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〔『拝殿』周辺:『平泉寺白山神社』(へいせんじはくさんじんじゃ)(福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 1-2.『平泉寺白山神社』(へいせんじはくさんじんじゃ):白山信仰の越前側の禅定道の拠点として、最盛期には48社36堂6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市の今を訪ねて・・・^〜^v:(福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63)〔2015.06.23〕 先週は、ブロ友さんの紹介記事で興味を持った 『白山高山植物園』へ、久々に母とのお泊り旅行^^v 最初の訪問地は、福井県の石川県との県境に近い『吉崎御坊跡』から、 次に向かった先は、福井県勝山市にある境内の苔が、 京都の苔寺『西芳寺』と共に有名な神社 『平泉寺白山神社』(へいせんじはくさんじんじゃ)。 その昔、、天正2年(1574年)に『一向一揆』勢に 焼き討ちされ全山が焼失し、 往時の姿を伝えるものがほとんど失われるまでは、 比叡山『延暦寺』の勢力下に入り、霊応山『平泉寺』として 白山信仰の越前側の禅定道の拠点『越前馬場』として、 最盛期には48社36堂6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成し、 その後、明治時代に神仏分離令により寺号を捨て、 現在の『平泉寺白山神社』となった。 それでは、見事な苔で包まれた広大な境内を、 二編に分けて御紹介いたしますので、 ご一緒にお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【平泉寺白山神社】(へいせんじはくさんじんじゃ)は、 福井県勝山市平泉寺町平泉寺に鎮座する神社。 養老元年(717年)、泰澄によって開かれたという。 中世以降比叡山延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになる。 白山信仰の越前側の禅定道の拠点(越前馬場)として、 最盛期には48社36堂6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成した。 『平家物語』には、平家と木曾義仲方との燧ケ城の戦いで、 平泉寺の長吏斎明が木曾義仲を裏切り平家側についたことが書かれている。 斎明はその後の倶利伽羅峠の戦いで捕らえられ処刑されているが、 一方で義仲はその戦いの後に藤島七郷を平泉寺に寄進している。 戦国時代には朝倉氏と肩を並べる越前国の一大勢力であったが、 天正2年(1574年)一向一揆勢に焼き討ちされ衰亡。 その後、豊臣秀吉などの崇敬を受けて顕海が復興し、 江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受ける。 寛政8年(1688年)いさかいが絶えなかった越前馬場と加賀馬場の問題が江戸幕府により裁定された際に 白山山頂が平泉寺領と定められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した。 明治時代に神仏分離令により寺号を捨て現在に至る。 境内の苔は西芳寺と共に有名。 旧玄成院(別当・平泉宮司邸)庭園は、昭和5年(1930年)に国の名勝に指定された。 |
【北陸の四季さんぽ】
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〔『吉崎御坊・本堂跡』:『吉崎御坊跡』(福井県あわら市吉崎1)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 1-1.『吉崎御坊』:その昔、『一向一揆』の原点とも言われる『蓮如上人』所縁の地で、『おろし蕎麦』(大盛り)・・・^〜^v:『吉崎御坊跡』(福井県あわら市吉崎1)〔2015.06.23〕 先週は、ブロ友さんの紹介記事で興味を持った 『白山高山植物園』へ、久々に母とのお泊り旅行^^v この植物園の開園日は、週末と月・水・金曜日、 なので、サンデー毎日の僕たちは、6/23(火)に 植物園近くで一泊の予定。 最初の訪問地は、福井県の石川県との県境に近い『吉崎御坊跡』。 この地は、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた 浄土真宗・本願寺中興と呼ばれる『蓮如上人』が、 北陸における布教拠点として北潟湖畔の吉崎山の頂に建立した 坊舎『吉崎御坊』の跡。 そして、その後、約100年の間続いた、 当時の僧侶、武士、農民、商工業者などによっておこされた『一向一揆』の 原点とも言われる地。 いまは、日本海に近い『北潟湖』(きたがたこ)の湖畔 御坊跡に向う階段の西側に浄土真宗本願寺派の別院が、 東側に真宗大谷派の別院が置かれる静かな町。 それでは、『白山高山植物園』への親子旅の始まりはじまり、 最初の第一歩をお楽しみください・・・^〜^v . 【つづく】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【吉崎御坊】(よしざきごぼう)は、 越前吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)にあった坊舎。 現在は「史跡 吉崎御坊跡」の石碑が立つ。 御坊跡に向う階段の西側に浄土真宗本願寺派の別院が、東側に真宗大谷派の別院が置かれる。 ともに「吉崎別院」と称するため、本願寺派の別院を「西御坊」・「(吉崎)西別院」、 大谷派の別院を「東御坊」・「(吉崎)東別院」と通称される。 文明3年(1471年)7月下旬、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、 本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立した。 この地で蓮如は教義を民衆にわかりやすく説き、時には御文(「御文章(ごぶんしょう)」)を用いたり、 「南無阿弥陀仏」の六字名号を下付したため、御坊には北陸はもとより奥羽からも多くの門徒が集った。 また、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び寺内町を形成した。 文明6年(1474年)3月28日、火災で焼失するも、その後再建。 文明7年(1475年)8月21日、戦国の動乱で再び焼失、蓮如は吉崎を退去する。 永正3年(1506年)、朝倉氏が加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退けた後、吉崎の坊舎を破却し、以後廃坊となる。 延享3年(1746年)に西別院(本願寺派)が山下道場のあった場所に建立され、 翌年の延享4年(1747年)には東別院(大谷派)が吉崎山のふもとに建立される。 ◆店名:餐坊食堂 (さんぼうしょくどう) TEL:0776-75-1931 住所:福井県あわら市吉崎1-101 【一向一揆】(いっこういっき)は、 戦国時代に浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒たちが起こした一揆の総称。 浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治、 一揆の事である。 本願寺派に属する寺院、道場を中心に、 蓮如がいう「当流の安心は弥陀如来の本願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に 従う土豪的武士や、自治的な惣村に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成していた。 1488年(長享2年)、加賀守護富樫政親を滅ぼすことでその勢力を世に知らしめる。 戦国時代末期、織田信長などによって鎮圧されるまでは各地に安定した豊かな町が築かれた。 本拠地とされた摂津大坂や伊勢長島、三河矢作川流域などは湿地帯であったことから、 高度な治水技術があったのではないかとの見方もされている。 朝倉氏に奪われた越前吉崎御坊を取り戻すため何十回となく大規模な戦を起こしたり(九頭竜川の戦い)、 一揆の拡大によって武家政権の基盤を脅かされることを恐れた織田信長や細川晴元ら権力者との争いを 展開するなど、戦国大名化して覇権を争ってもいる。 しかし、1580年(天正8年)、信長との抗争に敗れて顕如が石山本願寺を退去した後は、 本願寺の分裂騒動もあって一向一揆という名称は見られなくなる。 |
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〔『朝倉館跡』: 『一乗谷朝倉氏遺跡』(福井県福井市城戸ノ内町)にて〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 『一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)』:細長い『一乗谷』に築かれた戦国時代の城下町を愛車で走る・・・^〜^v :『福井県福井市城戸ノ内町』にて〔2011.07.30-31〕 先週の週末は、チャリンコ担いで福井へ、 福井の町の見所を楽しんだのちは、『薪割り教室』に入門のたび。 福井の町の中心部『福井城址』から、 『足羽川(あすわがわ)』の土手を川上に上ったところは、 戦国時代、朝倉氏の本拠地の『一乗谷』。 そして、そこに広がる城下町と館跡・・・^〜^v 【つづく】 〔訪問時期: 2011.07.30-31〕 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 【画面上でクリックして、拡大して御覧ください!】 . 【一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき】は、 福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡である。 戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。 一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。 遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、 そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。 |





