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〔『道明寺』:(大阪府藤井寺市道明寺一丁目14番31号)にて〕 『藤の葛井寺』(ふじいでら)・『花の道明寺』(どうみょうじ):満開の藤と花の尼寺に迎えられた春花さんぽ・・・^〜^v:『藤井寺市』(ふじいでらし)〔2017.05.04〕 もう三か月も前の思い出記事になってしまいましたが、 5月の連休のその日(5/4)は、 元同僚と堺市『浅香山』から藤井寺市『道明寺』まで 『長尾街道』の一部を春花さんぽ☆彡 見頃のツツジ咲く『大和川』の川端をスタートし、 街道沿いの家並みを味わい、旧跡などを探しながら 『長尾街道』歴史さんぽは、 ゴールの『藤井寺市』に☆彡 まずは、神亀2年(725年)、『聖武天皇』の勅願で『行基』が創建し、 平安時代になって『平城天皇』の皇子『阿保親王:』が再興したと伝わる 満開の藤の花咲く『葛井寺』(ふじいでら)☆彡 紫色と白色の藤の花咲く境内で一休みし、 次に向かった先は、『菅原道真』ゆかりの『道明寺天満宮』と『道明寺』^^v この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる『野見宿禰』(のみのすくね)の所領地で、 大宰府に左遷される道真が叔母の『覚寿尼』(かくじゅに)を訪ね 「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、 別れを惜しんだと伝わる場所...! それでは、『春花さんぽ』のゴール『藤井寺市』と おまけに『あべのハルカス』の足元『天王寺公園』での たこ焼き反省会の様子をお楽しみください(笑)・・・^〜^v . .【完】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 長尾街道(ながおかいどう)は、大阪府堺市堺区から東へ向かい、二上山の北麓・田尻峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る街道である。 ほとんどの区域で大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線に平行し(一部は重複)、同線が長尾街道と通称されるため、旧長尾街道と呼ばれることもある。 また、堺市の市街地では花田口筋とも呼ばれる。 長尾街道は、日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北1,908m(但し計画値)に平行して整備された。 古くは「大津道」と呼ばれた。 大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街道と名が付いたという。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 葛井寺(ふじいでら)は、大阪府藤井寺市藤井寺一丁目にある真言宗御室派の寺院。 藤井寺、剛琳寺とも称する。 山号は紫雲山。 本尊は千手観音。 西国三十三所第五番札所。 寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされ、平安時代になって平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとされている。 近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)により8世紀中頃に創建されたとも推定されている。 なお、平安時代初期に寺を再興したと伝えられる阿保親王の母も藤井氏である。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)は、大阪府藤井寺市道明寺に位置する神社である。 祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。 隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある。 この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。 仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。 伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという。 平安時代、土師寺には菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元年(901年)、大宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 道明寺(どうみょうじ)は、大阪府藤井寺市道明寺にある真言宗御室派の尼寺。 山号は蓮土山。 道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。 道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。 当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。 901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。 この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。 道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。 1575年(天正3年)には、兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するが、後に再興。 1872年(明治5年)の神仏分離により道明寺天満宮境内から現在地に移転した。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E8%97%A4%E4%BA%95%E5%AF%BA%E5%B8%82) |
【大阪の四季さんぽ】
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〔『長尾街道』:『堺市駅』付近:(大阪府堺市北区北長尾町)にて〕 『長尾街道』:五月晴れの歴史さんぽは、堺市から松原市・羽曳野市へと・・・^〜^v:〔2017.05.04〕 もう三か月も前の思い出記事になってしまいましたが、 5月の連休のその日(5/4)は、 元同僚と堺市『浅香山』から藤井寺市『道明寺』まで 『長尾街道』の一部を春花さんぽ☆彡 見頃のツツジ咲く『大和川』の川端、 大阪・堺の『浅香山つつじまつり』会場からスタートした 春花さんぽは、お目当ての『長尾街道』に入り 街道筋の家並みや旧跡など見つける歴史さんぽに早変わり☆彡 男二人わがまま歴史さんぽをお楽しみください・・・^〜^! . .【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 長尾街道(ながおかいどう)は、大阪府堺市堺区から東へ向かい、二上山の北麓・田尻峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る街道である。 ほとんどの区域で大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線に平行し(一部は重複)、同線が長尾街道と通称されるため、旧長尾街道と呼ばれることもある。 また、堺市の市街地では花田口筋とも呼ばれる。 長尾街道は、日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北1,908m(但し計画値)に平行して整備された。 古くは「大津道」と呼ばれた。 大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街道と名が付いたという。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 愛染院(あいぜんいん)本堂は、本市内において、建築年代が明らかな江戸時代初期の建造物です。棟札(むなふだ)により、慶安5年(1652年)に建築されたことがわかります。 また、細部様式にも江戸時代初期の様子が見られます。 構造的な面、細部様式、保存状況などから、上質な近世寺院建造物として大変貴重です。 本尊を祀(まつ)るために須弥壇(しゅみだん)上に安置されている厨子(ずし)も、その細部様式などから、本堂とほぼ同じ時期に製作されたものと考えられます。 さらに棟札は、本堂の建築時期改修時の施主や世話人・大工などの人名が記され、それぞれの改修における状況を知る上で貴重な資料です。 大泉緑地(おおいずみりょくち)は、大阪府堺市北区(一部松原市)にある大阪府営の緑地。 1941年の防空緑地計画に由来する大阪四大緑地(服部・鶴見・久宝寺・大泉)のひとつ。 年間来園者数は約250万人。 広大な敷地に約200種32万本もの樹木が植えられた大森林公園で、巨大な滑り台が目玉となっている。 名称の由来となった大泉池や、花壇、大芝生広場などの憩いのゾーンと、スポーツゾーンなどからなる。 15品種約1万株を集めた「かきつばた園」でも知られ、大阪みどりの百選に選定されている。 「だいせん」とも読めることから、近隣の大仙公園(だいせんこうえん)との混同を避けるために「おおいずみ緑地」と仮名で表記されることもある。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 松原市(まつばらし)は、大阪府南河内地域に位置する市である。 市面積としては大阪府の中ではそれほど大きくなく人口数もそれほどではない。 閑静な地域であり幹線道路沿いの大型商業施設、商店等、生活に必要な施設はそろっておりまた治安は良い。 また、大阪のほぼ中央にあり大阪市と堺市に隣接しており、その為大阪中心部への交通の便は良く距離的にも近いため、ベッドタウンとしては比較的良い場所である。 しかし、鉄道は近畿日本鉄道が、市内の北西部から南東部に斜めに貫くような形で路線を敷いている(近鉄南大阪線)のみで、沿線部以外の地域に住む場合には、同じく近鉄が運営する路線バスや、自動車やバイクなどの利用が必要となる。 現在、市の財政はこれといった基幹産業もなく自主財源比率は大阪府下でも最低ランクである。 市の木は「マツ」で、市の花は「バラ」である。あわせて「マツバラ」というしゃれた発想である。そのため、マンホール・各種公共桝にはマツとバラが綺麗にデザインされたもので、平仮名で「まつばら おすい」と表示されている。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。 大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ、大泊瀬幼武尊 おおはつせわかたけるのみこと とも)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。 また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。 その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「犭隻加多支鹵大王、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。 『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。 雄略天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市島泉8丁目にある丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に治定されている。 公式形式は円丘。考古学名は高鷲丸山古墳(島泉丸山古墳、円墳、径76m)と平塚古墳(方墳、辺50m)(2つの古墳を1つとして治定)。 ただし考古学的に検証されたものではない。 |
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〔『つつじ』:『浅香山緑道』・『浅香山つつじまつり』:(大阪府堺市堺区香ヶ丘町5丁1番)にて〕 『浅香山つつじまつり』:思い出の春花さんぽ、スタートは紅白満開のツツジ山・・・^〜^v:『長尾街道』〔2017.05.04〕 もう三か月も前の思い出記事になってしまいましたが、 5月の連休のその日(5/4)は、 元同僚と堺市『浅香山』から藤井寺市『道明寺』まで 『長尾街道』の一部を春花さんぽ☆彡 スタートは、見頃のツツジ咲く『大和川』の川端、 大阪・堺の『浅香山つつじまつり』会場! 五月晴れの青空の緑道を咲き誇るツツジに見送られ しばらく堺市内を春さんぽ! 『熊野街道』『境王子跡』から『長尾街道』を 『方違神社』・『旧天王貯水池』などに寄り道しながら、 男二人わがまま春花さんぽの始まりはじまり・・・^〜^v . .【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 浅香山浄水場は、大阪府堺市堺区にある浄水場。 堺市上下水道局が運営している。 1910年(明治43年)4月通水。 近代水道としては全国18番目である。 当初は大和川から原水を取水していたが、大和川の水質の悪化に伴って1978年(昭和53年)11月に取水は中止されている。 また、かつての浄水施設も撤去が進み、事実上「浄水場」ではなく「配水場」である。 現在は、淀川から取水した大阪広域水道企業団村野浄水場から送水された浄水や堺市内の他の配水場からの送水をいったん浅香山浄水場で受水したのち、堺区内に配水している。 配水池容量は高架配水池2池と地下1池で24,000m3。 ツツジの通り抜け 浅香山浄水場では毎年4月下旬〜5月上旬にかけて、「ツツジの通り抜け」をおこなっている。 浄水場内の沈殿池の堤防強化や緑化を目的に植えられたヒラドツツジ約2300本が、期間中に無料公開される。ツツジの通り抜けは1956年(昭和31年)に開始された。 ちなみに2011年(平成23年)は東日本大震災の影響で中止となった。 2012年(平成24年)からは、浄水場敷地内の一部に常時散策可能な「浅香山緑道」が整備されたことにより、これまでの開花時期だけの期間限定開放から、常時つつじを楽しめる環境へと変わった(緑道部分)。 また、この緑道の完成により、「緑道のつつじ」とこの時期に開放される「浄水場のつつじ」を合わせて、「浅香山つつじまつり」へと名前が改められた(旧「浅香山浄水場つつじの通り抜け」)。 浄水場の樹齢70年を越えるつつじ約500本と、新しく植えられたつつじ約2000本が約600メートルにわたって楽しめる。 浅香山浄水場のツツジは、「大阪みどりの百選」にも選定されている。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 境王子(さかいおうじ)は、熊野街道沿いに設けられた九十九王子の一つ。 窪津王子から数えて7番目にあたる。 境王子は現在の大阪府堺市堺区北田出井町付近にあったと推定されている。 この地域は、摂津国、河内国、和泉国の境があった場所で、境王子の名はこれに由来する。 また、「堺」(「境」の別表記)という地名も境王子が置かれた平安時代後期から歴史文献に登場するようになり(1081年(永保元年)の『藤原為房卿記』には境王子が「和泉堺之小堂」という名称で登場し、これが「堺」という地名の初出である)、境王子がその由来となったと考えられている。 王子社は、後世に堺湯屋町の熊野神社(現在の堺区熊野町東1丁の大道筋沿い)に移り(時期不詳)、その熊野神社も1908年(明治41年)6月に菅原神社(堺区戎之町東2丁1-38)に合祀されたため、正確な位置は不明である。 しかし、文献などから、大坂から南下してきた熊野街道は堺の町の東側を通り、方違神社(堺区北三国ヶ丘町2丁2-1)付近で長尾街道(大津道)と交差し、反正天皇陵の西側を通っていたことはわかっており、境王子は方違神社の北方付近にあったと考えられている。 実際、『文久三年改正堺大絵図』には「小栗道」「王子ヶ飢」の記載があり、境王子がかつてあったことがうかがえる。 これらのことから、現在は王子ヶ飢公園(堺区北田出井町3丁4-6)に「境王子跡」の石碑が建っている。 これは熊野本宮大社の鎮座する和歌山県本宮町(現田辺市)から贈られたものである。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 長尾街道(ながおかいどう)は、大阪府堺市堺区から東へ向かい、二上山の北麓・田尻峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る街道である。 ほとんどの区域で大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線に平行し(一部は重複)、同線が長尾街道と通称されるため、旧長尾街道と呼ばれることもある。 また、堺市の市街地では花田口筋とも呼ばれる。 長尾街道は、日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北1,908m(但し計画値)に平行して整備された。 古くは「大津道」と呼ばれた。 大津の名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街道と名が付いたという。 方違神社(ほうちがいじんじゃ)は、大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2丁2-1にある神社。 近郷では「ほうちがいさん」と称され、方違え、方災除けの神として知られる。 社伝では、応神天皇の時代に天神地祇ほか三座を祀り、方違大依羅神と号し、この社を方違宮と称したとされる。 社地は摂津、河内、和泉の境の三国山(現在は三国ヶ丘と称される)にあり、三令制国のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。 現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多い。自分の在所からでかけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。 古くから方除けには当地の埴土を包んだちまきを奉ったことから、厄除守に御札のほか御砂、ちまきがある。 ヒトツバタゴ(一つ葉タゴ、一つ葉田子、Chionanthus retusus)とはモクセイ科ヒトツバタゴ属の一種。 同じモクセイ科のトネリコ(別名「タゴ」)に似ており、トネリコが複葉であるのに対し、本種は小葉を持たない単葉であることから「一つ葉タゴ」の和名がある。 なお、別名はナンジャモンジャノキであるが、「ナンジャモンジャ」と名付けられる植物の樹種には、ヒトツバタゴのほかにクスノキ(樟)、ニレ(楡)、イヌザクラ(犬桜)、ボダイジュ(菩提樹)などがあり注意を要する。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 天王貯水池(てんおうちょすいち)とは、かつて大阪府堺市堺区中三国ケ丘町にあった貯水池。 現在は遺構が保存され、旧天王貯水池として国の登録有形文化財に登録されている。 明治43年(1910年)に堺市街地としては初めての上水道施設として建設された煉瓦及びコンクリート造の貯水池である。人口6万人規模の給水を行うため、総面積662m2の貯水規模だった。 直射日光を遮り雑菌の繁殖を抑えるために貯水槽の周囲に土が盛り上げられている。 点検用の通路を挟んで2つの貯水槽が設けられた。 それぞれの貯水槽は5つの区画に区切られ、スパン約3.6mの煉瓦造のヴォールト架構で覆われている。 凱旋門風のデザインが施された点検用の出入口がある。 昭和37年(1962年)に使用が停止された。 |
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〔『マチカネくん』:『マンホール蓋』(大阪府豊中市)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『第15回植物探検隊』:【春の待兼山】を訪ねて・・・^〜^v:『大阪大学豊中キャンパス・刀根山周辺・背山散策路』(大阪府豊中市待兼山町)〔2016.05.07〕 □地震により被害を受けられました皆さま、また関係者の方々には心よりお見舞い申しあげます。□ 先日の連休の土曜日(5/7)は、 大阪大学の広報・社学連携オフィス『21世紀懐徳堂』主催の 『第15回植物探検隊』に参加☆彡 大阪大学豊中キャンパスがある『待兼山』(まちかねやま)の 春の植物探検! 『待兼山』でイノシシの生息が確認され、 安全確保のためイノシシが捕獲されるまで 待兼山に立ち入ることが出来ため、 残念ながら、 豊中キャンパス内の刀根山周辺に 探検ルートが変更になりました・・・トホホ それでは、専門家の案内と説明で、 探検スタート! 散策後は、 ・大阪大学の植生 ・周辺環境 ・歴史を追って、阪大豊中キャンパスとその周辺の植生を知る についての講演を拝聴し 無事終了いたしました☆彡 それでは、当日の探検隊の活動の様子を 簡単にご紹介いたします・・・^〜^v 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【マチカネワニ】(待兼鰐、Toyotamaphimeia machikanensis)は、更新世(ミンデル氷期-リス間氷期頃、30-50万年前頃)に日本に生息していたワニ。 体長約7メートルの大型のワニである。 化石は、1964年に大阪府豊中市柴原の待兼山丘陵に位置する大阪大学豊中キャンパスの理学部で新校舎建設現場から出土した。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【待兼山】(まちかねやま)は、大阪府豊中市・池田市・箕面市にまたがる千里丘陵の山。 「待兼山町」として豊中市の地名にもなっており、その面積の大半を大阪大学豊中キャンパスが占め、その周りは閑静な高級住宅街となっている。 古くは歌枕ともなった由緒ある山。 『枕草子』の「山は」の項や、『新古今和歌集』『夫木和歌抄』にも登場する。 かつては褐鉄鉱の一種である高師小僧「待兼山石」を産出した。 山頂付近には、大正天皇の行幸を記念した石碑が立っている。 1926年(大正15年)、山上に旧制浪速高等学校が設立され、現在もその後身の大阪大学豊中キャンパスが立地する。 そのため「待兼山」は阪大の代名詞となっている。 また1964年(昭和39年)、学内工事現場から出土した先史時代(新生代第四紀)のワニ・マチカネワニの化石でも有名。 大阪大学と中国自動車道をはさんで南東に位置する正安寺は、「待兼山」を山号とする。 【旧制浪速高等学校】(きゅうせいなにわこうとうがっこう)は、1926年(大正15年)3月大阪府に設立された公立(大阪府立)旧制高等学校。 略称は「浪高」(なみこう)。 改正高等学校令に基づき、大阪府により関西では唯一の公立7年制高校として設立され、修業年限4年の尋常科、および文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置された(のち尋常科は廃止)。 商都大阪の高校という事情を反映し、卒業後も商人・企業人の道を進んだ生徒が多い。 寮は設置されなかった。学生のほとんどが大阪周辺の出身だったのと、寮が学生の悪習を助長すると判断した学校の方針による。 学制改革にともない大阪府立より国立に移管され、大阪高等学校(官立)と共に新制大阪大学に包括、一般教養部の前身校の一つとなった(一般教養部北校 / ただし一部教官や所蔵図書の多くは新制の府立浪速大学(大阪府立大学の前身)に引き継がれた)。 浪高は大阪市郊外の千里丘陵西に位置する大阪府豊能郡豊中村(その後町制を施行、さらに1936年市制施行により豊中市)の府立大阪医大(大阪帝国大学医学部の前身)予科跡地に設置された(待兼山校地)。待兼山校地は第二次世界大戦中軍需工場として一部接収されるなどしたものの、新制大阪大学の豊中キャンパスとして継承され、その校舎は「一般教養部北校」となった(同じく阪大に包括された旧大阪高校の校地は「南校」となったがのち廃止)。 現在も豊中キャンパスに残る浪高時代の建造物としては、旧高等科本館や弓道場などがあるが、特に旧本館(1929年建造)は「イ号館」と呼ばれ、阪大の全学共通教育機構本館・総合学術博物館として現在も使用され、2004年には国の登録有形文化財に登録されている。その他にも同キャンパス内には「浪高庭園」など旧制時代を記念するモニュメントがいくつか建立されている。2010年5月27日には、浪高創立85周年と阪大創立80周年(2011年)記念として、待兼山庭園に「旧制浪高生の像」と、「まちかね童子像」が竣工した。なお、これらの銅像を制作した夢童由里子は、浪高第1回卒業生の野間光辰の息女である[2]。 また浪高に隣接して設置された旧大阪帝国大学附属医院石橋分院の建物は、戦後医療技術短期大学部(現在の医学部保健学科)本館として使用されたのち、大阪大学総合学術博物館「待兼山修学館展示場」に改装され浪高時代の教材標本資料を一般に公開している。 |
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〔『協演』:『明治の森箕面国定公園』:(大阪府箕面市)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『みずかがみ』:静かな川面に映る、緑・黄・赤・青・白の秋色の協演、実と虚の無常姿・・^〜^v:『明治の森箕面国定公園』:(大阪府箕面市)〔2015.11.25〕 今年の紅葉、僕の地方では、真っ赤ではなくて、 緑・黄・赤の豪華絢爛な錦色☆彡 木々の切れ間のお空は青く、雲は白い。 箕面川に沿った滝道さんぽは、 秋色さがし...☆彡 静かな川面に映る実と虚の秋色の協演、 その虚の姿は、波紋とともに無常の姿! 『箕面大滝』への遊山の帰り道、 素敵な自然の贈り物をいただきました★感謝★ いつもご愛読いただきまして、 ありがとうございます^^v . 【完】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 |




