設立され、建設計画が始まった。北浜の風雲児と呼ばれた相場師・岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった1909年(明治42年)の渡米実業団に参加し、アメリカ大都市の公共施設の立派さや富豪たちによる慈善事業・寄付の習慣に強い印象を受けた。彼は父の遺産と私財をあわせた100万円を公共施設建設に寄付することを決め、蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することにした。 設計は、懸賞付き建築設計競技(最終的に13名が参加)により岡田信一郎案が1位となり、岡田の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。1913年(大正2年)6月に着工、1918年(大正7年)11月17日にオープン。岩本栄之助は第一次大戦による相場の変動で大きな損失を出し、公会堂の完成を見ないまま1916年(大正5年)に自殺した。 建物は鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建て。意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持ち、細部にはセセッションを取り入れており、アーチ状の屋根と、松岡壽によって天地開闢が描かれた特別室の天井画・壁画が特徴となっている。 各種の講演、会合などが催され、大阪市民に親しまれてきた。 ロシア歌劇団の公演、アルベルト・アインシュタインを始め、ヘレン・ケラーやガガーリンなどの歴史的人物の講演も行われた。 大阪市中央公会堂は、日本有数の公会堂建築であり、外観、内装ともに意匠の完成度が高く、日本の近代建築史上重要なものとして2002年(平成14年)12月26日、国の重要文化財に指定されている。老朽化が進んだため、1999年(平成11年)3月から2002年(平成14年)9月末まで保存・再生工事が行われ同年11月にリニューアルオープン。耐震補強、免震レトロフィットやバリアフリー化がなされ、ライトアップもされるようになった。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 春林軒(しゅんりんけん)は、現在の和歌山県紀の川市にあった、江戸時代の医学者華岡青洲の住居兼病院・医学校。春林軒塾や楽水堂とも呼ばれる。 文化元年(1804年)世界初の全身麻酔手術を成功したことで華岡青洲の名声は広まり、全国から多くの患者と入門希望者が次々と集まった。彼らを迎え入れて育成するため青洲は建坪20坪余りの自邸兼診療所の近くに、建坪220坪の住居兼病院・医学校を建設した。これが「春林軒」である。 輩出された門下生は1,033名、大坂・中之島に作られた分校「合水堂」門下生を含めると2,000名を超え、彼らにより日本全国に華岡流外科医術が広められた。 大阪府大阪市北区中之島公園にある木村重成表忠碑。かつてこの地にあった豊國神社内に第6代大阪府知事西村捨三によって立てられたが、後に同神社が大坂城内へ移転した際、そのまま残された。 木村 重成(きむら しげなり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。豊臣氏の家臣。知行3千石。 木村重茲の子といわれている。父と兄の高成は豊臣秀次に仕えていたため秀次事件に連座して自害させられたが、助命された母の宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれる。 秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となり重要な会議などにも出席するようになる。慶長4年(1599年)12月17日、豊臣姓を与えられる。豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追い出すのに一役買った。 大坂冬の陣では後藤基次とともに今福砦攻防戦を展開し、数に勝る徳川軍と対等に戦い全国にその名を広めた。真田丸の戦いにも参加する。また、和議にあたっては秀頼の正使として岡山で徳川秀忠の誓書を受け、その進退が礼にかなっているのを賞された。 慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開し、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。この時、家臣が「兵は疲れており再度戦えば敗北は必至」と諌めたが、重成は「この程度の勝利はものの数ではない」と一蹴。敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との激戦の末に戦死した。井伊家家臣の安藤重勝に討たれたとも、庵原朝昌に討たれたが朝昌はその功を重勝に譲ったともいわれる。 首実検でその首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったので、その覚悟を感嘆させたという逸話が残っている。その後、首は重勝が密かに彦根まで持ち帰り、安藤一族の菩提寺である宗安寺に埋めたとされ、同寺院には木村重成の首塚がある。 墓は第二寝屋川の南側、大阪府八尾市幸町の公園にある。また、木村重成に由来する地名として東大阪市若江南町1丁目には「若江木村通」という交差点がある。 なお、慶長20年(1615年)1月7日に大蔵卿局の姪の青柳を妻に迎え、八尾・若江の戦い前後に青柳と別れの盃を交わしたという。重成の死後、妊娠していた青柳は、近江の親族によって匿われ男児を出産後に出家した。そして、重成の一周忌を終えると青柳は20歳で自害したという。また、青柳の出産した男児は馬淵家の婿養子となり、馬淵源左衛門と名乗ったと伝えられている。 難波橋(なにわばし)は、大阪市の大川に架かる橋。浪速の名橋50選選定橋。 大阪市中央区北浜〜北区西天満の堺筋にかかる、全長189.7m、幅21.8mの橋である。中之島を挟んで土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る。橋の中央で下流側に中之島通を分岐させ、上流側に中之島公園へ降りる階段が設けられている。 難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年ごろに行基によって架けられたといわれている。天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置する。「浪華橋」とも表記され、明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっており、橋の長さが108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。1661年(寛文元年)天神橋とともに幕府が管理する公儀橋とされた。 1766年(明和3年)、山崎ノ鼻と呼ばれる中之島東端の新地が難波橋の近くまで埋立造成され、難波橋からの眺めは絶景と言われた。1876年(明治9年)に鉄橋に架け替えられたが、このときに中之島が上流へ拡張されたため、以降の難波橋は中之島を跨ぐかたちとなっている。なお、1891年(明治24年)に山崎ノ鼻を含む東端は中之島公園となった。 1912年(明治45年)に大阪市電が天神橋筋六丁目まで延伸される際、市電敷設の反対運動が起こったため、1915年(大正4年)に一筋東の堺筋に新橋が架けられた。パリのセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたと言われるこの新橋が現在の難波橋である。 当初は難波橋筋に架かる旧橋と区別するため、堺筋に架かる新橋は大川橋とも呼ばれた。新橋は当初中之島を跨いでいなかったが、1921年(大正10年)以降、大川の浚渫で出た土砂埋め立てによりさらに上流へ拡張された中之島公園を跨ぐようになった。中之島通敷設の際に旧橋は撤去され、新橋は名実共に難波橋となった。 老朽化が目立ち始めた1975年(昭和50年)に大阪市によって大改修が施され、現在に至る。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 中村 晋也(なかむら しんや、1926年7月29日 - )は、日本の彫刻家、文化勲章受章者。2013年日本体育大学世田谷キャンパス(深沢)1階エントランスホールに名作EOS・萌えるリズム・太古の血潮・朝の祈り・姉妹のブロンズ像が飾られた。 五代 友厚は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。 大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。 慶応元年(1865年)、藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発、欧州各地を巡歴。ベルギーのブリュッセルでモンブランと貿易商社設立契約に調印、これは薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたが、諸要因により失敗に終わる。しかし、この時の経験がのちの五代の経営手腕に大きな影響を与えることになる。 慶応2年(1866年)、御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任。長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。ここでいうドックというのは俗にそろばんドックと呼ばれるもので現存している。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍した。 その結果、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となる。外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたった。また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開ける。 明治2年(1869年)の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行、また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。紡績業・鉱山業(初めて鉱山経営した奈良県吉野郡天川郷和田村天和銅山や、福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力する。薩長藩閥政府との結びつきが強く、明治8年(1875年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件(参照:明治十四年の政変)にも関わり、政商といわれた。 他にも、大阪財界人、田中市兵衛(第四十二国立銀行)らとともに 大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した。 鹿児島市泉町(泉公園内)、大阪市中央区の大阪証券取引所前、大阪商工会議所前には銅像が建立されている。 株式会社大阪取引所(英語: Osaka Exchange, Inc.、略称:OSE)は、株式会社日本取引所グループの子会社で、金融商品取引所である。所在地の大阪府大阪市中央区北浜一丁目にちなんで北浜とも呼ばれている。 諸藩の蔵屋敷があった江戸時代の大坂の米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身である。なお、1730年(享保15年)に設立 された堂島米会所で行われた帳簿上の差金の授受によって決済を行う「帳合米取引」が、世界で最初の公設の商品先物取引と言われる。この伝統から、大阪株式取引所の草創期から帳合米取引をベースにした定期取引(および後の清算取引、現行法でいう先物取引(futures)の方法にあたる)が行われていた(終戦後、証券業界では証券取引法に基づく証券取引所開設の際に証券業界で清算取引の再開を求めていたが、GHQにより清算取引の禁止を求められた経緯もあり個別株式の先物取引の復活は今日に至るまで実現されていない)。 戦後は東京証券取引所とともに日本の株式市場の一翼をなしていたが、東証との経営統合や、持株会社の日本取引所グループの子会社化を経て、日本取引所グループでのデリバティブ専門取引所に位置付けられ、現物市場を東証に移管し、東証からデリバティブ市場の移管を受けて、2014年3月24日に現社名に改名している。 大阪取引所ビル 平和不動産の所有で、下層階は旧市場館の外観を保存したものとなっている。エントランスホールの大型モニターには、大阪取引所の顔である日経225先物取引の取引値が表示されている。 旧市場館は1935年長谷部竹腰建築事務所の設計で竣工。施工は大林組。2004年の新ビルでも円形のエントランスホールの外観のみ残されている。 |
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〔『ドーム天井』:『中央ホール』・『大阪府立中之島図書館本館』(1904)(大阪府大阪市北区中之島一丁目2-10)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 2.続『びっくりポン!な大阪』:【大阪今昔さんぽ六】「あさが来た」の舞台を中心に、『中之島』の築113年の図書館を訪ねて・・・^〜^v:『大阪府立中之島図書館』〔2017.08.26〕 2017年8月30日のおはようございます(^^♪ 数年前、連続テレビ小説として 今世紀最高の視聴率を記録した NHKの朝ドラ「あさが来た」の舞台 幕末から明治・大正・昭和への大阪レトロ探し☆彡 続『びっくりポン!な大阪』さんぽは、 近代『大阪』の原点『中之島』を 「あさが来た」の舞台を軸に 江戸時代以降の忘れ物さがし☆彡 【大阪今昔さんぽ六】は、『中之島』の『大阪市役所』と『大阪市立中央公会堂』との間に建つ 築113年の可愛い上品な建物『大阪府立中之島図書館』、 特に、中央部の「本館」の隅々をお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 中之島図書館の本館(中央部分と1号書庫)は、明治37年に第15代住友吉左衛門氏の寄付によってつくられたものである。 設計は住友家の建築技師長であった野口孫市氏により、日高胖氏が技師として参加した。外観はルネッサンス様式を、内部空間はバロック様式を基本としながら、優れたデザイン力による格調の高い建築である。コリント式円柱に支えられる正面はギリシア神殿を、ドーム状の中央ホールは教会を思わせる造りとなっている。 大正11年に住友家の寄付により日高胖氏の設計で左右の両翼が増築され、ほぼ現在の建物が完成した。 昭和49年には本館及び左右両翼の2棟が国の重要文化財に指定されている。 中之島図書館の前に立って正面玄関を見上げると、そこには右から左に「大阪図書館」の文字が読める。それは「大阪府立図書館」ではなく、あくまでも “大阪” 図書館なのである。 このことは、中之島図書館が開館した明治37年以前に、大阪に図書館らしい図書館が皆無だったことと無縁ではないと思われる。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 昭和29年に創立50周年を迎えたとき、当館ゆかりの歌人川田順は、それを祝って次の歌を寄せた。館の正面脇には、その歌碑が残る。 『難波津の まなかに植ゑし 知慧の木は 五十年を經て 大樹となりぬ』 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 中央ホールギャラリー上部のフリーズ(中間帯)には、本館を新しい八聖殿になぞらえて、階段正面上から右回りに菅原道真、孔子、ソクラテス、アリストテレス、シェイクスピア、カント、ゲーテ、ダーウィンの八哲の名を記した。 図書館内部に入って、中央ホールに見られる巨大な銅板「建館寄付記」の中で、この図書館の寄付者であった住友家15代吉左衛門氏は言う。 「我が大阪は関西の雄府にして、人口百万、財豊かに物殷んにして、諸学競い興る。而かして図書館の設独り焉を闕く。・・・」 つまり、大阪府は人口も多く、色々な物が揃っていて学問も盛んだが、図書館だけが無いというのである。このあとの文章は、「図書館の建物と図書購入の基金を寄付して微力をつくしたい」と続くのだが、その意気や壮とすべきであろう。 ■ 書き下し文 「我が大阪は関西の雄府にして、人口百万、財豊かに物殷(さか)んにして、諸学競い興る。而かるに図書館の設独り焉(これ)を闕(か)く。是に於いて、府庁、建館の議有り。某、自から揣(はか)らず、図書館一宇曁び図書財本若干資を献じ、もって微力を効さんことを請う。府議して之を納れ、明治三十三年十一月に起工し、三十七年一月に至って成れり。 夫れ、宇内の交通、五州の貿易経済の術は、商工より急なるは莫し。而かして大阪は商工の淵藪と称す。斯の館に入る者は、仰いで国家の盛運を思い、俯して我が府の富源を察し、之を培い、之を養い、諸学理に参じ、益ます功を将来に収めよ。 庶幾くは、府庁建館の議に負かず、某も亦余栄有るに与(あずか)らんことを。従五位住友吉左衛門識す。」 住友家の寄付により大正9年から始められた本館両翼等の増築工事の際、建築寄付記の下にはめ込まれたもの。
■ 書き下し文
「曏(さき)に、某、本館曁び図書財本を本府に納め、聊(いささ)か効を報ぜり。其の端末は銅に記して上に扁(かか)ぐる如し。事は二十秊(ねん)前に在り。今や奎運旺んにして、教化行わる。入館の士子咽を填め、設備窄狭を告ぐ。本府の慶為らざるべけんや。 是に於いて、府庁の允許を得、館の左右各おの新館一宇を増築し、規制を恢張す。工は大正十年一月に興し、翌年十月に訖りて竣す。 今よりして後、士子閲覧に便にして、精研洞究、昭代休明の化を黼黻(ふふつ)するは、独り某の素願に愜(かな)うのみに非ずして、其の本府を埤し、国家を益すること、盖し浅鮮ならざるもの有らん。 夫れ、府庁建館の議の若きは前に記備われり。茲(ここ)に之に及ばずという。従四位勲二等男爵住友吉左衛門識す。」 中央ホールの左右の壁面に彫刻が2つ立っている。どちらも銅製のギリシア風半裸の青年像である。むかって右側の引き締まった表情で前方を注視しているのが「野神像」で、「野性」を表し、左側の「文神像」は広げた書物に眼差しをむけており、「知性」を表現していると言われている。 この彫刻がおかれたのは、おそらく大正11年の左右両翼の増築の時で、作者は「長崎平和祈念男性裸像」で知られる北村西望氏である。 大阪府立中之島図書館(Osaka Prefectural Nakanoshima Library)は、大阪府大阪市北区中之島一丁目にある大阪府立図書館。 蔵書数は約55万冊。 建物が重要文化財に指定されている。 大阪府内に2館ある府立図書館のひとつ。大阪府立中央図書館(東大阪市)が一般書から学術書まで幅広い分野の本を所蔵しているのに対し、中之島図書館は古文書や大阪関連の文献、ビジネス関係分野の書籍・資料に特化している。 住友家の寄付を受けて建造が開始され、1904年に「大阪図書館」として開館した。設計は野口孫市、日高胖。同年2月25日、開館式を挙行。 1904年にネオ・バロック様式で建てられた建物は、1922年に左右の両翼を建て増しし、現在の形となった。本館は大阪大空襲の戦災からも免れ、幾度かの書庫の増築を経て、今も残っている。1974年、本館と左右の両翼が共に国の重要文化財に指定された。 |




