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〔『楓花・楓実』:『奥院』・『當麻寺』(奈良県葛城市當麻1263)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 2.『當麻寺』(たいまでら、常用漢字体:当麻寺):創建1400年と伝わる、『当麻曼荼羅』の信仰と曼荼羅にまつわる『中将姫』伝説で知られる古刹の境内さんぽ・・・^〜^v:(奈良県葛城市當麻1263)〔2016.04.22〕 □ 地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ 一昨日(4/22)は、長年の懸案の古刹『當麻寺』に☆彡 『聖徳太子』の異母弟『麻呂古王』開基と伝わる 7世紀創建の古刹は、 西方極楽浄土の様子を表した『当麻曼荼羅』の信仰と、 曼荼羅にまつわる『中将姫』伝説で知られとともに、 『牡丹』の花の寺として有名☆彡 『二上山』(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置する 『當麻寺』は本坊はなく、中心伽藍を、 真言宗5院、浄土宗8院の子院が維持管理している、 創建1400年と伝わる寺院。 その静かな境内は、牡丹をはじめ、霧島も咲き出し、 楓の木には、とっても小さくてかわいい花や実も 見つけた春の古都・奈良の地に残る 古刹『當麻寺』の境内さんぽを ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【當麻寺】は、南を正面とする金堂と講堂が南北に並んで建ち、これらの西側には東を正面とする本堂(曼荼羅堂)が建つ。 日本の古代寺院は南を正面とするのが通例だが、當麻寺の境内は南と西に山が迫っていて、南側に正門があった形跡はなく、境内東端の東門が正門となっている。 中心伽藍の南方には東西2つの三重塔が建つが、これら両塔の建つ位置は台地の先端にあたり、金堂、講堂などの建つ地盤よりは6〜7メートル高い場所である。 また、東塔と西塔は金堂・講堂を結ぶ伽藍の南北中心軸からみて、正確に左右対称の位置には建っていない。 このような平地と台地の境を選んで伽藍を建立した理由はわかっていないが、本堂の地下からは墳墓が検出されており、当麻氏の祖先が眠る由諸ある土地に氏寺を建立したものと推定されている。 當麻寺自体の本坊はなく、中心伽藍は浄土宗と高野山真言宗に属する子院によって維持管理されている。境内には真言宗5院、浄土宗8院の子院がある。 (真言宗子院)中之坊、西南院、松室院、不動院、竹之坊 (浄土宗子院)念仏院、護念院、来迎院、極楽院、奥院、千仏院、宗胤院、紫雲院 ・兼帯管理 本堂(曼荼羅堂) ・真言宗の管理 仁王門 金堂 講堂 三重塔 鐘楼 ・浄土宗の管理 奥院 |
【奈良の四季さんぽ】
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1.『當麻寺』(当麻寺):西方極楽浄土の様子を表した『当麻曼荼羅』の信仰と、曼荼羅にまつわる『中将姫』伝説で知られる7世紀創建の古刹を訪ねて・・・^〜^v:(奈良県葛城市當麻)〔2016.04.22〕
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〔『藤花』:『宗胤院』(そいにん)・『當麻寺』(奈良県葛城市當麻1263)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 1.『當麻寺』(たいまでら、常用漢字体:当麻寺):西方極楽浄土の様子を表した『当麻曼荼羅』の信仰と、曼荼羅にまつわる『中将姫』伝説で知られる7世紀創建の古刹を訪ねて・・・^〜^v:(奈良県葛城市當麻1263)〔2016.04.22〕 □ 地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ 昨日(4/22)は、長年の懸案の古刹『當麻寺』に☆彡 『聖徳太子』の異母弟『麻呂古王』開基と伝わる 7世紀創建の古刹は、 西方極楽浄土の様子を表した『当麻曼荼羅』の信仰と、 曼荼羅にまつわる『中将姫』伝説で知られとともに、 『牡丹』の花の寺として有名☆彡 最寄りの近鉄・南大阪線『当麻寺駅』から 春の花咲く、古都・奈良の風情豊かな町屋の残る 『二上山』(にじょうざん、ふたかみやま)の麓にある。 なお、『當麻寺』には、本坊はなく、 中心伽藍は、真言宗5院、浄土宗8院の子院が 維持管理している。 それでは、春の古都・奈良の地に残る古刹『當麻寺』へ ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【當麻寺】(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。 法号は「禅林寺」。 山号は「二上山」。 創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。 宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている。 開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。 西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。 毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。 奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。 中将姫の蓮糸曼荼羅(当麻曼荼羅)の伝説で知られる當麻寺は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置する。 當麻寺がある奈良県葛城市當麻地区(旧・北葛城郡當麻町)は、奈良盆地の西端、大阪府に接する位置にあり、古代においては交通上・軍事上の要地であった。 二上山は、その名のとおり、ラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山(桜井市)と相対する位置にある。 二上山は、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。 二上山はまた、古墳の石室や寺院の基壇の材料になる凝灰岩(松香石)や、研磨剤となる柘榴石の産地でもあった。 古代の大和国の東西の幹線路であった横大路は、現在の葛城市長尾付近が西端となり、そこから河内方面へ向かう道は二上山の南を通る竹内(たけのうち)峠越え(竹内街道)と岩屋峠越え、二上山の北を通る穴虫峠越え(大坂道)に分かれる。 この分岐点付近を古代には当麻衢(たいまのちまた)と呼び、672年の壬申の乱の際には戦場となった。 これらの峠越えは、河内と大和を結ぶ主要な交通路で、古代には中国大陸や朝鮮半島から渡来の文物が難波(大阪)の港から都へと運ばれるルートでもあった。 平安時代の浄土教僧で『往生要集』の著者である恵心僧都源信はこの地方の出身である。 また、当麻の地は折口信夫(釈迢空)の幻想的な小説『死者の書』の舞台としても知られる。 當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として建てられたものと推定されている。 金堂に安置される弥勒仏像と四天王像、境内にある梵鐘と石灯籠、出土した塼仏、古瓦などは、いずれも天武朝頃(7世紀後半)の様式を示し、寺の草創はこの頃と推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。 |
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〔『上千本』:『吉野山』(奈良県吉野郡吉野町)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 6.[完]『吉野水分神社』(よしのみくまりじんじゃ):一千年以上の歴史ある神社で折り返し、『如意輪寺』を経て、近鉄『吉野駅』に無事下山・・・^〜^v:『吉野山』(奈良県吉野郡吉野町)〔2016.04.05〕 先週(4/5)は、二年ぶりの一目三千本の桜を求めて 朝一番で桜の名所で有名な『吉野山』! 近鉄電車『吉野駅』から出発し、 『下千本』・『中千本』・『上千本』を楽しみながら、 『吉野水分神社』(よしのみくまりじんじゃ)で折り返し、 『如意輪寺』を経て下山した、 『吉野山』の桜花三昧の桜さんぽ☆彡 第六編は、一千年以上の歴史ある神社 『吉野水分神社』から、 『吉野山』の山道を下り、 『如意輪寺』で一休みして、 出発地点の『吉野駅』に無事到着までを ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【完】 【吉野水分神社】(よしのみくまりじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町子守地区(吉野山上千本)にある神社。 式内社で、旧社格は村社。 葛城水分神社・都祁水分神社・宇太水分神社とともに大和国四所水分社の一つとして古くから信仰されてきた。 また、「みくまり」が「みこもり」となまり、子守明神と呼ばれ子授けの神として信仰を集めている。 宣長の両親の子守明神への祈願により本居宣長が授けられたといわれている。 2004年7月に、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録された。 創建については不詳である。 当社に関する最も古い記録は、『続日本紀』の文武天皇2年(698年)4月29日条で、芳野水分峰神に馬を奉り祈雨したとの記述である。 当神社は、元来は吉野山の最奥部、吉野町、黒滝村、川上村の境に位置する青根ヶ峰に位置したとされる。 青根ヶ峰は吉野川の支流である音無川が東へ、喜佐谷川が北へ、秋野川が西へ流れるなどの源流となる山で「水分 = 水配り」の神の鎮座地にふさわしい。 大同元年(806年)ごろに現在地へ遷座した。 延喜式神名帳では「大和国吉野郡 吉野水分神社」として記載され、大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。前防家が社家。 平安時代中期ごろから「子守明神」と呼ばれるようになった。 豊臣秀吉もこの地を訪れ秀頼を授かったといわれる。 現在の社殿は慶長10年(1605年)に秀頼によって創建されたものである。 作事の奉行を務めたのは豊臣家臣で尼崎郡代の建部光重。 神仏習合時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされ(子守権現)、金峰山の蔵王権現(金峯山寺)に属する神社として修験道の行場の一つとなっていた。 明治の神仏分離によって金峯山寺より独立し、村社に列格した。 【如意輪寺】(にょいりんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺である。 山号は塔尾山(とうのおさん)。 本尊は如意輪観音。 本堂の背後には、吉野の地で崩御した後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)、世泰親王墓がある。 平安時代の延喜年間(901年 - 922年)に日蔵上人により開かれたと伝わる。 南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とされたが、天皇は還京叶わぬまま崩御して本堂裏山に葬られた。 以来寺運は衰えたが、慶安3年(1650年)文誉鉄牛上人によって本堂が再興され、その際に真言宗から浄土宗に改宗した。 正平2年(1346年)12月、楠木正成の長男・楠木正行が四條畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党とともに当寺にある後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠んだという。 正行は当寺本堂の扉に鏃(矢じり)で辞世の句を刻んだとされ、その扉とされるものが今も寺に伝わる。 芭蕉は、ここに立ち寄った折、「御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草」などの句を残している。 |
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〔『吉野千本桜』:『花矢倉展望台』・『上千本』:『吉野山』(奈良県吉野郡吉野町)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 5.『上千本』(かみせんぼん):眼下に広がる、上・中・下の千本桜、一目三千桜の極楽花園『吉野山』・・・@^@v:『吉野山』(奈良県吉野郡吉野町)〔2016.04.05〕 僕の街は、先週末で桜満開の春爛漫は店じまい(涙) さて、桜花爛漫の先週・週日は、 毎日あっちこっちと神出鬼没した 桜花三昧の僕☆彡 とある日(4/5)の目的地は、 二年ぶりの一目三千本の桜を求めて 朝一番で桜の名所で有名な『吉野山』! 近鉄電車『吉野駅』から、 『七曲坂』を登って、 『下千本』・『中千本』・『上千本』を楽しみながら、 『吉野水分神社』(よしのみくまりじんじゃ)までの 極楽花園『吉野山』の桜花三昧☆彡 第五編は、『上千本』・『中千本』・『上千本』を 一目に計三千本の桜花の眺望楽しめる『花矢倉展望台』☆彡 ここは、弓矢による敵の迎撃や見張りに最適で、 人形浄瑠璃・歌舞伎の『義経千本桜』の舞台としても 有名の絶景の高台! 解説は短く、 早速 今季最高の桜花の眺望を ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【義経千本桜】(よしつねせんぼんざくら)は、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。 五段続、延享4年(1747年)11月、大坂竹本座にて初演。 二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。 「大物船矢倉/吉野花矢倉」(だいもつのふなやぐら/よしののはなやぐら)の角書きが付く。 通称『千本桜』。 源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、実は生き延びていた平家の武将たちとそれに巻き込まれた者たちの悲劇を描く。 【五段目:吉野山の段】 雪のまだ残る吉野山で、佐藤忠信は覚範こと教経と決着をつけることになった。 鎌倉勢も攻め寄せるが忠信一人でそれらを退ける。 教経が現われ忠信と激しい勝負となるが、忠信は教経に組み敷かれてしまう。 ところがそこへもうひとり忠信が駆けつけ、教経に取り付いた。 さしもの教経も仰天し振り払おうとすると、その忠信は義経の鎧に変じ、その隙を狙って組敷かれた忠信が教経に手を負わせる。 源九郎狐が幻術を以って忠信を助けたのである。 そこへ義経が現われ、安徳帝は母である健礼門院のもとで出家を遂げたと告げると、川越太郎もやってきて藤原朝方を縛って引き出し、頼朝を討てという院宣はこの朝方の謀略であると顕れたので、その処分を義経に任せるとの後白河院の言葉を伝えた。 平家追討の院宣もこの朝方のしわざと聞く、こいつを殺すのが一門への言い訳と、教経は朝方の首を打ち落とす。 その教経は兄継信のかたきと佐藤忠信に討たれ、平家はここにまさしく滅びたのであった。 |
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〔『巣作り真っ最中☆彡』:『竹林院』・『中千本』:『吉野山』(奈良県吉野郡吉野町)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 4.『巣作り真っ最中☆彡』:産卵期迎えて、大急ぎの『四十雀』(シジュウカラ)・・・^〜^!:『竹林院』・『中千本』:『吉野山』(奈良県吉野郡吉野町)〔2016.04.05〕 桜満開の春爛漫はもう店じまいの僕の地方になりました(涙) さて、桜花爛漫の先週は、毎日あっちこっちと神出鬼没の僕☆彡 とある日(4/5)の桜さんぽ、 二年ぶりの一目三千本の桜を求めて 朝一番で桜の名所で有名な『吉野山』! 『中千本』の『竹林院』の庭園は、 大和三庭園の一つとされる回遊式庭園。 『千利休』作、『細川幽斎』改修とも伝わる名園。 その片隅では、産卵期を迎えて 『四十雀』(シジュウカラ』が 行ったり来たりの大忙し☆彡 観光客で賑わう庭園の池畔、 一生懸命に豊富な苔を、 街路灯の穴に運び、 快適空間を準備中☆彡 それでは、巣作り準備の一部始終を ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【シジュウカラ】(四十雀、学名 Parus minor)は、鳥類スズメ目シジュウカラ科シジュウカラ属の1種である。 市街地の公園や庭などを含む平地から山地の林、湿原などに生息する。 通常は渡りを行わないが、寒冷地に分布する個体や食物が少ない時には渡りを行うこともある。 非繁殖期の秋季から冬季には数羽から10数羽、ときに数十羽の群れとなり、シジュウカラ科の他種も含めた小規模な混群も形成する。 和名は鳴き声(地鳴き)に由来する。 さえずりは甲高いよく通る声で「ツィピーツィピーツィピー」などと繰り返す。 食性は雑食で、果実、種子、昆虫やクモなどを食べる。 地表でも樹上でも採食を行う。 樹洞やキツツキ類の開けた穴の内側などに]、メスが、主にコケを組み合わせ、覆うように獣毛やゼンマイの綿、毛糸などを敷いた椀状の巣を作り、日本では4–7月におよそ7–10個の卵を年に1-2回に分けて産む。 卵の大きさは1.55-1.85cm × 1.25-1.40cm で、色は白色に小さな赤褐色や灰色の斑点がまばらにつく。 メスのみが抱卵し、抱卵期間は12–14日。 孵化してから16-19日で巣立つ。 |


