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〔『本踊』:『紺屋町』(こうやまち):『平成30年長崎くんち』:『鎮西大社諏訪神社』(長崎県長崎市上西山町18-15)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 4-1.『平成30年長崎くんち』:『紺屋町(こうやまち):傘鉾・本踊(ほんおどり)』:『鎮西大社諏訪神社』(長崎県長崎市上西山町18-15) 〔2018.10.07〕 第四目(10/7)の旅日記^^v この日は、『平成30年長崎くんち』の『前日』(まえび:1日目)、 あさイチで向かった先は、各踊り町が演し物を奉納する『諏訪神社』 踊場を正面にご一緒にお楽しみください・・・^〜^v まずは、『紺屋町(こうやまち):傘鉾・本踊(ほんおどり)』です☆彡 . 【つづく】 長崎くんちは、長崎県長崎市の諏訪神社の祭礼である。10月7日から9日までの3日間催される。国の重要無形民俗文化財に指定されている(昭和54年指定、指定名称は「長崎くんちの奉納踊」)。 「龍踊(じゃおどり)」「鯨の潮吹き」「太鼓山(コッコデショ)」「阿蘭陀万才(おらんだまんざい)」「御朱印船(ごしゅいんせん)」など、ポルトガルやオランダ、中国・ベトナムなど南蛮、紅毛文化の風合いを色濃く残した、独特でダイナミックな演し物(奉納踊)を特色としており、傘鉾、曳物(山車・壇尻)、太鼓山など、京都や堺の影響も窺える。 「くんち」の名称は、旧暦の重陽の節句にあたる9月9日(くにち、九州北部地方の方言で「くんち」)に行ったことに由来するという説が有力である[1]。「宮日」「供日」と表記されることもあるがこれは後年の当て字で、諏訪神社への敬意を表して「御」をつけたことから「おくんち」とも呼ばれるようになった。 博多おくんち(福岡県福岡市櫛田神社)、唐津くんち(佐賀県唐津市唐津神社)と並んで日本三大くんちと呼ばれる。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%8F%E3%82%93%E3%81%A1 |
【九州の四季さんぽ】
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3.『如己堂』(にょこどう):結核のX線検診に従事し自ら被曝による白血病を発症後、長崎市で原子爆弾の爆心地近くで被爆し重傷を負うも救護活動にあたった『永井 隆』所縁の建物訪問:〔2018.10.06〕
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〔『如己堂』(にょこどう):『長崎市永井隆記念館』(長崎県長崎市上野町22-6)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 3.『如己堂』(にょこどう):戦時中フィルム不足で透視による結核のX線検診に従事し自ら被曝による白血病を発症し、その二か月後 長崎市で原子爆弾の爆心地近くの長崎医大の診察室にて被爆し右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった『永井 隆』(ながい たかし)が白血病の療養をしていた建物訪問!:『長崎市永井隆記念館』(長崎県長崎市上野町22-6)〔2018.10.06〕 『長崎県』の『島原半島』の南西端部にある 『雲仙市お試し住宅』でのい週間の移住体験 第三日目(10/6)の旅日記^^v 『台風25号』が九州に接近中のこの日は、 『長崎市永井隆記念館』訪問☆彡 『永井 隆』(ながい たかし、1908年(明治41年)2月3日 - 1951年(昭和26年)5月1日)は、 『長崎の鐘』や『この子を残して』等の著書がある 日本の医学博士、随筆家☆彡 戦時中、フィルム不足で透視による結核のX線検診に従事し 自ら被曝による白血病を発症! そして、長崎市で原子爆弾の爆心地近くの長崎医大の診察室にて被爆し 右側頭動脈切断という重傷を負うも、 布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。 その後、浦上の人たちやカトリック教会の協力により、 『如己堂』(にょこどう)と名付けた庵で執筆しながら療養するも 1951年(昭和26年)5月1日(43歳没)☆彡 詳細は、文末に引用追記します^^v↓ . 【つづく】 如己堂(にょこどう)は、長崎県長崎市にある、永井隆が白血病の療養をしていた建物である。長崎の被爆から約3年後の1948年(昭和23年)3月、長崎市浦上の人達やカトリック教会の協力により建てられた。この二畳一間の部屋で、永井隆の著名な作品の数々が生まれた。現在は、隣接地に長崎市永井隆記念館が建てられている。 新約聖書マルコによる福音書12章31節にある「己の如く人を愛せよ」という言葉から名付けられた。 如己堂が建てられた場所は、帳方屋敷の跡地でもある。帳方とは、潜伏キリシタンの信仰組織における組頭である(惣頭ともいう)。浦上村の初代帳方は孫右衛門で、その後の帳方も孫右衛門の子孫から選ばれており、この地にあった帳方屋敷に住んでいた。1856年に起きた浦上三番崩れにより、初代孫右衛門から続いた帳方は7代目の吉蔵で途絶えることになったが、この吉蔵は永井隆の夫人・みどりの曾祖父にあたる。 如己堂の赤瓦は、永井隆の出身地である島根県飯石郡三刀屋町(現雲南市)にある実家から運ばれたもの。 永井の生誕100周年を記念して2008年、出身地の雲南市では同市にある永井隆博士記念館に如己堂が再現された。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E5%B7%B1%E5%A0%82 永井 隆(ながい たかし、1908年(明治41年)2月3日 - 1951年(昭和26年)5月1日)は、日本の医学博士、随筆家。『長崎の鐘』や『この子を残して』等の著書がある。 戦時中は結核のX線検診に従事したが、フィルム不足で透視による診断を続けたため、1945年(昭和20年)6月 には被曝による白血病と診断され、余命3年の宣告を受けた。この時白血球数10万8000、赤血球数300万(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)であり、発病は1940年 (昭和15年)と推定された。 1945年(昭和20年)8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆。右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。投下された爆弾が原子爆弾であると知ったのは、米軍が翌日に投下したビラを読んでからのことであった。 3日目の8月11日 、学長代理として指揮をとっていた古屋野教授の許可を得て帰宅。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見し、その骨片を拾い埋葬した。8月12日、子供と義母が疎開していた三山(市内西浦上)に行き、そこに救護本部を設置して被爆者の救護に当った。 9月10日頃 、昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として「光りつつ 秋空高く 消えにけり」を詠じた。9月20日、傷口からの出血が止まらず再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散。 10月15日 、三山救護所で救護活動の合間に「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を執筆し、長崎医大に提出。 1946年(昭和21年)1月28日、長崎医科大学教授に就任したが、同年7月には 長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなった。11月17日、 長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行った。 1948年(昭和23年)には荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈。これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。3月、浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行うための庵が完成する。「己の如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付けた。8月、大学を休職し療養に専念。 10月18日、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる。予告なしの不意な訪問であった。1949年(昭和24年)5月27日、昭和天皇に謁見。5月30日、浦上公民館で日本に運ばれていたフランシスコ・ザビエルの聖腕に接吻し、ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿の見舞を受けた。当初は聖腕と特使が如己堂に来ることになっていたが、永井はそれを辞退して公民館まで出向いた。 8月1日 、長崎市長から表彰を受ける。9月30日 長崎医科大学教授を退官。12月3日、長崎市名誉市民の称号を受ける。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E9%9A%86_(%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E5%8D%9A%E5%A3%AB) |
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〔『海の見える黄金の棚田』:(長崎県雲仙市千々石町)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 2-4.『海の見える黄金の棚田』:たわわに実る稲穂が海に向かってありがとう・・・!:(長崎県雲仙市千々石町)〔2018.10.05〕 『長崎県』の『島原半島』の南西端部にある 『雲仙市お試し住宅』で移住体験一週間、 第二日目(10/5)の旅日記^^v 滞在先の『南串山町』を中心に 『雲仙市』の西部をぐるりと一周探検☆彡 『雲仙岳』山麓の『雲仙温泉』から下った先は、 静かなカルデラ湾『橘湾』望む 『千々石町』(ちぢわちょう)の『棚田』^^v 稲刈りを待つ黄金色の稲穂が、 海に向かってありがとう・・・! 思わず浮かんだのがお馴染み 「実るほど頭を垂れる稲穂かな」☆彡 それでは、『島原半島』の秋風景、 『海の見える黄金の棚田』を ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 出典:『平成30年度版 雲仙市定住促進パンフレット』 http://www.city.unzen.nagasaki.jp/info/prev.asp?fol_id=24653 |
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〔『尾花に包まれたお地蔵様』:『原生沼』:(長崎県雲仙市小浜町雲仙)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 2-3.『ススキ原』:『雲仙温泉』の片隅、秋の七草『尾花』に包まれた原風景の秋を楽しむ沼さんぽ・・・^〜^v:『原生沼』:(長崎県雲仙市小浜町雲仙)〔2018.10.05〕 『長崎県』の『島原半島』の南西端部にある 『雲仙市お試し住宅』での移住体験 一週間の第二日目(10/5)の旅日記^^v 滞在先の『南串山町』を中心に 『雲仙市』の西部をぐるりと一周探検☆彡 何度なく、観光で訪れた『雲仙温泉』、 その温泉郷の端に静かなにたたずむ『原生沼』は、 秋の七草のひとつ『尾花』とも呼ばれる 一面の『ススキ』が包む秋の原風景^^v 日本中どこでも身近に見られた『ススキ原』、 いまでは滅多の見ることができな日本の秋景です。 沼畔を一周する遊歩道の近く鎮座するのは 天照大神の孫『ニニギノミコト』の妻で 日本神話に登場する女神を祀る 『木花開耶姫神社』(このはなさくやひめじんじゃ)☆彡 そして、路傍には優しいお顔のお地蔵さまが、 ススキにつつまれてニッコリと・・・^^v それでは、『雲仙温泉』の片隅『原生沼』の秋を ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 出典:『平成30年度版 雲仙市定住促進パンフレット』 http://www.city.unzen.nagasaki.jp/info/prev.asp?fol_id=24653 コノハナノサクヤビメ(ヒメ)は、日本神話に登場する女神。一般的には木花咲耶姫と記される。また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。コノハナサクヤビメ、コノハナサクヤヒメ、または単にサクヤビメと呼ばれることもある。『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。 天照大神(アマテラス)の孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻。オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。ニニギノミコトの妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%8E%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A4%E3%83%93%E3%83%A1 ススキ(芒、薄、Miscanthus sinensis)とは、イネ科ススキ属の植物。尾花ともいい秋の七草の一つ。また茅(かや。「萱」とも書く)と呼ばれる有用植物の主要な一種。 野原に生息し、ごく普通に見られる多年生草本である。 植物遷移の上から見れば、ススキ草原は草原としてはほぼ最後の段階に当たる。ススキは株が大きくなるには時間がかかるので、初期の草原では姿が見られないが、次第に背が高くなり、全体を覆うようになる。ススキ草原を放置すれば、アカマツなどの先駆者(パイオニア)的な樹木が侵入して、次第に森林へと変化していく。茅場の場合、草刈りや火入れを定期的に行うことで、ススキ草原の状態を維持していたものである。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%82%AD |
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〔『天空のジャガイモ棚畑!』:『南串山棚畑展望台』:(長崎県雲仙市南串山町丙8164)にて〕 【画面右下+をクリックして、拡大して御覧ください!】 2-2.『天空のジャガイモ棚畑!』:見上げるばかりの石垣で築き上げられた驚愕の段段畑を眼下に一望・・・^〜^v:『南串山棚畑展望台』:(長崎県雲仙市南串山町丙8164)〔2018.10.05〕 一気に気温が下がり、秋本番のおはようございます! 『長崎県』の『島原半島』の南西端部にある 『雲仙市お試し住宅』でのわずか一週間ですが 移住体験の出来事を連載中^^v 滞在先の『南串山町』の町内探検 あさイチで出かけて先は『橘湾』に突き出た 『国崎半島自然公園』で海からの眺めを堪能! そこには、海岸から築き上げられた石垣、 天空に届くほどの段段畑の『ジャガイモ棚畑』 驚愕の『天空の棚畑』☆彡 そこで、次に向かった先は 先人たちが築き上げた大小様々な形の段段畑 色とりどりのプラスチックフィルム等で覆われた ジャガイモやレタスなどが植わるマルチ畑が、 眼下に海まで続く『南串山棚畑展望台』・・・^〜^v それでは、『天空のジャガイモ棚畑』の光景を ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 出典:『平成30年度版 雲仙市定住促進パンフレット』 http://www.city.unzen.nagasaki.jp/info/prev.asp?fol_id=24653 マルチング (Mulching) とは、畑の表面を紙やプラスチックフィルム等で覆うこと。被覆資材の種類や被覆方法によりさまざまな効果が得られる。 出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0 |




