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〔『枝垂れ藤』:『大龍寺』(奈良県葛城市新在家64)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『二上山』(にじょうざん):古代から石器の石材の産出地でもあった山麓を春の遠足さんぽ・・・^〜^v:(奈良県葛城市)〔2016.04.22〕 □ 地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ 先日(4/22)は、長年の懸案の7世紀創建の古刹『當麻寺』訪問☆彡 古刹で歴史と『牡丹』を堪能し、 近くの『二上山』の山麓を春の遠足さんぽ☆彡 その昔、石器時代は石材の産出地として、 また、古来より、雄岳・雌岳の間に日が沈む様子から神聖な山岳として、 そして、古墳時代から飛鳥時代にかけては、 海上の交通の要所、大阪湾・住吉津・難波津から、 政治の中心の舞台である飛鳥地方への重要な交通経路として 歴史的な要だった『二上山』☆彡 それでは、『牡丹』満開の春の山麓を 歴史と自然を楽しみながらのひとときを ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【鳥谷口古墳】(とりたにぐちこふん) 二上山から東に派生する尾根の先端上に築かれたこの古墳は、昭和58年(1983)の土取り工事中に偶然に発見され、この場所の小字名から鳥谷口古墳と名付けられました。 大きさは一辺が約7mの四角形の古墳で、埋葬施設は横口式石槨(よこぐちしきせきかく)と呼ばれる小さな石室です。 発見後すぐに調査が行われ、7世紀後半頃に築造されたことなどが判明したものの、誰が葬られたのかをはっきりと示す遺物は発見されませんでした。 さて二上山と言えば、大津皇子(天武天皇の第三皇子)のために姉の大伯皇女が詠んだ「万葉集」の次の歌があります。 うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む この歌の詞書(前文)には「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に大来皇女の哀傷して作らす歌…」とあり、皇子の亡骸が二上山に葬られたと、記されています。 現在、皇子の墓は二上山雄岳山頂にあるとされていますが、この鳥谷口古墳こそ、「万葉集」に記された大津皇子の墓の可能性が高いと考えられます。 【二上山】(にじょうざん)は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。 かつては大和言葉による読みで「ふたかみやま」と呼ばれた。 金剛山地北部に位置し、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂がある双耳峰である。 また、石器に使われた讃岐岩(サヌカイト)の産地である。 二上山の北側の春日山付近の地域で遺跡が多く発見されていることから二上山北麓遺跡群とも呼称されている。 後期旧石器時代から弥生時代にかけての多量の剥片・砕片・石核・くさび形石器・敲石類が採集されており、遺構としての採掘坑も確認されている。 二上山周辺は、火成岩や火砕流堆積物が分布していることから、火山であったと考えられている。 約2000万年前の大噴火により形作られたと言われている。 活動時期は、新第三紀と推定され、最終活動時期は、約1400万年前と推定されている。 二上山は死火山で、今後、噴火の可能性はなく、地図で火山として分類されることはない。 古来より、雄岳・雌岳の間に日が沈む様子から、神聖な山岳として、人々からあがめられてきた。 古墳時代から飛鳥時代にかけて、二上山周辺は、海上の交通の要所、大阪湾・住吉津・難波津から、政治の中心の舞台である飛鳥地方への重要ルートとなり、二上山の南に、日本で最初の官道として知られる竹内街道が作られた。 二上山の石切場から切り出された石材が高松塚古墳に使われた。 謀反の疑惑をかけられて自害した、大津皇子の墓が雄岳山頂付近にある。 万葉集には二上山を詠んだ歌がいくつか収録されている。 |
【奈良の四季さんぽ】
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〔『母娘牡丹』:『ぼたん園』:『中之坊』・『當麻寺』(奈良県葛城市當麻1263)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 6[完].『當麻寺』(たいまでら、常用漢字体:当麻寺):【ぼたん園】春の陽射しに輝く真珠の首飾りつけた春花の女王たちに出逢う・・・^〜^v:『中之坊』(奈良県葛城市當麻1263)〔2016.04.22〕 □ 地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ 先日(4/22)は、長年の懸案の7世紀創建の古刹『當麻寺』訪問☆彡 西方極楽浄土の様子を表した『当麻曼荼羅』の信仰と、 曼荼羅にまつわる『中将姫』伝説で知られとともに、 『牡丹』の花の寺として有名な最古の僧坊と伝わる 『中之坊』☆彡 歴史な史跡や『書院』・『庭園』を経て やっとたどり着いた古刹の『ぼたん園』、 そこは、春の陽射しに映える豪華絢爛な女王たちが集う 大円舞会☆彡 雨上がりの朝、 キラキラ輝く首飾りがお似合いの春花の女王とちとの、 古都・奈良の春の思い出を ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 |
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〔『ぼたん園』:『中之坊』・『當麻寺』(奈良県葛城市當麻1263)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 5.『當麻寺』(たいまでら、常用漢字体:当麻寺):【ぼたん園】春の陽射しが映える豪華絢爛な女王たちに酔う・・・^〜^v:『中之坊』(奈良県葛城市當麻1263)〔2016.04.22〕 □ 地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ 先日(4/22)は、長年の懸案の7世紀創建の古刹『當麻寺』訪問☆彡 西方極楽浄土の様子を表した『当麻曼荼羅』の信仰と、 曼荼羅にまつわる『中将姫』伝説で知られとともに、 『牡丹』の花の寺として有名な最古の僧坊と伝わる 『中之坊』☆彡 歴史な史跡や『書院』・『庭園』を経て やっとたどり着いた『ぼたん園』、 そこは、春の陽射しに映える豪華絢爛な女王たちが集う 大円舞会☆彡 その周りには、そっと支える可愛い春の花と深緑の若葉たち、 それでは、お待たせいたしました 『當麻寺』の牡丹を『中之坊』から お届けいたします・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【ボタン】(牡丹、学名:Paeonia suffruticosa)は、ボタン科ボタン属の落葉小低木。 または、ボタン属(Paeonia)の総称。 別名は「富貴草」「富貴花」「百花王」「花王」「花神」「花中の王」「百花の王」「天香国色」 「名取草」「深見草」「二十日草(廿日草)」「忘れ草」「鎧草」「ぼうたん」「ぼうたんぐさ」など多数。 原産地は中国西北部。 元は薬用として利用されていたが、盛唐期以降、牡丹の花が「花の王」として他のどの花よりも愛好されるようになった。 樹高は原種で3m、接木で作られる園芸品種で1-1.5m。 従来は種からの栽培しかできなくて正に「高嶺の花」であったが、戦後に芍薬を使用した接ぎ木が考案され、急速に普及した。 中国文学では盛唐以後、詩歌に盛んに謳われるようになった。 ・李白 「清平調詞」其の二:「一枝濃豔露凝香、雲雨巫山枉斷腸。借問漢宮誰得似、可憐飛燕倚新妝」 楊貴妃の美しさを牡丹になぞらえた。 ・白居易(白樂天) 「牡丹芳」:「花開花落二十日、一城之人皆若狂」(花開き花落つ二十日、一城の人皆狂ふが若し) 「長恨歌」でも楊貴妃を牡丹・梨花・柳に例えた。 ・劉禹錫 「賞牡丹」:「唯有牡丹真國色、花開時節動京城」 ・郭延沢(かくえんたく)牡丹詩千首を詠んだ 『牡丹燈記』(日本では、怪談『牡丹灯篭』や歌舞伎『怪異牡丹燈籠』) 日本では8世紀には栽培されていたようであるが、文学に登場したのは『枕草子』が最初である(「殿などのおわしまさで後」の条)。 夏、初夏の季語。 そのほか牡丹の芽は春、初春の季語、狐の牡丹は晩春、牡丹焚火は初冬、冬牡丹、寒牡丹、冬の季語。 ・「人しれず 思ふこころはふかみぐさ 花咲きてこそ 色に出でけれ」 (賀茂重保 『千載集』) ・「形見とてみれば嘆きのふかみ草なに中々のにほひなるらむ」 (藤原重家 『新古今集』) ・「咲きしより 散り果つるまで見しほどの 花のもとにて 二十日へりけり」 (関白前太政大臣 『詞花和歌集』) ・『蕪村発句集』与謝蕪村は関西出身の俳人で、牡丹の句を多く残した。 「牡丹散(ちり)て打かさなりぬ二三片」 「閻王(えんおう)の口や牡丹を吐かんとす」 「ちりて後おもかげにたつぼたん哉」 ・曲亭馬琴:「南総里見八犬伝」で牡丹が獅子の力を押さえ込む霊力があることに着目して、牡丹紋を八犬士の象徴とした。 ・「冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす」 (松尾芭蕉) ・「戻りては 灯で見る庵の ぼたんかな」 (加賀千代女) ・「福の神 やどらせ給ふ ぼたん哉」 (小林一茶) ・「一つ散りて 後に花なし 冬牡丹」」 (正岡子規) ・高浜虚子 「一輪の 牡丹かがやく 病間かな」 「そのあたり ほのとぬくしや 寒ぼたん」 「鎌倉の 古き土より 牡丹の芽」 「白牡丹と いふといへども 紅ほのか」 ・「白牡丹 李白が 顔に崩れけり」 (夏目漱石) ・「牡丹花は 咲き定まりて 静かなり 花の占めたる 位置のたしかさ」 (木下利玄) ・花言葉は「王者の風格」 ・「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」という美女の形容として使われる言葉がある。ボタンが木(灌木)であるのに対し、他の二つは草(多年草)に分類される。 ・「獅子に牡丹」「牡丹に唐獅子」は、獅子は「百獣の王」、牡丹は「百花の王」と呼ばれ、よい組み合わせとされる。「男気」の象徴。唐獅子牡丹は、工芸品、刺青、侠客伝映画の題名(「昭和残侠伝唐獅子牡丹」、「緋牡丹博徒」など)にも見られる。 ・花札の絵柄:牡丹に蝶(6月) |
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〔『香藕園』(こうぐうえん):『中之坊』・『當麻寺』(奈良県葛城市當麻1263)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 4.『當麻寺』(たいまでら、常用漢字体:当麻寺):【中之坊】『後西天皇』の行幸所縁と伝わる『書院』と庭園『香藕園』(こうぐうえん)を味わう・・・^〜^v:(奈良県葛城市當麻1263)〔2016.04.22〕 □ 地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ 先日(4/22)は、長年の懸案の7世紀創建の古刹『當麻寺』訪問☆彡 西方極楽浄土の様子を表した『当麻曼荼羅』の信仰と、 曼荼羅にまつわる『中将姫』伝説で知られとともに、 『牡丹』の花の寺として有名な最古の僧坊と伝わる 『中之坊』☆彡 そこには、『後西天皇』(ごさいてんのう)の行幸所縁と伝わる 江戸時代初期建立の『書院』(重要文化財)と 『庭園』(史跡・名勝)がある。 『香藕園』(こうぐうえん)と呼ばれる庭園は、 築地塀で内庭と外庭に分かれ、 内庭は當麻寺の東西両塔を借景とした池泉回遊式庭園、 外庭は山の斜面に造園され, 『片桐石州』の作庭と伝わる 『竹林院・群芳園』、『慈光院・庭園』と並ぶ 大和三庭園の名園の一つ☆彡 今回の訪問のお目当ての『牡丹園』の前に、 書院・茶室とお庭をゆっくり、 お楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【片桐 貞昌〕(かたぎり さだまさ)は、江戸時代前期の大名、茶人。 大和小泉藩の第2代藩主。茶道石州流の祖として【片桐石州】の名で知られる。 ■茶人としての石州 最初、千利休の長男・千道安の流れを汲む桑山宗仙に茶道を学んだといわれている。 30歳の頃からは大和郡山藩主・松平忠明や近江小室藩主・小堀政一(遠州)らともよく茶席を共にしているほか、奈良の茶人とも交遊を深め、茶の宗匠として次第にその名が広がっていった。 特に第4代将軍・徳川家綱のために『茶道軌範』を作り、なおかつ寛文5年(1665年)には家綱の茶道指南役となり、石州流を不動のものとした。 寛文3年(1663年)、父の菩提のために慈光院を創立した。 これは寺としてよりも境内全体が一つの茶席として造られており、表の門や建物までの道・座敷や庭園、そして露地を通って小間の席という、茶の湯で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部が、一人の演出そのまま300年を越えて眼にすることができるということで、現在も全国的に見ても貴重な場所となっている。 慈光院の庭園は1934年に国の史跡及び名勝に指定され、1944年には書院と茶室が国宝保存法により当時の国宝に指定された(1950年の文化財保護法により重要文化財となる)。 ちなみに徳川光圀、保科正之、松浦鎮信らは、茶道における貞昌の門弟である。 |
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〔『牡丹』:『中之坊』・『當麻寺』(奈良県葛城市當麻1263)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 3.『當麻寺』(たいまでら、常用漢字体:当麻寺):【中之坊】『中将姫』剃髪の地、および仏法の師である『実雅』の開基と伝わる名刹の史蹟・旧蹟・聖蹟さんぽ・・・^〜^v:(奈良県葛城市當麻1263)〔2016.04.22〕 □ 地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ 先日(4/22)は、長年の懸案の7世紀創建の古刹『當麻寺』に☆彡 西方極楽浄土の様子を表した『当麻曼荼羅』の信仰と、 曼荼羅にまつわる『中将姫』伝説で知られとともに、 『牡丹』の花の寺として有名な最古の僧坊と伝わる 『中之坊』☆彡 そこには、『中将姫』の守り本尊である 『導き観音』はじめ、 史蹟・旧蹟・聖蹟が盛りだくさん、 今回の訪問のお目当ての『牡丹園』の前に、 まずは歴史豊かな『中之坊』を徹底探検、 それでは、ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【中将姫】(ちゅうじょうひめ、天平19年8月18日(747年9月30日)- 宝亀6年3月14日(775年4月22日))は、奈良の当麻寺に伝わる当麻曼荼羅を織ったとされる、日本の伝説上の人物。 平安時代の長和・寛仁の頃より世間に広まり、様々な戯曲の題材となった。 伝説における生涯 藤原鎌足の曾孫、右大臣藤原豊成とその妻の紫の前(品沢親王の娘)の間には長い間子どもが出来ず、桜井の長谷寺の観音に祈願し、中将姫を授かる。しかし、母親は、その娘が5歳の時に世を去り、7歳の時に豊成は、橘諸房の娘である照夜の前を後妻とする。 中将姫は、美貌と才能に恵まれ、9歳の時には孝謙天皇に召し出され、百官の前で琴を演奏し、賞賛を受ける。しかし、継母である照夜の前に憎まれるようになり、盗みの疑いをかけられての折檻などの虐待を受けるようになる。 13歳の時に、三位中将の位を持つ内侍となる。 14歳の時、豊成が諸国巡視の旅に出かけると、照夜の前は、今度は家臣に中将姫の殺害を命じる。しかし、命乞いをせず、亡き実母への供養を怠らない、極楽浄土へ召されることをのみ祈り読経を続ける中将姫を家臣は殺める事が出来ず、雲雀山の青蓮寺 (宇陀市)へと隠す。翌年、豊成が見つけて連れ戻す。中将姫は1000巻の写経を成す。 天平宝字7年(763年)、16歳の時、淳仁天皇より、後宮へ入るように望まれるが、これを辞す。その後、二上山の山麓にある当麻寺へ入り尼となり、法如という戒名を授かる。 26歳で長谷観音のお告げにより、当麻曼荼羅を織り上げる。仏行に励んで、徳によって仏の助力を得て、一夜で蓮糸で当麻曼荼羅(観無量寿経の曼荼羅)を織ったとされている。 宝亀6年(775年)春、29歳で入滅。阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる。 |




