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〔『石楠花』(しゃくなげ):『石楠花の道』:『岡寺』(奈良県高市郡明日香村岡806)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 3.『岡寺』(おかでら):【石楠花】(しゃくなげ)春のドレスに着飾った爛漫の円舞会もそろそろエピローグ【epilogue】 ・・・^〜^v:『石楠花の道』(奈良県高市郡明日香村岡806)〔2016.04.25〕 □地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ おはようございます^^v 今日は『子供の日』、連休もすっかり後半になりました。 さて、先日(4/25)の奈良・飛鳥路さんぽ、 本命は、『岡寺』の約3,000株もの『石楠花』(しゃくなげ)☆彡 ゆっくり古都の歴史と春のお花を楽しみながらの 飛鳥路を楽しんで到着した『岡寺』、 その右側の丘全体が、『石楠花の道』と呼ばれ 色とりどりの春のドレスに着飾った 爛漫の円舞会☆彡 北半球の亜寒帯から熱帯山地までのきわめて広い範囲に分布し、 派手で大きな花『石楠花』、 およそ1300年前、天智天皇の勅願によって 『義淵僧正』が建立した古刹『岡寺』、 その境内の静かさの中では、 いっそう清楚で包容の魅力の春の花☆彡 それでは、そろそろ見納めの『石楠花』を、 ゆっくりと境内さんぽ、 ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 |
【奈良の四季さんぽ】
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〔『弥勒菩薩座像』:『石窟』・『奥の院』:『岡寺』(奈良県高市郡明日香村岡806)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 2.『岡寺』(おかでら):『天武天皇』の皇子で27歳で早世した『草壁皇子』の住んだ『岡宮』の跡に『義淵僧正』が創建したと伝わる古刹さんぽ・・・^〜^v:(奈良県高市郡明日香村岡806)〔2016.04.25〕 □地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ おはようございます^^v 連休も半分過ぎてしまいましたが、 先日(4/25)は奈良・飛鳥路さんぽ☆彡 お目当ては、『岡寺』の『石楠花』ですが、 ゆっくり古都の歴史と春のお花を楽しみながらの 飛鳥路を楽しんで到着した『岡寺』☆彡 『天武天皇』の皇子で27歳で早世した 『草壁皇子』の住んだ『岡宮』の跡に 『義淵僧正』が創建したと伝わる古刹。 史料上の初見は、 天平12年(740年)7月の『写経所啓』(正倉院文書)、 約1300年も昔の古代のこと。 『石楠花』はじめ『牡丹』ほかのお花の前に、 ゆっくりと境内さんぽを、 ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【岡寺】(おかでら)は、奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺院。 山号は東光山、寺号は龍蓋寺(りゅうがいじ)とも称し、詳しくは東光山真珠院龍蓋寺という。 本尊は如意輪観音。西国三十三所第7番札所。 『東大寺要録』「義淵伝」、『扶桑略記』等によれば、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。 史料上の初見は、天平12年(740年)7月の写経所啓(正倉院文書)である。 現在の寺域は明日香村の東にある岡山の中腹に位置するが、寺の西に隣接する治田神社(はるたじんじゃ)境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。 寺跡は平成17年(2005年)に「岡寺跡」として国の史跡に指定された。 現在では真言宗豊山派の寺院だが、義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった良弁や行基などがいた。 義淵僧正が法相宗の祖とされていたため、江戸時代までは興福寺の末寺であった。 江戸時代以降は長谷寺の末寺となった。 |
1.『飛鳥路』:古都・飛鳥の歴史と春花を楽しみながら、寄り道いっぱい春さんぽ・・・^〜^v:『菖蒲池古墳』・『亀石』・『橘寺』・『川原寺跡』・『岡寺』(奈良県橿原市・明日香村)〔2016.04.25〕
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〔『亀石』:(奈良県高市郡明日香村川原108)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 1.『飛鳥路』(あすかじ):古都・飛鳥の歴史と春のお花を楽しみながら、寄り道いっぱい春さんぽ・・・^〜^v:『菖蒲池古墳』・『亀石』・『橘寺』・『川原寺跡』・『岡寺』(奈良県橿原市・明日香村)〔2016.04.25〕 □地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ おはようございます^^v 連休も半分過ぎてしまいましたが、 先日(4/25)は奈良・飛鳥路さんぽ☆彡 お目当ては、『岡寺』の『石楠花』ですが、 ゆっくり古都の歴史と春のお花を楽しみながら 寄り道いっぱいの春さんぽ☆彡 スタートは、近畿日本鉄道(近鉄)吉野線『岡寺駅』、 『岡寺』までの道中、 『菖蒲池古墳』(しょうぶいけこふん)、 『亀石』(かめいし)、 『橘寺』(たちばなでら)、 『川原寺跡』(かわらでらあと)などに寄り道して 『岡寺』へと・・・☆彡 それでは、春の飛鳥路さんぽを ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【菖蒲池古墳】(しょうぶいけこふん:奈良県橿原市菖蒲町) 菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)は、奈良県橿原市菖蒲町に所在する方墳である。国の史跡に指定。精巧な造りの家形石棺で知られる。平成19年(2007年)には見瀬丸山古墳や植山古墳、高松塚古墳などとともに、「飛鳥・奈良の宮都とその関連資産群」の構成要素の一つとして世界遺産暫定リストに記載された。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【亀石】(かめいし:奈良県明日香村川原) 亀石(かめいし)は、奈良県明日香村川原にある亀の形をした遺構。長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。ユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなっている。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【橘寺】(たちばなでら:奈良県高市郡明日香村橘) 橘寺(たちばなでら)は、奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【川原寺跡】(かわらでらあと:奈良県明日香村川原1109) 川原寺(かわらでら)は、飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に所在した仏教寺院。金堂跡に弘福寺(ぐふくじ)が建てられている。 飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並び、飛鳥の四大寺の一に数えられた大寺院であったが、中世以降衰微した。川原寺跡は国の史跡に指定されており、現在はかつての中金堂跡に川原寺の法灯を継ぐ真言宗豊山派の寺院・弘福寺が建つ。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【犬養 孝】(いぬかい たかし.1907年4月1日 - 1998年10月3日)は日本文学者(万葉学者)。大阪大学、甲南女子大学名誉教授。文学博士。文化功労者。高岡市万葉歴史館名誉館長。東京都出身。 万葉集に登場する万葉故地をすべて訪れ、万葉集研究に生涯をささげ「万葉風土学」を確立。また、テレビ・ラジオ番組や公演などで多数の人に万葉集をひろめた。万葉歌に旋律をつけて朗唱する「犬養節」は独自の歌い方で、おおくの万葉ファンに親しまれた。 万葉の景観をまもるため、万葉故地が乱開発される現状に抗議し、国会議員や松下幸之助などの財界人にも万葉故地の重要性をうったえた。その一環として、日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」を建立、故地をまもる活動に奔走した。定例の万葉ハイキングや月見の会をかさね、明日香古都保存に尽力し、明日香村名誉村民となる。 1979年(昭和54年)に昭和天皇が明日香に行幸し、甘樫丘にて明日香の歴史的風土を視察したときの案内役をつとめる。1951年(昭和26年)に始まった「大阪大学万葉旅行」は45年間の参加者延べ4万人をこえた。2000年には奈良県明日香村に犬養を顕彰し関係資料を展示する「犬養万葉記念館」が完成した。 犬養揮毫の万葉歌碑は131基におよぶ。 【明日香村】(あすかむら)は、奈良県の中央部に位置する村である。 中央集権律令国家の誕生の地である事から飛鳥時代の宮殿や史跡が多く発掘されている事で知られ、「日本の心の故郷」とも紹介される。 日本で唯一全域が古都保存法対象地域の自治体である。 また、村全体の世界遺産登録に向けた計画が具体化している。 明日香村特別措置法によって村内全域が歴史的風土保存の対象となっている。 遺跡・景観保全のためやむを得ないが、この厳しい開発規制のため人口は減少している。 |
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〔『二上山』:(奈良県葛城市當麻)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 [完]『二上山』(にじょうざん):【雌岳】奈良盆地見渡す山頂へと・・・^〜^v:(奈良県葛城市加守・大阪府南河内郡太子町山田)〔2016.04.22〕 □ 地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ 先日(4/22)は、長年の懸案の7世紀創建の古刹『當麻寺』訪問☆彡 古刹で歴史と『牡丹』を堪能し、 近くの『二上山』の山麓を春の遠足さんぽ☆彡 毎日、自宅から眺める『二上山』は、、 『雄岳』(517m)と『雌岳』(474 m)との二つが 仲良く並ぶ山姿☆彡 『雄岳』からは一旦中間部まで下って 少しだけの登る可愛い『雌岳』☆彡 『當麻寺』の牡丹と『二上山』歩き 最終編をご一緒にお楽しみください・・・^〜^v 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 |
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〔『大津皇子・二上山墓』:『二上山・雄岳』(奈良県葛城市加守)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『二上山』(にじょうざん):【雄岳】薄暗い沢を登り登り、『大津皇子』眠ると伝わる山上に到着・・・^〜^v:(奈良県葛城市加守・大阪府南河内郡太子町山田)〔2016.04.22〕 □ 地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ 先日(4/22)は、長年の懸案の7世紀創建の古刹『當麻寺』訪問☆彡 古刹で歴史と『牡丹』を堪能し、 近くの『二上山』の山麓を春の遠足さんぽ☆彡 毎日、自宅から眺める『二上山』、 その山頂は『雄岳』(517m)、『雌岳』(474 m)の二つ☆彡 昼なお暗い沢を登り登り、 馬の背と呼ばれる、中間部へ、 まずは、頂上近くに『大津皇子』が眠ると伝わる 『雄岳』までを、 ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【大津皇子】(おおつのみこ、663年(天智天皇2年) - 686年10月25日(朱鳥元年10月3日))は、飛鳥時代の皇族。 天武天皇の皇子。 母は天智天皇皇女の大田皇女。 同母姉に大来皇女。 妃は天智天皇皇女の山辺皇女。 663年(天智天皇2年)、九州の那大津で誕生。 『日本書紀』によれば天武天皇の第3子とされる(『懐風藻』では長子とされる)。 『懐風藻』によると「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。 壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す」 (体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた)とある。 『日本書紀』にもおなじ趣旨の讃辞が述べられており、抜群の人物と認められていたようである。 母の大田皇女は、天智天皇の皇女で鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の姉にあたり、順当にいけば皇后になりえたが、大津が4歳頃の時に死去し、姉の大来皇女も斎女とされたため、大津には後ろ盾が乏しかった。そのため、異母兄の草壁皇子が681年(天武天皇10年)に皇太子となった。 683年(天武天皇12年)2月に朝廷の政治に参加。この「始聴朝政」という大津の政治参加を示す文句については様々なとらえ方があるが、『続日本紀』に皇太子である首親王(聖武天皇)の政治参加におなじ用語を使っていることからみると、草壁と匹敵する立場に立ったと理解するのが妥当だと思われる。 しかし、当時まだ年少だった長皇子・舎人親王などを除けば、血統的に草壁と互角だった大津の政治参加は、一応は明確になっていた草壁への皇位継承が半ば白紙化した事を意味した。 686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。 享年24。 『日本書紀』には妃の山辺皇女が殉死したとしている。 また、『万葉集』の題詞には死の直前に姉である大来皇女が斎王を務めている伊勢神宮へ向かったとある。 辞世 ・和歌 ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ ・漢詩 金烏臨西舎 (金烏 西舎に臨み) 鼓声催短命 (鼓声 短命を催す) 泉路無賓主 (泉路 賓主無し) 此夕離家向 (この夕 誰が家にか向ふ) |


