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〔『平成新山』(1,483m):『平成新山ネイチャーセンター』:(長崎県島原市南千本木町2683)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 7/8.『平成新山』:『普賢岳』の平成の大噴火の際に登場した我が国最新の山の麓で、大自然の力と被害を考える旅の最後の一泊・・・^〜^!:『平成新山ネイチャーセンター』:(長崎県島原市南千本木町2683)〔2017.10.11/12〕 もう二か月近くも前の旅日記になりましたが、 先月の10/5から10/12までの一週間、 長崎県の各地をカメラもって楽しんできました! その後半(10/08-12)は、 僕のお気にいり長崎県の『島原半島』を 軽四キャンピングカーで、 反時計まわりに一周する四泊五日☆彡 第七日目(10/11)の宿泊場所は、 わが国で最も新しい山『平成新山』(1,483m)の麓、 『平成新山ネイチャーセンター』の近くでお泊り^^v 1991年(平成3年)6月3日16時8分に発生した火砕流で 特に大規模な人的被害をもたらした『平成の噴火』! 今もその傷跡は大きく残ってる『平成新山』の足元、 旅の最後の夜の思い出として、 その山の姿の夕景・朝景を眺めながら 大自然の力と被害を考える一泊となりました・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 |
【九州の四季さんぽ】
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〔『谷水棚田』(日本の棚田100選):(長崎県南島原市南有馬町丙)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 7.『南島原市』:キリシタン大名の時代をはじめ歴史的な遺産、大自然の恵みと災害との共生を訪ねて・・・^〜^!(長崎県南島原市) 〔2017.10.10〕 もう二か月近くも前の旅日記になりましたが、 先月の10/5から10/12までの一週間、 長崎県の各地をカメラもって楽しんできました! その後半(10/08-12)は、 僕のお気にいり長崎県の『島原半島』を 軽四キャンピングカーで、 反時計まわりに一周する四泊五日☆彡 第七日目(10/11)は、『南島原市』訪問 市担当者との移住相談のあと、 空き家見学や市内の見所スポットなどを ご案内いただきました! 戦国時代から江戸時代初期にかけて、 キリシタン大名時代はヨーロッパ文化の流入と繁栄、 その後の禁教令とキリスト教迫害及び弾圧と、 圧政による『島原の乱』の勃発し、 乱後には住民のほとんどが処刑され、 全国各地から新たな住民が入植したといわれる歴史。 また、自然の側面からは、海と火山とに挟まれた環境条件に加えて 『雲仙岳』の噴火に伴う土石流被災など、 歴史と自然との共生の様々を、 ご紹介いたします・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 南島原市(みなみしまばらし)は、長崎県島原半島南部に位置する市である。 長崎市の南東約60km(陸路)、島原半島の南東部から南端部にあたる一帯の地域を市域とする。北西で雲仙市、北東で島原市と接する。島原半島の雲仙地溝帯の南側の地域を「南目」と呼ぶことがあるが、南島原市の市域はこの南目にあたる地域とほぼ一致する。 市域西部は天草灘、東部から南部は早崎瀬戸および有明海(島原湾)に面しており、この地域に集落が集中する。海岸沿いを国道251号が通り各集落を繋ぐ。市域北部は島原半島の中央部にあたり、雲仙岳の一角を構成する山地である。 1496年(明応5年)、有馬貴純が現在の市域南側の位置に原城を築城し、以後、戦国時代から江戸時代初期にかけて、有馬氏が現在の市域にあたる区域を統治した。中でも有馬義貞とその子有馬晴信はキリシタン大名であり、彼ら2代の統治のもと、キリスト教信者が増加し、1580年(天正8年)にセミナリヨが開設され、多くのキリスト教文化、ひいてはヨーロッパ文化が流入した。一例としては、天正遣欧少年使節がグーテンベルク印刷機を持ち帰って印刷したキリシタン版と呼ばれる日本最初の活版印刷があげられる。 しかし晴信の子有馬直純の代になると、江戸幕府より禁教令がしかれたため、キリシタン大名であった直純も棄教し、逆にキリスト教を迫害した。1614年(慶長19年)に直純の願い出により有馬氏は転封、代わって松倉氏が入封し、松倉重政とその子松倉勝家により、キリシタンに対する弾圧をはじめとする圧政が行われる。 1637年(寛永14年)に島原の乱が勃発。一揆軍は一国一城令により放棄されていた原城跡に籠城し抵抗を行ったが、幕府軍に鎮圧された。現在の市域にあたる区域に居住していた住民のほとんどは乱後に処刑され、その後、松倉氏に代わって入封した高力忠房の復興政策により全国各地から新たな住民が入植したといわれる。 |
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〔『朝景』:『原城跡』:(長崎県南島原市南有馬町乙)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 6/7.『原城跡』:『島原の乱』終焉の地で一泊、夕景・朝景を味わう・・・^〜^!(長崎県南島原市南有馬町乙) 〔2017.10.10/11〕 もう二か月近くも前の旅日記になりましたが、 先月の10/5から10/12までの一週間、 長崎県の各地をカメラもって楽しんできました! その後半(10/08-12)は、 僕のお気にいり長崎県の『島原半島』を 軽四キャンピングカーで、 反時計まわりに一周する四泊五日☆彡 第六日目(10/10)の宿泊場所は、 『島原の乱』終焉の地『原城跡』☆彡 1990年(平成2年)からの発掘調査では、 破壊された城の残骸の中から 大量の人骨が発見された場所! その城壁跡には、沖合いにある『談合島』とも呼ばれる 『湯島』を望む三体の石像☆彡 ボランティア・ガイドさんによれば、 『ザビエル神父』・『天草四郎』・『四郎の姉:福』と... そのような城跡は日暮れの頃には貸し切り状態に、 石像をお供にたっぷり夕景と朝景を味わいました・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 湯島(ゆしま)は、熊本県上天草市大矢野町の島である。 島原半島と天草諸島のほぼ中間に位置する周囲約6.5kmの島である。アコウ樹の群生が広がる。島原の乱ではリーダーたちがこの島に集まり、作戦を練ったことから、「談合島」の別名がある。 原城(はらじょう・はるのじょう)は、長崎県南島原市南有馬町乙にあった日本の城である。国の史跡。別名、春城、志自岐原城、日暮城、有馬城。 島原半島の南部に位置し、明応5年(1496年)、日野江城の支城として有馬貴純によって築かれた。有明海に張り出した丘陵にあり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されていた。 有馬氏が日向国延岡城に転封となった後の、元和2年(1616年)に松倉重政が日野江城に入城するが、一国一城令の影響もあり不便な日野江城を放棄し島原城を築城した。この際に原城も廃城となり、石垣や構築物も転用されたとされる。 寛永14年(1637年)から寛永15年(1638年)にかけての島原の乱の後に、幕府は原城跡に残存する石塁などの破却を行っている。 1938年(昭和13年)、原城跡は国の史跡に指定された。発掘調査の際には、惨殺された一揆軍の遺骨や鉛の弾丸、クルスの他、万人坑が出土している。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(188番)に選定された。 |
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〔『鍋島邸』:『国見神代小路歴史文化公園』(くにみこうじろくうじれきしぶんかこうえん):(長崎県雲仙市国見町神代丙103番地1)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 6.『雲仙市』:『鍋島邸』をはじめ歴史的な武家屋敷の佇まいと、ベニヤ板製モーターボートの特攻艇『震洋』(しんよう)の基地跡を訪ねる・・・^〜^!(長崎県雲仙市国見町神代・南串山町) 〔2017.10.10〕 もう二か月近くも前の旅日記になりましたが、 先月の10/5から10/12までの一週間、 長崎県の各地をカメラもって楽しんできました! その後半(10/08-12)は、 僕のお気にいり長崎県の『島原半島』を 軽四キャンピングカーで、 反時計まわりに一周する四泊五日☆彡 第六日目(10/10)は、『雲仙市役所』訪問 市担当者との移住相談のあと、 空き家見学やお試し暮らし施設、 歴史的なスポットなどをご案内いただきましたので、 素敵な武家屋敷が風情ある 『国見神代小路歴史文化公園』(くにみこうじろくうじ:雲仙市国見町神代)と、 ベニヤ板製モーターボートの特攻艇『震洋』(しんよう)の基地跡 『京泊震洋特攻基地』跡(きょうとまりしんよう:雲仙市南串山町)を ご紹介いたします・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 国見神代小路歴史文化公園鍋島邸(くにみこうじろくうじれきしぶんかこうえんなべしまてい)は長崎県雲仙市国見町神代丙(旧肥前国高来郡神代)にある歴史的建造物で、佐賀藩神代領の領主鍋島氏の陣屋跡に建てられた邸宅である。 現在は庭園部分が有料で一般公開されている。 当邸宅を含む神代小路の旧武家町約9.8ヘクタールは、2005年(平成17年)に「国見町神代小路伝統的建造物群保存地区」の名称で重要伝統的建造物群保存地区として選定された。また、2007年(平成19年)には当邸宅の主屋など5棟が「旧鍋島家住宅 5棟」として国の重要文化財に指定された。 神代小路(こうじろくうじ)は、長崎県雲仙市国見町にある重要伝統的建造物群保存地区として選定されている地域の名称。選定地域は南北約450メートル、東西約250メートルで面積約9.8ヘクタール。 神代地区は中世には神代貴益の支配下にあったと伝えられる。戦国時代には神代氏は龍造寺氏と対立し、のち、その配下に入る。その龍造寺氏も天正12年(1584年)、龍造寺隆信の戦死によって崩壊し、神代地区は佐賀藩鍋島氏の支配下となった。当地区には鶴亀城(神代城)があったが、一国一城令により廃城となっている。 1608年(慶長13年)に佐賀藩初代藩主鍋島勝茂は、重臣で自身の伯父にあたる鍋島信房に当地を含む高来郡内4ヶ村を与え、佐賀藩神代領が成立した。その後、元禄期の第4代当主鍋島嵩就の代に鶴亀城の東側に現在の神代小路が整備され、武家屋敷群が形作られた。神代小路の北西にあった陣屋の跡には鍋島邸が建ち、国見神代小路歴史文化公園鍋島邸として整備されている。 2005年(平成17年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、2006年(平成18年)には平成18年度都市景観大賞「美しいまちなみ大賞」を受賞した。 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 震洋(しんよう)は、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特攻兵器。特攻艇。 1944年10月下旬レイテ沖海戦に投入された神風特別攻撃隊より半年以上前に本特攻兵器の開発は始まっていた。小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する。「震洋」の名称は、特攻部長大森仙太郎少将が明治維新の船名を取って命名したもの。秘匿名称は「○四(○の中に四)金物」(マルヨンかなもの)、○四兵器。マルレと合わせて○ハとも呼ばれた。 搭乗員は、他の特種兵器から転出となった搭乗員のほか、学徒兵、海軍飛行予科練習生出身者を中心とした。彼らは機体が無いために余剰となった航空隊員だった。震洋の戦死者は2,500人以上である。 元搭乗員である有名人に、 島尾敏雄(小説家。第十八震洋隊を率いて加計呂麻島に駐屯するも、出撃前に終戦。当時の状況は、駐屯中に知り合った大平ミホ(後の妻)との逢瀬を描く『島の果て』、特攻隊員として出撃を待つ『出発は遂に訪れず』等に詳しい)、田英夫(社会民主党の元参議院議員)、三島敏夫(サイパン島出身のハワイアン歌手。和田弘とマヒナスターズなどでボーカルとしても活躍)が存在する。 |
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〔『平成新山(1,483m)をバックに☆彡』:『普賢岳』山頂(1,359m)(長崎県雲仙市小浜町雲仙)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 5.『普賢岳』(1,359m):島原半島そして長崎県の最高峰『雲仙岳』をぐるりと秋探し・・・^〜^!(長崎県雲仙市小浜町雲仙) 〔2017.10.09〕 もう二か月近くも前の旅日記になりましたが、 先月の10/5から10/12までの一週間、 長崎県の各地をカメラもって楽しんできました! その後半(10/08-12)は、 僕のお気にいり長崎県の『島原半島』を 軽四キャンピングカーで、 反時計まわりに一周する四泊五日☆彡 海底の地下に『雲仙岳』のマグマだまりがある『橘湾』を望む 『日本の白砂青松100選』にも選ばれた 『千々石海岸』の波の音で目覚めた 10月連休最終日の第五日目(10/09)☆彡 朝一番で向かった先は、 『雲仙岳』のひとつ『妙見岳』(1,333m)の麓 春には色とりどりの『ミヤマキリシマ』が咲き誇っていた『仁田峠』は、 『オバナ』(尾花:すすき)に包まれた秋景色☆彡 それでは、今年三度目の『雲仙岳』、 『妙見岳』(1,333m)から『普賢岳』(1,359m)を周って秋探しを お楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 雲仙岳(うんぜんだけ)は、長崎県の島原半島中央部にそびえる火山。半島西方の橘湾を中心とする千々石カルデラの外輪に位置する。広義では、火山学上の「雲仙火山」と同義であり、最高峰の平成新山をはじめ、三岳(三峰)とも呼ばれる普賢岳・国見岳・妙見岳、五峰(五岳)とも呼ばれる岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山を含め、東の眉山から西の猿葉山まで、総計20以上の山々から構成されている。雲仙岳の形の複雑さは、三岳五峰(三峰五岳)、八葉、二十四峰、三十六峰など様々な数字で表現されてきたが、観光上のキャッチフレーズとして「三峰五岳の雲仙岳」が多用されるようになった結果、狭義として八つの山(ときには三つの山)のみを指す用法も生まれたが、歴史的には海上にそびえる山並み全体を指す名称である。行政区分では島原市、南島原市、雲仙市にまたがる。しばしば、旧最高峰の普賢岳(雲仙普賢岳)の名称と混同して用いられる。 最高峰の平成新山(1,483m)を中心に、周囲に、普賢岳(1,359m)、国見岳(1,347m)、妙見岳(1,333m)、野岳(1,142m)、九千部岳(1,062m)、矢岳(943m)が存在する。普賢岳や平成新山の溶岩は千々石カルデラ由来である。つまり、小浜温泉沖合いの橘湾地下のマグマだまりから供給されている。主峰は普賢岳(ふげんだけ)だが、1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけての火山活動で平成新山(へいせいしんざん)が出来、こちらの方が標高が高くなった。また平成新山は長崎県の最高峰でもある。 |




